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純文学

正道回帰

作者: タルト

開いてくださりありがとうございます。


久方ぶりに書くことができました。


評価・感想お待ちしています。

 少年は目を覚ましたとき、自身が知らない場所にいることに気がついた。

 そして、なぜこの場所にいるのかを考えようとして、記憶がないことを知った。家族も、友人も、育ってきた場所も、自分の名前すらも、分からなかった。


 周囲には彼と同様に、ぼろ切れより少しまし程度の粗悪な服を着た同じくらいの歳の男女が複数人、所狭しと寝入っていた。

 彼は咄嗟に息を潜めた。気づかれてはいけない。そう直感したのだ。


 彼がいるのは、木でできた小屋だった。壁や天井のところどころが腐り、穴が空いていた。


 彼は周囲を観察しているうちに、激しい動悸を自覚した。それは、恐怖から来るものだった。何故これほどまでの恐怖を感じるのか、彼には知る由もなかったが、ここにいるとまずい、と叫ぶ勘に従い、すぐに逃げ出すことを決めた。


 足音を立てないよう、慎重に扉まで行くと、手をかけ、ゆっくりと開いた。年月の積み重なった蝶番は僅かに軋んだが、幸いにも起きる者はなかった。


 彼の視界に飛び込んで来たのは、砂漠のような光景だった(もっとも、彼は砂漠を見たことがないため、広大な砂の大地、ということしか分からなかったが)。

 彼は小屋を出ると、脇目も振らずに走り始めた。足の裏からは、力強い大地の感触がしていた。



 暫くの後、もっと、もっとだ、という自分の内なる声に従い、体力の限界まで走り続けた彼は、ついに膝を折った。

 もう立ち上がることすらできず、肩で息をしているとき、その傍を老人が通りかかった。


 老人は彼に気がつくと、何も言わずに水を差し出した。彼はそれを一気に飲み下した。程よく冷たい水が喉を通る度に、疲労が抜けていくのを感じていた。

 そうして全てを飲み干し、息を整えた少年が礼を述べようとしたとき、既に老人の姿はなかった。彼が持っていた水の入っていた筒も、いつの間にか消え失せていた。

 老人のおかげで、彼の足は力を取り戻した。少年は礼を言えなかったことを惜しみながらも、再び前を向いた。



 少年は今度はある程度体力がもつように抑えながら、地を踏みしめ駆けた。

 砂埃が巻き上がっており、小屋を出たときよりも視界が悪かったが、それだけであった。彼の目に入り痛みを生じさせることも、彼の皮膚にぶつかりその存在を主張することも、一切なかった。


 暫く走って、一息つこうとしたとき、視界が丁度晴れ、正面に楕円形の岩が見えた。だが、彼の目を引いたのは、視界の右端に小さく映る、倒れ伏している美しい女だった。

 その瞬間、彼の足は、さながら磁石に引き込まれる鉄のように、強力に女の方へと向かった。それは、足が彼の命令を無視して動いたものだった。

 女はとても美しかった。かなりの距離にもかかわらず、一瞬で目を奪われる、恐ろしく強い存在感があった。

 彼は女を正面から見ないよう、必死に顔を逸らした。これから以上あいつを見てはいけない。勘がそう告げていた。

 彼は深呼吸をすると、自身の身体に対し、全力で女と逆方向へ向かうよう命じた。次第に足の動きは鈍っていき、やがて女が目前に迫ったとき、遂に身体の支配権を完全に奪還することができた。



 女に背を向けると、身体にかかっていた引力はあっさりと消え失せた。

 だが、彼は、これまでに来た方角を失念してしまった。唯一目印になりそうな岩は、既に再び巻き上がった砂に隠されていた。

 彼がそうして途方に暮れているとき、小さな女の子が目の前に現れ、手招きを始めた。僅かに逡巡したが、警鐘が鳴らなかったことを理由に、女の子のもとに向かうことを決めた。

 女の子の背丈は、彼の腹の半ばほどしかなかった。痩せこけていて、その顔色はひどく悪かった。足取りもたどたどしく、今すぐに倒れてもおかしくないほどに弱かった。


 いつの間にか、少年の頬には涙が伝っていた。そして、この女の子を抱きしめたい衝動に駆られた。

 しかし、その両の腕は、虚しく空をかいて終わった。彼は虚無を抱いた自身の腕を見、そして深い絶望と悲しみに襲われ、滂沱した。

 涙が出る理由は分からなかった。だが、何かとても大切なものが喪われたことだけは確かだった。


 少年が泣き止んだとき、一面にあったはずの砂地は、荒涼たる岩肌に変わっていた。

 顔を上げると、女の子はどこかを指し示していた。

 そこには、楕円形の巨大な岩があった。中央部は巨大な四角い空洞があり、そこからは暖かい光が発されていた。

 これが帰るべき場所だ、と直感し、そして歓喜した。

 入口に差し掛かったとき、ふと振り向いてみると、満足気に笑っている水をくれた老人と、ひどく寂しそうにしている女の子が見えた。少年は2人に頭を下げると、手を振り、空洞へ入った。



 少年は目を覚ましたとき、暖かい日差しに包まれていた。

 彼は何故ここにいるのか、と考え、そして全てを思い出した。



 少年はかつて、実の両親に捨てられ、祖父のもとで育てられていた。祖父が暮らす村の人々は皆温かく、彼は幸せに成長した。

 暫くして、少年に年の離れた妹ができた。祖父がどこかから引き取った来たその子は、血の繋がりこそないが、確かに彼の家族であった。


 少年が10を過ぎ、更に幾つかの時を刻んだとき、遂に彼の祖父は天に迎え入れられることとなった。彼は運ばれる棺桶を見送ると、感謝の祈りを捧げた。

 祖父の死は、不幸ではなかった。命あるものは、いずれ終わりが来る。彼は祖父からそう教わっていた。

 それから少しして、彼のもとに不幸が訪れた。妹が病に罹ったのだ。必死に治療法を探し、医師に縋り、神に願ったが、彼の思いは実らず、妹は幼くして命の灯火を失った。

 彼はそれを受け入れられなかった。天寿を全うした祖父と異なり、妹はまだ幼く、死を迎える必要はなかったはずだった。

 しかし、現実は残酷であり、幾ら夢であることを願っても、過去が揺らぐことは決してなかった。


 彼は村から出奔した。家族との思い出も、絆も、ただ彼を苦しめるだけだった。村の皆の温かさが、彼には辛かった。

 そうして村を出た先で出会ったのが、異様に惹き付けられる女だった。彼は強烈に魅了され、そして意識を奪われた。



 彼は女とその仲間に隷属し、人を食らう凶暴な獣の世話をしていた。彼以外にも魅了に囚われた者は多くおり、同じように働かされていた。

 もし病に罹る、怪我をするなどで満足に働けなくなった者は、獣たちの餌としての最期を迎えることとなる。所詮は使役できる駒でしかなく、そして代わりは幾らでもいるのだ。何の問題もなかった。


 女たちは、陽光の射さない裏の世界で活動していた。人間に仇なす獣を従え、表の世界への進出を目論んでいた。


 少年は幸運だった。魅了から覚める機会があり、逃走する機会があり、そして元の世界に戻る機会があった。

 目が覚めた者はこれまでにもかなりの数がいたが、無事に逃げ果せることができたのは、そう多くはない。

 小屋を出る際に気づかれた者、巻き上がる砂の中を駆けることができずに捕まった者、引力によって道半ばで立ち止まった者、世界の出口を見つけられなかった者......。

 試練を突破できたのは確固たる意志と幸運を持ち得た者ばかりであり、そして彼もそれに類していたのだ。



 少年は暫く考えた末、村に戻ることを決めた。

 今いる場所さえ分からなかったが、彼の勘は、村に戻ることができるぞ、と喜ばしそうに告げていた。

 ――もし、この勘が外れていたとしても、あそこよりは遥かにましだろう――。

 彼はそう思い至ると、立ち上がり、再び歩み始めるのだった。

最後までお読みくださりありがとうございました。


今作は、徹頭徹尾が幾つもの比喩が積み重なることで成り立っており、人によって解釈の仕方が異なる場面も多くあると思います。

ある種の挑戦的な作品となりましたが、私としてはこの4ヶ月弱の勉強が生きているという確かな手応えがあり、かなり満足しています。


重ね重ねになりますが、評価・感想をいただければ幸いです。

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[一言] 私は文学というものに触れた経験はほとんどなく、タルトさんの意図とは外れた感想になっていることを始めにお断りしておきます。 この作品を読んでいて、頭によぎったのは、1年後に死を図ろうとしている…
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