王子返されても困るから返すって言っても、妹もしつこく返すって言うし、王子も私に復縁求めてくるのだけれど。
一人の幼い伯爵令嬢が、すやすやと眠っていた。
「私の可愛い天使。なんて美しい娘なのかしら。貴女は私たちの自慢よ。でも、そのおかげでこの縁談の数……」
母親らしき女性が、山積みにされた縁談の手紙に目をやる。
「……そうだわ。縁談が舞い込まないよう、ちょっと地味な顔にしたらいいんじゃないかしら」
それは、母の愛ゆえか。
鱗粉のような光が令嬢を包み込んだ。キャラメルブロンドの髪が黒髪に変わる。
「あまり長く魔法をかけてるわけにはいかないから、社交の華――十六歳の時に解いてあげるわね。それまでは辛抱してちょうだい」
それから、十一年後。
「……だから、どうして私に返してくるの」
「だって元はお姉様の男だったんだもの、お返しして当然ですっ!」
「はぁ……男じゃなくて王子よ。元とはいえ、人から婚約者を奪っておいてよく言えたわね、ミレニィ。私も貴方に王子をお返しするわ」
「ふぇぇ。奪ったなんて、お姉様の意地悪っ……。私はねっ――!」
「はいはい、マレス王子に脅されてたんでしょう? 何百回って聞いたわよ。王子も一緒のこと言うのだから、仲がよろしくてお似合いよ?」
「なっ! あんな男と私がお似合いですって? 冗談じゃないわ! ほんと、お姉様って妹イビりが好きなのね!」
「…………あのねぇ」
私、チェルシー・キャロライン・アムンツェルは、目の前で(本人からしたら)可愛く怒っている妹、ミレニィ・キャロル・アムンツェルの言動に頭を抱えていた。
アムンツェル伯爵家で継がれる、キャラメルブロンドの髪を猫のように逆立てる。私の黒髪と違って、綺麗な髪なのに。
いえ。今はそんなことよりも、この妹はよく平然と“王子を返す”なんて言ってきたものだわ。
事の発端は、ベルフリィング王国の創建千年記念パーティーの最中に起きたことだった。
「チェルシー・キャロライン・アムンツェル! お前との婚約を破棄する!」
急に名前を叫んできたかと思えば、第二王子のマレスが妹の肩を抱いたまま、私を指差していた。
妹のミレニィは縋るようにマレスの胸に顔を埋めて、ふるふると震えている。……涙、出てないわよ妹。
「……これはどういうことです?」
「どういうこと、だと? お前、自分の妹を苛めておいてよくもそんなことが言えたものだな! 姉として恥ずかしくないのか!?」
「お言葉を返すようですが、私は妹を苛めた記憶など一切ございませんわ。……嘘泣きはやめて、ミレニィ。どういうつもり?」
私はマレスからミレニィに視線を移した。
「お、お姉様ったら、自分がちょっと醜い顔をしてるからって……、可愛い可愛い妹に嫉妬して、散々酷いこと言ってきたじゃないっ! あと、ちゃんと泣いてる!」
私が酷いことをミレニィに? 言ってないわ、そんなこと。
嘘も方便。可愛い容姿と、根も葉もないことを言って王子の関心を引く。
王妃に興味を持ったら、姉を恥ずかし者にしたって構わない。昔から、妹は私の物を欲しがって、そうやって奪っていく。そして興味がなくなれば捨てるの繰り返し。
「家族すら大事にできぬお前に、国の母――王妃など務まらん! 俺は腕の中にいる愛するミレニィを婚約者とする!」
「嬉しいわっ! マレス様……っ」
高らかに宣言したマレスに抱きつく妹を、様子を窺っていたお母様も呆れたような……いえ。汚物を見るような目をしてらっしゃるわ。
お母様、そのような目をしたくなるのは分かりますが、あれでも貴女が産んだ娘ですからね。あれでも。
「ここにいる皆も、愛らしく可愛いミレニィが王国の母になるのは喜ばしいと――」
「いいえ、王子。この国の母に相応しいのは――チェルシーですわ」
「何?」
「え?」
「お、お母様? いきなり何を……」
マレスの言葉を遮り、母が私の方へ歩み寄ってくれば、マレスと妹には目もくれず私だけをその瞳に映す。
「チェルシー、ごめんなさいね。貴女が五歳の時に私が良かれと思ってかけた魔法のせいで、その容姿にしたせいで、妹に苛められていたのね……」
突然のお母様のカミングアウトに、頭がついていかない。
五歳? 魔法? どういうこと?
「え、えっと……お母様? 一体何のお話を?」
「成長するにつれて、貴女があんまりにも天使ちゃんになっていくから。毎日舞い込む縁談から貴女を守るため、魔法をかけていたの」
お母様が私の頬を包み込むように触れ、撫でる。ちょっとくすぐったい。
「ま、魔法って……? お母様、お姉様、私にも分かるように話してよぉ」
もはや婚約破棄どころではなく、皆がお母様に注目していた。
「ふふふ。クソ王子とクソ娘から言われっぱなしは癪だわ。今魔法を解いて、ビックリさせちゃいましょうね!」
そう言ってパンッ、と目の前で手を叩かれ、私は反射的に目を瞑った。
……あの、せめて合図をくださいお母様。あと、自分の娘にクソはどうかと。
そんなことを思っていると、会場内がどわっとどよめいた。
「え??」
「なっ……!」
「お、お姉、さま?」
皆私を見ていた。
状況もわけも分からずにいると、どこから取り出したのか、お母様が手鏡を渡してきて。
「見てごらんなさい、チェルシー。私の可愛い娘。今の貴女が――本当の貴女よ」
渡された手鏡に映っていたのは、キャラメルブロンドの髪に、黄緑と黄色が混ざった不思議な色の大きな瞳、そばかすのない白い肌、ぷっくりとした赤い唇をした――私の知らない人。
「だ、だだだだっ誰です!?」
「誰って、貴女じゃないの。チェルシー、貴女は本当はすーーーっごく可愛いのよ? 黒髪と紅茶色の瞳に変えた理由は、縁談から守るため。ですので、ここにいらっしゃる殿方様、チェルシーには一切近付かないでくださいませね」
お母様がニッコリと微笑めば、少しずつ距離を詰めて私に近付こうとしていた男性たちがグッと足を止めた。
……それなら、何も今魔法を解かなくても。と思ったが、お母様もお母様だから、きっと内心この状況を楽しんでるわ。
「チェルシー……なんて、美しいんだ」
「はい?」
「マ、マレス様? ちょっと、お姉様ったら私から王子を奪うつもり?」
「黙れ。俺は元よりチェルシーの婚約者だ」
いやいや、さっき婚約破棄してきた男が何言ってるの。
呆れて冷めた目で見ていると、お母様が私の手を取る。
「婚約破棄はこの耳でしーっかりとお聞きいたしましたわ。王子、宣言通り、どうぞそこの、妹のほうを貰ってやってくださいませ。さぁチェルシー、行きましょう」
「え、ぁ、はい」
「まっ、待ってくれ!! あ、いや、待って下さいっ義母上! 先ほどの婚約破棄は――!」
追いかけてこようとしたマレスを阻むように、パタンと扉が閉まった。その時、チラッと見えた妹の顔は……東方の国でいう、般若だった。
と、まぁ事の発端はこんな感じかしら。
自分の顔が、まさか母親の魔法で変えられていたことに、正直かなりの衝撃を受けているけど、伯爵家の髪色だったことは嬉しかった。
ずっと黒髪で、私は本当に伯爵家の娘なのかなって思っていたから……。
それからというもの、あの日私の容姿を見たマレスが一転。
「お前の妹に脅されていたんだ」
と屋敷に乗り込んで来て、そんなマレスのクズっぷりを見た妹が、
「あんな男、最初から好きじゃなかったもの! 私だって脅されてて……っ」
と。二人して言い訳は、“脅されてた”。もっと上手な言い訳ができないのかしら……。
そして、冒頭の少し後に戻る。
「私に王子を返してこないで。可愛い可愛い貴女に嫉妬して、私に散々酷いこと言われたって言って、それで王子を手に入れたんでしょう?」
「そ、それはっ! だから、私は脅されてて……」
「とにかく、私は貴女たちに婚約破棄されたのだから、今更『はい、お返しします』って返されても困るの。返してこないでほしいし、自分で蒔いた種なんだから責任とりなさい」
私は前から読みたかった本に目を通しながら、他人事のように言った。
「わ、私には他にいるの、愛してる人が! だから、王子と婚約なんてできないのっ!」
「知らないわよ、そんなこと。妹とはいえ、私は貴女の尻拭いなんてするつもりないから」
「酷いっ。ふぇぇ、妹がこんなに困ってるのに助けてくれないなんてぇ……」
ミレニィがハンカチを取り出し、顔を隠した。泣いたら許されると本気で思ってるから質が悪い。
「ミレニィ」
「何っ! やっと私を助けてくれる気に――」
「この度は、マレス王子との婚約おめでとう。姉として、とっても嬉しいわ」
私は嫌みたっぷりに綺麗な笑顔を浮かべた。
それからも、まぁ――しっつこい!
毎日毎日私の部屋に来ては、王子返却! とミレニィが乗り込んでくるようになってしまった。
今日は。
「お姉様、今日こそお返ししますね、王子を!」
次の日は。
「返してあげるって言ってるんだから、お姉様も素直に頷いてよぉ」
またその次の日は。
「私は脅されてたの! 俺と結婚しないと家族がどうなってもいいのかって!」
そこまで言うなら、どうして王子に手なんか出したのよ。
そもそも、そんな簡単に一国の王子を自分の都合で返していいわけないでしょうに。あれだけの公衆の面前でやらかしても、反省はなし。
「……ほんと、どうしたものかしら。王子も王子だし」
ベッドの上でゴロゴロしながら、出来るだけ考えないようにはしてるものの。
「チェルシー! 俺の愛する婚約者! この間は悲しませてしまってすまなかった。俺はいつまでもお前を愛してる」
マレスもまた、屋敷を訪れては詫びのつもりか宝石やら高価なものを抱えて来ては、私に跪き、表面だけ王子様面して演技にしては三流な謝罪と愛の告白をしてくる。
あぁ、思い出しただけで胃痛がする。
明くる日。
「お姉様っ! いい加減にして!」
「……もぉ、はいはい。今日は何?」
気分転換という現実逃避に、大好きな釣りに行こうと準備し終わったところで、ミレニィが仁王立ちして立ちはだかった。
「お姉様ばっかり縁談があんなにも……っ。それも、私がお慕いしてる公爵様のご子息まで誑かして縁談しようだなんて! お姉様には王子がいるじゃない」
「誑かしって。あのね……いえ、もう何でもないわ」
私は今月入って何十回目の頭を抱えた。
早く釣りに行きたい。
「縁談なら断ったわよ。タイプじゃないもの」
「まぁっ、お姉様ったら見る目がないのね。とぉっても素敵な人じゃない!」
おい、私より貴女のほうが見る目ないから。――だからそんな、お姉様可哀想……みたいな顔をするんじゃない!!
「じゃあ私から薦めましょうか? 王子の婚約者でもよろしかったらって」
「王子はお姉様にお返し済みですぅーだ」
「なら私も、今の婚約者であるミレニィに王子お返ししてますー。熨しもつけてますぅー」
おっと、妹の真似をしてしまった。
本当はもっとこう、ざまぁみたいなことしたいんだけど、癇癪でも起こされたら堪ったもんじゃないので、ここは大人な対応でやり過ごしていこうと思う。姉なので。
私は愛用の竿を持ってミレニィの横を通りすぎ、アムンツェル伯爵家が所有する敷地に流れる川へと向かうことにした。
背後から「ふえぇん」と泣く妹は無視だ。
外に出れば、雲一つない晴天とはまさにこのこと。
そよそよと吹く風も心地よくて、お昼寝にはもってこいの素晴らしき昼下がり。
持ってきたクッションを川の側に置き、針に餌をつけて、投げる。
クッションに座って、魚がかかるまでジッと待つ。
「はぁ……至福の時間」
元々お父様の趣味に付き合っていた釣りは、私の趣味の一つになり――今では家庭内(妹)ストレスから逃れられる唯一の時間となってしまった。
「……ミレニィの次は貴方ですか?」
誰か、なんて見ずとも分かる。
(私がここにいるって、何で分かったのかしらね)
私は足音のしたほうには目もくれず、竿の先を見ながら口を開いた。
「マレス王子」
「!! 声もかけてないのに分かるとは、やはり俺とお前は運命でむす――」
「今すぐ黙って。魚が逃げるでしょ」
抑揚のない声で言えば、マレスが慌てて口を手で覆った。
「……まだ怒っているのか? いい加減機嫌を直してくれ」
「公衆の面前で一方的に婚約破棄されて、やれ自分の妹を苛めただの、姉として恥ずかしくないのかだの、家族すら大事に出来ぬお前に王妃など務まらぬだの散々言われて、私のプライドズタズタにしてきた人が何ぬかしてるの? これで怒らない人間はよほどの聖人か、自分の状況をよく理解できてないクズだわ」
「だ、だからそれは悪かったと言ってるだろう」
「謝って済むと思ってるなら、なおさら阿呆――ぁ!」
その時、竿の先がクンッと引っ張った。
「お、俺が阿呆だと――」
「うるっさい! 今からがいいところなんだから、お黙り!」
気が散るので一蹴してみたら、マレスは黙った。
よし。聞き分けはいいのね。出来れば、そのまま回れ右して帰ってくれるとすっごく嬉しいわ。
私はクッションから立ち上がり、グイグイと引きの強い竿を両手で握って魚と対峙する。間違いなく大物!
「っ! ちょ、っ……いいわ、私とやりあおうって言うのね。川の主かしら。絶対に釣り上げてみせるわ!」
魚との駆け引き。ふふ、これが最高なのよ! ゾクゾクするわ。
心を踊らせながら楽しんでるのだけれど。ねぇ……引き、強くない? これ、竿折れない?
お父様のお古を継いだものだから、どこまで持ちこたえられるか。
「!? わわっ……!」
今までで一番大きい引き。グンッと引きずり込む勢いで竿を引かれ、私は前に倒れるように体勢を崩しそうになった。
「危ない!」
「…………えっと」
危うく川に落ちる寸前で、なんともまぁ、ベタな展開。
マレスが私のお腹に手を回して抱き止めてくれていた。
「はぁ……、大丈夫か?」
「え、ええ。……その、ありがとう」
「なかなかの大物だな。俺の嫁を引きずり込もうとは、魚もお前の美しい容姿に惹かれたのだろうな」
嫁じゃないし、それよりも今すぐこのお腹に回した手を退けて!
だが、そこは空気の読めない王子。放すどころか、竿を持つ私の手の上に自分の手を重ねてきたわ。
「初めての共同作業だな、チェルシー!」
「その言い方やめて嬉しそうに言わないで手放してクソ王子」
目を輝かせてなんちゅうことを! さては、本気で反省してないでしょ!? そう言ったら私が喜ぶとでも思ってるんでしょ!
「せーので釣り上げるぞ、愛しい婚約者よ」
「しつこいわよ。私はもう貴方の婚約者じゃありませんので、そこんとこ、お忘れなくっ!!」
私は自分のかけ声とともに、踏ん張って竿を思いっきり引き上げた。
ザバァンと水飛沫をあげて大物ゲット! かと思いきや釣糸がプツンと切れ、私とマレスはその反動と勢いあまって盛大に尻餅をついてしまった。
「い……ったぁ……」
「っ」
「あぁぁ、私の負けか……」
千切れた釣糸に肩を落とした。
「……チェルシー」
ポスッと、私の肩にマレスの頭がのせられた。
「!!?」
後ろから抱き締められていることに気付き、コンマ一秒でマレスから離れて距離を取る。
「な、ななな……っ」
心臓バクバクなのですが!?
「か、庇ってくれたことに感謝はするけど、いつまで私に触ってたつもりです?!」
「ぁ、いや……すまない。お前に触れたのは、久しぶりだったから、その……」
止めなさい。感触を確かめるように、手をにぎにぎしないでもらいたい。
「お前とミレニィの間で、俺を巡る争いが起きていると聞いている」
マレスが急に話を逸らした。まだ手は見つめたままだが。
「姉妹で王子を取り合う甘いものではないわ。ミレニィが王子を返すってしつこいから、私も断固拒否して、同じく王子をミレニィ返してるだけよ」
「俺は王子だ。品物じゃない」
「文句がおありで? ミレニィに何を吹き込まれたのかは知らないけど、それで婚約者の私を切り捨てた貴方にそんなことが言える立場は、今ここになくてよ」
この際、はっきりと言わせてもらおう。あれ、これってちょっとざまぁ?
「王子、今の私の顔目当てでよりを戻そうとお考えなら即刻私の前から消えてくださいませ。妹と婚約したのだから、どうぞお二人で幸せに暮らしてくださいな」
「……ミレニィは、俺を愛してなどいない」
「だから何でしょう? 私には関係ないし、私も貴方のこと愛してないわ」
「お前とミレニィとで返却されあう俺を慰めてくれ!」
「帰れ」
私は笑顔で出口の方を指差してから、マレスに背を向け、釣糸を替えることにした。
「……ああ、そうだ。確かに俺は――俺はあの時、お前の顔を見て、は? 美しい、もろタイプだと思ったさ!」
急に開き直ったわね。
「頼む、一生のお願いだ……俺の、婚約者に戻ってくれ」
戻ってくれ、ですって? ああ苛々する。
竿を持つ手が怒りで震える……今にもバキッて折りそう。ごめんね、君に罪はないのに。もし折れたら新しい釣竿買おうかしら。でも、この竿は相棒だし……。
「――ルシー、チェルシー! 聞いてるのか?」
「!? ぎゃあぁああ!」
バッチーン!
「…………な、っ」
仕方ないよね、無意識に手が出ちゃったのは。
マレスの声で我に返った私は、至近距離すぎる彼の顔に驚いて思いっきり頬を叩いた。
「え? あぁいえ、全然聞いてなかったわ。まだ帰ってなかったのね」
「た、叩かれた……? でも、何でだろうな。お前のその笑顔を見て、胸がこんなにも高鳴る」
私が叩いた頬に手を当て、恋する乙女みたいな視線を向けてくるマレスに、私は引くしかなかった。
……突然Mに目覚めるなんて、聞いてないわ。
私はこれ以上マレスに関わることをやめ、釣りに没頭することにした。
釣りの騒動があった数週間後。
その日、妹に、ミレニィに、手を上げてしまった。家族に初めて、手を上げた。
反省もせず、自分に非はないと、私の神経を逆撫でするようなことも言ってくるけど、それでも妹は決して手は出してこなかった。
なのに、なのに……私は。
「お姉様ったらいつまで子供っぽいことするのっ? ねぇ、まだ婚約破棄引きずってるの?」
その言葉に、カッとなって――。
今も脳裏に焼きつく、下唇を噛みしめるミレニィの顔が忘れられない。
「……家族すら大事にできぬ、か。そうね、その通りだわ」
「ど、どうしたのだ。 落ち込んでるのか?」
「別に落ち込んでないから、あっち行って」
あれからミレニィと気まずい雰囲気、なんて、落ち込んでるのは私だけのようで。相変わらずピンピンして「さあ、お姉様! 今日という今日はお返しするわ」と部屋にやって来たのだ。その図太い神経、感心するわ。
それでも気まずい私は、逃げるように今日もまた川で釣りしてる。
その隣にマレスが、日傘を私の方に傾けて座ってるのはなぜ?
(それにしても……)
私は釣竿から、隣に座るマレスをチラッと、ほんのチラッと一瞥した。
風に揺れるサラサラの銀髪、切れの長いアクアマリンの瞳、スッとした鼻立ち、さすが王国の百合と謳われるだけある。
「しかし、釣りが趣味だったとは知らなかったな。お前はいつも本ばかり読んでいたから」
「本を読むのも好きよ。最近は釣りスポットの本を見るのが楽しいわ」
「そうか、では今度共に行こう。釣りを嗜むチェルシーも愛しいからな」
「それは婚約者に言って」
しっしっと手で合図すれば、マレスが頬をリスみたいに膨らませた。何その顔。
「そうは言っても、ミレニィも俺をお前に返すと言っているなら、俺たちは元に戻るだけだ。何もそんな邪険にしなくてもいいと思うのだが」
「……元に戻るなんて、簡単に言わないで。人の気持ちも考えない貴方と元の鞘におさまるのは癪だわ」
「ど、努力はする!」
「何の努力?」
「え、何の? そ、そうだな。お前の……気持ちを、蔑ろにしたことを反省して、お前のことを第一に考えること、だろうか?」
何でそこで疑問系なのよ。努力すると、そう決めたのなら堂々と言えばいいのに。
私は可笑しくて吹き出してしまった。
「? チェルシー?」
「その気持ちだけは貰っておくわ。急には無理でも、何事もその人の気持ちに少しでも寄り添ってあげれられるような人に成長してくれれば、それでいいもの」
「!! では、俺の婚約者に戻る気になってくれたのか?!」
「ちょっと待ってどうしてそうなったの。婚約しないって言ってる私の気持ちに寄り添うのでしょう?」
「……チェルシー」
「な、何?」
マレスがふいに真剣な目で見てきた。無駄にいい顔を向けないで、嫌でも意識してしまうから。
「話をしないか?」
そう言うと、スッと右手を上げた。
マレスの意図が分からず黙っていると、従者の一人が細長い木箱を抱えて、それをマレスに渡す。
「――これで手を打ってくれないだろうか」
「?! これ……っ」
パカッと開けた木箱に入っていたのは、銀色がとっても素敵な――釣竿だった。
「職人に頼んで特別に作らせた、チェルシー専用だ。気に入るといいのだが……」
「これは……話、というより買収みたいね」
「そ、そんなつもりはっ!!」
「だって、これを私にくれる代わりに、婚約者に戻れってことでしょう?」
こうは言っているが、私の目は釣竿に注がれている。
握りやすそうな細さに、女性受けしそうな繊細な銀色。素晴らしい釣竿だわ!
「最初はそう考えたが、そんなことをしても、お前は絶対に受け取らないし喜ばないだろう」
これには私も驚いた。
今は純粋に贈り物として私に渡したい、ということ? ……何よ、少しはいいところあるじゃない。
「まぁ、これで許してくれると思えば安いものだがな!」
前言撤回! やっぱりクズだわこの王子。
許したくない。許したくないのに、……目の前で輝く釣竿が『僕を貰って許してあげてよ。最高の品だよ!』って訴えてくるの!!!
あぁあ、喉から手が出るほど欲しいわ! すごく欲しい! けど!
「人として最低なことを、俺とミレニィはしたのだ。こんな安物で許しを乞おうとする俺の行動は、お前には買収と見えるのだろうな」
マレスが木箱に蓋をした。
あ、あぁ、私の釣竿……。
その日、私は泣く泣く釣竿とお別れした。だって……後で冷静に考えても、やっぱり物で釣って婚約者に戻そうなんて、人の気持ち踏みにじる行為だわ。
でも、贈り物に釣竿をチョイスしたのは、素晴らしい選択よ!
しつこい妹の王子返却の台詞は、もう伯爵家のお決まりと化してしまった。
……もうそんなに言ってこなくていいのに、面白いから黙ってる。
ただ、そんな日々の中で一つ変わったことがある。
「チェルシー! 今日は何を釣るのだ?」
それは、私とマレスの関係。
通い妻のごとく、私の所へ足を運マレスに構ってるうちに、初恋がね。少し蘇ってきたわけで……。相手は、クズ王子なのに。
「さあ、何が釣れるかしらね。……なぜか、マレスがここに来るようになってから一度も釣れないのだけれど」
幼い頃、よくこうして二人で、釣りではないけど一緒に本読んだりしたっけ。
「俺の王子としての風格と色気を前に、水面から出てくるのが恥ずかしいのだろうな」
「近付きたくない、変な人だって怯えてるのだと思うわ」
こうやって言い合えるのも、なかった。私は王子の婚約者として一歩引かなきゃいけなかったし、マレスも今よりずっと口数少なかったし。
「まぁ、そうね。出来れば食用の魚がいいかしら。白身魚か、サーモン。カルパッチョが食べたいもの」
「明日王宮のシェフに頼んで、ランチしよう」
「いや急だから。せめて十年後にして」
ヒュン、と竿を振ってクッションに腰を下ろす。
私が座ったことを確認して、マレスがすかさず日傘を差し出した。
「じゅ、十年後……。つまり、俺の妻としてランチを楽しむということか!」
「そうかもね」
「……へ? な、ぇ、え?」
マレスは私の言葉に固まり、信じられないといった風に目を瞬かせた。
「冗談よ。真に受けないで」
「くそっ」
「ふふふ。お口が悪うございましてよ、王子」
竿先をずっと見ているが、今日も食いついてくれないのか反応がない。
けれど、釣りは忍耐、というお父様の教えを心の中で唱える。
「……マレスは、私のどこが良くて婚約者にしたいの?」
どうせ顔って言う答えなんて決まってるのに、ふと、聞いてみたくなった。
「昔は互いの両親が取り決めた婚約。今は、顔だな。俺の好みそのものだ! 誇っていいぞ!」
「ほんとクズ」
「お前も口が悪いぞ」
ふは、っと少年みたいに笑って、私の頬を摘まんできた。
ねぇ本当にやめてよ。私、その笑顔に弱いの……。
幼い頃に見た、その、笑顔に。
「正論を言っただけだから。あ、そうだわ。マレス、今日お魚だけど、四匹釣って?」
ちょっと熱を持ち始めた顔を冷ますため、私はマレスに無茶ぶりした。
「よ、四匹!? 今まで一匹も釣れないのにか?」
「そう。お父様とお母様、私とミレニィの分よ。よろしくね」
そうしたら、マレスが釣りじゃなくて、裸足になってズボンの裾を捲し上げ、川に入った。
素手で魚を掴もうとするから、貴方熊だったのねって思ったわ。
とある日の昼前。
あのミレニィが、扉の隙間から様子を窺うように覗き込んでいた。
入っていいと許可したら、おずおずと入ってくる。どうしたの。いつものミレニィじゃないから、ちょっと怖い。
「お、お姉様? 私疲れてきちゃったの。いい加減、王子受け取ってよぉ」
「あらあら。もう疲れたの? 私はまだまだ――」
「ごめんなさい! ごめんなさいぃぃ、もぉ本当に私が悪かったからぁ……!」
「ふぇぇ、って泣かないのね」
「もぅ! お姉様そういうとこなんだからねっ」
「私もごめんなさい。貴女を叩いたこと、すごく後悔したの」
私はミレニィの頬を、そっと撫でてあげた。
するとミレニィは目を見開いていたけど、頬を膨らませてそっぽ向いてしまった。今、リス顔が流行ってるのかしら。
「そ、それよりもお姉様。これ、渡されたの。お姉様宛てよ」
ミレニィが一通の封筒を差し出した。
裏を見ればベルフリィング王家の紋章で封蝋されている。差出人は、マレス王子?
「私じゃなくて、ミレニィ宛てじゃないの? 婚約者さん」
「お姉様に、って言われたから! あんな男とはそんな関係じゃないから安心してねっ。だって私、んふふ。新たな運命の恋しちゃってるからっ!」
……一体、妹には何回運命の恋があるのかしら。
ミレニィの恋人自慢という惚気を聞きながら、私はマレスからの招待状に微笑んでしまった。
そして迎えた、招待の日。
王宮の薔薇庭園で、私は料理に舌鼓をうつ。
テーブルの上に並べられた魚のフル料理に、サーモンのカルパッチョを見つけた。
「すっごく美味しいわ。え、待って。このサーモン甘いのね、私こっちがいいわ」
さすが王宮シェフ。オリーブオイルの王道から、レモンドレッシング、トマトとサーモンの赤のカルパッチョまで色んなカルパッチョを作ってくれたのね。
タダで食べられる美味しいカルパッチョを堪能していると、向かいに座っていたマレスが立ち上がり、私の横で左膝をついた。
「どうしたの、料理冷めるわよ?」
「……よし」
ん? よし? 何がよしなの? 料理が冷めて、よし、なんて言う人初めて見たわ。
「ごほん。チェルシー、お前ともう一度やり直したい。もう一度だけでいいから……俺にやり直すチャンスをくれないか?」
まっすぐ見上げてくるアクアマリンの瞳は真剣で、思わずサーモンを喉に詰まらせるところだった。
「私よりも可愛くて綺麗な人なんて、ごまんといるわ。ミレニィなんてどうかしら」
「……そうだな。地味だったお前から、ミレニィに心が傾いたのは事実だ。それは本当に謝る。すまなかった!」
マレスが土下座してきた。
「土下座ですべてが許されるなら、何をしてもいいわけなの? 未練がましい男性は嫌われるわよ」
そう言う私も自嘲する。
私だって、いつまで婚約破棄のこと、蘇った初恋を引きずってるのかしら。未練がましいのは私のほうかもね。
「……純粋に釣りを楽しむ新たな一面のお前を見てると、俺まで楽しくて、とてもいい時間だった」
「そう」
ねぇ。今、足元で跪く王子にもう一度恋する私って、いわゆるクズ専っていうのかしら。
「チェルシー・キャロライン・アムンツェル嬢。もう一度改めて、俺の婚約者になってほしい」
「……しょうがない人ね。もう一度だけよ」
「!? ほ、本当に? 本当か、チェルシー」
「神様と私に誓える?」
「誓う! 何なら、今ここで神父に誓ってもいい!」
「あと、今後また同じようなことしたら、三度目はないし、呪って地獄に突き落とすから。歴史にもクズすぎる王子って汚名残してあげるので、そこは肝に命じておきなさい――あ、そうそう。マレス」
「何だ。仲直りのキスか? 復縁祝いのキスか?」
「この前のあの新しい釣竿、さっさとくださいませ」
私はフォークを置いて、マレスに右手を差し出した。釣竿渡せってね。
キス? それは、私とちゃんと恋してからよ。
ごめんなさい、お母様。私、結局マレスが好きみたい。
でも、相手が一方的な婚約破棄をしたという弱みを握ったら、もうこっちのものよね。
一生マレスを尻に引ける結婚生活も悪くないかもしれない。
あぁ、本当のクズは――私なのかもね。
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