ついてくる
その時地方の支社での長期出張を終えた彼は自宅へと向かう為、行きと同じ新幹線の最終便を利用していた。高速でレールの上を突き進む音のみが、車内に響き渡っていた。
その時彼は車両の中央部にある窓側の座席から、過ぎ行く外の景色を眺めていた。黒以外に他の色の区別がつかない窓の外には、遠くに見える街の明かりが輝きを放っていた。
「今回の出張は本当にきつかったな。早く家に帰って、まずはゆっくり休みたい…………」
もうすぐ到着する目的の駅が近づく中、彼は早くも帰宅してからの行動を計画していた。そしてその独り言の直後に、それだけ今回彼に課せられた任務に苦労したのかが理解出来るような、深い溜息を付け加える…………。
「まもなく、〇〇です」
その時次の停車駅への到着を知らせる車内アナウンスが鳴り響くと、彼はすぐさま荷物を揃える準備を開始した。長らく彼が待ち望んでいた自宅への最寄り駅に、もうすぐ辿り着く事を知ったからだ。
「よし、そろそろ駅に着きそうだし、出口で待つ事にしよう」
そう言った彼はその場で大きく背伸びをすると、早速準備を済ませた荷物を掲げてから、車両の端へと歩みを進めた。他にも乗客がいないか気になり、ふと通路の周辺を確認しながら。
「思った通り、どうやら俺以外には誰もいなさそうだな…………」
その時彼がそう呟いた通り、ぱっと見た限りでは他の座席には誰もおらず、勿論彼とともに下車しようとする姿も一切見られなかった。その様子を確認した彼はそのまま通路を進んでいったが、それでもまだ社内の見回りを続けていた。
その時だった、
「…………?」
その時彼が目にした奥の座席に、一人の人物が座っているのを確認した。今まで彼がいた席からは完全に死角となっていたせいで、その存在に全く気が付かなかったのだ。しかも一見したところ、その人物からは何やら謎めいた雰囲気しか感じられなかった。
暗闇の中では絶対に識別出来そうにない漆黒のコートで全身を覆い、一見しただけでは性別すらも確認出来ない。息遣いも聞こえない為に起きているのか寝ているのか、そもそも生きているのかも理解出来ずにあった。それでも僅かに確認した体格から判断すると、どうやらこの人物は男性に間違いないと彼は推測した。
「な、何だか気味が悪いなあ。こんな人と二人きりだったなんて…………」
なるべく男に聞こえないようにそう呟きながら、彼はそのまま車両の端へと向かっていった。その時男は未だにそのままの状態を維持し、彼と目を合わせるような素振りは一切示さなかった。
その時目的の駅に到着した新幹線の扉が開き、既に下車する準備を済ませていた彼がホームの上に足を踏み入れた。ふと左右に目を向けてみたが、どうやら他に降りようとする者の存在はなさそうであった。
そして旅の疲れが一気に襲い掛かってきた事を受け、彼はその場で再び大きく背伸びを済ませた。
「やっと着いたなあ。早く家に帰って、ゆっくり休もう」
彼はそう言うと、未だに停車している新幹線に背を向けながら別れを告げ、丁度目前にあるエスカレーターを利用して改札口まで進む事に決めた。
やがてエスカレーターで移動する彼の姿が中間地点まで差し掛かったところで、ようやく新幹線が次の停車駅へと向かっていく音が、静まり返った構内に響き渡った。
「…………」
そこから彼はこれ以上体力を消費させるのを防ぐ為に、口を堅く閉ざし敢えて言葉を発せずに過ごそうと決めた。それはエスカレーターが終点にまで差し掛かっても、無人の改札口の通過に成功した時もであった。
しかしとある地点を通り過ぎようとしたところで、久しぶりに彼は発言を再開する事に考え直した。その時彼の目に映ったのは、一台の自動販売機であった。
「…………そういえばここに来るまで、何も口にしてなかったな。急に喉が渇いてきた…………」
そう言いながら彼が自動販売機の目前に近づいた頃、彼の口の中はすっかり乾燥し切っていた。そんな口の中に少しでも潤いを与える為、彼は何の躊躇いもなく鞄の中から財布を取り出し、更にそこから数枚の硬貨を取り出した。
早速それを使って、目前に映った缶コーヒーを購入した彼。すぐさま缶に手をかけ蓋を開き、一気に中身を口の中へと流し込む。やがてコーヒーを全て飲み終えたところで、ここでようやく一息つかせて自身を落ち着かせた。
「…………よし、これで眠気とかも少しは吹き飛んだはずだ。後はこのまま家に帰るだけ…………」
短時間で空になった缶をゴミ箱に投入して一旦深呼吸を済ませ、ここで彼は何気なく真後ろへと振り返った…………。
「…………えっ」
その時彼のいる位置から通路を挟んだ反対側に、一人の黒ずくめの男が直立していたのだ。見覚えのある漆黒のコートで全身を覆い隠し、その内側に秘めた目でこちらを睨みつけているように感じられる。
その風貌や不気味な雰囲気から、彼はすぐに男の正体に辿り着いた。
「ま、間違いない。あの時同じ車両に乗っていた男だ。でも何でだ?確かこの男、全然降りる様子なんて感じられなかったのに…………」
考えれば考える程頭の中は混乱を極め、最早頭を抱えざるを得なくなってしまった彼。その間男は今いる場所から一歩も動かず、未だに彼への見えない視線を維持している。
「…………と、とにかく今はここから離れよう。このまま立ち止まっていたら何をされるか分からない」
その時そう決断した彼は、なるべく男に目線を合わせないように、かなり小走り気味でその場から立ち去った。一刻も早く例の男から、少しでも距離を置いておく為に…………。
「…………嘘だろ、嘘だって言ってくれよ!」
その時彼は小走りで構内を進んでいきながら、思わず何者かにそう訴えた。その間屋内に響き渡る彼の足音に加えて、もう一人分の異なる足音が追いかけるかのように聞こえた。そこで彼が敢えて後ろを振り返ってみると、すぐさまその音の正体が判明した。
その時異なる足音を生み出していたのは、先程彼が目の当たりにした例の男であった。相変わらず漆黒のコートで身を隠しながら、少しずつ彼との距離を縮めようとしていたのだった。
「何でだよ!何でついてくるんだよ!」
こちらも距離を広げようと彼が速度を上げても、男はすぐに反応して徹底的に尾行を続ける。たとえ彼が駆け足に切り替えて逃走したとしてもなお、男は変わらずに距離を保ち続けていた。
「やばい!このままじゃ、一体何をされるか…………あっ!」
彼の脳裏に最悪の展開が浮かび上がってきたその時だった。
「…………あ、あれは!」
その時彼の目前に出現したのは、駅の構内と外の世界を結びつける、エレベーターと階段であった。そしてこの時どちらを利用して外へ抜け出そうという二者択一に関しては、彼は既に回答を済ませていた。
「エレベーターは扉が開くのに時間がかかる。だから階段を使おう!」
そう決意した彼はエレベーターには全く目もくれず、そのまま一直線に階段のある場所へと向かい下り始めた。大急ぎで階段を駆け下りる彼の足音と、未だに追跡を続ける男の足音が重なって、周囲の金属で出来た壁に反響していく。
「足の感覚がなくなってきた。このままじゃあの男に…………」
長旅と今回の逃走劇で限界寸前にまで蓄積された疲労に苦しむ両足を気にしつつ、最後の力を振り絞って走り続ける彼。せめてこの先に何か救いの手を求める中で、彼はふとある物を発見した。
「…………あれは!」
その時彼が階段の向こう側に見つけたのは、一台のタクシーであった。どうやら運転手以外に誰も乗ってはおらず、更に幸運にも後部座席の扉が開いていて、逃げ込むにはもってこいといえる状態となっていた。
「よし!あれに乗り込んで出発してもらえれば!」
そう考えた彼は改めて走る速度を上げて、少しでも男との距離を広げようとした。そしてそれが功を奏してか、二人の距離が今までより広がっていったように彼は感じた。
「よし、いいぞ!このままいけば…………!」
男からの逃走の実現に確信を見出し、もうすぐそれが確実な物へと変わりつつある。駆け下りてきた階段の最後の一段を飛び越え、あと数センチといえる距離にまでタクシーの後部座席に近づいてきた。
その時だった。
「っ!?」
その時彼は一瞬恐怖心に苛まれた。ほんの一瞬であったが、彼の背中に何かが触れたような感覚を覚えたのた。そしてその正体は間違いなく男の掌であると、彼はすぐさま感じ取った。
「…………でも大丈夫だ、流石にここまで来れば!」
それでも彼はそのまま恐れる事なく、寧ろはっきりとした安心感で自身を落ち着かせた。何故なら男の手が触れた直後にタクシーの後部座席に飛び乗り、完璧に男の追跡を逃れる事が出来たからだ。しかもそれと同時に扉が閉まった事により、二人の間隔は完全に遮断されたのであった。
「い、いきなりどうしたんですか!そんなに顔を真っ青にして!」
突然の出来事の為に驚きを隠せない運転手に対し、彼は間髪入れずに、しかも未だに呼吸が整わないままで頼み込んだ。
「あ……後でお話ししますから…………と……とにかくここから離れてください…………行き先も……後で言いますので…………」
「え……あ、はい!」
彼のあまりにも異様な行動に何かとんでもない状況を感じ取った運転手は、彼の言う通りすぐさまタクシーを走らせた。何故かそれ以上追いかけずにその場で立ち止まり、只々タクシーの小さくなっていく姿を黙って見つめ続ける男。その時これまでコートの影響で明かされなかった男の顔には、物凄く不気味な笑みが浮かべられていた…………。
「…………ただいま」
「おかえりなさい、お仕事お疲れ様……って、一体どうしたの!何だか全然元気がないみたいだけど」
その時タクシーへの乗り込みにより男の魔の手から逃れた彼は、ようやく最終目的地である自宅にまで辿り着いたのだった。例の駅からここまでタクシーのみで移動した事で余計な体力を削る事はなかったのだが、それでも未だにあの時の疲れは彼の身体に重くのしかかっていた。その為彼を出迎えてくれた妻の心配の言葉に対しても、まるですっかり気の抜けたような返事しか出来ずにいた。
「ああ、色々あってな……悪いが、今日はこのまま寝かせてくれ…………」
その時返答した彼のあまりの疲労困憊ぶりに心配の念を抱きながら、彼女は首を縦に振って、それ以降は何の言葉も投げかけなかった。そしてそれに安心したかのように少々笑みを浮かべた後で、彼はそのまま寝室へと向かっていった。
やがて寝室へと到達すると、彼は間髪入れずに自らのベッドに身をゆだね、そこから徐に瞼を閉じていった。
「今日あった事は全て忘れて、明日をいい日にすればいいんだ」
そして彼はそう独り言を呟いて、そのまま深い眠りについた。この数時間後に夜明けという形で迎える“明日”に備える為に――――。
――――その時朝を迎えたはずだったのだが、彼は一向に寝室から出てくる様子はなかった。当初妻は少し心配そうにも感じてはいたが、彼の昨夜の状況を考慮し、敢えて起こしに行こうとはしなかった。
「昨日はあれだけ疲れていたんだし、まだまだ休ませた方がいいわね」
その時太陽が最も高い位置まで辿り着いたのだが、それでも未だに部屋の外に出てくる気配はなかった。これには流石に彼女も心配し何度も声をかけたが、それでも反応はなかった。
「ちょ、ちょっと!いくら何でも寝過ぎよ!」
その時すっかり外が暗くなったところでようやく部屋から出てはきたが、彼は一言も口にせず玄関の扉から外へと去っていった。思わず妻が発したとある一言の存在に、全く聞き入れていないような状態で――――。
「あの人急に何処へ行こうとしているの?あんな“不思議な格好”なんかしちゃったままで…………」
――――その時この日の夜も駅のホームに、いつも通り最後の新幹線が到着していた。そして入り口の扉が開いたところで、ほんの僅かしかいない人々の乗り入れが進んでいた。
その時新幹線へと乗り込もうとする人々の中に、先程自宅を出ていった彼の姿があった。全身を覆い尽くす漆黒のコートに身を隠し、何とも不気味な笑みを浮かべた彼の姿が。
そして彼は窓越しに見える車内の一角を凝視しながら、そのまま扉の内側へと潜り込んでいった。まるで狙いを定めた獲物に向かって、少しでも近づこうとしているかのように。
やがていつも通りに扉が完全に閉め切られた直後、新幹線は少しずつ速度を上げて構内を去っていった。その時巨大な金属の塊が、暗闇の中へと吸い込まれるように姿を消していった――――。
自身初のホラー作品となります。この作品で皆さんが少しでも涼んでいただければ幸いです。