黒髪の少女(2)
押し倒された街路樹、砕かれた花壇のレンガ。破壊の痕跡はなおも増えていく。
竜は悲鳴という頌歌に酔いしれていた。泣き声に嗜虐心をかきたてられ、一挙一動のたびにあがるどよめきに狂喜する。未熟ゆえに自制が効かない。まるで人間の子供と同じだ。
さゆりは、人々の濁流をかき分けて走った。
(竜息を吐かせるわけにはいかない!)
蒼灰竜の竜息は冷気。あらゆるものを凍らせるジュデッカの風である。
子竜でも二発吐けば、この広場にいる全ての人間が凍りつく。それだけは防がねばならない。
「私は竜殺し だ! 道を開けてほしい!」
さゆりの声が広場を貫いた。竜殺し 。その言葉が、恐慌していた人々を気持ちを落ち着かせたようだ。
さゆりの前に道が生まれた。人々の間をさゆりは駆けた。
その先に、腰を抜かした馬瀬川がいた。子竜と同じく、幼稚にも自分の舌が奏でる言葉に酔いしれていた男だ。しかし今は不様にも股間を湿らせ、恐怖で震えがとまらなくなっていた。
さゆりは竜と馬瀬川の間に滑り込む。
「まだ竜息は吐かない。這ってでも逃げな」
背後の男に叫んだ。気に入らない男であったが、見捨てるわけにはいかない。
それはさゆりの、竜殺しとしての矜持であった。人を護ることをやめれば、それこそ竜殺しである意味がなくなる。
米粒がついたままの右手を子竜に向かって突き出す。手のひらが白く光り始める。
「昼間はしくじったけど、今度は一撃でしとめてみせる」
敵意に満ちた輝きを認め、子竜がこちらを振り向いた。そしてさゆりに威嚇の咆哮をあげた。
「それで脅してるつもりかい! こっちはお前みたいなガキ、怖くないんだよ!」
子竜が大きく口を開いた。喉の奥に、白い冷気が集まっていく。
「目尻にしわが増えるほうがよほど怖いっての!!」
杖で作るよりも小さな輝きだったが、それでも子竜の倒すには十分だった。
開いた口腔に狙いをつけ、光の矢を放った。
それで終わるはずだった。
しかし。子竜はまだそこにいた。生きていた。さゆりの放った光の矢は子竜の牙を叩き折った。だが、それだけだった。
(倒せなかった!? そんな…)
その間にも、子竜の竜息がたまっていく。素早く左手をかざす。先ほどの光の矢で、すでに右腕の魔力は尽きていた。
(こんな子竜さえ一撃で倒せないのか…今の私は!)
悔しさに思わず涙が浮かぶ。
「次で! 次で絶対に殺してやる!」
左手の先に光が集まっていく。しかし自信を砕かれたさゆりの心は乱れに乱れ、思うように光を集束させることができない。
子竜の息は、あごの先までたまっていた。魔力の充填を待っていたら、間に合わないかもしれない。
「まだ、小さいけど!」
喉の奥を貫けば、少なくとも竜息は止められるはずだ。その間に再度光の矢を作れば…。
狙いを定めて光を放つ。
だが…。
小さな光の矢は、子竜の横っ面をかすめ、闇の中へと消えた。
(だめか…)
竜息に備えて障壁を張る。せめて自分の後ろにいる人たちは守りたい。そこに憎らしい馬瀬川がいたとしても。
竜から人々を護る。それが彼女《竜殺し》の使命だから。
刹那。
子竜が大きな光に包まれた。太陽のように目映く輝く球体の中で、子竜は白煙をあげて蒸発した。
子竜とはいえ、一瞬で動きを封じ、その身体を熔解していく。すさまじい威力の魔法だ。しかも子竜を消し飛ばしただけで、周囲の人も、物も、ほとんど傷つけてはいない。威力ばかりではない。コントロールも抜群であった。
完璧な光球。
そう、それはまるで…。
「竜殺しが倒してくれたんだ!」
誰かが叫んだ。若い男の声だった。
「あなたがいなかったら、私たち死んでたかも! ありがとう!」
今度は、女の声。
「ありがとう! 竜殺し」
まばらに打ち鳴らされた拍手が、やがて広場中に広がっていった。その中に、さゆりへの感謝の言葉が折り重なる。
嬉しい気持ちと、使命を果たした達成感と共に、しかしこの賞賛を本当に自分が受けていいのか、という複雑な思惑が渦巻いた。
倒したのは、自分ではないのだ。拍手が強まるほど、いたたまれない気持ちになっていく。早くこの場を立ち去りたい。そう思った時だった。
「じ、自作自演だ!」
男の怒声があがった。
さゆりの後ろには、憤怒の表情を浮かべた馬瀬川がいた。
「こいつは、私の演説を邪魔するために、竜を呼んだんだ!」
わめき散らしながら馬瀬川は少しずつ後ずさっていた。竜を倒したさゆりへの恐怖が、そうさせているのだろう。どこまでも、口ばかりの男だ。
「私を殺すために、竜を喚んだんだろう!?」
「そんなことするわけないだろ!」
それはさゆりにとって、竜殺しにとって、最大の侮辱であった。
「私が竜殺し年金批判をしているから! 働かずに食っていきたいから! 既得権益を手放したくないから! 社会保障改革を訴えている私が邪魔なんだ!」
「適当な事を言うな! 私はみんなを護るために」
「みなさん、これが竜殺しなんです!」
馬瀬川の叫び声がさゆりの言葉を遮った。
「自分たちのためなら、このような恐ろしい力を使う! これが竜殺しなんですよ、皆さん!」
広場が静まりかえった。拍手は鳴り止み、人々は口をつぐんだ。
「とんでもない三文芝居だな! そんなに年金がほしいのか! この寄生虫め!」
さゆりの方を向き直り、力強く指さした。
「なんだとっ! こいつ!」
直後。
パシッと鋭い打擲音がはじけた。
黒くつややかな髪が、さゆりの前で揺らいでいた。
「あなたを助けてくれたんですよ! この人は!」
少女の声だった。背は、さゆりと同じくらいだろうか。見たことがない学校の制服を着ている。
「竜殺しを殺せなどと罵るあなたすらも、この人は助けてくれたのですよ! 批判よりも先に、お礼を言うべきじゃないのですか! それが大人ってものではないのですか!」
彼女の声は、凛として気高い。
「違う! これはこの女の自演だ! 私が訴える社会保障費改革を批判するために、この女は…」
まさか子供に頬を打たれるなどとは思いもよらなかったのだろう。馬瀬川の声には動揺が混じっていた。
「またガセかよ! 馬瀬川! いい加減にしろ!」
誰かが叫んだ。
「批判してたのはお前のほうだろう! ガセ川!」
「その人に謝れよ! ガセ川!」
ガセ川コールが広場にあふれる。
四面楚歌と悟った馬瀬川は、スクラップとなった選挙カーを残し、やがて駅の方へ逃げていった。それを見届けた人々は、歓喜の声と共に再度拍手を打ち鳴らした。
さゆりは大きく息を吐いた。人々の脅威となった竜は倒れた。さゆりを罵倒する馬瀬川は去った。全ては、まるくおさまった。
黒髪の少女の、おかげだった。
「ありがとう、あなたのおかげで…って、あれ?」
だが、さゆりを救ってくれた少女の姿は、もうそこにはなかった。