百一話 声が聞こえる
『⋯⋯ロ⋯⋯さ⋯⋯、ロル⋯⋯さま、ロルフ様。』
——声が聞こえる。
自分の名を呼ぶ声。とても穏やかで、そしてとても優しい声が、頭の中で乱暴なまでに響き続ける。
『——私は、あなたをお慕い申し上げます。』
『——まっていますよ。いつまでも。』
名も忘れたはずの少女の声が今頃になって頭の中で響く。
「違う⋯⋯よな。」
忘れたのではなく、忘れようとしているだけ、それが分かっているから辛いのだろう。
「僕は、どうすればいいんだろう。」
『貴方はあるがままでいいんです。』
『私の居場所は、貴方の後ろだけですから。』
首を左右に振って思いを振り払っても彼自身を責め立てるように声は反芻し続ける。
ロルフは頭痛にも似た幻聴に耐えかねて、書斎にある一冊のノートを取り出す。
「⋯⋯懐かしいな。」
それは鍵の付いた日記、鍵が付いている事以外に全く特徴のないその本は本棚の一番端に忘れ去られたように置かれていた。
古びてボロボロになりながらも表面にはホコリすら付いていないのは使用人の仕事が行き渡っている証拠であろう。
「⋯⋯⋯⋯。」
少しだけ、気持ちが和らいだような気がした。
ロルフはかすかな記憶を頼りに机の棚から鍵を取り出す。
「六月七日⋯⋯。」
〝今日は変わった女の子に出会った。しっかりしてるのに大胆不敵で、領主の息子にも気さくに話しかけてくれた。〟
ロルフはそうやって日記のページを一枚ずつめくっていく。
「六月二十五日⋯⋯。」
〝相変わらず彼女は頻繁に屋敷に来る。僕の部屋の窓を叩いて顔を出す。面白い子だけど、どうしてそんなに簡単に侵入出来るんだろう?〟
「七月十八日⋯⋯。」
〝どうやら彼女は屋敷の裏にある穴から入ってきているらしい。面白いし、しばらく父には黙っておこう。〟
「八月二十九日⋯⋯。」
〝彼女はうちに来るたびいつも色々な話をしてくれる。でも最近なんとなくそれだけでは物足りなくなって来た。僕は彼女に、君のことをもっと知りたいと言ってみた。彼女は顔を赤くして出て行ってしまった。どうしてだろうか。〟
「九月六日⋯⋯。」
〝あの日から彼女は自分の話を良くしてくれるようになった。自分は武器商人の家の生まれで店に立ち寄る冒険者から色々な話を聞いているらしい。〟
「十月二十日⋯⋯。」
〝最近父の様子がおかしい。旅先で手に入れたというあの剣を手にしてからどこか別人のような⋯⋯そんな感じだ。〟
「十二月九日⋯⋯。」
〝家の雰囲気が悪くなっても彼女は相変わらずうちに来る。彼女は相変わらず色々なことを知っている。流石は武器商人の娘といったところだ。〟
「一月⋯⋯二月⋯⋯三月⋯⋯そして四月。」
ペラペラとページをめくり続けると、その指は一つのページでピタリと止まる。
「四月十日。」
〝父が死んだ。旅先での事故らしい。原因はモンスターの襲撃。帰って来たのは数名の使用人のみだった。これからは私がこの家を、街を背負っていく。〟
「五月九日。」
〝領主の仕事は自分が思っていたよりも遥かに難しい。交易が全く上手くいかない。彼女も空気を読んでいるのか最近顔を見せなくなってしまった。ああ、会いたいな。〟
「六月三日。」
〝久しぶりに彼女が来た。と、思ったらしばらくここには来ないと言い始めた。このまま通い続ければ迷惑になると言っていた。僕は否定したが彼女の意思は固かった。〟
「⋯⋯⋯⋯六月七日。」
〝今日は彼女と出会って一年。今日は無理を言って彼女を家に招いた。僕は彼女に三年待って欲しいと言った。三年後、領主として一人前になった時、君を迎えに行くと約束した。彼女は快く受け入れてくれた。それでいい、それだけで私は役目を全う出来る。〟
「そして、七月——」
「——ロルフ様。」
そうして最後のページを開くと、ドアの向こうから透き通った高い声が聞こえる。
「パトリシア様が到着なさいました。」
直後に黒髪の女性がドアを開けるとを急かすようにそう言う。
「⋯⋯ああ、アリアか、今行くよ。」
ロルフは日記を閉じるとその女性に言われるがまま部屋の外へと向かう。
「⋯⋯⋯⋯。」
ロルフがいなくなると、アリアと呼ばれた女性は鍵の付いていない本にゆっくりと手を伸ばし、ペラペラとページを開き目を通す。
と、言っても見るのは一番最後のページ。日にちは二年前の七月十日。
〝縁談を持ちかけられた。相手はハサイの街のパトリシア様だ。受け入れればハサイの街との交易の幅が広がるだろう。街の発展の為に断る理由はない。許して欲しいレミラ、街の為に君との約束を破ることを。〟
「⋯⋯ロルフ様、貴方は自分を犠牲にし過ぎではありませんか⋯⋯⋯⋯?」
女性はそれを読み終えるとただただため息をついて悲しい視線をドアへと向ける。