小さき栄光の槍、再誕の大地、無垢なる勇者
どれくらいの時間戦っていただろうか。
息を切らせながら戦っていた俺は、あるときうまく着地できずに体勢を崩した。
本物と変わらないような柔らかい結晶製の草を倒しながら、緩やかな坂を勢いよく転がる。
動きが止まったところで片膝を付いて上体を起こすが、立ち上がることができない。
この世界で戦うことの消耗は、今までよりもずっと大きかった。
受ける傷自体はすぐ治るものの、そのたびに疲労が大きくなっていく。
刀を地に刺して力を込めるも、ただ腕が震えるばかりで、一向に立ち上がることができない。
シラキがこの世界で膝を突いているのも、当然の帰結だった。
ペレとレオノーラ、そしてメアリーがダンジョンへの侵攻を開始してからすでに数時間が経過。
その間常に本人が直接戦っていた訳ではないとしても、心は常に一定以上緊張しており、完全に休める時間は無い。
驚異的な戦闘力を見せつけるペレとレオノーラ、強力な人形の軍隊、極めつけに前提をひっくり返すほど強力なメアリーという隠し球。
そのままレオノーラとの戦闘に突入し、巨人化、最大戦力たるアテリトートとおそらくディレットの脱落。
シラキは疲弊していた。
命を賭けた戦いで、圧倒的不利な状況においてなお平気でいられる者は、非常に少ない。
その点シラキはそのような状況下において、平時とあまり変わらない精神を維持していた。
神の子でも吸血鬼の魔王でもエルダードラゴンでもない、元々ただの人間だったシラキがだ。
何も平気では無かったのである。
その心は平時のポテンシャルを発揮しながら、しかしその疲労は確実に蓄積していた。
今この瞬間立ち上がることができない事に関しては、シラキは決して悪くない。むしろ賞賛に値すると言えよう。
シラキの主力といえる仲間たち、その中で最も弱く、最も恐がりで、最も平凡な存在。
そんなシラキが、今まで平然と限界を飛び越えてきた。
圧倒的な敵を前に逃げず、あきらめず、何でも無いかのように行動した。
眷属達を危険にさらし、死なせ、自らもその役目に邁進した。
降りかかる死を躱し、そらし、弱音の一つも口にせずに立ち向かった。
全員で力を合わせ、ようやく倒したかと思った死神は、二人とも倒れていなかった。
それでも諦めず、未だ経験したこともないような状況にも臆さず、前のめりに立ち向かった。
そうしてたどり着いた結果が、これだった。
「ここまでのようだな」
その言葉を発したのは、戦闘開始以降自分からは一切口を開くことのなかった"滅亡の大地"。
目だけを動かして見てみれば、"滅亡の大地"がこちらに近寄ってきていた。
「助けてやろうか?」
驚き肩をふるわせるが、こちらは答える気力も無い。
「シラキよ。お前が望むなら、力をくれてやろう。それは死神にも匹敵する力だ。その力を使えば、眼前のレオノーラは愚か、外にいるペレ、メアリーまで倒すことも可能だろう」
顔も上げられずただ目だけで相手を見るが、見えるのは足くらいなもので、その表情をうかがうことはできない。
「力さえあれば簡単だ。お前が敵を倒してしまえば、神の子も眷属も全てを守ることができる」
"滅亡の大地"は言葉を続ける。
一方レオノーラはこのような事態が起こっているというのに、邪魔することもなくたたずんでいる。
「それ、で」
僅かに息が落ち着いてきて、それだけを声に出す。
対価は何だ。
これは死神のささやき、無償であるはずがない。
「対価は一つ、死後をもらう。お前は死後に死神として生き、生者の全てを抹殺するのだ」
聞いた瞬間、俺は目を見開いた。
立ち上がろうとすることをやめ、うつむいたまま体を丸くした。
それは、その代償は、俺には重すぎた。
世界中では今レオノーラの巨人達が暴れている事がガリオンから伝わっており、助けが来ることもない。
そもそも俺が積極的に誰かを助けてこなかった以上、俺が助けられることもない。
ミテュルシオン様は、当然手を出したりなんかしない。
あのひとは世界の調整者、立場上直接干渉してはこないし、しないと言っていた。
このままなら、俺はこの場で死ぬだろう。
外にいるルティナも、一人でペレに勝てるとは思えない。
残った眷属達、吸血鬼達は、メアリーの軍に殲滅されるだろう。
ダンジョンコアは破壊され、跡には何も残らない。
これはもはや覆ることのない未来。
そうだというのに、俺はイエスと言うことができなかった。
死神になると言うことが、俺にはどれほど苦しいか、到底想像できなかった。
俺の心は、冷静さや論理的な思考を忘れて、ぐるぐるとかき混ぜられているように感じた。
「できない。そんな苦行、俺には、選べない」
目に涙が滲んでくるのが分かった。
俺は、全員が助かるかもしれない道を、はっきりと拒絶したのだ。
彼が本当の事を言っている保証などないし、それを選んだからと言って本当に事態を収められるとも限らない。
しかし、この選択が正しいか正しくないかなんて、関係無かった。
ただ、涙を流すほどに、今の自分が情けなく、悔しかった。
今みんなを助けられたかもしれない未来を、自ら手放したのだから。
そしてそんな俺を見て、滅亡の大地が今までなかったような声を出す。
「人間というものは、つくづく理解できんな。今"ここ"にいるからこそ、俺にはよくわかる。
お前は今思ったはずだ、"神の子が、仲間達が、自分を助けるためにそんな選択をしたら、きっと凄く悲しいだろう"と
自分がいやだと思ったことは、他人にすることができない。そう思ったなら、何故そう言わない?お前には、勝利を望む自らのプライドより仲間を優先する強さがあった!
それができて、何故泣く?何故わざわざ自分を醜いものの様に言う!!?何故そんな情けない表情をしているんだ!!!」
"滅亡の大地"が、声を荒らげる。
俺に、俺が正しいとでも言いたいかのように。
俺は口元を歪めた。
彼の言葉は間違いでは無く、まるで自分の心を見透かされているような思いはあった。
俺達の誰かが、そんなものになってまで俺達を助けるくらいなら、全員仲良く心中するべきなんじゃないか?
それは優しくも独善的で、臆病ながらも他者を思いやる考え。
しかし、例えそのような思いが心にあっても、自分が我が身可愛さに提案を蹴ったことは、紛れもない事実だった。
うつむくシラキの、僅かに見える顔に映るのは、戦うときのはつらつとした心でも、強い意志でも無い。
その表情に、"滅亡の大地"が、怒りに顔を歪めた。
"滅亡の大地"は死神になる前、ただ戦いのみを求める一人の魔族であった。
より強い者と戦う為に力を欲し、その飽くなき戦いと闘争心が彼を強くした。
そんな彼は、多くの力ある者と戦ってきた。
それらには無数のタイプの強者がいたが、彼が認めるだけの存在と何人も出会ってきた。
そんな彼にとって、シラキは最後に出会った好敵手だった。
シラキが自分を終わらせるに足る者だと思ったからこそ、シラキにユニークスキルを手渡したのだ。
魂の残滓がユニークスキルとなり、シラキに移ってからも、それが変わることはなかった。
"滅亡の大地"にとって、シラキは力と意志と、勇気と優しさを持ち合わせた存在だった。
恐怖に立ち向かう、"人間"の強さと美しさ、それを体現する者の一人だった。
だからこそ、彼は怒っていた。
目の前のシラキの態度も、情けなさも到底受け入れられる物では無かったからだ。
「何故……!」
「それは、その人間がしっかりした想像力と言うものを持っているからだ」
そのとき、人とも魔物とも違う、不可思議な声が響き渡った。
高くも低くもなく、世界全体に響きながらも決してうるさくはない。
そんな声に"滅亡の大地"が、そしてレオノーラが顔を上げる。
オーロラのかかった夜空を泳ぐように存在したのは、余りにも巨大な龍。
「まさ、か……輪空神龍……!?」
体の全体像が見えないほどの巨体に、光を反射する緑色の鱗をもった龍。
三龍神が一人、その存在だけは知られつつも、亜人族では誰もその姿を見たことがないと言われる龍。
そこにいたのは紛れもない、輪空神龍、そのひとだった。
そして輪空神龍は、その巨体故に頭がどこにあるかも分からずも、関係ないとばかりにはっきりした声を放つ。
「"自分が嘘をつくことに耐えられないだろう"、そう思っている」
驚いていた"滅亡の大地"もすぐに落ち着き、何故龍神がここにいるのかなど気にすることもなく反論する。
「嘘?そんなはずはない。今やユニークスキルたる俺には分かる、確かにシラキは実際にそう思った!」
「しかし、誰かより保身を選ぶ思いも確かにあった。それを隠せる強さがないから、あえて自分を貶める」
その言葉に、"滅亡の大地"は口をつぐむ。
「それは間違いではない。ある意味では弱気であっても、自分を正しく理解する事は難しく、そして大きな価値がある。
自らの身の程をわきまえずに行動すれば、その綻びは自分自身に返ってくる。
…思いやりとは、想像力に起因するという。
誰かを傷付けるとき、それが"痛いだろうな""苦しいだろうな""自分だったら嫌だな"と。それが想像できる。だからこそ躊躇する。だからこそ恐怖する」
輪空神龍の言葉は端的で、しかしどこか優しさが感じられるものだった。
"滅亡の大地"は、先ほどまでの怒りがどこかに消えてしまったかのように、ただただ呆然と疑問だけを感じていた。
「理解できない。なんだそれは?そんな事に何の意味がある。それは弱さだ。そんなもの……」
「しかし、だからこそ彼はダンジョンマスターたり得た。相手を慮り、他者の立場になって考える。
自分がやられたら嫌なことは、できる限りやらないようにする。彼と彼の眷属はそれができ、だからこそ纏まっている」
それは人間関係の一つの理想形。
人間にとっては簡単なように見えて難しく、しかしあり得ないわけではないもの。
魔物にとっては間違いなくあり得ないと言い切れるような関係。
"滅亡の大地"が、再びいらだちを露わにする。
歯をむき出しにし、やり場のない怒りをぶつけるかのように地団駄を踏む。
そしてひとしきり地面を足で蹴りつけた後、ため息をつき、諦めたように口を開いた。
「俺には到底許容しがたい価値観だ。輪空神龍…いや、ヴェルトクライス。お前なら分かるのか」
「うん……良いんだ。あなたが彼に感じたことが嘘ではない。私が、それは保証するから」
輪空神龍が優しげな声でそう言い、それを最後に、沈黙が場を支配した。
レオノーラも、"滅亡の大地"も動かず、俺は何も考えずに、ただ地面を見つめていた。
そんな中、急に横から光が差し込んでくる。
そちらを見てみれば、そこには空中に浮かぶスクリーンの様な映像があり、そこには雲中庭園で戦う者達の様子が映し出されていた。
そこで戦っていたのは、このダンジョンの主要メンバー達だった。
ケントロ、グノーシャ、リース、カミドリ達、アルラウネ。
そして意識不明だったはずのライカと、負傷していたハースティまでもがそこにいた。
そして彼らが戦うのは、余裕の表情を崩さない死神、ペレ。
どれだけ戦った後なのだろう。
ペレの攻撃を一身に受けているルティナは、今まで見たことがないくらいにボロボロだった。
ジャケットの様な戦闘用衣装はそこら中が切れており、そこから出たであろう血で赤く染まっている。
俺はその姿に衝撃を受ける。
思えばルティナが怪我をして血を流している姿など、一度も見たことがなかった。
今までどんな敵が攻めてきても、終わってみればルティナは無傷であり、まるで彼女が怪我と言うものを知らない存在であるかのように思っていた。
それが今やひたすらペレの攻撃を受けるだけで、そうしながら体に傷を増やしていく。
しかし押されるままのルティナの表情には一点の曇りもなく、ただ何かを信じているかのようにまっすぐだ。
その姿に俺が見とれていると、もう一度輪空神龍の声が響く。
「シラキ。彼女は頑張っているよ。どれだけ不利な状況でも、勝ち目の見えない状況でも、必ず君が帰ってくると信じてる」
そう言う輪空神龍の声が、先ほどとは別物のように聞こえた。
スクリーンを見ながら、俺にはまるで、その声の主が、優しげで小さな少年の様に思われる。
そしてそれも一瞬、また一枚、ルティナが張った盾が破られた。
状況はどう見ても不利で、勝ち目などかけらも見いだせない。
そうでありながら、ルティナは屈せず、その目はペレを見続けている。
それは、まるで自分がなりたかった姿を映しているかのようで。
だからこそ、放っておけなかった。
「な……」
"滅亡の大地"が、驚きの声を漏らす。
「ね。だから言ったでしょう。嘘じゃないって」
俺は、いつの間にか立ち上がっていた。
そのことに、自分でも驚く。
さっきまで、どうしようもなくて泣いていたというのに。
「っ、レオノーラは!?」
ハッとなって剣を構える。
何故か全く攻撃してこなかったが、今はレオノーラとの戦いの途中だったはずだ。
そう思って残り十一体となっていたレオノーラを見るが、そのどれもが全く動く気配がない。
それどころか空中に浮いていた彼女達は全てが地面に足を付けており、うつむいてこちらを見てすらいない。
いや、一体だけがこちらをじっと見つめている。
「騎士レオノーラ、あなたの役目は終わった。主に尽くしたその姿は確かに我らの心に残る。そしてあなたの内なる願いは、強く芽吹くだろう」
輪空神龍がそう宣言すると、全てのレオノーラが白い煙の様になって消えていく。
最後に残っていた一体がその体を煙に変えながらも姿勢を正し、綺麗にお辞儀をした。
「どういう…?」
「限界だったのは、あなただけじゃない。死神の誘いを蹴った時点で、あなたは勝利していたんだ」
レオノーラは、この戦いでは八面六臂の大活躍を見せた。
ダンジョン内で人形軍を維持できていたのはひとえにレオノーラのおかげであり、その防御力故だ。
また第八階層での戦闘で十九体の体を失っていたレオノーラは、その時点で能力が激減。
すでに少なくない戦闘力を失った状態で、ペレとユニゾンするという条件がありながらも、巨人になり強大な力を発揮。
"オラルプリスの悪魔"は正しくレオノーラの切り札だったのだ。
その上巨人体でのダメージの多くをレオノーラが負担し、それが敗れた後もシラキとギリギリの死闘を繰り広げた。
実質、レオノーラは三度立ちふさがったと言える。
これだけの事を成すのはレオノーラにとって無茶そのものであり、ここでも限界ギリギリのところで戦い続けていたのだ。
「あなたは死神の誘いを蹴った。その事実はあなたを大きく成長させる。そしてレオノーラがいない今、あなたを縛る者はいない」
状況の変化に半ば放心していた俺は、その言葉に思い出す。
ここは"神の子達の庭"と似たような場所であり、そうであるなら、俺なら自分で帰れるはずだ。
その前に、俺は背筋を伸ばして頭を下げる。
「輪空神龍…といいましたか、ありがとうございました。私は行きます」
「いえいえ、いってらっしゃい」
俺は頭を下げた格好のまま、意識を自分の奥に向ける。
心が宙に浮くような感覚を感じながら、俺は目覚めるために目を閉じた。
シラキが消え、死神と龍神だけが残った世界。
"滅亡の大地"はうっすらと透明になっていく輪空神龍に問いかけた。
「ヴェルトクライス。シラキは限界ではなかったのか?それとも、お前が?」
「ううん、彼は確かに死を待つばかりであったし、僕が力を貸したのは、彼が立ち上がった後だよ。
人間は、小さな障害につまずいて情けない姿を見せたかと思えば、僕らが考える限界なんて、何でも無いかのように越えていくんだ」
答えた輪空神龍は、その声を完全に人の少年のものに変え、一人称まで変わっていた。
"滅亡の大地"は肩をすくめて元々座っていた結晶性の岩に腰掛ける。
「人間、というやつは」
"滅亡の大地"のその言葉を最後に、再び世界に静寂が満ち、輪空神龍は姿を消した。