花緑青の鎌風
私……澄香という人間の記憶は、山奥の家から始まる。
いつからそこにいたのかは知らないが、人里離れたその家では、四人の人間が一緒に住んでいた。
一人の老婆と、その老婆に育てられる三人の子ども。
三人に血のつながりはなかったが、実の兄妹のように育った。
老婆は魔法使いだった。
あるいは、錬金術師というのだろうか。
度々外出しては、薬草や魔物の素材を持ち帰り、すりつぶしたり鍋で混ぜ合わせたりしていた。
強力な魔法を操り、時には老婆の身長よりずっと大きな魔物の死体を運んできたこともあった。
そんな老婆と暮らす子供達の中で、一番上にいるのは、今は勇者と呼ばれる緑髪の少年、アディン。
魔法が好きで、暇を見つけては魔法の練習をしていた。
しかし老婆は少年には魔法よりも剣を教えていた。
老婆にとってその強大な魔法に比べれば、圧倒的に稚拙である純粋な剣術を、どういうわけか魔法よりも扱わせた。
一番下にいるのが、獣の耳を生やした少女、シクロ。
獣耳こそ生えているが獣人というわけではないらしく、その他は人と同じ体をしていた。
というか当時の私は耳が違うだけで、シクロが同じ人間だと思っていたから、むしろ獣人を知ったときに驚いたのだけれど。
シクロは身体能力が自分やアディンよりもずっと高く、五感も優れていた。
当時は感情というものがないのかと言うほど無表情で、ボーッとしたまま虫や草花を眺めている姿をよく見かけた。
老婆が教えていたのは、気配を絶つ方法やその系統の魔法、立ち回りなど。
元々魔法使いとしての素養は薄かったようで、本人もやる気があるのかないのか分からなかった。
そして真ん中にいたのが私、澄香だ。
当時の私は、今ほど無愛想ではなかったように思う。
今より笑ったり話したりしていたし、三人で遊ぶのも楽しかった。
私が使わされたのはやっぱり剣だったけれど、扱いの難しいとされる風魔法が使えるのは、老婆に教わったおかげだ。
老婆は魔法使いであり、闘気のことなど気にもとめないような人物であったのにもかかわらず、まともに魔法を教わっていたのは、私だけだったように思う。
それが何故なのかは分からないが、結果的にそれが正しい判断だったのだと後から気付いた。
そんな風に暮らしていた当時、理由は分からないが、ある日老婆は私たちの前から姿を消した。
老婆に育てられていた私たちは、自分たちで生きていくしかなく、それ以降冒険者として生活することになった。
幸い私たちは三人とも、年齢に似合わない戦闘能力を持っていたため、冒険者としてもある程度はやっていけた。
魔法を好み、魔法使いの老婆に剣を使わされたアディン。
彼はピンチになると、決まって驚くほどの強さを発揮する。
剣を使い、強さも雰囲気も、まるで人が変わったように戦う。
鬼神の様な強さを見せる彼は、ある事件をきっかけに勇者と呼ばれる様になり、以降町やギルドと接触する機会が増えていった。
冒険者を始めてからは急速に、精神的に大人になり、今や冒険者ギルドの顔とも呼べる存在になった。
高い身体能力を持つシクロは、シーフとしては非常に優秀で、すぐに一人前の能力を示した。
"フース"という冒険者パーティーと知り合ってからは精神的にも成長して、表情も多少は豊かになった。
今は新進気鋭な冒険者パーティー(フース)の優秀なシーフとして注目されている。
そして私はと言えば、二人と分かれ、一人で"巫女"の使命を全うしていた。
"巫女"と呼ばれる者には全員、同じ内容の使命が存在しており、それを私は老婆に教えられていた。
その使命の内容とは、"アビスの鍵"の封印と、"黒炎石"の破壊の二つ。
"アビスの鍵"とは、世界のどこかに存在しているという冥界とつながる門、"アビスの門"を開くための鍵だ。
各地のダンジョンに点在している"アビスの鍵"を、"世界樹"にて封印する事により、"アビスの門"の解錠を阻止する。
もし"アビスの門"が開くようなことがあれば、それは世界の終わりを意味するのだ。
一方"黒炎石"とは自然発生する強力な怪物の核になる物で、破壊には非常に難しい専用の魔法が必要になる。
しかし"巫女"はそれだけで"黒炎石"を破壊できるという、希有な存在なのである。
怪物はそれ単体で国を一つ滅ぼしかねないほどに強力で、しかも"黒炎石"がある限り、時間経過で復活してしまう。
それらを回避するために、どの時代においても、常に数人から十数人の巫女がその使命を果たしていた。
私は、ただひたすらに使命に邁進した。
世界各地を回りダンジョンに挑む私には固定のパーティーはなく、旅先で臨時のパーティーを組むことがあっても、それは一時的なものに過ぎない。
故に、私は一人であった。
風の噂に聞くことはあっても、家族であったアディンやシクロと再会することもなかった。
頼れる仲間も親族もおらず、一つの場所に長くとどまることもなく、一人転々とし続ける生活。
そんな生き方を数年間続け、そしてそれを、何とも思っていなかった。
それこそが私の生きる意味だと思っていたからだ。
……煉獄に来るまでは。
元々短期決戦を得意とし、素早く敵を倒すことで戦闘時間を短くする戦い方をしていた私。
そんな持久力に劣る私は、際限なく襲い来る敵に押しつぶされた。
煉獄に送られて、最初は何とも思っていなかった。
普段から一人で過ごしているし、一人で戦うのもいつものことだった。
それが変わったのは、煉獄に送られて三日目、私が死亡してそして目覚めたときだ。
突然のことだった。
一人でいることが、恐ろしくなったのは。
足が、震えるようになった。
一人でいることに寂しさや、ましてや恐怖など感じたことのなかった私が、ただ怯えた。
周りに親しい人も頼れる人もいないことが、どうしようもなく怖かった。
耐えられないほどに、寂しかった。
恐怖に駆られた私は普段通りに戦うこともできず、何度も殺された。
最初こそ二日間生きられていたが、どんどん生きていられる時間が減っていき、最後は一日生き延びることもできなかった。
戦うほどに、殺されるほどに私は追い詰められていき、最後には錯乱した。
牛頭の化け物との戦いでは、自分でもどうやって戦ったのか分からない。
あの時の私は、もう一人ではどうしようもないほどに壊れていた。
もしあの場で殺されていたならば、ケントニスの言うとおり、私は真実の死を迎えていただろう。
煉獄というこの世界において、諦めたものは、この場所に負けたものは、決められた復活を遂げることもない。
そして、私は救われた。
強く、そして朗らかに生きる青年に。
シラキは、不思議な人間だった。
穏やかで優しく、そして強くありながらも頑なでない。
何よりも不思議だったのは、心にまるで壁を感じないことだ。
彼はどうしようもないほどに明け透けで、そして親しみと守ろうという意志を感じさせた。
こんな事は初めて、いやアディンやシクロと暮らしていた時以来であった。
もう一つ、彼は一緒にいて、自分自身と向き合わされる人だった。
シラキから感じられる思いが、私自身の思いを、否応なく考えさせるのだ。
シラキに向かって私は、ずいぶんとまとまりのないことを口走ったことだろう。
出会って数日は、シラキから片時も離れることができなかったし、もし離ればなれになったなら、自分は狂ってしまうだろうとすら思えた。
それほどにシラキを求め、そして一人を恐れていた。
思えば私は、最初から寂しかったのだと思う。
老婆は私を育てはしたものの、最後までその愛を感じることはなかった。
兄妹達との間には確かに存在していた親愛が、育ての親との間にはなかったのだ。
それぞれに自分の道を歩み出した兄妹達を見たとき、巫女としての使命に走ったのは、きっとその寂しさを紛らわせたかったからだ。
かしこくもなければ大人でもない私は、彼らについて行くこともできなかった。
しかしその結果、更に自分を一人にしてしまっていた。
しかもそのことに今まで全く気付いていたなかったのだから、もはや滑稽と言うほか無い。
私は間違いなくシラキに依存してしまっているが、それを悪いことだとは思っていない。
シラキを見ていて、そう感じるようになった。
私が老婆に求め、そして終ぞ得られることのなかったものが、シラキにはあるからだ。
それを、心から感じることができた。
自分の内より沸き上がる感情が何であるか、自分でも分からない。
今まで感じたことのなかったそれは、父に向けるものであろうか、異性に向けるものであろうか。
どちらでも構わない。
なぜなら、私がシラキを好きになったことに変わりはないからだ。
そして、私はもう、生きることが怖くないからだ。
もうダメかと思われた瞬間、横から鋭い剣線が俺を救った。
エメラルド製の刀"緑風"を手にした澄香が、マントと共にその黒髪をなびかせながら、シラキとサソリとの間に立ちはだかった。
「澄香!」
俺は目の前に飛び込んできた少女の名前を口にする。
呼ばれた澄香はこちらを振り返ることなく、サソリに剣を向けたまま答える。
「見てて、すぐ終わらせる」
そう言った瞬間、澄香が飛び出した。
風のように素早く動き、女性形との距離を一瞬で詰め、そのまま突きを繰り出す。
女性形の方は、その巨大で丈夫な獣の頭を目の前に出し、防御の構えを取る。
しかし澄香は突き出された右腕(獣)の目前で刀をピタリと止め、しかし体は動きを止めることなく女性形の右手に回る。
女性形はすぐさま裏拳気味に腕を薙ぐが、小柄な澄香が更に身をかがめてこれを回避する。
そのまま今度こそ澄香が突きを放ち、女性形は左手で無理矢理防御…と思ったらこれもフェイント。
くるりと回った澄香が、完全に手玉に取られた女性形を、脇腹から真っ二つに両断した。
シラキからして見れば、圧巻の一言である。
手こずって仕方がなかった女性形を、始まってすぐ、一瞬とも言える様な時間で倒してしまった。
俺は互いに手の届くような距離で、自分を掴むだけで殺せるような敵を相手に、あんな動きをすることなどできない。
あれほど機敏には動けないし、澄香と比べれば体も大きいし、何より怖い。
そう、怖いのだ。
シラキはそれ故に近接戦に弱く、そして澄香は強かった。
澄香は女性形を切り捨てた後、一度距離を取ることもせずに、そのまま風のようにサソリに突っ込んでいく。
繰り出された巨大なハサミを避け……そのまま腕の付け根、関節の部分に刀を突き刺す。
全身を硬い外殻に覆われた巨大サソリの、弱点とも言えない様な僅かな隙。
澄香はそこを的確に、そして無造作に突いて見せた。
「ハァアアッ!!」
澄香が短い気合いの声を上げると共に、サソリの体、その関節部分からブシュッと大量の血が噴き出した。
おそらく刀を通して、相手の体内に向かって何らかの技を発動したのだろう。
澄香が刀を引き抜くと、ドスンと言う重々しい音と共に、サソリがその体を地面に落とす。
一瞬の出来事だった。
まさに鎧袖一触。
狭き門、世に百人いるかいないかというAランク冒険者の一人。
本気を出した……というか、本領を発揮した澄香がこれほどだとは。
「お待たせ」
帰ってきた澄香が、笑顔でそう言う。
俺はそれを見て、呆けていた顔をすぐに戻した。
「澄香……助かった。ありがとな」
こういう時、あんまり情けない姿を見せたくない。
助けてもらったなら、親しき仲であろうと、ちゃんと感謝を伝えるものだ。
それに元々、戦えば澄香が俺よりずっと強いことは分かっていた。
ただ想像していたよりもずっと強烈だっただけで。
俺の言葉に澄香が顔を赤くする。
何を言ったら良いのか迷ったのか、何度か口をパクパクとした後、コホンと一つ咳払いしていった。
「無事で良かったわ!」
そう言った澄香は、子どもらしくと言うべきか、俺が無事だったことを純粋に喜んでくれていた。
雷雲山
エルダン大洞窟
雷の龍神の住処。
険しい山々の中でも、一際高い山の上。
正常な存在であれば、まず近づくことのない領域。
エルダン大洞窟の中、四方を明るい氷で覆われた空間で、二つの存在が話していた。
「"ミテュルシオンの歓声"に"ルテイエンクゥルヌの祝呪"?……神というのは、この世で最も自分勝手な存在のことを指すんですか?」
どこか不機嫌な様子でそう言ったのは、黒い翼を持った金髪の美しい女性。
肩を露出した白いドレスを着ており、大きな漆黒の翼とのコントラストがよく映える。
世界で唯一の"元天使であった堕天使"、"暁を背負う黒翼"ルクシオーヌス=ルードアだ。
黒銀のなめらかな岩の上に腰を下ろしているが、その周囲は光の縄のようなものが何十にも巻かれている。
「そう言うな。彼の二人はまさしく慈愛と良識を持つ神だ」
そう答えたのは、巨大な金色のドラゴン。
そこにいるだけで押しつぶすほどの強大な存在感を放つ、地上において最も力を持つ者の一人。
三龍神が一柱、雷を司るドラゴン、雷煌竜王ウィメイン=ルーフェロードだ。
「何が慈愛と良識ですか!片や精神崩壊爆弾を設置し、片やその周りに火薬を積み上げているではありませんか!若く純粋な少年に対してこの仕打ち、前回と何も変わっていません!」
近くに横たわる雷煌竜王をキッとにらみ、彼女はそう怒りの声を上げる。
しかしその怒気とは裏腹に、内容は他者に対して優しいものだ。
「ウィルは何とも思わないのですか!まさか、人をつぶす様な試練を課すことが、上位存在として当然のことであると思っているのではありませんね!?」
「落ち着け、ルルー。熱くなりすぎだ」
二人は互いを愛称で呼ぶ。
堕天使と龍神という特殊な間柄のはずの二人だが、その関係は親しいものであった。
息巻いていたルクシオーヌスが少し時間を空け、気を落ち着けてから話を再開する。
「それで……あなたがそんなに落ち着いていると言うことは、少なからず信用に値する…ということですか?」
「ああ、そうだな。シラキは他者を大切にしながらも、自らをないがしろにしない男だ。そう簡単に自らを捨てたりはしない」
「では、なおさら本人が知らぬままではいけないでしょう。知っていなければ回避のしようもありません」
この場にいる二人の内の片方が、攻撃的ではなくとも、怒りを露わにしながら会話する。
その内容は、シラキと一部の神々の事であった。
「うむ。しかし、その事は彼女達も分かっているはずだ。にもかかわらず放置している」
「本当にあの二人が畜生でQEDじゃ…」
いつもと変わらない様子のウィメインに、嫌悪感を露わにしているルクシオーヌス。
そんな二人の元に、静かに歩いてくる存在がいた。
「少なくとも、ルティナは人としてシラキを愛している様ですよ」
優しげな声でそう声を掛けたのは、ウィメインと同じ龍神。
流れる水のような青い髪、整った顔立ち、ふっくらとした女性らしい体型。
誰もが振り返るような美を持ちながら、それがすぐ目の前にあったとしても、ほとんどの生物は認識することすらできない存在。
人の姿をして、現世に降り立った数少ない神の一人、水竜姫セレナだ。
「セレナ……では、高位存在特有の一方的な執着ではないと?」
「ええ。相変わらず、嫌いなんですね。今となっても変わらず、地上を見守る立場にいるあなたが」
「当然よ。あいつらは試練という名目で平然と人を踏みつぶし、愛を口にしながら嬉々として人を壊す災厄。しかもそれで悪気がないからたちが悪い」
「ウィルは言うまでも無く、私も今やその高位存在ですよ?」
変わらずヘイトを向け続けるルクシオーヌスに対し、セレナがどこか悪戯っぽい表情で返す。
この場にいるのは三者とも、主神ミテュルシオンに近しい存在、すなわち世界でも有数の上位存在である。
光に縛られ、この場を動くことのできないルクシオーヌスは、自らに近しい者達に嫌悪感を向けているのだ。
「同じなものですか、あなたたちがそんな存在でないことは分かっています。しかも、今なお囚われ続けている。あなたたちも、エガロウも、ペレも、レオノーラも……レイジも」
ルクシオーヌスの声が沈み、怒気が薄れる。
自身を取り囲む光の縄に手を乗せて、愁いを帯びた表情のままに押し黙った。
そのまましばらくの沈黙の後、セレナがゆっくりと口を開く。
「"滅亡の大地"は終わりました。あなたが解放される日が、近くに迫っているのかもしれませんね」
ルクシオーヌスを取り囲む縄は、ただそこにあるだけでなく、中にいる者を決して出さない牢獄。
両側からの干渉を完全にはねのけるそれは、龍神や神の子であっても解除することは叶わない。
ただ一つの条件を除いては。
「元々の所有者以外で、"運命の欠片"のマイナスナンバーを二つ以上持つこと……彼らが囚われたままなのも、誰かが私を解放するのも。私は、どっちも嫌です」
特別になった堕天使は、ため息を飲み込むようにそう言った。