教授と院生と改札機
『教授、教授!』
『どうしたんだい? 院生君。そんなに慌てて。』
『今日、とても腹立たしいことがありました。』
『ほう。いつも呑気な君が腹を立てたのか。
珍しいのう。』
教授は手に持っていた湯呑を机に置いて、ニコリとして言いました。
院生君も笑いながら答えました。
『いつも呑気なばかりじゃありませんよ。僕だって。
教授、何があったか聞きたいですか。』
『まあくだらないことだろうが、暇だし聞いてみようかの。』
暇だったら研究を進めれば良いのですがね。
この教室では、お茶の葉の消費量とおしゃべりの時間だけが進んでいくようです。
『実は先日、熊谷駅の改札を通ったときのお話なのですが...』
院生君の話によると、彼の前にいた男性が Suica で改札を通る時、どうやらチャージが足りなかったらしく、ゲートのバーが飛び出したそうです。
しかしその当の本人はさっさと中に入ってしまい、次にいた院生君がバーで足止めをくらい、取り残されてしまったとのことでした。
キンコ~ン、キンコ~ンとけたたましく鳴る改札機。
『改札機はどうしても僕を通したくないみたいで、Suicaでいくらバシバシタッチしても開かないんですよ。僕が悪いわけじゃないのに...
僕の後ろにいた若い女性はすごい嫌な顔をして睨んでくるし、最悪でしたよ...』
切なそうな顔をして、院生君は開いていたノートをゆっくり閉じました。
『うむ。それはきつかったのう。さぞかしつらかったろう...
しかしよくあることじゃ。わしもそんな経験あるしな。
よし!!対策を練ろうか!!』
『いえ!別に必要ありませんから!!
きつくなかったし、つらくなかったですよ!!』
『そう言うな。さっそく取り掛かるから、院生君は帰りなさい!!
じゃ!』
『帰れって...まだ午後3時ですよ。真昼間じゃありませんか...
帰れないですって...あ~あ...
行っちゃった...』
院生君がぶつぶつ言っている間に、教授は研究室に消えていきました。
1人取り残された院生君は、仕方がないので手元にあった資料を読み始めました。
『ふわーー...』
大きなあくびをした院生君。
だいぶ薄暗くなってまいりました。
いつの間にか、時計が午後6時を指しています。
その時、研究室のドアがゆっくりと開きました。
『おや、院生君。まだおったのか。』
『教授、さすがにあの時間には帰れませんでしたよ...』
『院生君は真面目じゃのう。』
『いえ...褒められたことじゃないんですが...』
『とりあえずこれを見なさい!!』
サッと研究室内を指さす教授。
そこにはJRの駅によくある自動改札の機械がありました。
何の変哲もない改札機です。
しげしげと眺める院生君。
『...これが一体なんなんですか?教授?』
『わしの開発した自動改札機 God Left Shin-Ski じゃ!』
『ゴッドレフト シン・スキー?』
『そう。God Left Shin-Ski じゃ。』
『で、これが何か?』
院生君はちょっと興味を持ったのか、スタスタと近づいていきます。
『あっ!!危ない!!Suicaも持たずに近寄ってはいけない!!』
教授は血相を変えて、院生君の腕を強く引きました。
『あいたたた!
教授!!痛いですって!!』
『ああ、すまんすまん。
あまりにも院生君が無頓着に近づいていくもんじゃから...』
『そんなに危険なんですか?
一体どんな改札機なんですか?』
『よくぞ聞いてくれた!
この改札機は、あの山中慎介選手がモチーフなんじゃよ!』
『えっ?あのボクシングの山中慎介選手ですか?』
『そうじゃ!あの「神の左」山中選手じゃ!』
『...あ..そうですか...
で、どの辺が山中選手なのですか?』
教授は自慢そうに改札機を擦りながら言いました。
『チャージが足りない Suica でタッチしたり、期限の切れた定期をかざした時、バーが飛び出して足止めを食わすじゃろ。
通常の改札機はそれで終わりじゃ。
しかしこの God Left Shin-Ski は、バーで止まらずに強行的に突破しようとすると「神の左」が繰り出される。
背の高い相手に対してはボディを打ち抜く。
ちなみに16オンスのグローブを使用しておるよ。
悪質な無賃乗車を繰り返す奴のテンプルには、10オンスのグローブが唸りをあげるぞ。
そのKO率は半端ない!限りなく100%じゃよ!』
『なんて乱暴な...
仮によけたらどうなるんですか?』
院生君が素朴な質問をしました。それを聞いた教授の眼鏡の奥がキラリと光りました。
『よけられればの話じゃがね...
しかしよけられるかな?
院生君!
試してみるが良い!!
ここにチャージしていない Suica がある。
これを持ちなさい!!
かざしてみなさい!
さあ!さっさとかざすんじゃ!
そして強行突破するが良い!!』
強引に Suica を持たせようとする教授。
『さっき危ないって言ったじゃないですか!
イヤですよ!絶対イヤですからね!
教授がかざせばいいじゃないですか!』
『なにを!この院生が!院生のくせに!!』
またしても揉める2人。
取っ組み合いが始まりました。本当に醜い争いです。
その時ドアがノックされ、1人の肥えた学生が入ってきました。
『こんばんは!
...って、2人とも何してるんですか?
ケンカですか?いい大人がみっともないですよ!!』
『このこの!!この院生め!!』
『何ですと!!このご老体!!ご老体!!』
『2人ともやめてくださいよ!!』
はっと我に返る教授と院生君。
目の前には太っちょが震えています。
その「おでぶさん」は屯島君でした。
『ああ...はあ、はあ...
なんだ屯島君か...
すまないね。ちょっとじーさんと意見が合わなくてね...はあはあ...』
『そうなんじゃ。屯島君。
院生のくせに生意気を言うんじゃよ...はあはあ...
で、君はどうしたんじゃ?何か用事があるんかいな?』
フラフラと立ち上がる2人。すでに12ラウンド戦い抜いたボクサーのように、教授と院生君はそばにあったパイプイスに倒れこむように座りました。
『いえ。ちょっと暇だったんで教室を覗きに来ました。
この時期、教授と院生さんは忙しいみたいだから、何かお手伝いできるかなと。』
教授と院生君はニヤリと笑い、お互い目配せをしました。
しかし、屯島君はそのことに気づきませんでした。
『そうか!そうか!
聞いたか?院生君!!
こんな時に良いカモ...いや能天気な豚、いやいや絶好の人物が来たのう!
飛んで火にいる夏の豚...いや、飛んだタイミングに来た最高の人物じゃ!!』
『そうですね!教授!!
カモがネギ背負って...いや豚がタマネギ背負って、いやいや素晴らしい人物が任務を背負ってやって来ましたね!
やったね!!屯島君!!』
『えへへ!そんなに褒めないでくださいよ!
それほどでも...』
嬉しそうな屯島君。自分が何を言われているかわかっていない様子です。
『で、僕は何をしたら良いのですか?』
『簡単なことじゃ。
この Suica を、あの改札機にタッチして欲しいんじゃ。』
『それだけで良いんですか?』
『よっ!屯島君!頼んだよ!!』
『はい!!院生さん!!』
『これがうまく行ったら、屯島君にカレー3Kg挑戦させてあげよう!
良いかね?屯島君!』
『やった!
教授ありがとうございます!!
実はお腹ペコペコで...』
『ふっ...呑気な豚め...
無事に生還できたらの話じゃがな...
10カウントを聞いて、タンカで運ばれるのがオチじゃがね...』
『えっ?何かおっしゃいました?教授?』
『いやいや!こっちの話じゃ!
思い切り打ち抜かれ、いや食べ抜いてくれ!』
『はい!!』
何かのドラマで見たのでしょうか。
豚野郎は格好つけて右の親指をグイッと突き出し、ありったけの笑顔を2人に向けました。
その飛びっきりの憎たらしさに、教授と院生君は怒りを露わにするところでしたが、カモが逃げていっては困るので、グッと我慢しております。
改札機に颯爽と歩いていく屯島君。
教授と院生君は、「神の左」が豚野郎を打ち抜く瞬間を、今か今かと待ちながら、彼の後姿を見ております。
ついに屯島君の Suica が改札機に触れました。
キンコーン キンコーン!
けたたましくなる警報。
そして太っちょの足がバーにまさに触れようとした瞬間、屯島君は立ち止まってしまいました。
『何をしておるんじゃ!さっさと強行突破したまえ!!』
『でも、チャージしないと無賃乗車になってしまいますよ...』
『屯島君のバカ!!突破するんだよ!突破してよ!!
突破してったら!お願いだから...』
『でも、僕にはできないよ...
法律違反なんかしたくないよ。』
『ええい!!うっとうしい!!
院生君一緒に来なさい!!
屯島君にお手本を見せてやろう!!』
『えっ?教授?...』
キョトンとしている院生君の腕を強引に引き、教授は前に立ちはだかるバーを蹴り、院生君もろとも突破を図ったのでした。
不気味な警告音が唸り、実験室が小刻みに揺れ始めました。
『この屯島が!呑気に太ってる場合じゃないぞ!
こうやるんじゃ!!わかったか!?これがお手本じゃ!
なあ、院生君!』
『教授!!強行突破してしまったのは僕たちですよ!!』
『ん?
うわー!!しまった!!
おのれ屯島!!図ったな~!!』
改札機の上に設置されていた赤ランプが大きな音を立てて点滅を始め、両脇に設けられていたスピーカーから大きな山中コールが起こりました。
『や~ま~なか!!や~ま~なか!!』
カチカチ!!
そして残り10秒を告げる、拍子木の乾いた音が響きわたりました。
『もう...』
オフコースの「さよなら」の一節が流れるや否や、改札機はすっくと立ち上がり、教授と院生君の前でファイティングポーズを取ったのでした。
その美しい立ち姿は、まさにリング上の山中選手そのもので、とても神々しいものでした。
『待て、待つんじゃ!!
話せばわかる!!』
『教授!逃げましょう!!
あの黒いグローブ、6オンスですよ!
今じゃ誰も使用しませんよ!あんなグローブ!!
顎が砕けてしまいますよ!』
2人は改札機に背を向け、一斉に走り出しました。
しかし God Left Shin-Ski は猫のように体を翻し、素早い動きで2人の目の前に先回りしました。
慌てふためいた教授と院生君は、逃げ場を探して辺りを見渡しましたが、いつの間にか四方はロープで囲まれ、ご丁寧に足元は白いマットに変わっています。
『ええい!!ままよ!!動きを封じねば!』
教授が捨て身でクリンチに行きました。
シュッ!! ごふ!!
風を切る音が聞こえたかと思うと、教授は白いマットの上に崩れ落ちていました。
「神の左」が教授の右頬を、カウンターでしっかりと捉えたのです。
マットに大の字に伸びる教授。その横には血で赤く染まったマウスピースが転がっております。
『ひゃーーー...』
院生君は震えあがりました。
素早いステップで攻めてくる God Left Shin-Ski 。
とうとう院生君はコーナーに追い詰められてしまいました。
ボスッ! げふ!
ボディブローが院生君のレバーに突き刺さり、胃液を吐き出す院生君。
不自然に折れ曲がった院生君の体は、そのままスローモーションのようにマットに沈んでいきました。
カンカンカンカン!!
無情にもゴングが鳴り響いております。
マットの上でピクリとも動かない2人は、意識を失ったまま10カウントを聞いたのでありました。
わずか16.5秒の出来事でした。
God Left Shin-Ski は両手を上げ、呆気にとられている屯島君に向かって大きく振り、ゆっくりと元の改札機へと形を変えていきました。
周囲は静まり返り、先ほどまでのあの殺伐とした雰囲気は一掃され、いつもののどかな研究室へと戻ったのでした。
『やはり無賃乗車はいけないんだね...
決められたことは守らないと、痛い目にあうんだね...』
タンカで運ばれていく教授と院生君を見て、改めて法律を守ることの大切さを感じた屯島君でした。
【今回出てきた発明品】
新型改札機 God Left Shin-Ski
言わずと知れた、天才ボクサー山中慎介選手をモチーフとしている。
チャージの足りない Suica や PASMO などでタッチされるとバーが飛び出すところまでは、何の変哲もないJRの自動改札機である。
バーの制止で立ち止まればその場は丸く収まるのだが、無視して改札を抜けようとすると、改札機 God Left Shin-Ski は、瞬時にその姿を山中慎介選手に変化させる。
オフコースの「さよなら」の一節である『もう...』が聞こえた時には、四角いリングと白いマットが無賃乗車の犯人を取り囲んでいて、本当に「もう、終わりだね」状態になっている。
立ち姿は大変美しく、繰り出される左ストレートは「神の左」と言われている。
KO率は限りなく100%に近く、逃げ切ったものは皆無である。
使用するグローブは16オンス、10オンスの2種類なのだが、今回はターゲットが2人だったためか、通常使われない6オンスグローブが適用された。
この改札機がどんどん普及されて、社会から「悪」がなくなるのが切なる願いである。