11月9日まで
腐った魚のような臭いがする。新太は一人、排水口を覗きながら、手を突っ込むのをためらっていた。だが、後ろでは容赦のない視線が責めるでもなく、愛おしむでもく、無表情に背中に突き刺さってくる。「もういいだろう」と何度新太は言いたかっただろう。だが、もう一人の人間はそれを決して許さないことはわかっていた。それはちょうど、目の前に餌があるのを決して逃さない野生とでもいうべき、本能だった。野生動物のような長い髪をした女は弥生といった。本名は立花皐月というのだが、彼女は最初から新太のことを見こんだわけではない。まず求めたのは新太の方だった。二人に肉体関係はない。従って、ごく当たり前の恋愛関係は一切存在しない。では、何があるのか?二人の間に横たわるのはクトゥルフ神話のような異形の不気味な神々だったかもしれない。ただ、二人のどちらも気づいていない。人間如きには気づかせないとでも言うべく、二人は運命に絡め取られていた。新太の手は再び排水口に入っていく。ヌメヌメとした感触が身体中の毛を逆立てる。悪臭のする場所に自らの大切な体を突入させる心境を誰が知るだろうか。見ている人間は気楽だと思う。だが、弥生の目は爛々と輝き、新太の無私の奉公の一片さえも見逃すまいというふうに、新太の背中をとらえて離さない。少しずつ場に和やかな空気が流れていった。新太は肩の近くまでを汚れた穴に入れて、二、三度探るように腕の先を動かすように、体をひねると、今度は一気に手を水の出口から引きぬいた。「わあ」と弥生が声をあげた。それは、未知の大陸の伝説の生物の鳴き声を思い起こさせる。それ程、怪異な声だったが、新太は平然と弥生に笑顔を見せる。そして、手には汚れた貴金属が光っていた。その光りの反射は本当にわずかだったが、二人が勝ち得た最初の戦利品を誇らしげに二人は見た。そして、お互いの目を脳まで見通すかと思うくらい深く見ると、やがて、貴金属を新太は洗い出す。どうしても、新太にとって、失くしてはならないものが戻ってきた。心境としては、ほっとした気持ちだった。時たま訪れる誘惑の声。「こんな女なんか捨ててしまえ」という声に抗う男を思い出した。それが、自分のことだとわかると、おかしくなって頭の中、ひとしきり笑った。ただ、弥生に見えているのは、いつもと変わらず、優しく見つめている新太の顔だった。洗い終わった貴金属の全貌が明らかになると、弥生は急に、新太の手のひらの上に乗るものから、目を背けた。リングだった。それは、銀でできた、かなり高級そうな指輪で、女性ならば欲しいと思うに違いない代物だった。それにも関わらず弥生は興味を失ったように、そっと窓に向かって歩いて行った。新太は洗ったことを後悔した。もし、この指輪を綺麗に清めなければ、弥生は振り向いたかもしれないのに。だが、全ては遅かった。再び、二人の間に穏やかな時は流れない。もう今日は弥生が憎む人間と同じようにしか新太を扱わないだろう。弥生のことを皐月と呼ぶ人間と同じようにしか。新太は思った。「月のように全ての物が汚れなければいいのに」
でも、時は始まってしまった。必ず一生に一度は起こる生誕の悲劇を今まさに二人は一身に背負っていた。世界の生まれたことを呪詛する人間たちの怨嗟の念を受け止めていた。それが、唯一、二人の役割だったし、もう、この先もこれ以上の役割はないだろう。新太はせめて弥生はこの呪縛から解放されて欲しいと思った。だが、弥生は頑なだった。何故か考える時、新太は疑念と幸福感に苛まれる。もしかして、髑髏のことが弥生は好きなのか?たまにやって来る、名もない青年。弥生は彼を面白がって、青年Sと呼んでいた。一度新太は弥生に何故Sか聞いてみたことがある。弥生は普段ならば、そんな質問など一刀両断で切り捨てただろう。しかし、その時、彼女は松阪牛のように極上の気分だったに違いない。答えて、こう言った。「しらばっくれ野郎のSだよ」髑髏がシラバックレル?髑髏は至って普通で二人とは異次元に住む存在ではなかったか。ただ、二人と接点のある髑髏は決してやってくるのをやめようとしない。それは、弥生にとって髑髏が、一種の実験動物だったのかもしれないのだが。同時に恐ろしい疑惑を新太は持っていた。弥生はもし、髑髏に皐月と呼ばれたら、最初に新太がそう呼んだ時に、包丁を抜いて、むかってきたようにするだろうか。是非そうして欲しいと思った。同時に、新太が髑髏と同列に扱われていることに幻滅するだろうなと考えた。それはちょうど弥生が昨日見た夢に似ているのだろう。弥生はとても広い海岸にいた。三六〇度海岸という信じられない場所である。陸地は全部砂浜で、髑髏と鬼に抱かれている弥生の姿は島の中央にある。そして、鬼と髑髏は決して動かない。それぞれが、それぞれに最も素晴らしい形をとって、弥生を抱いている。「既に、悪魔の賽が投げられている」と天空で声がした。確かにそうかもしれない。弥生は二人の男のことを思う時、いつも愉快さと、耳の穴に細い針金を通した時のような痛みに襲われる。たぶん、鬼は新太で、髑髏は青年Sなんだろう。だって、彼の名前は髑髏なのだ。終末と同様に週末もいつか訪れる。新太と弥生が仕事に精を出す間、髑髏は外にいた。外の男と内の男。外の男には頼もしさと世界の案内役を。そして、内の男には庇護と世界の看守を。約束したものはまだ来ない。そのことに弥生は焦りを募らせる。二人の関係の破綻の兆候は徐々に見え始めていた。弥生は外に出なければならなかったし、新太は弥生が外に出ていくことを許すという残酷な決断をしなければならない時刻が近づいていた。それは日本の電車のように正確ではなく、タイの地方鉄道のようにアクシデント含みの遅れを伴ってはいたが、それでも電車はいつかはやってくるのだ。
ある日、轟々と音を立てて、青年Sという列車がやって来た。既に、百度目の訪問だった。新太はその日、眠についていた。死ぬことはないから、寝なさいと弥生に唆されたのだ。けれども、新太は半分眠って、半分起きて全てを聞いていた。弥生が、新太との緊張感、そして、安堵に満ちた矛盾したカオスを捨てて、外の爆発的な瀑流に身を焦がす姿を。髑髏は青年Sであり、青年Sは髑髏である。初めてその時、髑髏であり、青年Sである存在は弥生を皐月と呼んだ。弥生は甘い声で「なあ~に?」と言った。新太は、ああ、やっぱり弥生は最高だ、と一人寝ぼけた頭で思った。弥生は髑髏何かに心を許してなどいない。弥生は髑髏を利用して利用して利用して、骨まで食って捨てるつもりなのだ。ちょうど、新太が輝かしい外での身分を捨てて、汚いこの世界に足を踏み入れたのとは違うのだ。あくまで、その時、弥生が主で、新太が従だった。しかし、今起こっているのは弥生の従の側面だ。時として、弥生が見せる従の側面は獣性を伴っていた。それは狩りに出る百獣の王ライオンの雌と同じである。激しい敵意。冷酷な知能。そして、渇き。ここで新太の意識は途切れた。髑髏と弥生は出ていったのだ。弥生のいない世界に目覚めている理由は何一つなかった。新太は、ここで餓死するはめになるのだろうか。「起きろ」と弥生が命じるまでは起きないだろう男の悲しい結末を迎えるのだろうか。それとも、新太の過去を知るものが、助けだしてくれるのか。全ては外れていた。新太は髑髏になった。青年Sになった。新太は青年Sであり、新太は髑髏である。それが、世界の唯一の真実だった。弥生は最初から気づいていた。だから、青年Sにしたのだろう。全ては逆転の結果をもたらしえて、全ては補完性を持つ。
弥生と新太が出会ったのは、2011年8月だった。地獄への通勤列車は冷房などない。閉じこめられた車内に夏の熱気が充満し、蜃気楼さえ出かねない様子だった。新太は電車に足を踏み入れた瞬間、空気がいつものイライラした紳士的なものから、冷然とした売春婦のものになっていた。艶やかな聖性を備えた女は満ちた力を隠しきれないようにそこに座っていた。弥生である。この時には弥生は既に弥生と名乗っていたし、新太も弥生の本名が皐月だなんて知っているはずもなかった。それでも、8月の暑い日に本を片手に座っている弥生は場違いに感じられた。何か特別な使命をおって、そこにいる眼をしていた。使命は人類的なものでもなく、地球的なものでもなく、ただ、宇宙的な法則の枠内にある極めて巨大な使命なはずだった。新太は周りの禿げたサラリーマンや、悲しみに満ちたベビーカーをたたんで、立っている母親に目もくれずに弥生に近づいた。弥生はまだ、本から目を逸らさない。新太は怯んだ。もし、弥生がまったく相手にしないならば、新太は地上一の道化者になるだろうからだ。しかし、新太には一方で確信がった。弥生は必ず、本から目を上げ、新太を見るという信念にも似たものが。そして、事実そうなった。だが、それは新太にとって、地獄行きの列車に平然と乗って目的地について、裁きを行うほうがまだましだったかもしれない。弥生は新太を見ると、平然と友達にでも言うように、聞いた。「何か用?」と。新太は答えを持たなかった。でも、新太の中には弥生でなければならない決然とした無意識が潜んでいた。それはちょうどタンカーの船底に眠っている水と同じだった。浮くためには必要だが、それは無用の長物なのだ。だが、新太の若い本能は失われた10年の経験のもとにあったから、決してひるまなかった。2011年は2000年代の物悲しさを含んでいて、新太にとって、今年こそは「今までにはない宝石」に出会うチャンスだった。そして、日々、恋をした男性のように女性へのプレゼントを買おうとする気概を持って、弥生にさらに近づいた。弥生は再び聞いた。今度も以前と同じ全くの動揺さえない、静かな声量だった。新太と弥生を乗客は見つめない。二人は地獄行きの列車から、乗り換えることが許された果報者のように、他の乗客とは異質だった。異物となった二人は次の駅で降りた。誰もいない駅だった。地獄の周辺の土地には誰も住みたがらないのだ。駅を出ることもできない。二人はどうして降りたのかも説明できない。きっと、二人はとてもお腹が空いていたんだろう。弥生は持っていたホットドッグを取り出して、新太に投げつけた。新太は驚いていたが、落ちたホットドッグを美味しそうに食べた。二人は無言だった。どちらも、何も言わなかった。言うことで壊れるものもある。そう信じている二人は地獄行きを逃れた代償を払わねばならなかった。駅員がやって来た。二人は切符を持っていない。すなわち、不正乗車だ。もし、地獄までたどりつけば、料金はいらないはずだった。だが、二人は降りてしまったのだ。もし、降りなかったらという言い訳は通用しない。駅員は無表情に「不正乗車ですね」と見抜いた。弥生はバッグから、口紅を取り出して、唇に塗っている。駅員には新太が対応することになった。自然と。とても自然に。二人は最初から連れ立ったように。新太はまず、昨日この電車に乗るように言われたことを話した。駅員は新太の言っていることがわからないようだった。駅員はきっと10年、20年、いや50年もの間駅を守ってきたのだろう。そして、駅と規則以外のことは何も知らない人間が出来上がった。代々続く、駅員の家系は確実に秘密を保全するように生きていきたはずだ。けれども、駅員は知らないという態度で、新太に接した。新太は困惑していた。電車は来る気配がない。弥生は助け舟を出す気がないのは一目でわかった。駅員と新太は向い合って立っていた。駅員は肩をすくめた。「規則を破ったらどうなるか私には知らされていない。ただ、規則を侵したものにどうするかは決まっている」
沈黙が流れた。駅員は新太が反応しないのを見て取ると、決意を固めたらしい。制服のポケットからサイコロを出した。赤い表面に金色の点がある面は一つ、ある面は6つというふうに存在していた。駅員は微かに溜息をついた。何が起こるかはわからなかった。駅員はサイコロに対して童貞だった。女の体の蜜の部分を知らない男の思慮深さを持ってサイコロを扱った。ついに、地面にサイコロは投げられた。新太は黙って、それを見ていた。弥生も口紅を持った手を止めて、サイコロを見た。目の数は四。不吉だ。駅員は黙ってサイコロを拾った。そして、キョロキョロと辺りを見回した。世界の重鎮は変わらない。弥生があくびをした。そして、新太がそれを見た。駅員もそれを見た。そして、駅員は駅舎に帰ろうした。その時、遠くから音がしてきた。車輪の疾走する音だ。しかも、かなり重い。霧が立ちこめた世界の向こうから光りが弥生を照らした。弥生はもう口紅を持っていなかった。ただ、手を二度三度握っては開くと、新太の肩に手を置いた。駅員は黙って見ているだけだった。もう駅員は完全な部外者だった。そして、二人を連れ去る列車の傍観者でもあった。ホームにやってきた列車は1920年代に造られたような、蒸気機関車に似たものだった。駅員は乗せようとするでもなく、二人と列車を交互に見比べた。弥生は新太から手を放し、考えこむように顎に手をあてた。新太は迷っていた。どうするべきか。乗るべきか。乗らないべきか。もしかすると、待っていればまた、地獄行きの電車はやってくるかもしれない。そうすれば、いつも通りの生活が待っている。ただ、飯を食って、仕事場に通って、多愛のない話をして、そして、罪人たちを裁く。決められた儀式のような生活から、深淵に落ち込むような、危険をどうして起こす必要があるだろう。弥生は一歩列車に近づいた。新太は一歩列車から離れた。弥生はそれを見て取ると、軽蔑のこもった嘲笑を新太に向けた。身を焦がすような自分に対する失望が後から後から流れでていく。新太はもう、後には引けないと感じた。引けば、精神が壊れてしまうだろう。追いつめられた新太は2,3歩前に出た。弥生はまだ先にいる。さらに一歩前に出る弥生はまだ先にいる。さらに一歩。弥生と並んだ。駅員は黙ってみている。制服の紺色はいつの間にか黒色と見分けがつかないほどになっていた。駅員は濡れていた。同時に二人も濡れていた。雨が降ってきたのだ。ホームには屋根がない。駅員は濡れたまま、まだ二人と列車を見ていた。弥生は意を決したように、新太の手を取り、列車に乗りこんだ。
ここではないどこかへと向かう列車は無音で二人を運んでいく。新太と弥生は隣の座席に座った。座席はガーゴイルを象った装飾が施されていた。灰色だったが、材質は炭を固めた物に違いない。触れると、指先にくすんだ黒がついた。弥生は新太の指を見て、微笑を浮かべた。和やかな、とても戦地に行く列車に乗っているとは思えない雰囲気が流れていた。他にも乗客はいた。虹色のフリースジャケットを着た無数の土気色の顔をした人々が自己主張を禁じられたように座っている。誰も口を開かないためだろう。車内はやはり無音だった。二人も環境に適応する動物のように、じっと息を殺している。車内の静寂を破ったのは弥生でも新太でもなかった。一匹のネズミである。新太と弥生が座る座席の向かいの空いた席にどこからともなく現れると、キーキーと鳴いた。新太はもちろん弥生でさえもこの時はネズミの声なんて聞いたことなかったので、顔を見合わせた。そして、再び視線を小動物に戻すと、ネズミは臆することもなく、玉座に座る王のようにどっしりと座席に腰をおろしている様子だ。新太はネズミを特に嫌っているわけでもなかったが、灰色は嫌いだった。それは、一種の灰色のコートを着た人間を嫌うのとは違う。灰色の皮をかぶった生き物が嫌いなのだ。ネズミの色が灰色だから嫌ったのではない。ネズミの裏に潜む顔は灰色の顔をしていたからなのだ。「おい。人間」どこからか声が聞こえてきた。弥生は声のした方を向いた。いや、向いたというより、そのまま顔を動かさなかった。ネズミのいるところから声がしたのだから。新太はとうに、このネズミが普通、つまりただの小動物であるとは思っていなかった。弥生は何も答えなかった。新太も何も答えなかった。だって、いきなり列車内でネズミに話しかけられて、何を言うべきか知っている人はいないだろう。この時ばかりは二人は言葉を理解しない新生児だった。二人はただ、泣くこともしない静かな赤児だったのだ。列車内の他の乗客は誰も二人の方に関心を持っていない。徹底した無感覚を植えつけられた殺戮機械でもこうはいかないだろう。ネズミは再び二人のどちらかに言った。「おい。人間。俺だよ。ネズミだよ」新太はちょっと困った。ここはフレンドリーに「やあ、ネズミかい」と言うべきか。それとも、重々しく「ネズミ様でございますか」と言うべきか。結局新太はこれからもそうであるように、意志を弥生に譲り渡してしまった。弥生が車内の静寂を打ち破るネズミと同じくらい小さな声でいう。それはまるで、海岸脇のホテルで聞こえる波の音だ。「ネズミさんね。私たちに何か用?」ネズミの表情は変わらない。変わってもたぶんわからない。変わるのかどうかさえ不明だ。ただ、ネズミは『ネズミさん』という言葉が気に入ったらしかった。前足で顔を三度さすると、照れたように言った。「よしてくれ。俺はネズミさんなんて言ってもらえる身分じゃない」もはや、ネズミの視線は完全に弥生に突き刺さっていた。弥生はその切っ先を心理的障壁で固く守って通さないようにしている。「じゃあ。あなたの名前は?」彼女はあくまで丁重に尋ねた。ネズミは今度は顔をさすらなかった。代わりに弥生を好色そうに見た。新太はその視線を見ると、我慢ができない。だが、動けない。心は許さない、と三〇分にも渡る演説を行えそうな心意気なのに、身体は動いてくれない。典型的な意気地なしと新太は自分でも認めていた。大の男一人になら、それも仕方ないと言ってくれる人もあるかもしれない。しかし、崇拝する乙女がたかが、ネズミに不快な視線を投げかけているのを、怖くなって動けないのはまさに処女同然である。新太は自分は男でなく、女に生まれるべきだったかもしれないと思った。弥生は新太を横目で見て、ネズミの答えを待った。「名前を聞くのが、どういうことかわかっているのかい?お嬢さん?」ネズミの世界での常識など何もしらない弥生は「知らない」と答えた。今度は少しばかりの怒りが含まれていただろう。ネズミはキィキィと笑った。不気味な笑いだった。ネズミがどうして笑うかは知らない新太は、ネズミの笑い声を頭の中で聞いた気がした。昔の、他人の笑い声が聞こえてきた。新太はみんなの中では面白いやつだったかもしれない。でも、新太にとっては、笑われ者だった。それが、新太の自尊心を傷つけた。やがて、新太は他人との距離をとりはじめた。そして、弥生に会うまで、一度だって心を開いたことはないのだ。ネズミに笑われて、新太は過去を振り切るように、弥生の手を握った。弥生は新太の精一杯の崇拝をはねつけるごとく、手を振り払った。新太はもう一度すがるように握る。今度は弥生も、新太の熱意に負けたのか、何も言わなかった。ネズミはいつの間にか消えていた。ネズミの役割は弥生にわずかばかりの苛立ちと新太に過去を思い出させることだけだった。そして、二人は以前よりもわずかに、心が近づいた。列車にまた無音が戻った。新太は弥生の手からあふれる温かをかみしめて、幸福に浸った。これから、待ち受けている地獄以上に恐ろしい出来事を知ることもなく、赤児のように揺り籠に眠っていた。外の景色は相変わらず霧だった。今は8月の暑い日のはずだった。あの駅に降りた時から二人の世界は変質していた。そして、それは決して後戻りできない使い捨ての人生そのものだった。列車はまもなく目的地に着こうとしている。少しずつスピードを緩めると窓の景色がはっきりと見えてきた。新太は目を覚ました。弥生はじっと新太を見ていた。氷のような表情でだ。新太の眠気は吹き飛んだ。そして、列車は駅についた。乗った駅とは違う駅にだ。アナウンスも何もない。ただ、ほとんど音もなく列車は止まった。
ドアが開く。他の乗客は連行される捕虜のように生気のない顔でぞろぞろと列車を出ていく。一体どこへ向かっているのだろう。弥生は声にださずに一人考えた。ただ、彼らがどこに行こうと、関係ない。新太ならば唯々諾々と乗客の列についていくだろう。まるで、皆で歩けば大罪でさえ恐れるにたりぬとばかりに。新太と弥生はここで初めて会話らしい会話をする。新太にとっては啓示であり、弥生にとっては伝道そのものだった。「あなた名前は?」弥生の慈愛を含んだ声(新太にはそう思えた)が新太にかけられる。新太は震える声で名前を言い捨てた。名前など二人の間では意味をなさないというように。弥生は繰り返した。「佐藤新太。サトウシンタ。sato shinta」3度弥生は新太の本名を口に出した。口に出すことで覚えをよくする狙いもあったのかもしれない。でも、新太は弥生の言葉を自分に課された試練のように聞いていた。今までの自分をぬけだすチャンスがやってきていた。それはいつもの通勤を外れたときから、いや弥生に出会った時から始まったのだ。決して外れてはならない道を外れた新太にとって、弥生は一戸の巨大な家屋だった。これからやってくる嵐に耐えうるだけの快適な住家。弥生は群衆とは反対側に歩き出していた。駅のホームは固い花崗岩でできた人工的な臭いのしない代物だったが、2箇所の降り口があるようだった。一つはなだらかな坂になった安全な着地点。一方は危険な崖のようになった斜面。弥生は迷わずに崖を選んだ。新太は弥生が跳んで地面に降り立った後、立ちすくんでいた。弥生は既に道でもない道(弥生が造っている道路)を歩き出していく。新太は去っていく弥生を見て、激しい不安に突き動かされた。また新太に過去の情景がやってきた。母という名の庇護者との最後の別れ。松の木に隠れるように新太は母を見ていた。松の影から父親が強く新太の首袖を掴んでいた。駆け出したい衝動を抑え切れない。もう一度だけ。新太は父親の制止を振り払って走った。母は黙って立ち止まった。そして、新太の頬を強く叩いた。そして去っていった。また、追いかけると弥生は新太を拒絶するかもしれない。新太は失われた過去の怨念に向き合った。今度は誰も彼のことを止めないだろう。弥生は新太を受け入れない。声が聞こえた気がした。弥生が振り向いた。じっとこちらを見ている。新太は新しい状況を前に勇気を出した。弥生は新太を待っている。この道を行くのは弥生と新太だけなのだ。弥生の無言の命令は新太を奈落の底に落ちる兎のように地面に落とした。まるで無様な落ち方だった。新太は起き上がると、走った。霧も雨も降っていない。ただ、空には黒い幕が存在するだけだった。追いついた新太を弥生は無言で受け入れた。弥生は新太を精神的にではなく、物理的に必要としいた。弥生は宿命めいた誘拐に似た行為を自虐的にみつめていた。ただ、この男はついてきたのだ。弥生は何も言っていない。二人は一直線に歩きつづけた。夜のせいか辺りには何も見えない。どれくらいの時間がたったかはわからない。二人の足音は光に誘われたように、一軒の家に吸い寄せられた。家は古い木造のアパートのような造りだった。どうにもならないことを知っている建物の賢明さで、時間の波飛沫を耐えている家はかろうじて光と呼べる電灯を持っていた。辺りには電線も電信柱もない。新太はふっと息を吐いた。暗闇ばかりの道は人を不安にさせるのだ。だが、逆に弥生は不服そうに、死刑を言い渡された善悪の観念のない容疑者のような目で裁判長ではなく、ある一点を見つめていた。新太もやがて、弥生の見ているものに気づく。二人の視線の先には一対のバットが置かれていた。「あれが私たちの唯一の武器よ」弥生の声は強い意志を含んでいた。新太は訳がわからないながらも、力強く頷いた。二人はバットを持って罰の混じった一室に入った。家具らしいものもない。ただ、ゴミだけが部屋には散らかっていた。生ごみの鼻をつくような臭いが立ち込めている部屋だ。新太は無言で部屋を片付け始めた。弥生は深くため息をつき、寝転がった。新太は弥生の盛り上がった胸の上下動を横目で見ながら、勃起して動きつづけた。バットには名前が刻んである。『この世の罪を取りのぞくものドクロ』『ドクロをみちびくものやよい』無情なる裁きがあるとしたならば、二人のためにあるに違いない。二人はやがて眠りについた。
翌朝(朝といっても外は闇のままだったが、二人の体内時計は朝であるとして目覚めたのだ)、新太は弥生に言われてバットの素振りをしていた。彼女は「素振りでしか、あなたは役に立つ人間になることができないの」と耳元で甘い声を出した。新太にとって使命があるとすれば、弥生の持つ言葉によって規定されるモノだった。百回は振り続けたろうか。手の皮は擦りむけ赤くなっている。バットのグリップには血が滲む。「来る」弥生が呟いた。ピーンと張った音がした。弥生は玄関に出てドアを開ける。外には仮面を被った一人の男が立っていた。そう男だ。弥生の部屋に訪ねてくる男。新太は彼女の処女性を信じていたので、少なからず驚いた。だが、深く考えてみると、処女性などは魂のことを言うのであって、肉体的なことは問題にならないと思い直した。弥生と髑髏面の男は何事かを話している。新太には耳を澄まして聞くこともできたろう。だが、しなかった。彼はゆっくりとバットを振った。ビュンと木製の棒がうなりをあげた。ビュン。ビュン。手の痛みはもう感じない。喉元過ぎれば熱さだって意味のないものになるのと同様だ。例え、胃が熱さによってのたうち回るとしても、それは感じないのと同じことだ。弥生は二箱の弁当を持って部屋に帰ってきた。髑髏はもう、どこにもいなかった。弥生はそのうちの大きな箱を新太に差しだした。新太は血に染まった手で受け取る。二人は無言で、食事をした。新太は髑髏のことについて何も聞かなかった。弥生も髑髏について何も語らなかった。まだ弥生は新太たちの使命について何も話してくれなかった。弥生にとって弁当配達人と新太とどっちが大事なんだろうか。横になって、新太は考えた。弥生は極めて高度な思考の持ち主だ。高度が何かと言われれば、それは複雑という意味である。弥生自身には今の新太の思いに対する解を持っていなかった。そして、それはきっと何十年、いや何百年も解かれない問題のように、凝り固まった定型性をもつのだ。弥生という無意識の支配する怪物はやがて、決断する。自分がどう動けば目的が達せられるのか。目的に向かって弥生は疾走する。それはいつまでも変わらない。そう、あの十二歳の時から。
二人は二人だけの生活(そして時に髑髏が訪ねてくる)に慣れつつあった。新太は髑髏がどこからやって来るのか知らない。わかっていることは男は決して仮面を取らないということだ。そして、芯の細そうな声をしていた。3度目に髑髏が食料を持ってきた時、新太は初めて玄関のドアを開けた。弥生はまだ寝ていたからだ。後に新太が髑髏と話したことに憤慨した弥生は、音がしたら必ず自分を起こすようにと言った。新太には理由はわからなかったが、弥生が言うことを無批判に信じた。結局、その一回の出会いでわかったことは、髑髏の声と話した言葉だけだった。「今日の分だ。食べてくれ」新太が応対したことに気づいていないかのように、それだけ言うと髑髏は去っていった。渡された袋には熱い烏龍茶とカレーが入っていた。弥生と新太はトレイに入った食料を胃の中に残らずに入れた。それから、繰り返しの日々が続いた。新太はバットを振り、弥生はそれを飽きもせずに眺める、という無限連鎖に似た生活。始まりは突然だった。弥生はこのアパートに来て初めて「外に出ましょう」と言った。その日髑髏はまだ来ていなかった。新太は黙ってついていった。外は相変わらずの闇だった。駅から来た時に作った道はまだそこにあった。足跡の軌跡が新太には見えた。
弥生は巨大なスタジアムまで新太を導いた。スタジアムの外観は蔦の絡まる白茶色の壁とその間にぽっかり窓があいている。入り口はどこにあるのかわからない。弥生はゆっくりとスタジアムの周りを歩き始めた。きっと、入り口もどこかにあるのだろう。しかし、新太はいつまで歩いても入り口も見つけられない。その癖、時々地響きのように中から歓声めいた震動が二人のところまで伝わってきた。弥生はスタジアムの外周を四度回って、新太の方を振り返った。「一周目にはなかった。二周目にはなかった。三周目にもなかった。四周目にもなかった。五周目にはあると思う?」新太は肩をすくめた。おそらく新太の心情は(どうして俺に聞くんだ?)といったところだろう。ただ、何も答えないわけにはいかない。それが新太の中での極めて凝縮された限られた抵抗だったとしても。「中に入りたいのかい?」新太の声を弥生は無視した。また歩き出す。何度スタジアムの周りを回ったか誰も数えていないほど、二人は巨大なスタジアムの周りを歩いた。決して急ぎはしない。決して疑ってもいない。弥生は入り口が見つかるという信仰を捨てきれずにいるようだった。天動説から地動説への時代の過渡期にあって、昔の教義を放棄できない悲哀がそこにはあった。
とても長い時間が経った時、新太の足が悲鳴を上げ始めた頃に、スタジアムの一四番ゲートに大きな鉄製の門が現れた。まるで、それは最初からそこにあって、今までの周回が無駄だと言わせるくらい自然なものだった。新太は黒い巨大な門を見つめた。弥生は門をどう開けるか考えているらしい。とにかく、門は頑丈そうだったし、誰も脇には立っていなかった。門は所々隙間が空いていて中の様子がわかるようになっていたが、覗いてみると何も見えない。新太はいつからかわからない非現実的な世界に驚くまいと決めていたが、重い門が重厚な音を響かせて、ひとりでに開いていくのには、口を開けてポカンとしていた。今では歓声らしいものは何も聞こえてこない。
門の先には二メートルほど先が見える暗闇があるだけだった。光りがないのに、どうして物が見えるのか不思議だったが、新太はその時初めて弥生が光っていることに気づいた。弥生は明らかに曙光だった。地平線から産声をあげた光の始まりは女性の身体全体に絡まって付着していた。「どうしたの?」弥生は新太に前に進むように促した。彼が立ち止まったのに気づいたのだ。新太は再び進み始めた。弥生は強烈な光りを持っていたが、それでも、スタジアムの中の闇は濃く光りは二メートルしか届いていない。新太なりに正確にいうと恐らく、その長さはアルパカの体長くらいだろう。
ちょうど、アルパカ、新太、弥生の順でスタジアムの中を歩いていくと、急に眩しい光りに出会った。弥生のような穏やかな光りではない。急激に変化する目を射す光りだ。目が慣れてくると、巨大な照明がスタジアムの照明塔に備えつけられているのが見えた。そして、どこから現れたのかわからない太った人たちが観客席で歓声をあげだした。今、新太はいつの間にかグラウンドの中心に立っていた。バットを持って。弥生は新太と並んで立っていたが、観客たちを軽蔑するように、見回して言った。「こいつらは、ただの餌よ。これから起こる出来事の潤滑油のようなもの」観客は何かを言っているが、新太には聞き取れない。恐らく多くの声が重音となり、明瞭な声を消し去ってしまうのだ。汗が出てきた。照明の強い光りは熱を帯びている。冗長なグラウンドの円周の一画から赤い点が見えてきた。点は円になり、一個の物体となった。赤虎だった。新太はそっとバットを構えた。弥生に視線を走らせる。弥生は目を合わせ頷いた。
戦う時が来たのだ。新太は不思議と怖くなかった。バットに目一杯の体重をのせて虎めがけて、振り抜いた。赤い虎は近づいてきた時には既に緑になっていた。訳もわからず新太はバットを振り続けた。手応えはない。向かってくる虎はやがて、紫になった。虎は新太めがけて、口を開けて飛びかかった。新太は目を閉じた。鋭い爪が新太を捕らえるかに見えた。太った観客たちの声は一層大きくなった。バットにまた手応えはない。しかし、目を開けると、虎は消えていた。弥生は満足気な笑みを新太に向けた。「あなたは勝ったのよ。光りの虎は、あなたによって消えた」「信じられない。まるで手応えがない」新太は震えた声を絞り出した。弥生は跪いている新太の肩を後ろからそっと抱きしめた。新太は心が落ち着き、平静を取り戻すのがわかった。「もう虎はいない?」「そう。あなたが倒した」太った観衆は帰り支度を始めたようだ。どんどんと、空席は増えていく。試合は終わったのだ。
二人は空になった暗いスタジアムに立っていた。照明は落ち、誰一人として観客は残っていなかった。弥生は力強い声を出した。「帰りましょう」新太は立ち上がった。その目は意識が異次元をさまよっているらしく、右に左に上に下に動いていた。新太は今見たものが何か判断をすることができなかった。新太の頭は確かに機能はしていたが、現実との関連を失っている狂った時計のようだった。そして、新太は弥生に自らの意志で問うた。「あれは何だったんだ?」弥生は大きく伸びをした。新太の問いは退屈きわまりないとでもいうように。しかし、はっきりと弥生の頭の中にも答えがあるわけではない。弥生に命じられたことは「新太をここに連れてきて、戦わせることだった。試練は二重にも三重にも人を絡めとる。決して逃れられない宿命であると新太は思ったかはわからない。少なくとも弥生は自分の行為は覆せない強力な力で占められた現象の一部と信じている。新太は弥生の背後に、招かれざる存在をみてとった。この頃から新太の心には二つの矛盾する意志が噴水のように高く意識へと上ってくるのだった。一つは弥生を信じようという気持ち。もう一つは弥生を、いや弥生の背後にあるものを恐ろしく思う気持ちだ。幻惑と妄想の世界から抜け出す方法はあるか?新太は自問自答した。新太は歩き出した。スタジアムの位置から二人が来たアパートはどちらの方角にあるかもわからない。スタジアムを出て、ひたすら新太は歩いた。それでも、新太は弥生の足音が後ろから消えてなくならないのを喜んでいた。新太はめちゃくちゃに進んだ。弥生を宿命から救い出そうという気持ちもあったろう。自分が助かりたいという気持ちもあったろう。混然とした気持ちは決して旅人を正しい道へは誘わない。新太はやがて、巨大な暗闇の先に星があるのを見た。星は赤、黄、緑、白、桃と様々な色があった。普通と違うのは夜空にあるはずの星がまっすぐ見つめた正面にあるということだ。新太は弥生を振り返った。聞こうと思ったが、聞くのをやめた。きっと弥生も何も知らされていないのだ。しかし、新太よりは遥かに、ここに順応している。確かな意志を持った目がそうだ。新太は直感的に、弥生はこの世界の理を理解していると感じた。「先には何もないわ」弥生は新太の問いを予期していたかのように言った。それでも新太は星目指して歩き続けた。星は一向に距離を縮めない。もし、仮に星だったとしたならば、それは当たり前のことだったが、新太には星が後わずかで届くような心持ちがしていた。新太は一歩一歩世界の理を学んでいく。新太はやがて歩き疲れて、座りこんだ。新太より体格の劣る弥生は平気そうだった。「何故君は疲れないんだい?」新太の言葉が弥生をえぐる。弥生は受けた心の傷を相手には、新太にだけは知られまいとするかのように気丈に答えた。「それは私が希望を持っていないから。希望を持たない歩みは、何の意味もないわ。時間という観念からすれば、希望こそが最も邪悪で時間の浪費なのだから」新太は初めてといっていい弥生の心の一端を聞いて、しばらく考えこんだ。果たして、新太は希望を持って歩いていたのか? 断じて違う。新太が心の内に宿していたのは、危険を伴わない世界、安息の地への到達だった。それは希望というレベルではなく、大望という言葉こそふさわしい。しかし、反論する気はなかった。希望でさえ、疲れさせるのに、大望でどれほどの影響を新太が世界から受けているのか聞く気力は失せた。弥生は新太を失うまいと必死だ。それは決して新太を求めているからではない。ましてや、希望を持ってついてきたわけではない。弥生は新太についていくことを義務づけられているのだ。一体、いつから二人の間に関係性が生まれたのかは不明だ。だが、恐ろしい闇は二人を矮小な存在に落とし、群れることで、かろうじて生命を保つ生物へと変化させていた。新太は諦めて言った。「家に帰ろう」弥生は無表情に、それでも幾分安心したように新太を誘った。「こっちよ」明らかな変化が二人を包んだ。闇の道は急に活気を取り戻したように、弥生の前に現れる。新太はいつの間にか弥生の持つ光りが強くなっているのに気づいた。アパートは何も変わっていなかった。まったく何も。恐らく、階段の上の一塵の埃でさえ、そのままな気がした。実際それはアパートを出た時と同じように、固着するように階段につながっていた。「ここは不思議なところだ」新太はいつの間にか声に出してしまっていた。弥生は同意して、頷いたが突き放したように先に二階の部屋へ上がっていった。家には贈り物が届いているようだった。何もなかった部屋が、大小三〇程の箱が部屋に整然と置かれていた。弥生は既に、箱の一つを開けにかかっていた。新太は弥生のさせるままにして、眠りにつこうとする。しかし、腹が減ってどうにも眠れない。また音がした。髑髏だ。ご飯を持ってきたのだ。新太は喜んだ。弥生は玄関に行く気配がない。まだ箱を開けている。箱を開けるとまた箱があったらしく、高く部屋に箱ばかりが積まれている。中身のあるものは何一つ見つかっていないらしい。弥生に以前禁じられていた髑髏との接触を新太は行うべきか迷っていた。そこへ、弥生が言った。「でてちょうだい」新太はご飯を一刻も早く食べたかったので、すぐに命令に従った。ドアを開けると、髑髏を被った仮面の男が、予想通りにそこにいた。ただ、顔の穴から覗く目はどこか寂しそうだった。そして不安そうでもあった。髑髏はビニール袋をぶっきらぼうに新太に差しだした。新太はお礼を言った。「ありがとう」良く見ると髑髏はみすぼらしい格好をしていた。仮面にしか今まで目がいかなかったが、服はボロ布同然で、黒い汚れが袖や腹のあたりにこびりついていた。それでも、新太は努めて気にしていない様子で、髑髏が背を向けるのを待った。髑髏は中をちらりと見た。弥生を見たのだ。その瞬間、新太は髑髏に殺意を覚えた。まるで、この世界に存在している人間が新太と弥生、髑髏だけであるように三人は黄金の三角形を形成している。一人が欠けた瞬間に大変なことが起こる。それは食料をもらっている新太が一番知っていた。新太は髑髏をまだ葬ってしまう訳にはいかなかった。髑髏がどこから食料を調達しているのか、それさえわかれば。だが、あの暗い道を気付かれない程離れて付けることは不可能だ。髑髏は新太に怯えたように走り去っていった。弥生が歓声をあげた。「あった。あったわ」一つのとても小さな箱に赤い卵が入っていた。新太はじっとそれを見ると、「食べられるのか?」と聞いた。それ程腹が減っていた。弥生は軽蔑するように新太を見た。そして、大事そうに懐に卵をしまうと、食事を始めた。新太も食事をした。味は良くない。今まで、こんなに味の悪い食事は食べたことがない。新太は髑髏を恨んだ。恨めば恨むほど、食事はまずくなった。新太はやがて、眠るために寝転がった。弥生は鼻歌を快活にならしている。とにかく、ここに帰ってきた。帰ってきたんだ。新太は久しぶりの家を十分に慈しみながら、眠りについた。弥生の鼻歌は夢の中まで響いてくる。そして、そのメロディは新太の記憶の奥底にしまいこまれた。
新太は熱を感じて飛び起きた。近くに弥生が寝ているのを新太は見て、驚いた。骸骨の干からびた姿を見たと思ったからだ。しかし、弥生は魅惑的な肉体を持った一人の女性として、紛れもなく深い眠りに落ちていた。新太は許されることなら、弥生の唇に口づけをしたかった。身をかがめて、顔をそっと弥生の顔に近づける。時間が急激に乱れ始めていた。弥生の呼吸のリズムは信じられない程早く脈打ち、次の瞬間にはゾウガメの動きのように緩やかな動きに変わっていた。新太は叫び声をあげそうになった。激しい痛みが胸を突いたからだ。だが、体はいつもと変わらぬ様子で、新太の視界にとどまっていた。どうやら、胸の痛みは内部から来るものらしかった。それでも、彼は夕闇から夜の変化を厳かに告げる司祭と同じように、儀式的な接吻をしようとした。唇と唇は放射状に一方は愛情、もう片方は死臭をまき散らしながら接近している、次の瞬間、重力に引き寄せられ落ちる隕石同然だった(隕石程早くはないが、時間間隔の消失した世界では速度など意味をもたない)新太の顔は止まった。それは氷づけに保存されたナウマンゾウの完全な巨体の持つ鈍重さを含んでいた。弥生が一言呟いただけで隕石は動きを止めたのだ。その音の空気を伝わる速さが光速を超えていたのかもしれない。そうすれば、全ての説明がついた。法則が腸のように捻転し、とぐろを巻いた蛇が尻尾から己の体を食ってしまうごとくに、崩壊を始めていた。弥生の発した空気の振動は確かに、新太の耳の奥に届いた。「皐月はまだやれます」語尾は正確かはわからない。何故なら新太は「やれるよ」とも「やれる」とも聞こえたからだ。意識の中で、音が変質を遂げたのかもしれない。でも、大方の意味をつかめば問題はなかった。新太は一人、弥生の寝ている場所から離れて真っ暗な外の景色を窓から見た。『皐月とは誰だろう。ましてや、この女性はなんという名前なのだろう?』それが新太の心の声だった。そう。新太は弥生の名前を知らなかった。聞いても聞かなくても勝手に名前をというものは意識から昇ってくるものだ。そう、言ったのは新太の父親だった。そうやって新太の父親は新太の名前をつけたのだ。誰に相談するこもなかったろう。
やがて、弥生が目を覚ました。いつもの決まり事のような些細な出来事が乱れつつあるのを弥生は発見した。それは新太が先に起きたということだけではない。新太が外を見ていることだけではない。もっと、根源的な存在の質とでもいうものが、回転し最早元の原型に戻らないことをありありと示していた。新太は「おはよう」と言った。弥生は片腕を動かそうとした。しかし、失敗した。代わりに中指だけを立てることになった。新太は弥生の中指が何度も跳ねては床に落ちるという行為を興味深そうに見ていた。外は相変わらずの暗闇だったから、外を見るよりは気が紛れるに違いなかった。でも、人はトンネルをくぐる列車の窓から暗闇を見てしまう。同じことが、新太にも起こっていた。しかし、窓には新太の顔も体もまったく映らない。弥生が立ち上がった。今度は上手く立てた。足は腕とは別の神経回路でできてきるらしい。もし、新太が後ろを振り向いて、窓の暗闇を見ていたならば、弥生の姿が鏡のようにはっきりと現れているのがわかったろう。新太は気づかずに、窓から離れた。新太は弥生を情熱的に見た。弥生は新太を冷めた目で見た。決して知ることのない弥生の気持ちを新太は知りたいと願った。かといって、自分がその栄誉に適うだけの男であるとはどうしても思えなかった。さっき、卑怯にも寝ている弥生に口づけをしようとした事実一つとっても新太は自分を悲観していた。絶望的な平凡さを備えた彼は弥生に次元の違う愛情を間違って持ってしまった一匹の蝿だ。弥生は蝿に食事を提供し、導くだけの完全な人間。新太が考えれば考えるほど(もっといろんな例えが彼の心には渦巻いていたが)その図式は変わらなかった。
スタジアムでの出来事は家に戻ると、まるで霧のように弥生の頭からも、そして新太の頭からも抜け落ちてしまっているようだった。二人の敵対的図式は激しさを増した。愛という偉大なる感情は男女二人だけの生活を残酷に壊していく。弥生は新太が求めれば、如何なることも許したろう。ただ、新太が口に出すことはなく、行動を起こすこともないと知っていた。要するに二人の均衡は永遠にそのままのはずだった。しかし、新太はどうしても弥生の寝言が気になった。もし、口にしてしまえば弥生の秘蹟のような過去が明るみに出るということはまったく新太は知らなかった。弥生自身も新太にそんな力があるなどとは考えさえしていなかったろう。しかし、新太は口にした。これはすれ違う法則の糸と糸の掛け違いが起こした一つの奇跡だったろう。
「皐月って誰?」
弥生の目が見開かれた。止まっていた体の動きが激しく震えはじめた。新太は言った瞬間に、その言葉を熟考して言ったのではなく、吐いたことに後悔した。少なくとも弥生の反応から『サツキ』という言葉は、何もない部屋で、何もない感情で言われるべきことがらでないと気づいたのだ。しかし、言葉は発せられた瞬間に力を持ってしまう。弥生は狂った音程の声で語り出した。「私の本名よ。でも、あなたはその名前を呼んではいけない。その名前は遠く捨ててきた過去と同じものだから。腐食した土に住む微生物が食い、まったくの真空となってしまった意味のない過去。それを、あなたは何故今掘り返して、私の前に突きつけようとするの?あなたの質問は私の過去を暴きに来た盗賊のそれよりもひどい。盗賊なら、まだ金のためという目的があるはずだもの。でも、あなたは私にそのセリフを、単なる思いつきとして言った。そして、それに私は答えなくてはならない。そして実際に答えた。さあ、満足かしら?あなたはそうやって人を侮辱して生きていくことを願うならば……」そこまで言うと、弥生は台所に向かった。そこには鍋一つないはずだった。ただ、開閉式のドアを開くと、一本の包丁が入っていた。弥生はそれを掴むと、人とは思えない奇声をあげて、新太に襲いかかってきた。新太は驚いて避けるという発想さえ湧いて来なかった。弥生の包丁の先端は新太の腹に刺さった?いや、刺さらなかった。包丁は新太を飛び越えて、壁に刺さった。何が起こったのか新太にはわからなかった。弥生は憔悴しきった表情で、ぶつぶつと独り言を言っている。「髑髏の助力が」「聖体の加護を」「過去の汚物」聞き取れたのはこの単語三つだけだった。新太は弥生の体が、自分の体をすり抜けるのを、不思議な感覚(それは、寝ている時に味わう幽体離脱のようなものだったろう)で味わった。まるで、その感情を咀嚼するように新太はズボンに射精した。その瞬間目が覚めた気がした。今度のことは全て夢で、新太はただ、夢精しただけだったのだ。と、思おうとした。でも、弥生は壁に刺さった包丁をじっと見つめている。新太の方を決してみようとはしない。新太は黙って洗面台に向かった。ズボンを脱いで、パンツをおろし、下半身だけ裸身になると、パンツを泣きながら洗った。玄関で物音がしたようだった。髑髏がやってきたのだろう。人の話し声が聞こえる。内容はわからなかった。それだけに一層猜疑心が募った。弥生は、この世の
ものではないのか?新太の考えはどちらかが既に死んでいるという陳腐な結末だったが、パンツを洗う現実感と、交わった時の感覚は確かに、原始的な快感の本能を含んでいた。あれは生きていないもの同士、一方が生きていないとしたならば、決して味わえないものだ。濡れたままのパンツを無理やり履いて、弥生の元に戻ると、弥生が無言で新太にビニール袋を渡した。中はゴーヤを敷き詰めた白米だった。しかも、白米には味がついているらしく、醤油味が染み付いていた。
それから、二、三度(記憶が曖昧だが)スタジアムに行き、同じことを繰り返した。それから、後、髑髏と弥生が逃げ出した。だが、新太は平気だった。髑髏と新太は同じ人間なのだと気づいたのだ。髑髏は弥生と正真正銘に触れ合える新太だったのだ。新太は無限に繰り返す存在の定義に苦しみながらも闇の中を如何なる五感も持たずに泳いでいく原始生物のように世界を生き抜いていくことになる。物語はまだ序章である。
二部『新太と弥生の冒険(世界崩壊の始まり)』
さて、脱殻となった新太は置いておいて、話を弥生と髑髏に戻そう。二人はアパートを出て、歩き続けた。スタジアムとは反対の方向、そして星たちの輝く闇とも違う方向に。先導役は弥生。生まれついての水先案内人のように弥生は振舞っている。ただ、その目生き生きと希望に向かっているというよりも、今まで新太と暮らしていた時と何ら変わり映えのしない表情をもっていた。髑髏は尋ねた。「どこへ行くんだい?」髑髏は決められた法律を無視しているわけではない。もう一人の新太、つまり主役となった髑髏は戸惑っていた。その言葉を法則ではなく、今では法律という程に弱くなった弥生の権威に挑戦した。弥生は無言で歩き続けた。これまでの弥生であれば、質問に答えざるをえなかっただろう。しかし、髑髏が法律を破ったのと同様に弥生も犯罪者となった。二人の存在はもはや、極めて世界から孤独な存在であり、鼓動さえも通報装置の作動と同じだった。やがて、道の先に光りが見えてきた。以前の新太と弥生のペアでは決して辿り着くことの出来なかった光り。光りは巨大な球状のものから発している。それを見た髑髏は球状のものの得体の知れなさに恐怖した。弥生は平然と見つめていたが、内心は予測のつかない展開への期待と恐れが同時に同居していたことだろう。髑髏は弥生に促されて、仮面を脱いだ。仮面からは新太と同じ顔がでてきた。気になる違いは黒さのみ。髑髏の顔は黒かった。髑髏は新太のように光の前にいてよい存在ではなかったことを物語っている。ただ、弥生が選んだ髑髏は紛れもなくこれからの主役になるはずだ。暗い顔は光りに照らされて明るく朱色に染まった。次の瞬間一塵の風が吹き抜けた。球状の物体から放たれた圧力を髑髏はしっかりと受け止めた。弥生の髪がなびいた。次の瞬間、弥生の髪はどこまでも伸びていき、一匹の蛇となった。髑髏はそれに気づかずに、まだ光を見ていた。弥生の髪の毛の先から延びる黒色の蛇は髑髏を狙っている。弥生は声をあげる。「危ない」しかし、髑髏は蛇に食われるより早く光に吸収されていた。蛇は口内に空気だけを吸いこんで、すごすごと元の場所に戻るかと思われた。しかし、弥生のように貪欲な蛇は光の球をも飲み込もうと、口を大きく開けた。下顎と上顎の角度が百八十度を超えようとする時、蛇は球に噛み付いた。その瞬間である。風船の弾ける音がして、光は消え去り、蛇も消えた。弥生の髪は元通りになっていた。髑髏は? 消えた。弾けた時の力が髑髏をどこかへ連れ去ったのだ。弥生は困惑した。自らの使命が、ここで終わってしまったのだから。
その時である。天上から巨大な階段が伸びてきた。弥生は思わず叫んだ。「あいつがやってくる。私を苦しめるあいつが!」弥生は頭を抱え、うずくまると、やがて、辺りに足音が響いた。弥生はまだ顔をあげない。震えながら、目をつぶっている。機械のような無情な声が辺りに谺する。
「よく聞きなさない。弥生。髑髏、いや新太と呼んだ方がいいかもしれない。新太は、遠い世界に旅立った。お前に残された時間は五日だ。期限内に新太を遠い世界から、この世界に連れ帰ってくるのだ。幸い手がかりはある。お前が置いてきた新太の脱殻だ。新太は以前の新太ではない。気をつけるがいい。だが、再び会った時、新太は髑髏と一つになろうと、髑髏を探し出す。泣くな。お前が悪いのではない。お前は傍観者の地位を捨てたのだから、その代償はある。新太との接触の結末は新太の片割れの元世界への帰還なのだからな。もう一度、あの世界に行け。お前が生まれた世界にだ。そして新太を連れ帰るのだ。お前の生まれはここではない。しかし、新太の生まれはここなのだ」
弥生はいつの間にか泣いていた。声のする方に目を向けても強烈な光がそこにあるだけだった。何も見えない光はそれだけ言うと、弥生を包んだ。弥生は再び、光をまとい駅へと歩き出した。駅には誰もいなかった。ここから、別の世界へ行くものは限られた者なのだ。それを知りつつ弥生は常に光のある異世界への道を苦難の道と捉えていた。二〇一一年が終わろうとしていた。まもなく二〇一二年がやってくる。新年に人のせわしなく行き交う世界。そして、人が生き続けている世界に踏み込むことに暗闇を見たのは弥生だけだったろうか。新太の姿が見えた。彼の足取りはどこかぎこちない。千鳥足のような歩き方を弥生は笑った。髑髏と逃げてから久しぶりの正の感情だった。新太は駅のホームに上ると、弥生の横に立った。「置いていくなんてひどいじゃないか。僕は君とともに、髑髏を探しに行くんだね。あの世界へ。僕のいた世界へ。ここは楽しかったけどそろそろ飽きたところだった。君ともっと広い世界を旅したいところだったんだ。不思議なんだ。歩き始めると、前はちっとも見えなかった駅の蜃気楼がはっきりと見えるんだね。後は幻かどうか確かめるだけだった。実際、幻じゃなかったけどね。蜃気楼なのにだよ?信じられるかい?」「饒舌になったみたいね。負の部分はすっかり髑髏に持ってかれたみたいね。あなたに残っているのは楽天的な部分と良かった記憶だけみたいね。そう。あなたは何を言っているのかわからない。聞かないで。聞いても答えないけどね。聞くことは意味のあることじゃないわ。答えない人間を前に質問するなんて無駄な徒労はよすことね。飽きたと言ったわね。私といるのに飽きたなんて、よく言えたものね。弁解は聞きたくないわ。もし、私を手に入れたいと望むのならば、あなたは私と髑髏を探さなければならない。そして髑髏は仮面をとっている。そして、その顔はあなたと同じ顔。わからないでしょうね。でも、それがこの世界での事実なの。世界と世界を結ぶ法則は時に残酷な事実を与えるものよ。さあ、電車が来たわ。行きましょう」弥生の言葉通り、今度は列車ではなく、綺麗に整備されたピカピカの電車がやってきた。中には誰も乗っていない。自動でドアが開く。二人は乗りこむ。ドアが閉まる。二人は車内の空席に座る。(もっとも全てが空席だった)電車は動き出す。音は静かだ。揺れもない。新太は座席で貧乏揺すりを始めた。弥生は横目でちらりと見ると、手で新太の足を制した。新太の足はそれでも止まらなかった。まるで、ホッピングマシーンのように、上下を繰り返していた。だが、さすがは弥生の手といったところか。揺れは止まった。新太は不思議なことに今度は弥生の体がすり抜けもしなければ、性的快感も与えなかったことに落胆と安堵を感じていた。新太は弥生の言葉を半分も理解していなかったが、これだけはわかった。『世界が元に戻りつつある』
「新宿~。新宿~」
電車が止まった。ここは完全に前の世界だ。そして、新太のいた地獄だ。だが、新太はそのことを思い出していなかった。新太は半分だったからだ。弥生は白いピンクのスーツをいつの間にか身に着けていた。そして、新太は通勤途中にきていた紺色の背広を当たり前のように着ていた。「行きましょう」弥生は言った。新太は何も聞かなかった。でも、どうやら、新太の職場に向かっているらしいことは想像できた。仕事場に弥生を連れて行くわけにはいかなかった。「待ってくれ。君。ちょっと」弥生は新太の声を無視して進む。弥生の尻をただ追いかけるだけの新太は惨めだった。
会社は新宿駅から東に200~300mのところにある。商社といえば聞こえはいいが、新太はまさしく雑用係りAとして会社に勤めていた。Bは太った門脇という男。Cは新入社員の綾瀬である。一番の古株である新太を人々は軽蔑をこめて雑用課長と呼ぶようになった。最初、新太は雑用社長と影口を叩いていたものが数名いた程度だったのだ。しかし、それを聞きつけた会社の社長が社員全員の集まる朝礼で、社長というのはけしからん、と怒鳴ったものだから、次の日、いやその日の朝から新太は雑用課長という有り難くない名前を頂戴することになった。会社の雑用は忙しかった。残業も日に4時間を超える時もあったし、この会社には有給休暇というものはまったく存在を根本から無視されていた。そして、残業の分だけお金は出るものの、基本給の低さによって、かろうじて人並みの給料を貰う。それが新太の会社勤めの全容であった。同期の島崎というやり手は既に、真っ当な課長職についていたし、他の同期も仕事をもらって商社の礎になろうとしていた。そんな中、一人、まったく業務外の所謂『誰でもできる仕事』を任されたのだから、たまったものではない。日々、若い社員にもこき使われ影で嘲笑されているためか、新太は出勤が苦しくなってきていた。そして、弥生と出会い、人生は変わったかに思えた。しかし、変わるはずもない。新太は遅刻して、商社の一階に女連れで乗りこんだ。新年ということもあり、会社には数人のどうしても外せない用事を抱えた同僚がいた。鉄筋コンクリートで造られたビルのエントランスホールでは受付係りの女性とガードマン二人が立っていた。
「ざつ・・・佐藤さん。ようやく出勤ですか。ご苦労さま」
ガードマンの一人は言った。鼻が微妙によじれた男だった。もう一人の男が弥生をじろじろと見た。弥生は二人の存在をまるで無視している。
「佐藤さん。この女性どなたですか?外部の人を入れるには前もって連絡してほしいんですけどね」
「彼女はここに残る」僕は当然のことのように言った。だが、彼女は僕とともにエレベーターまで進む。ガードマンは止めようと弥生の肩に触れた。肩は紛れもなく、掴まれていた。新太は声をあげる。ガードマンの肩がいびつに(彼の鼻のように)曲がっていたからだ。もう一人が傷ついた男に駆け寄る。弥生は既にエレベーターに乗り込んでいた。「行くわよ」弥生の声は短かったが、意志のこもった声量だった。少なくとも、この世界のどんな人間よりも。新太はエレベーターに乗り込むと、6階を押した。そこが新太の定位置だった。普段は倉庫として物品が置かれていたが、倉庫の中に一つ机が混じっている。新太のワークデスクである。数ヶ月前に仕事を終えたままになっている表面を見ると、側に誰か立っているのに気づいた。弥生はこの階に入った時から気づいていたらしい。じっと、一点を見つめ、その先には髑髏がいた。新太と髑髏は見つめあった。程なく、ガードマン4人が6階にやってきた。「動くな」「警察につきだしてやる」弥生は平然としている。髑髏が動き出した。新太たちがいる場所を迂回するようにガードマン近づいていく。ガードマンたちは髑髏に気づかない。そもそも、彼らに髑髏は見えていないらしい。なるほど。新太は一人納得した。だから、髑髏は会社に入れたのだと。髑髏は非常用階段のドアをすり抜けて、その先に消えてしまった。弥生はガードマンたちに目もくれずにドアの方に向かう。新太も続こうとする。だが、ガードマンたちがそれを許さない。彼らは皆仲間を痛めつけられたことにより興奮していた。弥生が一人違う紺色の制服を着ているガードマンに近づいた。実際にはドアを目指して歩いていただけだったが、ガードマンは弥生がむかってきたように見えただろう。ガードマンは今度、全力で棒のようなものを弥生に振り下ろした。容赦など微塵もない。まるで、彼らが幾日も当たり前のように人を打ってきた種族であるようにためらいもない。4台の打棒機械と化したガードマンたちの攻撃が止むと、弥生はうっすらと切れた唇から血を流しながら、笑った。新太は弥生のこんな嬉しそうな笑顔を初めて目にした。ガードマンが怯んだ瞬間、弥生は正確にガードマンの体の左胸を突いた。掌底といったほうがいいだろう。その圧力は確かに内部に脈打つ心臓に届いたようだ。ガードマンはゆっくりと背中を地面につけるように倒れた。倒れた男は吐血している。そして白目をむいている。
「この世界では無茶はできない」
弥生は宙に視線を彷徨わせて呟いた。三人のガードマンは我先に、と逃げ出した。弥生にとって幸運だったのは、彼らが格闘のプロではなく、素人に毛の生えた程度だったということだ。もし、本気で三人が弥生を捕まえようとしたならば、弥生は程なく取り押さえられていただろう。新太は暴力の持つ恐怖に震えながら、それでも情夫のように未練たらしく弥生の後についていった。非常用階段のドアを抜けると、影は上に行ったとも下に行ったともわからなかった。弥生は新太に尋ねた。新太は新太のいつもの行動を語った。上にはほとんどいかない。つまり、髑髏も下に行くはずだ。二人は下に急いだ。一階まで行くと、さっきのエントランスホールに出た。受付の女の悲鳴があがる。弥生に気づいたのだ。ガードマンたちは、会社の上役に相談するかどうかでもめていた。警察を呼ぶ判断さえ自分たちではできない雇われ者の悲しさだ。髑髏はビルの外からこちらを見ている。静かな目だ。そして、悲しい目だ。「行くわよ」弥生が言った。(行った)新太も外に出た。髑髏は歩くでもなく、何かを教えるようにポツポツと視界に入ってきた。髑髏の歩いている姿は目にできない。髑髏を追っていき、立ち止まると、髑髏は二人の前に姿を現した。
会社では結局、一人の人間の責任ということにして、全てはまるく収まった。そして、その一人は解雇された。すなわち新太である。ガードマンは重症だったが、死んではいなかった。
髑髏は新太の家に向かっているらしかった。上野のある北東の方角に必ず現れた。弥生が膝をついた。ガードマンにやられた傷が痛むらしい。新太は肩を貸し、二人は追跡を続けた。
二人は新太の家である上野のマンションの前に立っていた。弥生は花壇の花の方を向き、そこに倒れている一人の浮浪者に近づいた。浮浪者は垢だらけで恐らく何日も風呂に入っていないだろう。皮膚は赤黒くなって病気にかかっているのかもしれない。病院に行く宛てもなく、大都会東京をさまよう姿に新太は、これからのことを考えた。もし、弥生に一人置いていかれれば、また会社勤めの日々が始まるのだ。(この時、新太は自分が既に解雇されているとは知らなかった。解雇通知が来るのは3日後だった。もっとも、その時新太は家にはいなかったのだが)弥生と新太の磁力は異世界へとつながる糸(その糸は目に見えない。それでいて太い)を強化するように作用した。弥生にとって新太がいかなる存在になったかはわからない。ただ、弥生は新太を欲していた。正確にいうと新太の影である髑髏を。それは弥生の使命とも関係あるようだった。弥生は浮浪者を見ながら、父のことを思い出した。散々、幼い弥生を殴った。そして、最後は野垂れ死んだ。いや、あれは母と共同戦線をはって父を追い出したのではなかったか。父は鍵を持っていなかった。あれは冬の寒い日だった。雪が降り始め、ニュースでは大雪になるだろうと言っていた。夜の九時頃、父がドアを叩く音が聞こえた。二人は布団にくるまって寝ていた。弥生は目を覚ましていたが、起きるのがだるかった。誰であれ、玄関まで出ていくのが煩わしいのに、まして自分たちを殴るだけの男の出迎えなど吐き気を催すことだった。母は寝ていたのかもしれない。寝ていなかったのかもしれない。母は静かに、そして動かなかった。そして、三〇分ほどドアは叩かれたが、やがて静かになった。諦めて近所の居酒屋に飲みに行ったに違いなかった。次の日の朝、居酒屋へ行く道の途中で、心臓発作で倒れている弥生の父を近所の人が見つけた。母は何も言わずに父の遺体が火葬されるのを我慢していた。葬式の費用は二人にとっては痛手で、ただでさえ、稼ぎ手を失った家は困窮に瀕していた。「今日からお前は皐月でなくて弥生よ」母は葬儀場からの帰り道で弥生に言った。その日から父のつけた名前は抑圧の象徴であり、怯えの象徴だった。そして、弥生は新たな人間として脱皮した。その父が何故ここに?弥生と母が捨てた父の骸が何故ここに?弥生は花壇に刺さっていたプラカードを引きぬき、眠っている浮浪者めがけて。しかし、行動は阻まれた。新太が黙っていなかった。珍しいことに何もできないと思われていた弱虫の男が弥生を止めた。後ろから羽交い絞めにしている。新太は思ったより自分に力があるのに、この時気づいた。「やめるんだ」白い息とともに新太は弥生に語りかけた。弥生は我にかえったように、浮浪者を一瞥するとプラカードを投げ捨てた。弥生が見た浮浪者は確かに父だった。紛れもなく。ただ、新太に止められてからは、浮浪者はどうでもいい『誰か』となった。
マンションの中に入って、エレベーターに乗ろうとすると、エレベーターの前には点検中と書かれたプラスチック製の四角の黄色い標識が置いてある。「これじゃ使えないわ」弥生はがっかりして言った。白銀の箱は動きを止めて、中に人が入っているのか入っていないのかもわからない。閉じこめられた人の声を決して外には漏らさない鉄牢を思わせる。新太は弥生がエレベーターを一種特別な機械とみなしていることに、ようやく気づいた。会社でエレベーターに乗った時、弥生の足はエレベーターの振動のせいか不明だが確かに震えていることに気づいた。彼は当初気のせいだと思っていたが、弥生が自動昇降機を見る時、同じように足が震えるのに気づいてしまった。弥生はエレベーターにどんな感情を抱いているかまではわからない。ただ、新太は想像した。恐らく、文明もほとんどない世界で暮らしてきた弥生にとって物とは世界の法則を含むものだったに違いない。決して、人間が動かすものではないのだ。二つの世界を行き来した経験から見出した新太の勘は半分外れ、半分当たっていた。弥生はエレベーターに恐怖していた。そしてエレベーターに恋をしていた。弥生にとってエレベーターの君というべき人がいるのだ。弥生の過去を何もしらない新太は内心歯噛みした。階段を上る弥生のスカートから覗く足は白鳥の首のように白く美しかった。時間にとって弥生は固定された存在とでもいうように新太にとって美しく輝き続けている。気づくと弥生が新太を見ていた。階段の上から下へ見下ろしている。新太は「え?」と答えた。弥生は鋭い声でもう一度聞いた。「あなたの家は何階?」新太は即座に答えた。階はまだ上だった。弥生の白い足を追ってまた上る。新太は自分がいつから足フェチになったのかと疑った。だが、それは杞憂だった。新太にとって心地よい間隔をとったとき必ず目線が弥生の足にいく。それが事の真相だった。やがて、目的の階に着く。新太と弥生が到着すると、髑髏がいるのが見えた。「いたわ」弥生が冷たく言った。まるで小動物を狩る猟師だ。その手法は壁画に描かれた狩猟をする神々の一場面を思わせた。髑髏はすっとドアの中に入っていった。髑髏は明らかに新太を挑発している。新太のこの世界での足跡を全て消そうとでもいうように動いていた。この時はまだ会社を辞めさせられたことを知らない新太は、そんなこととは露知らずに、ただ、髑髏は何故自分と似た風貌をしているのか?そして何故自分と関係のあるところに行こうとするのか謎だった。しかし、弥生にとっては自明のことだったらしい。全ては円環の木の成すままに、と弥生は一人念じた。あの光の存在。弥生に語りかけた光の存在は無数にこの世界にも散らばり、弥生を監視しているという圧迫感を胸に抱きながら弥生は新太から手渡された鍵でドアを開けようと鍵をさしこむ。ピン・ダンブラー錠をガチリと音を立てて合わさり、ドアが開けられた。ここは終着点なのだろうか?弥生の脳裏にふとそんな考えがよぎった。中はひんやりと冷えていた。冬に暖房をつけてない部屋の寒さ。弥生と新太は部屋の中に足を踏み入れた。まず廊下を進むと風呂場と洗濯機置場がある。そして、そこをさらに進むと部屋が二つ左右にある。そして、一番窓側にキッチンがあった。弥生は疑問を感じた。一人暮らしの若い男の家としては広すぎる。ただ、弥生は新太を高給取りの若者として片付けた。弥生は全てを知っているようで何も知らなかった。この世界の新太の生活についてだ。髑髏はどこにもいない。二人は二つの部屋を見回し、風呂場を開け、キッチンを見た。けれども、髑髏はどこにもいない。二人はリビングで顔を合わせ、口を開いた。「髑髏がいない」二人はベランダに通じる窓を開けた。いた。髑髏はベランダの隅で体育座りをしている。弥生は新太には見せない優しい顔をみせた。「どうしたの?さあ、帰りましょう」髑髏は何も言わない。ただ、立ち上がった。その時、強い突風が吹いた。風に混じった髑髏は黒い影となって、新太に襲いかかった。
気持ちは暴風となり、豪雨は心の無意識を濡らし、精神の頑強さを瞬く間に取り去ってしまうブルーザーが蠢いている。建築作業車は基礎をしっかり固められた上に建つ一軒家であった心を巨大な鉄球でバラバラに解体し、残った残骸を、速やかにトラックに取り運びさってしまうと、綺麗にコンクリートを敷き詰めた駐車場を造った。あらゆる手段は行った。それでも、地面に残るわずかな凸凹はかつて、立派に上にのっていた建築物(家)を思い出させた。駐車場となった心はあらゆる種類の車両をうけいれる準備をしていた。馬鹿げた大きさのダンプカーも入れる。優れた一般車の86も入れる。日産の軽自動車も入れる。自転車だって置ける。車に限らず、駐車場はただ一つの用途を除いて完全に汎用可能だった。結局、何も運び入れられずに、2週間の月日が経った。一人の散歩人が、そこにゴミを捨てた。赤いコカコーラー社の空き缶だった。駐車場には歪な構造を持ったアルミの円柱の物体だけが、風の波を受けて、カラカラと音をたてて日中も夜も絶えず存在していた。空き缶からは、やがて芽が出始めた。無機物であるアルミの養分を吸ってできた木は無木と呼ばれた。誰が名付けたかは知らない。きっと散歩していた人間がつけたのだろう。だが、無木が大きくなる頃には近くを通りかかっていた人間も姿を消した。巨大になった無木に一つのウロができ始めたのは、一年後だった。ウロは人間がすっぽり入るような形に成長を続けた。そして、ある時、一人の人間が入りこんだ。誰も住めないはずの場所に住める女。時は3月から4月になろうとしていた。木の上で古代の王朝人が和歌を詠み始めた。『弥生の日 父の捨てし缶 皐月を受け入れ 穴となり果て』王朝人たちは再び過去に戻っていった。
新太が気づくと、弥生が目の前に、憂鬱そうな目をして立っていた。髑髏はもういない。新太は弥生を受け入れる準備が出来ていた。新生した心は巨大な底なし沼となって弥生を飲み込もうとした。弥生は本能的に感じている危機を自分の心が支配されぬ方向にねじ曲げた。新太の夢は夢どまりになった。いつでも弥生を皐月として受け入れる準備はできていた。ただ、弥生は皐月であることを拒んだのだ。二人が一緒になる日は来るのだろうか。結婚や、セックスといった俗世の感覚、肉的な世界から真性の融合というべき、現代人から見れば奇怪な現象へと到達する日は来るのだろうか。弾かれた弥生の心は消息不明におちいりそうな子供同然だった。新太の新生が弥生をそこまで弱らせた。弥生はけだるそうに、ベランダから屋内に入ると、東の部屋にある寝室のベッドに倒れこんだ。新太も金魚の糞のように弥生の後についていくと、リビングのソファに倒れこんだ。二人は久しぶりの眠りを味わった。束の間の休息といえるかけがえのない時間を二人は寝て過ごした。もう、一つになってしまった髑髏と新太は世界にとって危険な存在、そして貴重な存在へと変貌を遂げていた。巨大な再生を象徴する神話の卵は、眠ることによって孵ろうとしていた。まもなく、神話の時代が幕開ける。この世界と異世界は一つの世界として融合をはじめ過去と未来を次元の違う曲解へと導くのだ。呪縛を整えし魔術師たる弥生の運命は死が約束されていた。紛れも無い真実が新生した新太によって引き起こされた新生しつつある世界にはあった。それは、どちらかが命を落とさなければならず、新太の死は世界の崩壊に繋がるということだった。不可思議な影のように新太に付き添ってきた教導者としての弥生は、こんなにもか弱い存在だったのだ。間違いなく新太が、主人公であり、弥生は脇役に過ぎなかった。だが、弥生は光る脇役としての地位をまざまざと見せつけることになるだろう。二人の眠りは世界二つの別れの涙であり、合一することの感情的爆発を含んでいた。新太は夢を見た。久しぶりに見た父親の後ろ姿はもはや、人の形をとどめていない。それでも、新太はそれが己の父親であるとわかった。DNAの共鳴とでも言うべき現象を確かに感じ取ったのだ。父親は新太に厳かに告げる。「お前の代わりはいくらでもいた。だが、今、お前はかけがえのない世界の一部となった。私が割いた世界の統合をするのがお前とは皮肉なことだ。だが、もう私には何の力もない。まもなく敵が現れる。世界と世界の繋がりを阻止するべく、生まれた存在。そう、もう一人の私であり、もう一人のお前でもある影。奴は確かに、いる。重度の心臓疾患の患者の鼓動のように脈うっている。今に奴は手術をうけて復活するに違いない。お前は影の力を消すために、母親を探し、殺さなければならない。これは宿命だ。そら、影が動き出した。奴らは、風のように早く、雷のように鋭い。もし、影との戦いに敗れれば、お前は死ぬ。もし、お前が生きたいと願うのならば母親を探せ。そう。お前を誰よりも可愛がり、愛した母親だ。あの母性をお前はもはや必要としていない。必要としていないものは効率的世界にとって役にたたないものだ。健闘を祈る。もし、お前が心の弱さを封じられないとすれば、二度と世界は一つに戻ることはないだろう。今は全てわからなくともいい。ただ、お前は母親を探せ」新太が目覚めた時、育ての親である人間の言った言葉がはっきりと記憶に残っていた。弥生も起きてきた。新太は夢の話を弥生にした。弥生は短く言い切った。「探すしかない」新太にとって弥生は、父親の語った物語の中のどんな役割を含んでいるのか謎だった。父親は何も言わなかった。影の存在は新太を死の恐怖におとしいれた。新太は父の姿の背後にはっきりと生まれつつある邪悪な影の姿を確かに見たのだ。自分の影を殺すことはできても父の影を倒すことはできるのか?疑問が頭をかすめた。迷いこんだ森の中で、一人助けを呼ぶ子供時代を思い出した。あの時は母が助けてくれたんだった。ところで母はどこに?新太は以前に送られてきた母親からの封筒を見た。島根県出雲市。そこにはただ、それだけが書かれていた。
次の日の朝、二人はコンビニで勝ったサンドイッチをほおばりながら、新幹線の東京駅に急いだ。上野の駅は人々で混雑していた。そこにはまるで、二人のことなど全く眼中にないとでも言わんばかりに、人々は日々の生活を送っていた。切符を新太のお金で買うと、二人は島根県の出雲市行きの切符を買った。上野から出雲市駅までの乗車券、東京から岡山までの新幹線特急券、そして岡山から出雲市までの特急券。二人は山の手線で東京駅まで行き、新幹線のぞみを前にしている。売店のキヨスクで弁当を買う。シュウマイ弁当と幕の内弁当である。お茶は『お~い、お茶』を四本買った。冬なので、喉は渇かないと思うが、念のためである。窓際の指定席に弥生が座った。通路側にいる新太は、もしかしたら以前仕事で大阪に一度だけ行った時、富士山が見えたのを思い出して、窓際でないのが残念がった。ただ、空は曇っていたし、どうせ見えないだろうと諦めた。二人の間に特に会話はなかった。今までと違うのは新太が終始弥生をリードしていたということだ。弥生は気難しい顔をして黙ってついてきた。のぞみは機械音とともに発車した。岡山は終点ではないので、寝る気分にはならなかった。そこで、新太は弥生に話しかけた。「君は何者なんだ?」弥生は獣のような表情で振り向いた。
弥生はスカートのポケットから黄色の折り紙を取り出した。人間のように頭、足、手、胴体がある。大雑把に言うと、黄色以外の表現は見当たらない。だが、新太は紙に小麦の匂いを感じた。あの大きな畑の一面に生えしきる金色の植物たちは風に揺れて、時にうねり、時におとなしく畏まっている。新太は昔住んでいた田舎の風景を思い出し、不思議に思った。紛れもなく、弥生が見せているのはただの折り紙だったのだから。しかも、紙はポケットで肌に密着していたのだろう。微かな温もりを含んでいた。人型の紙をいろんな角度から新太は見た。だが、どこから見ても、黄色の紙だった。弥生は窓の外を見ていたが、新太が紙を扱う術を知らないのを可笑しく思ったのだろうか?微笑を浮かべて、「紙を開けてごらん」とささやいた。指を丁寧に動かし、壊れ物を触るように新太は紙を開いていった。やがて紙は完全な正方形に戻った。そして、黄色の紙の裏には文字が書いてある。『新太と弥生の約束』訳がわからない。しかし、新太は気づいていた。この文字が新太の字だということを。そして、これを折ったのは恐らく弥生なのだ。弥生はゆっくりと語り始めた。「あなたが覚えていないもの無理はないわ。私とあなたは、この世界で行方不明になったのよ。一人は一年後に見つかった。影を失って。最後まで聞いて。そう。あなたよ。そして私は暗い世界に閉じこめられた。でも、それで良かった。あなたがいれば、それで良かったから。私の決められた住居にあなたは半身となって、いつも食べ物を運んでくれた。でも、影には意志がなかった。反応するだけの機械と同じ。動力はどこかにあったのでしょう。でも、複雑な動きは何一つできない。ただの人形。計らずも、今あなたが解体した折り紙の人形のようにね。そして、あなたと影は今馴染んできている。もうすぐあなたと影は全てを思い出すかもしれないし、思い出さないかもしれない。所詮私はその程度の存在だったのかもしれないわ。でも、驚くべき事実が、ある日、暗黒の世界で“光れる者”から知らされる。それは私が、あなたのために造られた一種の人形だったということ。向こうの世界から来た人形。完全にあなたと補完性を持った人形よ。光れる者にとって、私はその程度の物だった。でも、闇の世界では光れる者が全ての力を握っているわけじゃない。今、私たちがいる世界の全ての人々の俗悪な影もまた、あの世界に閉じこもっている。その影は光を蝕むのよ。そう、あなたの影が私にしたことのように。私は光の使者なの。そして、あの日、あなたを迎えに行った。あの日だけじゃない。いつか、あなたが私と出会えば、私の側に留まるだろうと確信していたわ。だって、敵であるはずのあなたの影でさえ、光である私のために生きる糧を与え続けていたんだから。予想通り、あなたは私についてきた。光と影が交わる領域、場所、時でないと決してたどり着けない、光のない世界へとむかうために。私は嬉しかった。何も覚えていないあなたであっても、こうしてめぐり会えたんだから。でも、本当いうと、髑髏はいつも仮面をしていたから、あなたの顔を忘れていたの。だから、慎重にあなたが、二つの世界をつなぐ人間か確認した。結果は間違いなくあなただった。私はそれがわかった時、列車の中で、気付かれないように泣いた。そして、私はあなたとあなたの影を見守った。できることなら、私は私を愛していた影と行きたかった。でも、影は所詮、影だった。光によって別の世界に送られたのよ。それから、私とあなたは、いえ、私のためだけに二人は光の世界へと向かった。そして、きっと影の世界ではあなたと影は決して交わらない法だったのよ。そして、光の世界で再び交わった。でも、あなたは私を思い出さない。あなたの中の私の記憶はどこへ行ったのだろうか。私は考えた。あなたは影と交わった後に夢を見た。その言葉から私はひとつの仮説をたてた。影は私の知らないどこかで、影同士でお互いに影響を与え合い、その純度を高めていった。深い世界には影の集まる淵があると光れる者は言った。そして、今、淵から恐るべき者たちが蘇りつつある。それは、たぶん、あなたの中にあった核となる私の記憶。どこまでも輝いていたあの黄金の中で、夢と約束を誓い合った、あの日。弥生の前には新幹線の座席しかなかったが、遠い目(はるか、彼方を見渡す目)をして語った。新太は信じられない、と思った。だが、そう思うだろう彼を見越して、弥生は黄色の紙を出したのだろう。だが、弥生は依然として、重大な部分を語っていないような気がした新太は、さらに質問を重ねようとしたが、頭は疲れきっていた。混乱といってもいいだろう。新太は、影の淵を考えた。はっきりとした形はとらなかったが、恐怖が湧いてくる。喉元に真剣を突きつけられた心境に似ていた。唾を飲み込む。喉を異物が通ったような違和感がする。気のせいかもしれない。新太は自分の感覚が自分のものでない状態に陥った。影との融合は今までの新太を壊そうとしていた。弥生の手が新太の手に握られているのを感じる。弥生は光である、と新太は強く思った。温もりは確かに、自分が存在している根拠となった。そして、新太は思い焦がれる弥生をずっと昔に手に入れていたのだ。だが、何をどうしたかは相変わらず何も思い出せない。だから、ただ、この弥生に対する思いは生来の性質なのだろう。きっと昔の新太が弥生に惹かれたように、今の新太も弥生に惹かれているのだ。ただ、弥生は今の新太を決して受け入れないだろう。弥生の手の温かさは未来の、そして過去の新太(記憶を取り戻した新太)に何十倍も強く注がれていたのだから。
新幹線は岡山駅に着いた。出雲市行きの特急に乗り換えると二人は弁当を食べた。特急はまもなく出発して、出雲市へ向かった。電車の中で二人は無言だった。やがて出雲市に着く。二人は電車を降り、出雲市へとおりたった。二人はあてもなくさまよう他なかった。だが、駅の少し外れたところで男につかまった。男はタクシー兼観光案内をするモグリの観光業者らしかった。新太にはあまりお金がなかった。ほとんど、切符代に消えてしまっていた。そのことを言うと、男は弥生を見た。弥生の手には一万円札が二枚握られていた。交渉はすぐにまとまった。二万円あれば、弥生と新太は十分に出雲を観光できるはずだった。いや、観光に来たのではなかった。新太の母親を探しに来たのだ。男は笹金と名乗った。笹金は善良そうであり、後ろめたさを持った男だった。二つが同居している男からはどこか異常な雰囲気を受けるものだが、笹金からは感じなかった。新太と笹金は世間話をした。今の総理大臣がどうしたとか。震災の傷跡はまだ癒えないでしょうなとか。それこそ、新聞の一面に見る話から三面くらいの記事まで語り終えた頃、笹金は奇妙なことを言い出した。「おかしいな。ずっと黒い車に付けられてるな」最初、笹金は勘違いかもしれない、とすぐ取り繕った。しかし、今度は弥生も気をつけてみていると、やはり付いてくる。「付けられてるわ」弥生も言った。笹金は新太のことなど無視して、弥生に聞いた。「まきましょうか?」弥生は無言で賛成した。車は急に速度を増して、急カーブをすごい勢いで曲がった。笹金は興奮した声で自慢した。「これでも昔は走り屋だったんですよ。任せてください」顔は見えなかった。二人を振り返る余裕もなかったし、新太も弥生も笹金の顔になど興味はなかった。にきびが年齢にしては珍しくついていたな、と弥生が気にしていたくらいである。あまりにも曲がり角の多い道路だったので、二人は酔いそうになった。特に新太はひどく気分を悪くした。黒い車はぴったりと笹金の車の後ろに付いてくる。まるで、影のように。とうとう車は止まった。弥生が新太を心配して「止めて」と叫んだのだ。笹金は仕方なく止めた。結局相手から逃げられなかったことを申し訳なく思っているようだった。黒い車も堂々と二〇メートル後方に止まった。笹金は文句を言ってやろうと思ったらしい。運転席から出て、黒い車に近づいていった。弥生と新太は外に出た。ちょうど簡単な展望台だった。いつの間にか山を登ってきていたのだ。辺りには田園風景が広がっていた。笹金の叫び声が聞こえた。黒い車のドアからはのっそりと巨大な体をした坊主頭が姿を現した。笹金は片腕で宙に持ち上げられて呻いている。坊主頭はこちらを見た。虚ろな目だった。