Mirrors
[Prologue - zero -]
『好きだよ』
幾らでもこの口は嘘を紡いできた。
けれど鏡のような君の双眸は、真実しか映してくれないように思えて。
抱いた感情に、名付けたくはなかった。偽りでない、ソレはまるで、――無数に囁いてきた『嘘』そのもの。
形にすることで、壊したくない。変えたくない。
だから俺は、その感情の名を未だに知らない。
知りたくないと、願う。
嘘で固めた自分。自分に限りなく似た他人。
まるで、鏡の中の虚像。でもきっと、どちらが現実なわけでもない。
誰かを映して初めて、俺達は生まれる。
俺達は、存在できる。
単体では存在しえない『俺』と『君』。誰かを映して形を得る。決して自らの姿を知ることはない。
――筈、だったのに。
あの日、俺達は互いに、鏡に移った自分自身に出会った。
出会って、しまった。真に限りなく近い虚に。
ソレは、存在しない筈の自分を確かに捉え、映し、形を与えた唯一の鏡だった。
思わず差し延べた手の理由は、何?
君という鏡に依存し、溺れながら、知る事に怯え、感情を封じてまでも繋がり続ける。
その関係の名を、俺は知らない――知ることは、ない。
きっと、ずっと、……。
[Prologue - blank -]
『大嫌い』
口にすれば、感情なんて酷く単純。真実も、嘘も、生み出すのは容易い。
……でも、何か違って。
本心から、君が嫌い。(でも、それは自己嫌悪)
本心から、君は大切。(でも、それは自愛)
鏡合わせの迷宮。傷を舐め合うように、私達は過ごす。癒しも、救いも、求めない。
君がいれば、生きてゆける。君がいるから、存在出来る。
依存の海。溺れる二人は、互いを知らない。
私達の世界。私達の唯一。
失えば壊れてしまいそうな、脆い精神を抱いて。
創り上げた楽園を壊すモノは、自分自身であろうと赦さない。
だから、何も知らない。知ろうとしない。
やっと見つけた、この居場所。紛い物でも構わない。正しさなんて求めない。
始まりの感情。差し延べられた手に縋った、その理由。
芽生えたモノなんて知らない。知りたくなんて、ない。
――だってそれは、私達の世界を揺らがすモノ。
理解すれば、総てが変わる。崩れる。なら、知らない。消えてしまえばいい。
私達の関係の、その理由なんて。
[ep.1*blank_1]
あの日、東京は雨だった。
――――― "BLANK"Side ―――――
久方振りの本降りに見舞われた首都は、多くの人で溢れかえっていた。
渋滞で足止めされた車の列。それを縫うように走るバイク。……流石に、今日ばかりは自転車を見かけることはない。
そして、歩道を埋め尽くす程の人、人、人、――普段であったなら、まず間違いなく憂鬱になるような光景。
しかし、幸か不幸か今現在、精神状態は正常には程遠かった。
行き交う人の波を逃れ、路肩に座り込んでどれだけ経ったか定かでない。
どこかの店の軒先を借りるでもなく、氷のようなアスファルトに直接腰を下ろしていたせいで、既に全身の感覚が遠い。
勢いよく落下した雨粒が、地面に溶け込む前の最後の抵抗とばかりに跳ね上がっては、通行人の足元を濡らしてゆく。
そんな様を眺めていると、すぐ目の前を通り過ぎた靴が水溜まりを踏んだ。――濁った水が顔にかかる。
濡れた感触が、頬を伝って落ちた。人に興味なんてないから、わざわざ顔を見るなんて無駄なことはしない。宙空を漂う視点を動かす気すら起きない。
……当たり前だ。
だって、その靴も一瞬の乱れすら感じさせない足取りで去って行った。きっと、持ち主は水溜まりを踏んだことなど知らない。ましてや、視界の片隅にずぶ濡れで座り込む存在なんて。
そのまま、拭いもせず緩慢にくすんだ重い空を見上げれば、すぐに新たな雨水がそれを洗い流していった。
同時に、目に入った雫が流れ出す。
涙なんてモノはとっくの昔に枯れ果てた筈だから、きっと雨粒だろう。
凍り付いたような無表情のまま、思わず口元だけが微かに自嘲じみた笑いを浮かべた。
寒い日だった。大都会を吹き抜ける風は冷たい。雨も、冷たい。
容赦なく体温を奪っていくそれらから逃れる為に、人々は一心に足を動かす。
彼らには、きっとその帰りを待つ暖かい家と、家庭があるのだろう。それぞれの荷物を抱えながら自宅に思いを馳せて、一秒でも早く温もりを感じようと足早に通り過ぎていく。
私に目を止める人間など、いない。いる筈もない。誰ひとりとして。
存在すら認知されない。それでいい。下手に救いの手を差し延べられるよりかは、余程ましだ。
温もりなんて要らない。この寒さが心地良い。
そのうち、身を裂くようなこの風が、私の命を掻っ攫ってゆくだろう。身を凍らせるようなこの雨だけが、その密かな死を悼むだろうか。
嗚呼――、なんて相応しい最期。
それだけを待ち望む。
私には、行き交う人々のような帰るべき家はない。私を待つ家庭も、自らの持つべき荷物さえも。
どうせ、何もかも必要のないモノ。
あとは唯、このくだらない人生の終幕を待つだけだから。
[ep.1*zero_1]
あの日の衝動、その名を俺は知らない。
――――― "ZERO"Side ―――――
アスファルトを穿つ雨粒。狂ったように啼く風。
大都会で人間を自然が翻弄する様を見るのは、愉しい。歪んだ自分自身を肯定された気分になる。
世間一般の『普通』の枠には入れない事を知っているから、それを破壊するような自然現象はお気に入り。
だって、俺みたいなのにも、いっそ冷酷な程平等に接してくれる。俺が俺でも、他の誰であっても。――それが、いい。
敵じゃないけど味方じゃない。十分だ。
味方面なんてされたって、邪魔なだけ。いつ裏切るかも分からないし、第一面倒臭い。
かといって敵になられたって困る。しなくていい苦労をする羽目になるなんて、真っ平御免。
だから、敵でも味方でもない中途半端。それがベスト。
遠くに知り合いの影を見た。
叫ぶなんて真似はしない。程々の距離に入れば、適当に声を掛けて、当たり障りのない会話をして、それで終わり。
確か、ドライな関係を好む奴だったと思うし、そんな感じでいいだろう。向こうから話を振られれば、また別だけど。尤も、最初からそんな面倒臭そうなのと関わろうとは思わないから、余程のことが無ければそのパターン。
ああ、目が合った。片手を上げて愛想笑い。後は予定通り。軽く言葉を交わして別れる。
あっさりした奴は、嫌いじゃない。好きとは言わないけど、楽でいい。
自分が歪んだ価値観の持ち主だと、知っている。自覚しているからこそ、周りに歪んだ存在として見られたくない。
だから今も、周りに溶け込むように、他者の望む自分を作る。
――そうだな、少し物鬱げに、この天候を欝陶しいと思いながら、でも無表情。足早に進むくらいでどうだろう。
本当は、別に早く帰りたいとも思わないし、雨は嫌いじゃないけれど。
でも、「帰りたくない」わけでも、「雨は好き」なわけでもなくて――尋ねられたところで、俺は好みなんてきっと何一つ答えられはしないだろう。
だって、俺に意思なんて存在しないから。
演じることに慣れすぎて、いつの間にかそれが自然体になった。見てくれだけ繕った、空っぽの存在。忠実に、他者の理想を現実に映す。そこに自分自身は存在しない。
まるで鏡。
無。それこそが、俺。
アスファルト上の水溜まりを器用に避けて、道行く人々に埋もれるように歩く。欠片も『異常』を感じさせない。
だって、そうだろう? 普通を映した俺が、普通以外の何だって言うの。
嗚呼、なんてくだらない。そして酷く愚かしい。幾つもの仮面を被り続けた結果、素顔を失うだなんて。
それでいて、仮面は仮面だって自覚しているんだから性質が悪い。
溜め息を一つ零して、天を仰いだ。
安っぽいビニール傘越しに見た空は、暗く、くすんだ雲に一面を覆われている。
世間一般の人とやらはこの空を見て、『悲しそう』だとか、感じたりするんだろうか。確かに、その時の空は泣いていたように思う。でも、どちらかと言えば俺には――。
「! うわっ……」
不意の突風に煽られ、慌ててつぼめた傘の骨は随分曲がっていた。
早々に修復を諦めて、近くのコンビニ前に放置する。所詮、安物だし。細かくマナーを気にするような聖人はなかなかいないものだ。
どうせ、もう随分濡れてしまった。今更深く気にすることもないだろうと、そのまま歩き出した。
今日の雨は突然だったから、雨具を持たない人も多いし、さほど奇妙な目では見られないだろう。
一人でいると落ち着かないけど、特定の誰かといても休まらない。そういう性だからしょうがないけれど、たまに意味も無くこうして出歩く。
今回もそのつもりだった。手ぶらで不審がられない程度に近所をうろついていたら、この様だ。
いい加減帰ろうと、自宅の方向へ踵を返す。
一人で過ごす時、映すべきものを見出せない俺は、わかりもしない癖に本来の自分に戻ろうとする。『素』とでも言うのだろうか。
結局、見つからないから、無表情で無感情な人形みたいな存在になる、――らしい。
一人で鏡を覗いたって、そんな自分を見ることはないから、本当のところは知らない。
でも、その様を見た奴は、揃って俺をこう呼び出した。
ZERO(無)、と。
他者のいる場所で現れることはない。その存在を意識した段階で、また『俺』という仮面が作り上げられてしまうから。
だから俺は、ZEROを知らない。そんな自分を知らない。
きっと、言うなればそれは俺の中の鏡そのもの。本質であり、無。存在しないからこその、存在。……だったのに。
――見つけた。
ZEROを、他者の中に。
もう一つの鏡。それ以外に何と言い表そう。単純に言えば惹かれた。でも、それは彼女という存在ではなく、その瞳に。
その中に、無表情で固まる自分を、見つけたから。
路肩にあった、強く、空虚な瞳。すぐ側にいたのに、視線がかちあうまでその存在を全く感じなかった。
けれどその瞬間、悟った。
嗚呼やはり、今日の空は泣いていた。心の底からの歓喜に。
空は泣き、風は啼いた。この存在を、この出会いを、予見して。
目が合った。それだけだった。けれどそれこそが、呼吸を忘れるほどの衝撃をもたらした。
見つけた。同時に、見つけられた。
存在しないはずの自分。何もない空間にぽつりと浮かぶ、無数の仮面の集合体のような。彼女の双眸を捉えた瞬間、その自分が存在することに気付いた。……気付かされた。
そしてそれが、酷く虚無なものだということにも。
音が消える。忙しない往来の生み出す騒音も、アスファルトを跳ね回る滴の足音も、激しく唸る風の音さえも。
静寂に溶けて、遠ざかる。何もない世界に取り残されたような錯覚を覚えるほどの、無音。
この世界には俺と、目の前の彼女しかいない。今まで出会った誰も彼も、自分自身でさえ見つけ出せなかった存在を、容易く捉えられた鏡の持ち主。
気がつかぬ間に、違う世界に足を踏み込んだような。いいや、そうじゃなくて。一歩も進んでなんかいない。立ち止まった、だけ。
互いの存在に戸惑って、誰もが時間の流れに任せて無意識に踏み出すはずの足を止めた。そして、世界ごと進む他の人々との間に果てしない距離が開いてしまった。
取り残された二人に残されたものなど何もなくて。果てしない無。ぽっかりと浮かぶ空白。
けれどその中で、未だ『俺』は存在していた。仮面を剥ぎ取られた衝撃から立ち直れぬまま、呆然と立ちすくんでいた。
それは一つの世界だった。2つの眼差しが交錯したその間だけに生まれた世界。俺と彼女、二人だけの、唯一、全ての仮面を剥ぎ取った自分が存在することを許された場所。
路肩に座り込んだ少女と、その傍らに佇む青年。無言のままただ只管に視線を交え続ける。それは、傍から見れば異様な光景だったことだろう。
けれど、行き交う人々の誰一人として、俺達に目を留めることは無かった。精一杯今を追う彼らの視界に、立ち止まったちっぽけな二つの存在が認識されることは、ない。
ようやく意識が覚醒したのは随分経ってからで、ましてやこの口が言葉を紡ぐことを思い出した頃には、全身余す所無く雨水に侵され、すっかり濡れ鼠になっていた。
ちょうど、目の前の彼女と同じように。
震える唇がやっとのことで思いを形にする。
「はじめまして、――」
『俺』。囁くように発した言の葉、その宛先は『目の前の自分』。
[ep.1*blank_2]
強いて理由を上げるならば、冷たい手。
――――― "BLANK"Side ―――――
遠退きつつある意識と、雨風が身体から熱を掠め取っていく感覚に、人生の終幕が近づきつつあることを悟った。
そっと胸の内に歓喜を抱く。身動き一つしないように努めて、僅かな体温の上昇をも防ごうとしてきたのは、少しでも早くその時を迎える為。
終の足音が、迫る。
人波に潜みながら、一定のペースで刻まれるカウントダウン。
もっと、もっと早く……。ほら、もう一歩。あと一歩を、頂戴。
私を連れ去る死神は、誰?
虚ろに彷徨っていた視線が一点を捉えた時、目前で足音は消え去った。私を看取る筈だった風の声や雨音さえも、道連れにして。
残されたのは、二人だけ。
びしょ濡れのまま、目前に佇んだ青年。時間すらも忘れて、霞みだした視界に映るその瞳に魅入った。
何て無機質で、虚ろ。人好きのする笑みとのアンバランスさが相俟って――微かに、同族の匂いを漂わせる。
やがて口を開いた彼は言う。
「はじめまして、――」
その先に続くであろう言葉を、知っていた。宛て先は私で、私でない。初めから『相手』なんて見てはいない。『自分』に宛てた、届かぬ言の葉。
だって、私も同じだから。
――はじめまして、『私』。でも、
サヨウナラ。
無言で別れを告げた直後、私達の世界は崩れ落ちた。音が舞い戻る。
でも、そこに終の足音は存在しなかった。
じわりと沸き上がるのは、絶望。どうして。私に安らぎを届ける死神は、どこへ消えたというの。
「何してるの?」
目の前に存在するのは、標準的な表情と声音を装備し、あの瞳の虚ろさすらも仮面の向こうへ追いやった、『普通』の青年のみ。
「君、生きてる?」
彼は最早、私を揺さぶる存在ではない。先程感じた微かな匂いなど断ち消えた。
問い掛けを全て遮断し、失望のままに瞼を下ろす。
今度は万が一にも誰かと視線の交わることの無いように俯いて、もう一度、終の訪れを待つ。
「――嗚呼、死にたいの?」
小さく響いたその声音に、弾かれたように顔を上げる。――全身に、戦慄が走った。
別人のような無表情。怒りも悲しみも同情も、いかなる感情も含まない声。あの、酷く虚ろな瞳。
消えていた匂いが、突如濃密に薫る。
「どうして?」
そう言って彼はまた、笑う。
無害な好青年のように。異質さの欠片もない、どこにでもいる人間のように。
その事実こそが、何よりも異質だった。
これは、誰。くるくると色を変える、この存在は何。
怖い。何よりも、彼の瞳の中に違和感なく収まる自分自身が。歪みきった何かを前にして、微塵も嫌悪感を抱かないどころか親近感さえも覚えた、『私』という存在が。
死にたい。死んでしまいたい。今すぐ消えてしまいたい。
こんな異質さはいらない。この世界に、この社会に、イラナイ。
「答えてよ。……あ、声出ないとか? ひょっとして聞こえてない?」
本気で、私を案じるような声色で、表情で、彼は何を思うのだろう。
『私』など見てはいないくせに。『私』という存在に欠片の興味も持たないくせに。
真っ直ぐに向けられる、その瞳が本当に捉えているのは、私の探し求めたモノ?
見えているの、貴方には。存在しているの? 本当に、ソレは、――いや、わかっている。
ソレは、かつて私の求めたモノは、存在しながらも空虚だった。掴めなどしない、空っぽのナニカ。不確かな形で浮遊し質量を持たない。
その空白を、埋める術を知らなかった。欲した。手に入らないことを悟った。今では存在の有無すらも、知りえない。……知りえなかった。
視線の交わる瞬間、あの時悟らされた。
『未だソレは存在する』。
存在する。存在しながら、存在しない。なんて矛盾。なんて異質。
だから。誰かと関わる気などない。異質さを思い知らされたくなど、ない。
願わくは、この正常な世界からの離脱。
それだけを、ただ一心に求む。求めて、来たのに。
気がつけば、彼の言葉に応えていた。
どうして、他の何より正常からかけ離れたその存在を、自らの望みの成就を妨げる存在を、拒絶できなかったのだろう。
無言のまま、静かに首を左右に振った私に、その異質な青年が何を思ったかは知らない。
「このままここにいれば、死ねるだろうね」
にこやかにそう告げた後、彼は動いた。
そっと、野良猫にでも差し出すかのように、伸ばされた腕。
あまりにアンバランスな言葉と表情は、初めて表面に押し出された、稀有なまでに紛れもない異質さ。
そして、私に伸ばされる腕は、今までのどんな言葉より、表情より、自然で、正常なもの。
私の最も拒絶するものと、唯一求めるものを、併せ持つ青年。
どこまでも似通った、けれど僅かながら確かな差異を持つ鏡の中の自分。
目の前に浮かぶ彼の手に、やがて釣られるようにして体が動く。
緩慢な仕草で持ち上げた腕を、彼は表情一つ変えずに見下ろしていた。
どうして、その手を取ろうと思ったのか、分からない。
ただ、恐る恐る触れた指先から伝わったゾッとするような冷たさが、しっかりと手を握る決心を固めさせたのは、確かだったように思う。
(温もりなど、求めない。癒しも、救いも――……終を投げ出してまで求めるものがあるとすれば、それは)
(共に堕ち、腐り、果ててゆく運命共同体……だったのかも、しれない)