水のような女
斜向かいに住んでいる女のことが気になっている。恋情ではない。不審だからである。歳は二十代の前半くらい。太っているわけではないが、痩せてもいない。背は160センチを少し越したくらいだろうか。着ている服は黒が多い。なかなかお洒落だ。眼の下の隈が少し気になるが、顔も悪くない。長い髪の隙間から見える表情は、いつも何となく憂鬱そうだった。アンニュイ、と云うやつがぴったり合いそうな女である。
最初にその女に不審を感じたのは、ある朝のことだった。ぼくは自宅のアパートのある駅から二つ離れた土地にある居酒屋でアルバイトをしている。夜通しの勤務を終え、帰宅するべく駅までの道をふらふらと歩いていたら、マンションとマンションの隙間の狭い路地からその女が出てくるのを見た。片手にコートを抱えて、俯き加減で歩いている。女は男の後ろに付いて歩いていた。中肉中背といった感じで、髪の少し茶色い、俗っぽく言えばチャラそうな男だった。その男のチャラい雰囲気と、女の陰気な感じがどうにも折り合わなくて、女が何か不幸に見舞われているのではないかと思った。二人はそのまま連れだって、駅とは反対の方へ消えて行った。時刻は5時を少し回ったところだ。街はまだ、動き出していない。
二度目。今度はバイト先とは逆に二つ行った駅でのことだ。友人と呑みに行った帰り道で、ホームに向かう為に改札を潜ろうとしたぼくの方へ向かって、女は改札の中からやって来た。その前には男が二人。この前の男と、もう一人、背の高いひょろひょろとした男だった。女は二人の後ろに従って歩いてきた。ピ、ピ、ピ、と軽快な音を立てて、順に三人は改札を潜る。一番前の男はさっさと歩いてどんどん先へ進んでしまう。二人目の男もそれに続いていたが、駅を出る少し手前の所で、女の方を振り返った。女はパスケースを鞄に戻そうとしながら歩いていて、二人よりも少し遅れていた。二人目の男は一瞬歩調を緩めたが、一人目の男がどんどん遠ざかってしまうので、すぐに女から目を離し、元の歩調で歩き出した。ぼくは三人の様子を見送って、それから改札を潜った。電車はあと二本でお終いだった。
三度目。ぼくの家の最寄りにはスーパーが三つある。一つは駅の目の前にある、高級スーパー。ここには閉店間際の、惣菜が安くなった頃にしか行かない。二つ目は、そのスーパーから少し離れた、バスターミナルの側にある庶民派スーパー。ぼくは日々の買い物を、専らこのスーパーで済ましている。安いことは安いのだが、家から一番遠いのが難点である。三つ目は、駅から家へと歩いて、更にその先にもう少し行くとある。家からはここが一番近いのだが、一人暮らしを対象にした売り方をしておらず、野菜も肉も惣菜も、とにかく量が多い。その分安い計算になるのだが、どうしても無駄が出てしまうので、あまり好んで利用しなかった。その日ぼくは珍しく、その三つ目のスーパーに居た。その近くにある郵便局に用があり、それを済ませた後にわざわざ二つ目のスーパーまで行くのが面倒だった為だ。野菜や冷凍食品をいくつか買って、そのかごの中の量と、会計の反比例ぶりに感動しながらレジ袋に品物を詰めていると、女と、例の一人目の男が店に入って来た。女は如何にも普段着という出で立ちで、色の褪せたジーパンとパーカーに、この寒い中足元はサンダルであった。女はこれもまた部屋着という感じの男と一緒に、弁当売り場を覗いていた。二人は何やら言葉を交わしながら、弁当を物色している。男が何か冗談を言ったのか、女が笑っている。眼を細めて、楽しそうに笑っている。そこには憂鬱そうな雰囲気も、陰気な雰囲気も無かった。女はとても自然に笑っていた。眼の下の濃い隈は相変わらずだが、それでも楽しそうに笑っていた。ふと、横の男が顔を上げて、こちらを見た。ぼくは二人の様子をじっと観察していたので、男としっかり視線が合ってしまった。しっかりとその顔を眺めても、やはりチャラそうな男だと思った。男はすぐにぼくから眼を離して、また弁当の物色を始めた。もう男がこちらを向くことは無かった。女は穏やかに笑っていた。
女とは一言も口を利いたことが無かったが、ぼくは何だか女のことを酷くよく知っているような気になっていた。女があの男たちと、夜毎に街で何をしているかなど知らないし、見当もつかない。ぼくは女がいつも朝の7時50分にごみを捨てに表へ出てくることも、スーパーで出会う度にかごの中に必ず三本束になった長ネギが入っていることも知っていた。別にそれ以上は知らなくてよかった。きちんと自炊をし、ごみを溜めてもいない、ちゃんとした生活を営んでいるのでも、夜の街で何か危ないことに巻き込まれているのでも、何でもよかった。むしろ、そのどちらでもあって欲しかった。
四度目。下りの電車に乗り込んで、真っ先に眼に付いた空席に座った。腰を落ち着けてぼんやり発車を待っていると、ドアが閉まる直前に、何者かが一番近くにあったドアへ駆け込んで来た。そのせいで一度閉まりかけたドアが開いて、それからまた閉まった。何者かはとぼとぼと歩いて、ぼくの横の席に座った。俯けていた視界に映ったその足先に何だか見覚えのある気がしたので、横目で窺うと女だった。女は駆けて来た為に少し呼吸が上がっていた。電車は動き出し、女の呼吸は少しずつ静まった。その間手では鞄の中をごそごそと漁っていた。女は最初に携帯電話を取り出して、時間だか着信だかを確認してから、それを仕舞い、次に文庫本を取り出した。上品な、革のカバーに納まっていた。しおりを抜き、中ほどから読み始める。ぼくは横目で、その本の中を窺った。知っているものだった。その本を女は初めて読んでいるのか、何度も読んだお気に入りなのかは分からない。しかし何となく、後者のような気がした。後者であればいいと思った。女がその本を読んでいるのを見て、ぼくは妙に納得した気持ちになったからだ。蔑視したとか、そういう話ではない。ぼくは文学と親しい女が好きなのだ。