同じ研究室の学生に論文へ熱いスープをかけられたのに、指導教員でもある彼氏は真っ先に彼女の手を拭いた
青嶺大学の研究室の送別会で、今年、研究室から一人だけ選ばれる博士後期課程の推薦候補が発表された。
怜司が口にしたのは、私ではなく小野寺美咲の名前だった。
「今年、研究室から推薦選抜に出すのは小野寺にする」
すぐに周囲から声が上がった。
「やっぱり小野寺か。榊原先生、最近ずっと面倒見てましたもんね」
私は何も言わなかった。
送別会が終わりかけた頃、美咲が立ち上がった拍子に熱いスープを倒した。
四十日以上、何度も書き込みを重ねてきた修士論文の原稿は一瞬で濡れ、手書きの修正やメモが滲んでいく。
私が手を伸ばすより先に、怜司は美咲の手を取った。
「火傷してないか?」
美咲は目を潤ませて首を振った。
「大丈夫です……ごめんなさい。本当にわざとじゃなくて」
怜司は彼女の手を確認してから、ようやく私の論文に目を向けた。
「印刷し直せばいいだろ」
スープを吸った紙の束を数秒見つめ、私はバッグを手に取った。
「私、先に帰ります」
怜司が眉を寄せる。
「朝倉?」
足は止めなかった。
二年間続けてきた秘密の恋も、ここまででいい。
そう決めて、店を出た。
1
居酒屋を出て間もなく、怜司が追ってきた。
夜風の中で私の前に回り込むと、まだ少し苛立った声で尋ねた。
「推薦のことで、送別会まで途中で帰るのか?」
「推薦のことじゃない。ちょっと疲れただけ」
怜司はいつもの癖で手を取ろうとした。
反射的に身を引くと、その手が宙で止まり、眉間に皺が寄った。
「論文は印刷しただけだろ。もう一度出せばいい。パソコンにデータは残ってるんじゃないのか?」
「電子データには、あの書き込みは残ってない」
四十日以上かけて積み重ねてきた修正の履歴も、実験中に書き残したデータも、これから再検証するつもりだった箇所も、全部あの原稿に残っていた。
単に紙を印刷し直せば済む話ではない。
怜司はしばらく黙っていたが、やがて少しだけ声を和らげた。
「大事にしてたのは分かってる。でも小野寺を推薦したことだって、適当に決めたわけじゃない」
「それで?」
「あいつは研究の基礎が弱い。一般選抜なら通る可能性は高くない」
怜司は一瞬言葉に詰まった。
「朝倉なら一般選抜でも十分通る。論文もあるし、成績もいい。小野寺には今回の推薦が必要なんだ」
修士課程の成績は研究室でも上位で、専門誌に採択された論文もすでに一本あった。
この一年は複数のプロジェクトでデータ整理を任されていたから、周囲も推薦されるのは私だと思っていた。
けれど怜司にとって、それは私を推薦する理由ではなかったらしい。
むしろ、一度くらい機会を失っても大丈夫だと判断する材料になっていた。
「さっき小野寺の手を先に見たのも、ナッツアレルギーがあるからだ」
怜司は続ける。
「スープに成分が入ってたら危ないだろ」
怜司を見た。
「怜司、私が食べられないもの、覚えてる?」
返事はすぐには来なかった。
私は甲殻類アレルギーがある。
なのに今夜のコースには海老も蟹もあり、海鮮鍋まで出ていた。
ほとんど白いご飯しか口にしていなかったのに、数メートル先にいた怜司は一度も気づかなかった。
それ以上、問い詰める気にはなれなかった。
怜司は気まずそうに視線を逸らし、しばらくしてもう一度こちらを見る。
「奈緒は研究室でも十分やれてる。推薦が一つなくなったくらいで、将来が変わったりしない」
大学では、怜司はいつも私を「朝倉」と呼んだ。
二人きりになった時だけ、「奈緒」に戻る。
指導教員と学生という関係が終わるまでは公にしない。
それが付き合い始めた時に決めたことだった。
人前で距離を取ることも、二人の関係を守るために必要なのだと、ずっと信じていた。
けれど今夜は、その約束が別のものに見えた。
推薦を譲るのも。
傷ついて我慢するのも。
人前で一歩引くのも。
結局いつも私だった。
怜司の言う「配慮」は、そういう意味だったのかもしれない。
「明日、うちに来いよ。論文は俺がもう一度見るから」
怜司が髪に触れようと手を伸ばしたので、一歩下がった。
「もういい。自分でやる」
彼の手が空振りすると、表情が明らかに冷たくなった。
「今日のお前、本当にどうしたんだ?」
「別に」
「好きにしろ」
数秒こちらを見たあと、怜司の声は学校で聞く榊原先生のものへ戻った。
「明日のミーティングには遅れるな。私情を研究室に持ち込むのもやめろ」
そう言い残して、怜司は居酒屋へ戻っていった。
扉が開くと、中からまた笑い声が漏れ、美咲を囲んでいる後輩たちの声も聞こえた。
路上に一人で残り、スマートフォンを取り出した。
LINEの一番上には、ずっと怜司とのトークが固定されている。
二年間、実験がうまくいかなかった日も、初めて論文が採択された日も、体調を崩した時も、何かあるたびに彼へ送っていた。
深夜の帰り道で猫を見つけただけで、写真を送ったこともある。
けれど履歴を遡ると、私が何行も書いたあとに返ってくる言葉は、たいてい短かった。
【分かった】
【今忙しい】
【早く寝ろ】
しばらく画面を見つめ、トークのピン留めを外して通知も切った。
大学近くの部屋へ戻ると、クローゼットからスーツケースを引っ張り出した。
服、パスポート、実験ノート、すでに整理してあった申請関係の書類をベッドの上へ並べる。
三か月前、アメリカのレイクフォード工科大学のPh.D.プログラムから正式な合格通知を受け取って以来、少しずつ準備はしていた。
ただ、本当にいつ出ていくのかだけ決められずにいた。
引き出しの奥には、小さな箱があった。
中には、R & Nと刻まれた銀色のブックマークが入っている。
怜司と奈緒。
去年の誕生日、怜司のマンションの書斎で渡されたものだった。
「修了したら、公にしよう」
私は何度も確かめた。
「本当に?」
「本当だよ。その頃にはもう俺の学生じゃない」
怜司は笑った。
「手をつなぐのに、いちいち人目を気にしなくて済む」
あの言葉を、ずっと信じていた。
翌朝、部屋を出る時にブックマークをポケットへ入れた。
マンションのゴミ置き場を通りかかったところで足を止め、回収袋の中へ落とした。
銀色のブックマークが中の何かに当たり、小さな音を立てた。
そのままバッグを持ち直し、駅へ向かった。
2
その日の午前中、怜司のマンションへ向かった。
二年間、彼は私に合鍵を預けていた。
あの書斎は、私たちが一番気を抜ける場所だった。
私は窓際で論文を書き、怜司は反対側の机で仕事をする。
どちらかが疲れれば、作業を止めて少し話すこともあった。
けれど、その日ドアを開けて最初に目に入ったのは美咲だった。
私がいつも使っていた椅子に座り、何年も前に絶版になった専門書を読んでいる。
去年、怜司のために古書店を六軒回り、ようやく見つけた本だった。
美咲はページをめくりながら、何気ない動作で端を折った。
ドアの音に気づき、こちらを向いて笑う。
「奈緒先輩、来たんですね」
視線を彼女の手元へ落とした。
「その本、私のなんだけど」
美咲は表紙を見下ろした。
「これ? 榊原先生が、置いてあっても誰も読まないし、ちょうど今の私に必要だから使っていいって」
そう言うと、机に置いてあった赤ペンを取り、ページの一か所へそのまま線を引いた。
古びた紙の上に、鮮やかな赤いインクが残る。
「人から借りた本にも、そうやって直接書き込むの?」
美咲の口元から笑みが薄れた。
「そんなに大事な本だって知らなくて……嫌だったなら謝りますけど」
すぐに玄関から鍵の音がした。
怜司が二つのコーヒーを持って書斎へ入ってくる。
美咲の目が赤いことに気づくと、まずカップを机へ置いた。
「どうした?」
美咲は俯いた。
「この本が奈緒先輩のものだって知らなくて、ちょっと書き込んだだけなんですけど……先輩、怒ってるみたいで」
怜司はページの赤線へ一度目を向けた。
「朝倉、本一冊だろ」
そして片方のコーヒーを美咲の前へ滑らせる。
私がここへ来るたび、怜司がよく買ってくれていたキャラメルラテだった。
「小野寺はまだこの分野を始めたばかりなんだ」
怜司は言う。
「分からないことも多い。先輩なんだから、そのくらい大目に見てやってくれよ」
コーヒーを見てから、怜司へ目を向けた。
「それ、絶版本だよ」
「知ってる」
「六軒も古書店を回って、やっと見つけたの」
怜司は眉間を押さえた。
「いくらだった? 払うから」
もうスマートフォンまで取り出している。
「朝倉なら、こんなことにこだわらなくても自分で結果を出せるだろ」
顔を上げる。
「どうしていちいち小野寺と張り合うんだ?」
その時になって、怜司は自分が私を傷つけているとは思ってもいないのだと分かった。
彼にとっては、金を払うか次の機会を与えれば、それで済む程度のことなのだ。
机へ行き、自分のノートや充電器、資料をバッグへしまった。
「払わなくていい」
怜司が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
「小野寺がここを気に入ってるなら使えばいい。本も置いていく」
そこでようやく、彼の表情に戸惑いが浮かんだ。
「朝倉、また何をそんなに怒ってるんだ?」
「別に」
バッグのファスナーを閉じた。
「先生の言う通り。ただの本だから」
玄関まで行き、合鍵を靴箱の上へ置いた。
怜司が書斎から追ってくる。
「待て。昨日の論文は?」
足を止めない。
「印刷し直して持ってこいって言っただろ」
ドアノブに手をかけた。
「見なくていい」
「どういうことだよ」
振り返らなかった。
「これからは、見てもらう必要もないから」
ドアを閉めた。
そのあと怜司が追ってきたのかどうかも、確かめなかった。
3
午後、いくつかの書類を持って大学院教務係へ向かった。
研究室の前を通りかかると、ドアが少し開いていて、廊下まで話し声が聞こえてきた。
「小野寺、榊原先生に本当に大事にされてるよね。あの絶版本まで貸してもらってるし」
「今年の推薦も小野寺でしょ。先生、かなり期待してるんじゃない?」
美咲は笑いながら答えていた。
「違うって。私の基礎が弱いから、榊原先生に多めに指導してもらってるだけ」
別の誰かが続けた。
「でも朝倉先輩、最近先生とあまり話してないよね。前は先生の仕事もいろいろ手伝ってなかった?」
立ち止まらず、そのまま通り過ぎた。
角を曲がったところで、怜司と鉢合わせた。
周囲には学生が行き来していた。
「朝倉、どこ行くんだ?」
「教務係」
横へ避けると、彼も同じ方向へ一歩動いた。
「今日の装置テスト、どうして来なかった?」
「今日は休むって、昨日のうちに連絡した。共有スケジュールにも入れてある」
怜司が眉を寄せる。
「午後、分光分析装置でトラブルがあった。小野寺が操作中に試料室を壊した。メーカーの見積もりも安くない」
そう言って、一枚の経緯報告書を差し出してきた。
「装置担当は朝倉だ。使用前の確認と引き継ぎが不十分だったことも含めて、経緯を書け」
受け取らなかった。
「操作してたのは小野寺でしょ」
「分かってる」
「私は休むって事前に連絡してたし、小野寺だって初めて使ったわけじゃない」
怜司は声を落とした。
「事故の責任が全部小野寺にある形で記録されたら、研究科で推薦を見直す時に影響が出る」
「じゃあ私の管理責任ってことにすれば、私には何も影響しないの?」
一拍置いてから、怜司は答えた。
「朝倉は今までの評価がいい。これくらいで評価が大きく下がることはない」
ここでも同じだった。
私に影響がないと思っているのではない。
この程度なら引き受けても平気だと、勝手に決めつけている。
報告書を押し返した。
「書かない」
怜司の顔つきが険しくなる。
「朝倉は装置担当だろ。後輩が使う前に手順を確認するのも仕事のうちだ」
「休むことは事前に伝えてた。責任があると思うなら、記録を調べてもらえばいい」
「最近、どうして何でもそこまで大ごとにするんだ?」
そう言いながら、いつもの癖で頬に触れようと手を伸ばしてきた。
顔を逸らした。
「榊原先生、やめてください」
手が空中で止まる。
二年間、こんな距離で向き合いながら「榊原先生」と呼んだのは初めてだった。
怜司が私を見つめる。
「今、何て呼んだ?」
「榊原先生」
廊下の向こうを歩いていく学生へ視線を向けた。
「ここは大学です。先生は指導教員で、私は学生です」
一度言葉を切る。
「誤解されるようなことはしないでください」
怜司は返す言葉を失った。
その横を通り抜けて教務係へ向かうと、今度は追ってこなかった。
4
翌朝は、榊原研究室の定例ミーティングだった。
博士課程と修士課程の学生、それに数名の学部生がテーブルを囲み、私は後ろの方で資料を整理していた。
会議が始まって間もなく、美咲が口を開いた。
「奈緒先輩、昨日からずっと聞きたかったことがあるんです」
大きな声ではなかったが、近くにいた学生たちが顔を上げた。
「昨日、一緒に装置テストをする予定でしたよね」
「……」
「先輩が急に休んだから、結局私一人でやることになって……装置まで壊れてしまって」
話しているうちに、目元が赤くなっていく。
「推薦のことでまだ怒ってるのかもしれません。でも、私情を研究室の仕事に持ち込むのは違うと思います」
後輩たちが顔を見合わせた。
「じゃあ昨日装置が壊れたのって、朝倉先輩が来なかったから?」
「推薦の発表があってから、確かにちょっと雰囲気違うよね」
美咲は俯いたまま、その会話を止めようとはしなかった。
テーブルの前に座る怜司を見た。
カップを持ったまま、彼も何も言わない。
昔なら、何か誤解されるたびにまず怜司を見ていた。
彼が一言説明してくれるだけで、それまでの不満を全部飲み込んでしまえた。
今回は待たなかった。
「昨日休むことは事前に連絡しています。共有スケジュールにも記録が残っています」
全員を見る。
「装置の使用履歴にはログインしたアカウントも残るので、事故の経緯を確認するなら、操作ログと共用スペースの映像を調べれば分かります」
美咲の顔色が明らかに変わった。
「榊原先生、事故が私と無関係だって言ってるわけじゃないんです。ただ、奈緒先輩は装置担当で――」
怜司がカップを置いた。
「朝倉、もういい」
室内がゆっくり静かになる。
「研究室で事故が起きたなら、最初にやるべきなのは誰の責任かを争うことじゃない」
怜司は言う。
「装置担当なら、後輩が使う時の管理にも目を配るべきだ」
「私は事前に休むと伝えてた。それに、実際に装置を操作したのは小野寺」
「そこまでして、みんなの前で小野寺を追い詰めたいのか?」
思わず笑いそうになった。
「事実を確認してるだけです」
怜司はしばらく黙り、やがて口を開いた。
「誤解があるなら、この場ではっきりさせておく」
全員へ視線を向ける。
「俺と朝倉は指導教員と学生で、それ以上でもそれ以下でもない。研究上必要な指導をしてきただけだ」
そして私を見る。
「私情を研究室に持ち込むのはやめてくれ」
俯く人もいれば、反射的にこちらを見る人もいた。
彼がそう言った瞬間、二年間のことは、まるで私一人の勘違いだったかのように塗り替えられた。
けれど不思議なことに、想像していたほど恥ずかしくはなかった。
むしろ、頭の中が急に静かになった。
怜司は続ける。
「この状態が続くなら、最終審査に出せる段階だとは判断できない」
学位や修了時期こそ、私が一番失いたくないものだと思っていたのだろう。
小さく頷いた。
「分かりました」
怜司の表情に、明らかな戸惑いが浮かんだ。
その時、会議室のドアがノックされた。
大学院教務係の佐藤さんが何枚かの書類を持って立っていた。
「朝倉さん、すみません。今日いつ頃お時間ありますか?」
「大丈夫です」
「退学手続きで、研究室から借りているものと入室カードの返却確認がまだ残っていて」
怜司が勢いよく振り返った。
「退学?」
佐藤さんも一瞬驚いた。
「昨日付で受理されています。今日は返却物の確認が中心です」
怜司が立ち上がる。
「私は何も聞いていません」
「昨日付で受理されています。先生にも正式な通知が届くはずです」
怜司がこちらを向いた。
「朝倉、どういうことだ?」
手元の資料を閉じた。
「アメリカへ行きます」
表情が固まった。
「アメリカ? 何の話だ?」
「レイクフォード工科大学のPh.D.プログラムに進みます」
「いつ決まった?」
「三か月前」
昨日の装置事故について話す人は、もう一人もいなかった。
5
ミーティングが終わると、怜司は廊下まで追ってきた。
周囲の学生がいなくなったところで足を速め、私の手首を掴んだ。
「三か月前?」
「離して」
「三か月も前に決まってたのか?」
掴まれた手を見る。
そこでようやく力を入れすぎていることに気づいたらしく、指は少し緩んだ。
それでも完全には離さない。
「言ったよ」
怜司が固まった。
「いつ?」
「正式な合格通知が来た日」
彼を見た。
「嬉しいことがあったから話したいって、メッセージを送った」
顔色が少しずつ変わっていった。
あの日、返事が来たのは三時間以上経ってからだった。
【今忙しい。早く寝ろ】
そのあとも二度話そうとした。
一度目は、美咲の研究計画を修正している最中だった。
二度目は、海外への出願について話し始めたところで、
「自分のことは自分で決めろ」
と言われた。
美咲の方が今は遅れているから、そちらを先に見るとも言っていた。
それ以来、もう話さなかった。
ようやく怜司が手を離した。
「だからって、勝手に行くって決めたのか?」
「『勝手に』じゃない」
声は思ったより落ち着いていた。
「出願書類は半年前から準備してた。面接も研究計画も、昨日始めたわけじゃない」
「でも、少なくとも俺には相談するべきだっただろ」
その言葉を聞くと、逆に心が落ち着いた。
「どうして?」
何を聞かれているのか分からないような顔をする。
「だって俺たちは――」
そこで自分から言葉を止めた。
「普通の指導教員と学生なんでしょ?」
怜司の顔が一気に青ざめた。
「奈緒、さっき会議室で言ったのは――」
「人目を気にしただけ?」
初めて、その言葉をこんなに軽く口にした。
「二年間、私が何かを諦めるたびに、いつも同じ理由だったね」
怜司は口を開いたが、続きは出てこなかった。
もう説明を聞きたいとも思わなかった。
「榊原先生」
彼を見る。
「どこで研究を続けるかは私が決めます。研究室の引き継ぎは規定通り終わらせるので、それ以外の話はもう必要ありません」
「今日、日本を発ちます」
会議室へ戻り、入室カードや借用品、データの引き継ぎ一覧を佐藤さんと一つずつ確認した。
怜司は廊下の奥に立ったまま、こちらへは来なかった。
その日の午後。
部屋へ戻って最後のスーツケースを持ち出した。
空港へ向かうタクシーはもう下で待っていた。
乗り込む前にスマートフォンを開き、怜司とのLINE履歴のバックアップを停止し、連絡先から番号を削除した。
二年間の写真は全部消さず、一つのフォルダにまとめて、普段は目に入らない場所へ移した。
タクシーのドアが閉まり、見慣れた街並みが窓の向こうへ流れていった。
6
奈緒が大学を去ったその日の夕方。
研究室の会議室には、怜司だけが残っていた。
机の上には手続き書類の控えがあり、退学届が受理されたことと、研究室への立ち入り権限が停止される日付が記されている。
その数行を長い間見つめたあと、怜司はようやくスマートフォンを取り出した。
電話をかけてもつながらない。
今度はLINEを開く。
【奈緒、話そう】
送信しても、いつまで経っても既読はつかなかった。
しばらくして、もう一通送る。
【さっき言ったことは、そういう意味じゃない】
それにも返事はなかった。
自宅へ戻ると、窓際の小さな机はきれいに片づいていた。
奈緒のカップも。
ノートも。
充電器もない。
玄関の靴箱には、合鍵だけが残されている。
しばらくその鍵を見ていた怜司は、去年渡した銀色のブックマークを思い出した。
引き出しにも、書棚にもない。
書斎中を探したあと、怜司は急いで階下へ降り、マンション裏のゴミ置き場へ向かった。
まだ回収されていない袋を一つずつ確認する。
ようやく破れた袋のそばで、ブックマークを見つけた。
R & Nの文字には汚れがつき、新しい傷も一本増えていた。
怜司はそれを拾い上げ、しばらくその場から動けなかった。
それから三日後。
研究室では細かなトラブルが次々と起き始めた。
前日に誰も確認しなかった実験データは、発表直前になって単位の入力ミスが見つかった。
よく使う装置も、事前に設定を確認する人がいなかったせいで午前中を丸ごと無駄にした。
後輩たちはノートパソコンを抱え、何度もモデルを修正していた。
これまでは正式に提出する前に、奈緒が一度そうした資料を確認していた。
午後。
怜司は大型モニターに並ぶエラーだらけのシミュレーション結果を見ていた。
「このモデル、誰が作った?」
テーブルの周囲が数秒静まり、美咲がゆっくり手を上げた。
「私です」
すぐに目元が赤くなる。
「前は奈緒先輩が、こういうところを見てくれてたから……今回も」
怜司が途中で止めた。
「朝倉はもういない」
美咲が黙る。
「基本的なパラメータの確認まで、人にやってもらわないとできないのか?」
美咲は、そんな言い方をされると思っていなかったようだった。
以前なら彼女が泣きそうな顔をすれば、怜司の声はすぐに優しくなった。
けれどこの日は、データを最初から整理し直し、翌日までに完全なものを出すよう指示しただけだった。
ミーティング後。
一人の後輩が長いこと迷った末に、USBメモリを持って怜司の部屋を訪れた。
「榊原先生」
「何?」
「見てもらった方がいい動画があります」
送別会の日に撮られた映像だった。
会が始まった時、後輩の一人が研究室の送別用動画を残そうと、座敷の端にスマートフォンを置いていた。
カメラはずっとテーブルを映していたわけではない。
それでも、美咲がスープを倒す直前の動きは偶然残っていた。
映像の中で、美咲は一度奈緒の論文へ目をやった。
そのあと、肘を伸ばしてスープの器に触れている。
中身がこぼれてから初めて驚いたような顔をした。
数秒後、怜司が立ち上がり、真っ先に美咲の手を取って火傷していないか確かめた。
その向こうでは、奈緒がスープを吸っていく論文を黙って見つめていた。
怜司は映像を最初から二度再生した。
後輩が帰ったあとも、長い間パソコンの前から動かなかった。
その日の夜。
美咲は怜司の部屋へ呼ばれた。
怜司は、彼女の肘がスープの器へ向かっている瞬間で映像を止めた。
「どうしてだ?」
美咲の顔から血の気が引いた。
「榊原先生、私……」
「どうして朝倉の論文をわざと駄目にした?」
美咲はしばらく泣き続け、ようやく途切れ途切れに話し始めた。
「奈緒先輩は何でも持ってるから」
「……」
「成績も、論文も、研究成果も……みんな、先輩が一番すごいって思ってる」
顔を上げる。
「一度くらい失敗すればいいって思っただけです」
声が震えた。
「まさか、そのままいなくなるなんて思ってなくて」
怜司はしばらく彼女を見た。
「博士後期課程の推薦は撤回するよう、研究科に申し出る」
「え?」
「この映像と装置事故の記録も提出する」
「榊原先生」
「処分については大学に判断してもらう」
美咲が勢いよく立ち上がった。
「でも榊原先生、今までずっと私を助けてくれるって言ってたじゃないですか」
その言葉を聞き、怜司はしばらく黙っていた。
最後にパソコンを閉じる。
「今後、俺は君の指導から外れる」
「……」
「研究科にもそう申し出る」
美咲は泣きながら部屋を出た。
廊下には帰り支度をしていた後輩が何人かいた。
以前なら彼女が泣けば誰かがすぐに追いかけていたのに、この日は会話を止め、黙って道を空けただけだった。
7
深夜、怜司はマンションへ戻った。
書斎の隅には、奈緒が以前文献を調べる時に使っていた古いノートパソコンが残っていた。
新しいものはアメリカへ持っていったが、古すぎるこの一台だけは置いたままにしていた。
怜司が電源を入れる。
パスワードはまだ、彼の誕生日だった。
デスクトップにはいくつか普通の資料フォルダがあり、その中に「Memo」と名づけられたものが一つだけあった。
日付ごとに、短い文章が残されている。
怜司は一番新しいものを開いた。
【10月12日。装置を運んでいた時、手の甲を金属の縁で切った。怜司は一度見て、自分で処置してと言った。午後、美咲が紙で指を切った時は、みんなに救急箱を探させていた。傷は大したことない。ただ、少し疲れた。】
さらに前へ。
【9月8日。書斎で使っていた席を美咲に譲った。少し悲しかったけど、外の自習スペースがうるさいから仕方ないのかもしれない。】
【8月15日。研究室のグループチャットで、いつも榊原先生のそばにいるけど、先生を利用して何か得たいんじゃないかと冗談を言われた。怜司も見ていたけど、何も言わなかった。トイレに二十分くらいいてから戻った。】
【7月3日。怜司が、修了したら関係を公にすると言った。私は信じた。】
夏から秋へ。
日付は順番に並んでいた。
怜司は一つずつ読み進めた。
自分の記憶にはほとんど残っていない出来事まで、奈緒はすべて覚えていた。
しかも、どの記録でも彼女は怜司を責めるより先に理由を探していた。
仕事が忙しいから。
人目を気にしなければならないから。
美咲にはもっと指導が必要だから。
そして自分なら成績がいいのだから、一度くらい譲っても平気だと。
パソコンの光が窓の外の朝焼けに負け始めた頃。
怜司は最後のファイルを閉じた。
机の端には、ゴミ置き場から拾い戻した銀色のブックマークが置いてある。
表面の汚れはきれいに拭き取られていた。
けれど、新しくついた傷だけはRとNの間に残ったままだった。
数日後。
青嶺大学の研究科は、美咲による研究資料の故意の破損と装置事故について調査を始めた。
調査は美咲の件だけでは終わらなかった。
博士推薦の経緯。
装置事故への対応。
奈緒の修士論文をめぐる怜司の発言。
やがて二人の交際も問題になった。
直接指導していた学生との交際を大学へ申告していなかったこともあり、怜司は一定期間、研究室運営や新しい大学院生の指導から外された。
研究室のグループチャットで奈緒を揶揄していた学生についても個別に調査が行われ、数名が正式な警告を受けた。
その後。
怜司は赤線を引かれた絶版本を専門の修復業者へ預けた。
研究室に残された実験データも整理し、後続の論文で奈緒の研究上の貢献が抜けないよう確認した。
そうした作業には長い時間をかけた。
けれど、アメリカから奈緒のメールが届くことはなかった。
仕事帰り。
怜司は時々、奈緒が以前住んでいたマンションの前を車で通った。
部屋にはすでに別の住人がいた。
夜になると窓に灯りがつき、知らない人がベランダに洗濯物を干していることもある。
怜司は道路脇に少しだけ車を停め、それを眺めてから、また走り出した。
8
二年後。
私はレイクフォード市で開かれた国際材料科学会議に参加していた。
海外で過ごした二年間で、数百人の研究者を前に英語で発表することにも慣れた。
データに疑問を投げかけられても、一度立ち止まり、前提から整理して説明し直せるようになっていた。
司会者がステージで紹介する。
「続いて、レイクフォード工科大学博士課程の朝倉奈緒さんです。新規高分子材料における界面安定性の最新研究についてご報告いただきます」
拍手の中、舞台袖からステージへ出た。
質疑応答は十数分続いた。
最後の質問に答えてパソコンを閉じる時になっても、まだ手を挙げている人がいた。
控室へ戻り、ようやく息をついた。
横から一人の男性がパソコンを受け取る。
胸のネームプレートには、
「瀬川直人/レイクフォード材料研究センター」
とあった。
「最後の質問、危うく相手の前提に引っ張られるところだったな」
思わず笑った。
「途中で気づいたから、最後に条件を計算し直した」
直人が椅子の背に掛けてあったジャケットを渡してくる。
「会場、冷房効きすぎ。着とけよ」
「ありがとう」
「夜のディスカッションまで、まだ一時間以上あるし」
ジャケットを羽織ったところで、背後から名前を呼ばれた。
「奈緒」
振り返ると、数メートル離れたところに怜司が立っていた。
二年ぶりに見る彼は、以前より少し痩せていた。
再会したら自分がどんな気持ちになるのか、昔は何度も想像した。
けれど実際に目の前にすると、随分遠い人になったようにしか感じなかった。
「榊原先生、お久しぶりです」
怜司は、その呼び方を聞いた瞬間だけ動きを止めた。
それから二歩ほど近づく。
「やっと会えた」
直人が怜司を見てから、こちらを見る。
「日本で修士課程にいた頃の指導教員です」
怜司は何か言いかけたが、結局一つだけ尋ねた。
「二人で少し話せないか?」
時計を見てから、直人へ視線を向けた。
「先にラウンジへ行ってて。あとで行くから」
直人は何も聞かなかった。
「分かった。パソコンは持っていく」
彼が去ると、廊下には私と怜司だけが残った。
9
怜司はブリーフケースから木箱を取り出した。
「これ、あの本だ」
一度見ただけで、手は伸ばさなかった。
「古書修復の専門家に頼んだ。赤い線も消してもらって、傷んだページも補強してある」
続いて、ポータブルSSDを取り出す。
「残していった研究資料も整理した」
少し間を置く。
「後続の論文でデータを使う時も、奈緒の貢献が抜けないよう確認した」
黙って聞いていた。
怜司は続けた。
「小野寺の博士推薦は取り消された」
「……」
「研究資料を故意に駄目にしたことも大学が調査した」
さらに何か言おうとする。
「昔、研究室で言われてたことについても俺は――」
「榊原先生」
そこで遮った。
「こういうものを元通りにすれば、昔のことも元に戻ると思ってますか?」
怜司の身体が固まった。
もう一度、木箱を見る。
「あの本を見つけるまで、古書店を六軒回りました」
少し笑う。
「最後に見つけた日は大雨で、帰ってから熱まで出したんです」
「奈緒……」
「でも、美咲に渡して自由に書かせた時」
怜司を見る。
「私が傷ついたのは、本がいくらしたかじゃありません」
一度言葉を切った。
「論文も同じです」
「……」
「スープをかけられた時、一番つらかったのは、四十日以上の書き込みが消えたことじゃなかった」
怜司が私を見ている。
「あの時、あなたが最初に手を伸ばした相手が、私じゃなかったことです」
木箱を持つ指が少しずつ強くなった。
いつか本当に再会したら、問いただしたいことがたくさんあると思っていた。
けれど今となっては、推薦も装置事故も、研究室で揉めたことも、それほど重要ではなくなっていた。
「あとから美咲の推薦を取り消したことも、研究室のことを調べ直したことも聞きました」
怜司が低い声で答える。
「あの時になって、自分がどれだけ間違ってたか分かった」
「分かってます」
彼は顔を上げた。
そこにわずかに期待が戻る。
「でも、今でも忘れられないのは、あのミーティングの日です」
「……」
「研究室のみんなの前で、私たちはただの指導教員と学生だって言った」
怜司の顔が強張る。
「まるで私が、先生の指導に勝手に特別な意味を持たせていたみたいに」
怜司の顔から少しずつ血の気が引いた。
「あの日、分かったんです」
「奈緒」
「先生は自分を守るためなら、二年間のことまで私の勘違いにできるんだって」
それ以上、過去に起きたことを一つずつ並べる必要はなかった。
「私たちは、あの日に終わったんです」
怜司は俯いた。
しばらくして、ようやく口を開いた。
「奈緒、ごめん」
「はい」
「今でも忘れられない」
声は小さかった。
「できるなら、もう一度やり直したい」
数秒、彼を見た。
「無理です」
怜司は動かなかった。
「今、本当に後悔してるのは分かります」
一度息をつく。
「でも、もう私には関係ありません」
廊下の向こうへ歩いていくと、直人が窓際でメールを返していた。
足音に気づき、スマートフォンをしまう。
「終わった?」
「うん」
「何か食べに行く?」
時計を見る。
「夜のディスカッション、長引きそうだし」
頷いた。
「行こう」
直人からパソコンを受け取り、並んでエレベーターへ向かった。
怜司はまだ元の場所に立っていた。
振り返らなかった。
彼が持ってきた木箱も、最後まで私の手には渡らなかった。
10
五年後。
日本先端材料学会の年度表彰式で、私と瀬川直人の名前が学術賞の受賞者として並んだ。
Ph.D.プログラムを修了したあと、私は共同研究センターに残った。
最初は共同研究者だった直人は、今では夫でもある。
数年間一緒に取り組んだ研究で、長く研究チームを悩ませていた材料安定性の問題を解決したことが、今回の受賞につながった。
表彰を終え、マイクの前に立つ。
「この研究は、私一人で成し遂げたものではありません」
会場を見る。
「何度も議論を重ね、失敗するたび一緒に立て直してくれた共同研究者の皆さん、そしていつも私の選択を尊重してくれた家族に感謝します」
会場から拍手が起きた。
壇上を降りると、直人が自然に賞状のケースを受け取った。
「このあと、まだ取材ある?」
「あと一つ」
「じゃあ終わったらラーメン食いに行こう」
思わず笑った。
「この格好で?」
「だから面白いんだろ」
* * *
同じ頃。
学会のライブ配信は、榊原怜司のパソコンにも映っていた。
五年前の学内調査以降、怜司が以前のように研究室の中心へ戻ることはなかった。
数年後には青嶺大学を離れ、今は地方の私立大学で非常勤講師をしながら、研究支援会社でプロジェクトアドバイザーの仕事もしている。
机の横でスマートフォンが光った。
昔の研究室のOB・OGが入っているLINEグループに、受賞の記事が共有されていた。
【朝倉先輩、今年の学術賞取ったんだ】
【瀬川博士とは今も共著多いよね】
しばらくして、もう一件流れた。
【あの時アメリカに行って、本当に人生変わったよね】
少しすると、話題は別のものへ移っていった。
怜司は何も書き込まなかった。
パソコンの画面では、インタビューが終わっていた。
舞台脇に立っていた直人が奈緒へコートを渡す。
奈緒はそれを受け取り、二人で何か話しながら、そのまま画面の外へ消えていった。
怜司がライブ配信のページを閉じると、部屋は静かになった。
書棚の一番上には木箱が置かれている。
中の絶版本は、きれいに修復されていた。
その隣には、汚れを落とした銀色のブックマーク。
ただ、RとNの間についた一本の傷だけは、どうしても消えなかった。




