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一度も触れなかった先輩が、私を好きなまま死にかけている。

作者: 有梨束
掲載日:2026/04/17

「これまでも、この先も、好きなのはシャーリーだけだよ」

あの卒業式の日、先輩の重い告白を、私はいつもみたいに曖昧に流すことしかできなかった。


「シャーリーちゃん、もう上がっていいよ?」

本屋の店長が、今日の仕事の終わりを告げた。


「はい」

学生時代からバイトをしていたこのお店にそのまま雇ってもらえて、はやひと月。

ようやく、学生気分も抜けてきた気がする。


私が卒業してひと月なら、2つ年上のテレンス先輩は、そろそろ20歳になる頃だろうか。

先輩、ちゃんと他の人に『生気』を分けてもらっているかな。

…生きているのかな。


ううん、さすがに先輩でも生きていくためなら、他の女性から分けてもらっているはず。


「シャーリー、うちとしては助かっているけど、あなた本当にこのままうちで働き続けるの?」

「…ご迷惑でしょうか」

「ううん、逆よ!すっごく助かってる!シャーリー目当ての男客も増えたし」

それは、いいんだろうか…。

困ったように笑うしかなくて曖昧にしていると、店長の奥さんが笑った。


「だって、名門学校卒業なのに、王宮で働くわけでもなく、もっといい職に就くわけでもなく、こーんなお店にいるから心配なのよ」

「名門っていっても、私は貴族じゃないですし」

「貴族も通う名門出身ってことが、すんごいことなのよ!」


私が貴族も通う名門学校と呼ばれるところに通っていたのは事実だが、そこは私みたいな平民もそれなりに通っていた。

私だけが、すごいわけではない。


「しがない本屋の看板娘じゃなくてもいいじゃんね〜ってことよ!」

「あはは、看板娘なんて光栄です」

「シャーリーちゃんなら、娼館でも超人気になりそうなのにな〜」

「あんた、それセクハラってやつよ。どうすんの、シャーリーが辞めたらっ!」

「おわっ、すまんシャーリーちゃん」

「いえ、褒めてくださってありがとうございます。…では、お先に失礼しますね」

私は片付けを済ませると、ペコリと挨拶をして、店をあとにした。


この世界は、20歳ごろになると、男性だけが体から生気が減っていく。

それを補うためには、女性からもらうしか方法がない。

手を繋いだりキスをしたりでも生気をもらえるにはもらえるが、もってせいぜい1週間分くらいだという。


だから、この世界では娼館が何よりも必要であり、女性が一番稼げるのも娼館だ。

生命線なのだから、医者よりも重宝される。


『娼館で働ける』はまさしく褒め言葉だ。

女子からも割と人気の職だし、憧れる若い子は多い。

誰も無下にできない娼館の蝶たちは、お姫様のように扱われるという。

人気の蝶は、予約1年待ちだったりすると噂に聞いたことがある。


1年も待っていたら、男性は死んでしまうけど。


今は、手を繋ぐだけのカフェとかも流行っているから、店の種類は多種多様なんだとか。


女性のパートナーがいない相手は、娼館を頼るしかない。

それもあって、20歳になる頃には夫婦になる人は多い。

学校には、結婚相手を探している人もいたけど、私はそういう気にはなれなかった。

それに、貴族は学校卒業と同時に結婚する人も多い。


だから、きっとテレンス先輩も、今頃誰かと結婚したんじゃないかな。


『シャーリーがそばにいてくれるだけで、俺は笑顔になるんだよ』

あの甘すぎる声が、時々私の頭に響くけど、それは振り払うしかないのだ。


だって、私はあの学校にいる間、一度も先輩の手を取らなかったのだから。





「シャーリー、また本を読んでいるの?」


テレンス先輩は二学年上で、侯爵家の嫡男だった。


「先輩は、またこっちの校舎に来たんですか…」

「うん、シャーリーに会いたくて」

当たり前のように私の前の席に座って、私の方をじっと見てくる。


ニコニコしている先輩に、先輩に色めき立つクラスメート。

そして、毎日のことすぎて、もはや気にせず本を読み続ける私。

そんな日常が、あの頃は当たり前だった。


テレンス先輩が私に話しかけてきたのは、私が他の先輩と揉めそうになった時だった。


入学して仲良くなった友達が、貴族の男性の先輩に卒業したら伴侶になってくれないかと迫られていたことがあった。

友達にはそんなつもりがなくて、でも学校がいくら身分問わずとはいえ、入学したばかりの彼女には、その先輩のあしらい方がわからなかった。

だから、つい割り入ってしまった。


「そんなに強引だと、好きになるものもなりにくいですよ」


その人がカッとなって怒鳴ろうとした矢先、「ぶはっ」と吹き出す声で周囲の空気が止まった。


「あはははっ、傑作じゃないか!まさに、そんなに怖い顔じゃ好きになるのも難しい!」

大笑いして目に涙を浮かべていたのが、テレンス先輩だった。


空色の瞳に笑い涙が浮かんで、なぜか天気雨みたいだと思った。


「…テレンスっ、お前!」

「まあまあ、いくら命がかかっているからといって、強引なのはよくないよ。女性は我らの女神なんだから、丁重に接するように教会から習っているだろう?」


確かに、世界中にある教会は、女性を命の源として、女性優位さを示している。


でも先輩のその言い方が軽くて、私は少しムッとしたけれど、間に入って助けてくれたのは間違いなかった。


「ほら、まずはお友達からなってもらえれば?ごめんね、こいつも悪い奴じゃないんだ。恋がはじめてで距離感がおかしくなったみたい」

そう言って微笑んだテレンス先輩は、双方の納得するところに帰着させて、その場を丸く収めた。


人好きそうな笑顔と、柔らかい話し方で、あっという間にざわつきかけた周りを鎮めた。

愛想のない私にはできないやり方だった。

今振り返るなら、そんな自分にムッとしていただけなのかもしれない。


「それで、君の名前は?」

場が和んでお開きになりそうだったのに、テレンス先輩は私に声をかけた。


「…名乗るほどの者ではないです」

「くふふっ、俺も警戒されている?」

「…シャーリーです」

「俺は、テレンス。よろしくね、シャーリー」

私にも微笑んだ先輩は、太陽を閉じ込めているのかと思うほどの空の色をしていた。


それからだった。

なぜか、テレンス先輩が毎日私を訪ねてくるようになったのは。


「シャーリー、一緒にお昼でもどう?」

「…今日は、食堂じゃないので」

「俺もついていっていい?」

「…あの、先輩はなんで私のところに来るんですか?」

「えっ、シャーリーが好きだからだよ」

さらりと聞き逃しそうな告白に、私が呆気に取られたのを見て、先輩は嬉しそうに笑っていた。


「俺もシャーリーと友達から始めたいんだ」

学校中にテレンス侯爵子息が、平民の女に狙いを定めたと広まるのは一瞬だった。


「シャーリー、好きだよ」

「今日も可愛いね」

「ねえ、たまにはデートとかどうかな?」

飽きることなく毎日言われたので、私もだんだん本気にしなくなった。


「先輩、よく飽きませんね」

「んー?シャーリーに会えるだけで、元気になっちゃうからね」

ニコニコしている先輩が、私は意味がわからなかった。


学生のうちに、生気が減っていくことは少ないし、触れたところで大して生気に影響もないだろう。

それなのに、顔を見ただけで元気になるというのは、理論に欠けているし。


もう先輩を気にすることもなく本が読めるようになった頃、ふと訊いてみたことがあった。


「先輩は侯爵子息なのに、婚約者とかおられないんですか?」

「いないよ〜、うちはそこまで血筋にうるさくないから」

「生命線の確保はしないんですか?」

「俺はシャーリーが好きなのに?」

いつものニコニコ顔ではなく、じっとりとした目で見られて、たぶん言ってはいけないことを言ったんだとわかった。

空色が曇ったことだけは、私にもわかった。


「…すみません、失言でした」

「俺の愛がちっとも伝わってな〜い」

わざとらしく口を尖らせたあと、先輩はいつもの笑顔に戻っていた。


先輩を怒らせたかもしれないことが、一瞬だけ不安になったことは覚えている。



「ねえ、シャーリー。俺が卒業したら、もう会えないの嫌なんだけど」

「はあ」

「いつでも、シャーリーに会いたいんだ」

「先輩って、卒業したら王宮勤めでしたよね?そんな暇ないんじゃないですか」

「恋人になってほしいって、意味ですよ、シャーリー嬢?」

わざとらしい言い方だったけど、先輩はなんとも言えない笑うとは違う顔をしていた。


心臓が跳ねるのに、時間はかからなかった。


「…私じゃ、身分不相応ですよ」

「俺がシャーリーが好きだって言っている」

「私は、先輩のこと、尊敬している先輩ってだけですし」

「えっ、シャーリーって俺のこと尊敬してたの!?」

「はい。成績優秀で王宮からスカウトされる実力の持ち主じゃないですか。普通にすごいことじゃないですか。身分だって鼻にかけないし、優しいし、愛想だっていいし」

思っていることをそのまま言うと、先輩はとびきり嬉しそうに笑った。


「やった!俺、シャーリーによく思われてたんだ!」

歯を見せながら、少年のように笑う先輩は、目を細めたくなるほど眩しかった。


なんで、私がいいって言うんだろう。


「…そこで喜ばれるとは思いませんでした」

「俺のこと、ゴミ虫ぐらいに思われているかと思ってた」

「そ、こまでじゃありません…!」

「うん、今伝わった。すっげえ嬉しい」


私はその空色が晴れているのを見て、先輩が本当に本気なら、その手を取ってみてもいいんじゃないかと、少しだけ揺れた。


でも、それは私には無理だと、あの日思ってしまったんだ。




「バイト終わるの、遅くなっちゃった…」

本屋でバイトさせてもらうようになってから、街灯がつく頃に帰ることが増えていた。


いつもより30分遅かっただけなのに、暗く感じて少し怖くて、さっさと帰ろうと路地裏を抜けて近道しようと思った時だった。


「…ねえ、お嬢ちゃん。施しをくれねえか」

いきなり後ろから知らない男の人に抱きつかれて、悲鳴も出なかった。


何をされているのか、わからなかった。


「もう、死にそうなんだ…、助けてくれ」

耳元でおじさんの声がして、ぞわりとした。

触られている腹部に見える袖口がボロボロなのはわかった。


お金がないと娼館にはいけない。

時々、物乞いが女性を襲うなんて話があるが、よほどのことがない限りそんなことは起きない。

この世界では、相手の同意なく女性を犯すのは、問答無用で死刑だからだ。

生命線だからこそ、女性を軽く扱ってはいけないという教会の教えなのだ。

そのために、娼館があるんだから。


「お嬢ちゃん、死にたくないんだ」

その声にガタガタ震え、でも震えるだけで、何もできなくて──。


嫌だ、怖いっ…!

誰か──!


「何してるんだ!」

ボキッという痛そうな音とともに、物乞いが離れていくのを感じた。

見上げると、なぜかテレンス先輩がいて、おじさんを蹴飛ばして引き剥がしてくれたらしかった。


「…先輩?」

「シャーリー、無事か!?」


なんでいるんですか、とは言葉にならなかった。


ずるずると座り込む私に、テレンス先輩は制服のジャケットを脱いで私に着せた。


「もう大丈夫だから」

そう言って、しゃがみ込んで私の目線に合わせてくれた先輩が、珍しく焦っていて、そんな顔もするのかと思った。


なんか、もう、ぐちゃぐちゃだ。


「こいつ、よくも…」

先輩が私に抱きついてきた人を取り押さえようとした時、視界に映ったのは、街灯に照らされているだけでもわかるほどの顔の白い、痩せた老人だった。


骸骨みたいだと、思った。


口をはくはくさせて、呼吸もままならないようで、地面に這いつくばりながら、もう動けないだろう手を私の方に伸ばしていた。


「…生気、くれ、…たの、む」


ああ、私もテレンス先輩を、こんなふうにしてしまう可能性があるんだ…。


そう思った。


今触れられたことの怖さよりも、悍ましい恐怖に塗り替わった。


私、わかってなかった。

一度手を取るということは、相手を死に貶めるのも私かもしれないってことを。


女性優位の世界に、不平等さを感じていた。

だから、先輩の『女性は女神なのだから』発言にも、ムッとした。

でも、それは公平ではないにしても、この世界の正しい天秤だったんだ。


私が、先輩を殺すかもしれないんだ。

簡単に、手を取ろうとしてはいけなかったんだ。

今ならまだ逃げられると思ってしまった。


まだ、恋じゃない、から。


私は、自分が先輩の気持ちに応えられなくなった時の、その先のテレンス先輩のことを何も考えていなかった。


先輩の未来は、もらえない。


その老人に施しを与えられることもなく、ぼんやりと先輩とその人を見ていた。


「…先輩、ごめんなさい」

「シャーリーが謝ることなんか、何一つないよ」

先輩に似合わず強く言い切っていたけれど、私の体が震えるだけだった。


「シャーリー、俺じゃ嫌かもしれないけど、家まで送らせてくれる?」


私は先輩を見上げることしかできなかった。

戸惑う私に、優しい声で続けた。


「俺が心配なんだ。俺が送ってもいいかな?」

頭で考える前に、コクリと頷いていた。


先輩は一度も、私に触れることなく、そばにいてくれた。

馬車に乗せ、家まで送ってくれた。

私は、これで最後にしようと、そこで決めたのだった。


それから、先輩が卒業するまでの少しの時間、どれだけ先輩に構われようと、私は曖昧に受け流すようになった。


「うん」とも「ううん」とも言わずに、困ったように笑うだけ。


テレンス先輩が、どれだけ好きだよと言ってくれても、私はもう心を固く閉じて、先輩が卒業までだとやり過ごした。


先輩も、命が関わってきたら、きっと私のことなんて忘れてくれる。


そうやって、全部から逃げたんだ。





先輩の卒業式の日、いつもはテレンス先輩から私のところに来るのに、その日ははじめて呼び出された。

丁寧な手紙が、私の靴箱に入っていた。


そんな時になって、先輩から来てくれないと、私は先輩に会うこともないんだと、ぽっかり穴が開くようだった。


校庭にあるネムノキの下で、先輩は待っていた。

卒業証書の筒を持っているテレンス先輩は、なんだか大人に見えた。


「来てくれたんだね」

「…ご卒業、おめでとうございます」

「ふふ、最後までそんな感じなんだね」

先輩はいつもみたいに笑っていた。

空色の瞳は、曇っていなかった。


「シャーリー、俺ね本当にシャーリーが好きなんだよ」

「………」

「最初は、変な子いるな〜ぐらいだったんだよ。でもね、会うたびに、俺の方見てくれないかな、気にしてくれないかな、よく思ってくれないかなって思うようになってた」

「……先輩のご活躍を、応援しています」

「もう〜、ほんとに靡いてくれないねっ!」

寂しそうに細められる目が、先輩は泣いていないのに、天気雨だと思った。


テレンス先輩は、今までにないくらい近くまで顔を寄せて、ニコッと先輩らしく笑った。


「これまでも、この先も、俺が好きなのはシャーリーだけだよ。覚えておいてね?」


その声が甘くて、苦しくて、苦くて、訳わかんなかった。

テレンス先輩が私に手を伸ばして、頬を掠めそうになって、結局触れなかった。

先輩が、私に触ったことなど一度もないまま、先輩は手を引っ込めた。


私は泣きそうな顔を見られないように、敬意を込めて深くお辞儀した。


それが、テレンス先輩との最後だった。




「…ただいま」

本屋の仕事から帰って、ボフンと、着替えもしないままにベッドに沈んだ。

なんだか、先輩を思い出して、気が重くなっている。


店長に娼館でも人気になるって言われたからかな。


テレンス先輩も、娼館に通っているんだろうか。

いや、あれでも名家の貴族だし、もう結婚しているかもな。

ちゃんと誰かから、生気をもらってくれているといい。

そんなことを望むのすら、烏滸がましいけど、やっぱり考えてしまう。


テレンス先輩が、生気をいつ失ってもおかしくない年齢になった頃から、私の胸の内は、いつだって晴れなくなった。


『シャーリー、好きだよ』


青空が似合うあの人が、太陽の下で生きていますように。


「…私は、今でも、先輩と同じだけ返せません」

一人暮らしの部屋で呟いても、誰かから返事が来るわけでもないのに、そう言葉に出してしまっていた。





「シャーリーちゃん、配達員が来ているから、対応してくれる?」

「はい」

裏口に回って、頼まれた仕事をしている時、店の方が騒がしくなった。


どうしたんだろう、酔っ払いでも間違って入ってきたかな。


自分の仕事が終わってから店の方に戻ると、1人の男性が大声を出していた。


「だからっ、人を探しているんだって!」

「ですから、他のお客様もいますので、お静かに…!」

「お前っ!!!」

顔を出すか迷っていると、目ざとくその迷惑客に見つかった。

私を指差して、店長の制止も虚しく、こちらへズカズカやってくる。


その迫力が怖くて、身が竦んだ。

体がギュッと固くなって、息がしづらくなった。

あの日のように、助けてくれる先輩はもういないのに。


「なんだい、あんた!自警団を呼んでこようかい!?」

そこに店長の奥さんが、スパコーンと雑誌を丸めて、その客をぶっ叩いた。

それだけで、喚いていたお客さんの勢いも止まった。


奥さん、強い…。


「イッテエ…、あんただろ、あの頃からのテレンスの想い人はさあっ!?」

そう叫んで、もう一度私を指差した人をよくよく見てみると、かつて私とテレンス先輩が出会うきっかけとなった、私の友達に迫っていた先輩だった。


「…あ、あの時の」

「なんだ、シャーリー知り合いなのかい?」

「知り合いっていうか」

「そんなことはどうだっていい!いいから、来てくれっ!!」

乱暴に私の腕を掴んだその人は、引きずって店を出ようとした。


「なんなんですか、失礼にもほどが」

「テレンスが死にそうなんだよ…!」

悲痛な叫びが耳を貫通して、痛かった。

ヒュッ、という私の息の音がした。


「は、なんで」

「テレンスがっ、お前以外のやつに触りたくねえとか言って、どの女とも触れ合わねえんだよ!?」

「なに、が…」

「好きでもねえ奴の生気なんか欲しくないとかなんとかほざきやがって、今にも死にそうなんだよ!なあ、お前なら助けられるってことだろ!?」

必死に言うのに、もはや熱くなって怒鳴っていたけれど、私の血の気は引いていく一方だった。


先輩が誰からも、生気を、もらっていない…?


なんで、じゃあ、先輩もあの暗がりの老人みたいに、骸骨みたいな──。


『これまでも、『この先』も、好きなのはシャーリーだけだよ』


その言葉の重さに、今更頭を殴られて、息ができなかった。


先輩が、死んじゃう!


「…さい」

「はあっ!?」

「私を、テレンス先輩のところに、連れて行ってください…!」


考えるなんてこともできずに、そう叫んでいた。






「テレンス先輩…!」

テレンス先輩の家の大きさなど気にする余裕もなく、通された部屋に行くと、ベッドに先輩が横たわっていた。


まだ息はあるものの、明らかに顔色が悪くて、全身が小刻みに震えていた。


「先輩、テレンス先輩!」

「おいっ、テレンス!お前の好きなやつを連れてきたぞ!」

私たちが声をかけると、うっすらと目を開けて空色がこちらを向いた。


「やあ…、天使が迎えにきたかな」

「おめえ、ふざけんなよっ!そこは他の女にして、身を引くところなんだよ!」

「だって、しょうがないじゃないか…。俺の一生分の心は、もう彼女に捧げちゃったんだから」

「お前、頭いいくせに、バカだよな!?」

「…こんな天使のお出迎え、やだなあ」

「テレンス先輩」

私の声だけがやけに静かに響いて、先輩の目が僅かに見開いたのが見えた。


「…シャーリー?」

その声がもう一度名前を呼んでくれるとは思っていなくて、いとも簡単に目が潤んでいく。


怒りなのか、悲しみなのか、ここで泣くまいと鼻を啜った。


「何しているんですか。なんで、他の方から生気をもらってないんですか」

「シャーリーが、いる」

「わかっているんですか、先輩、今死にかかっているんですよ」

「ああ、シャーリーが本当にいるよ。夢じゃない」

「なんで、生気をもらってないんですか!あなた、貴族なんですよ!私なんかに固執するべきじゃなかった!…それか、命令したらよかったじゃないですか!私に来いって、会いに来いとか、なんでも言えばよかったじゃないですか…!」

テレンス先輩を責める言葉しか出てこなくて、自分でも嫌になりながら、頭を振った。


先輩、テレンス先輩──!


「だって、強引な男、シャーリー好きじゃないだろ?」

頼りなく笑うテレンス先輩は、なぜか嬉しげににこりと笑った。


久々に見た笑顔が、やけに胸を締め付けた。


「強引って…?」


なんの話、…あっ。

この連れてきた人と友達の間に割って入った時の。


『そんなに強引だと、好きになるものもなりにくいですよ』のことですか…?


ふらふらと気が抜けて、そのままテレンス先輩の胸元にポスリと体を倒した。

この前、ベッドに沈んだ時と違って、温かい。


人の生きた体温がした。


「シャ、シャーリー…!?」

「生きててください」

「シャーリー」

「私の生気でもなんでもあげるので、テレンス先輩死なないでください」

テレンス先輩の胸の上で、先輩の方を見ながら言った。

今までで一番近くて、直接触れていた。

心なしか、さっきより顔色がよく見える。


私は、今度こそ自分の意思で、テレンス先輩の手を握った。


「勝手に死ぬなんてなしです」

「…ふふっ、シャーリーがそこまでしてくれるなら従うしかないね」

徐々に力が入ってきたのか、先輩も手を握り返してきた。


血色のよくなった唇が、弧を描いた。


「だって、これまでも、この先も、好きなのはシャーリーだけなんだ」

変わらない空色の瞳が、やっぱり天気雨に見えた。


テレンス先輩が順調に回復していくのを、ようやく安らかな気持ちで見守ったのだった。





「え、手を繋いだだけなのに、まだ元気なのですか」

「そう。めちゃくちゃ好きな相手だと、生気の供給が少なくても大丈夫という文献を何個か見たことあるんだけど、本当だったみたい」


あの日から、5日。

すっかり調子を取り戻した先輩と仕事帰りに待ち合わせをしていたけれど、嘘みたいにピンピンしていた。

念の為に、1週間よりも早い日数で会ったけど、むしろ生き生きしているようだった。


「なんか、心配して損した気分です…」

「だって、2年ぶりにシャーリーに会えるのが嬉しくって」

「先日も会ったじゃないですか」

「あの時は、俺、意識朦朧としていたし」

「二度とあんな真似しないでくださいね」

「他の誰かに触れるくらいなら、シャーリーに触りたかったんだよ」

相変わらずな言い方に、曖昧に流すのではなく、少し恨めしく睨んでしまう。


自分との命の天秤にかけるなんて、先輩はバカだ。

それなのに、それをちょっとだけ嬉しいと思ってしまう私は、大バカだ。


「シャーリー、触ってもいい?」

「慈善活動ですので…」

「そこは、『先輩だからいいですよ』がいいよぉ〜…」

「…テレンス先輩以外に許可したりしません」

そう言って、私はおずおずと手を差し出した。


生きていてほしいというのは、私の我儘だ。

私以外から生気を分けられたくないというのなら、やっぱり私が手を差し伸べるべきだ。


まだまだ弱い私には、これが精一杯だけど。

いつか、必ずその想いに返したいなと、今は思う。


テレンス先輩は、ガシリと私の手を掴むと、にっこり笑った。


あんだけぐるぐるしていたのに、先輩の笑顔に勝るものはなかったのかも。


「嬉しい、シャーリー」

「…はい」

「学生時代から、ずっと手を繋いでみたかったんだ」

「あ〜、先輩そういうところは紳士でしたもんね…」

「うん、ほんとは今すぐ抱き締めたい」

「だめです」

「ふふふん、わかっているよ〜!」

テレンス先輩は上機嫌で繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら、触れ合っている手を見つめている。


繋いだ手があったかくて、恋しくて、生きた心地がした。


「シャーリー、大好きだよ」

「はい、知っています」

そう答えると、あの空色の目が弾けたように驚いてから、声を上げて笑った。


この顔が見られるなら、手でも生気でもなんでも、この人にならあげられると、考えなくても思っていた。


心の準備ができたら、ちゃんと返そう。


『テレンス先輩の命ごと、私もそばにいられるようにしたいです』って──。



その時、先輩の瞳は天気雨になるのかもしれないと思うと、自然と口元が緩むのだった。






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