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青春クラウチングスタート

作者: 新井雄二

拙い文体ですが、読んでいただけたら幸いです。


青春クラウチングスタート


 目の前を、黒い筋肉が躍動しながら通過する。

 まるでサバンナの肉食獣のような無駄のないその筋肉は「今この時のために俺は存在しているのだ」と主張せんばかりだ。

 彼は単純に黒人で、

 僕は農耕民族の黄色人種で、

 だから彼に対しての劣等感が、この強烈な印象を残したのかもしれない。

 さらにココが国立の競技場で、100メートル走の決勝という設定もあるかもしれない。

 大した試合ではない。TV中継されているわけでもないし、客席だってスカスカだ。

 彼は100メートル走で10秒を切ることが出来ない。

 もちろん、トップアスリートから比べたら三流だ。

それでも僕には彼が、

 彼の筋肉が、

 それだけで生きている価値を証明しているように見えた。

 僕にはこんなに輝いたことがあるだろうか。

 そもそも輝くとは一体どういうことなのか。

 自分でも定義がない。

 だが、定義がないだけに…。

 自分も輝いてやろうと思った――…。


 気がついた時には、競技場の多目的室たらん部屋のパイプ椅子に座らされていた。

「君はいったい何を考えていたんだ!まったく理解できん!」

 僕にだって理解できない。

「どういう発想であんな事をしたんだ!」

 だから、僕にだってわからない。

「頼むから教えてくれ。なぜあんなことをした。」

 だから…。

「わかりません。」

 三白眼で睨みつけた。


 目の前を黒いヒーローが走り去ったのを確認するやいなや、僕は彼を追いかけた。

 もちろん追いつくはずもなく、向こうはゴール。

 速度を落として、ヒーローは自分の順位を確認。タイムを見る。

 その頃になると、ようやく僕も彼に追いついた。

 追いつくやいなや、僕は彼の背中に思い切り、

ドロップキックをした。

 周りの選手は茫然。

 黒人はWhat?とか何とか言っていたが僕には聞き取れなかった。

 その流暢な英語の発音が癪に障った。

 さらに蹴りを繰り出したが、彼は倒れなかった。上手く膝のクッションを使ってダメージを吸収したようだ。

その機敏さが癪に障った。

 次に僕は女子のようにビンタを繰り出した。が、これは完全に避けられた。黒い皮膚で引き立った白い大きな瞳が僕を覗き込む。憎悪や憤怒ではなく、疑問の色の綺麗な白い目。

その綺麗な白い目が癪に障った。

 さらにサブミッションをかけようと近づいたところで他の選手一同に取り押さえられた。

 本来の僕は癪に障ったくらいで暴力を振るったりするタイプではない。

 暴力は合理的ではないし、怒りに身を任せて人に迷惑をかけるのは芳しいことではない。

 僕は癪に障ったからドロップキックをしたわけではない。

 また、人生でドロップキックをしたのも初めてだ。僕はプロレスが好きなわけでもない。

 なら、なぜドロップキックをしたのか。

 きっと、輝きたかったんだ。

 彼みたいに。

 でも僕には、彼みたいに輝くことはできない。

 だから、ドロップキック?

 千里の馬は常にあれど、伯楽は常にはあらず。

 僕は伯楽にも会えそうもないし、千里の馬ですらなさそうだ。

 二年間、毎日休みなくトレーニングを積んで、100メートル14秒を切れなかった僕は、その日に退部届を出した。


     1


 そもそもなんで僕は陸上部なんかに入ろうと思ったのか。

 それはやはりベタで恐縮だが、恋という甘酸っぱい理由も一つの要因になる。

 僕はハイスクールの一年生で、彼女は二年生。

 年上の女性に憧れる年頃でもある訳だし、そういった下らない理由があっても恥ずかしいとも何とも思わない。

 が、そういった行動は、僕のキャラクターに合わなかった。

 そもそも問題の彼女とどうやって出会ったのか…。

 彼女の事を少しだけ思い出すために…少しだけお付き合いいただきたい。

 もともと運動の得意なタイプでない僕が、陸上部に入ること自体が自然の摂理に反した行為だったのだと思う。

 僕は帰宅部同様の漫画研究部か写真部に入るつもりだった。

 中学の頃からつるんでいた長壁君は予定通り漫画研究部に入り、学校に黙って、バイトの毎日を送っている。

「家は経済的にも裕福じゃないからね。」

 と言いながらも彼は早い段階で原付の免許を取り、僕からしたら手も届かないような高値のバイクを購入した。

 長壁君は昔からインテリジェンスな一面を見せる半面ダークネスな部分も持ち合わせていて、やはりそういうタイプの男性は女子からもモテた。

 一方僕は、彼女など出来たこともなく、また元来そういったことに淡泊なのか、周りの男子たちほど「青春の全てをそこに賭す!」とうモチベーションにもなれなかった。

 よって目的の良く分からない部活動紹介のようなものが体育館で行われた時、他の男性陣はダンス部のお姉さんたちのくびれ等々に見とれて熱中していたが、僕は興味を抱けず、携帯を開いてテトリスをしていた。

 吹奏楽部が、ありがちな「世界に一つだけの花」を伴奏し終わったあたりで、いい加減に馬鹿らしくなり長壁君と連れ添って静かに体育館を辞した。

「ダンス部の山口先輩、セクシーだったね。」

 長壁君は綺麗な先輩の名前を諳んじている。

「君はすごいな。もう名前までキープしているのか。」

「山口先輩くらいなもんよ。ある程度のデータ収集は礼儀さね。」

「そういうものかな。…ストーカーみたいに思われないか?」

「日本の男性はこれだからNothing!」

 やけに発音がよろしい。

「なんで日本人はそんなに消極的なんだよ。」

「君だって日本人じゃないか。」

「女性は常に、男性からのアプローチを待っているものなんだよ。」

「そいうものかな。」

 この場では肯定寄りの発言をしておいたが、それはやっぱり言われる人によると思う。長壁君のような高青年が声をかけてきたら女性だって悪い気はしないだろうが、僕のように鼻の低いオーソドックスな黄色人種が挙動不審に声をかけてきても、セクシャルハラスメントにしか思えないだろう。

 少なくとも、僕が女性だったらそう思う。

 が、そんな討論をしても彼には理解できないだろうから、そのへんのところは割愛した。

 それにしても彼の最近のイングリッシュかぶれ。若干気にはなったが、面倒なので触れることは避けた。

「だいたい、部活動紹介なんて高校生でもやるものなんだね。中学だけの話かと思ったよ。高校生にもなれば、それなりの自己判断力も備わってくるわけだし…僕らのようにバイトをするつもりの人間には参加を拒否する権利が欲しいね。」

「まぁ気持ちはわかるが、My friend そう堅くなるな。Take it easyさ」

 とうとう突っ込みたくもなる。

「さっきから君は英語の発音がずいぶんよろしいが、一体どうしたんだ。」

「What? これかい?」

「ワットもなにもないだろう。その返し方だよ。」

「これはね。あえて理由をつけるなら…―僕は恋をしたんだよ。」

「恋?」

「そう。世界は恋でできてるんだよ。知ってたかい?僕は恋をしたのさ。」

「誰に?」

「愚直すぎる質問だな…。英語なんだから…三組のプリンセスだよ。」

「三組のって…あの掘りの深い…。」

 たしかフィリピンやらマレーシアの子だったと思う。

 最近、日本にやってきたという噂で、英語しか話せないのによく入学できたなと生徒の間で若干話題になっている子だ。

「Yes! that’s right!! あの子に恋をしたのさ!」

「…そうか。まぁ君がどんな女性を好きになろうが僕は構わないが…なぜまた、ああ言ったタイプの女性に恋をしたんだ。」

「恋に理由なんてないだろうに。愚問も良いところだな。」

「それにしたって言葉の壁がある訳じゃないか。君だったら他に女の子から告白も受けたりするだろうに。」

「好きだと言われる事は有り難いことだが、それと好きな子とは全く関係ないよ。」

 好きだと言われた事がないので僕には想像し難いが…論理的には理解できる。

「だったらあの…フィリピンやらマレーシアの子に…。」

「マレーシアだ。」

「そのマレーシアの子と仲良くなるために英語を勉強しているというわけか?」

「そういう事になるね。愛の力があればつまらなかった英語の授業にも意義を感じられるようになるな。ただ英語なんて本気になったら独学で学べるよ。学校で教えるようなものじゃない。」

「そういうものかね…。」

「そういうものだよ。」

 とか何とか回りくどい、思春期オーラ丸出しの会話をしている所で何かが肩に当たった。

 なんだろう。と後ろを振り向くと、

 そこに制服姿の女子が倒れていた。

 この女性は、僕の肩に当たった衝撃で倒れたんだと理解するまでに何秒かの時間を要した。だって、肩に当たった感触は驚くほど軽かったから。

「すみません。」

 日本人の防衛本能。よくわからないけど、とりあえず謝る。

 確かにこの時「申し訳ない」という気持ちは後から生まれたが、その感情より先に「すみません」と言ったのも事実だ。非常に細かい描写で申し訳ない。

「いえ…大丈夫です。」

 と言った女性は起きあがるのも儘ならない。

「どうかしましたか…足が痛いとか…。」

 さすが長壁君。こう言った場合のフットワークが軽い。

「いえ…眼鏡が…。」

「眼鏡を落としちゃったんですね…。探します。」

 こういう風にすぐ女性と会話が出来る。容姿だけじゃない。こういった部分も彼のモテる要因のひとつなんだろう。そんな小さなジェラシーを抱きながら、僕は二人をボーっと立ちながら眺めていた。

「おい。八須君。君がぶつかったんだぞ。君も探せよ。」

「あ、う…うん。」

 こういう時にどうしても喉が掠れてしまう。さっきまで堂々と下らない会話を自信満々にしていたばかりだと言うのに…。

「あった…。」

 その眼鏡は僕の足元に落ちていた。赤いセルロイドの枠が付いている。割合目立つタイプの眼鏡だが、二人から見たら死角の位置にあったのだろう。

 拾ってその女性に渡す。

「ありがとうございます。」

「いえ、こちらこそ、すみませんでした。」

 また声が少し掠れてしまう。自分に腹が立つ。

 眼鏡をかけた彼女は…。

 美しかった。

 一般的に見たら美人と言うタイプではないかもしれない。否、中の中…否、中の下…。否…下の上くらいだ。こんな風に僕ですら彼女の容姿を肯定できないのに他の男子が肯定できるはずがない。やはり彼女は一般的には美人とは言われない女性だ。出会って早々失礼極まりないカテゴライズの仕方だが…。

 だいたい美人と言う定義は不確かであまり好きではない。僕にとって彼女は美しく見えた。それでいいじゃないか。

彼女は割かし歯並びがよろしくないほうで、そこがまず目立つ。あごはかなり小さめで、頬骨が少し出ていてるので、卵型の輪郭をしている。鼻は低めで、ポコっとしていた。ただ目はくりっとしていて大きく二重で、瞳が薄茶色だ。全体的に髪の毛も皮膚も色素はうすめで、腕なんかは真っ白だった。体は細くて、背は僕よりも少し低いくらい。女性としては大きめなタイプかもしれない。

 すごい。人間、集中力が増すと、一瞬でこれだけの記憶をよみがえらせることが出来る。

 正直僕は、あまり他人に興味があるタイプの人間でもないので、あまり人の顔の特徴などは呼び起こせるタイプではないのだが…。その一瞬。彼女の顔を見ただけで、これだけの情報が記憶の中に叩き込まれた。人が二重かどうかなんて本来だったら、出会ってしばらくたってからじゃないと気づかないような事なのに。

 すぐに彼女はその場を立ち去ったが、僕は映画の主人公のようにその場に立ち尽くした。「どうした。」

 長壁君が声をかけてきた。

 この時僕は言えばよかったんだ。「あの子、好みだわ」って。

 一番仲のいい長壁君に「今、僕も恋をしたのだ」とかなんとか言って、ふざけたニュアンスでも良いから伝えていたらよかったんだ。。

 でも僕はその一言が言えなかった。あまり美人でない彼女が好きになったことが恥ずかしかったのかもしれない。長壁君のようにマレーシアの女の子を好きなんだって。正直に、話していたら良かったのかもしれない。もしこの時、長壁君にだけでもその事を言えていたら、少しは未来を変えられたかもしれない。


     2


 彼女が陸上部だという事を知ったのは、それからすぐだった。

 下校時に校庭をふと見ると、彼女が体操服で走っていた。

 他には二人の男子が校庭のはじっこの方で準備体操やら、陸上部らしいモモ上げのようなことをしている。

 うちの学校はあまり部活動が盛んな学校ではない。

その他に校庭を使っているのは、おととし立ちあげたばかりの女子のソフトボール部くらいで、これだってほとんど活動していないに等しい。なんと定番の青春部活、野球部とサッカー部は存在しない。その後、体育館でフットサル部らしきものが一部の生徒で作られたそうだが、自然消滅した。

 部活のメインはダンス部や、吹奏楽部。検定取得を目的としたパソコン部なんかが主流だった。完全にインドア派の学校だ。

 その他の一般的な生徒たちは、一応学校の決まりで部活に所属しなくてはいけないので、写真部や漫画研究部に所属して、放課後は主にデートやバイトの日々を送る。

 つまり、こんな体育祭もないようなシーズンに校庭で練習している生徒は稀で、そのうち女性は一人きり。わざわざ体操服にまで着替えて走っている。僕が見つけられないわけがない。

 が、やはり彼女は美人なタイプではない。他の男子は目もくれる事もなく、まっすぐ下校していた。これがもし、ダンス部の可愛い先輩でも走っていたら、一年生のハイエナどもは両目をかっぴらいて見学するだろうに。もしかしたら一緒に走りだすかもしれない。

 僕はその姿を横目で確認するも…。

 そのまま長壁君と下校した。

 僕の気持ちは相変わらず長壁君にも言えないでいた。


 そらからしばらく時間は経過して水無月の雨の日。

 その日の朝は珍しく晴れていて、傘も必要ないだろうと油断したところの雨だった。

 それも結構な雨。

 最寄りの駅に着くまでには、ずぶ濡れになってしまいそうだ。

 案の定、僕が下駄箱のあたりで途方に暮れていると、長壁君がやってきた。

「Youもか…。Meもだよ。」

 相変わらず中学生レベルの英語しかしゃべれないようだが、継続はしているらしい。

「結構な雨だね。」

「よわったな…。」

 そんなどうでもいいような、毎日のことなら省略しても良いような会話を繰り返している僕たちの横に一人の男子生徒が現れた。

 彼は背が高く、180センチ~85センチはあった。たぶん90センチはないだろう。とにかく僕らよりは遥かに長身の生徒だった。体格も良く、四角い顔をしているので、巨人の星の伴忠太を思い起こさせる。こんな生徒は我がクラスにはいない。なぜ教師ではないと断定できたかと言うと、僕らと同じ制服を着ていたからだ。

僕たちは学生独特の嗅覚で上級生だと判断し、先輩の邪魔にならないように道をあけた。

だが、彼も雨を目にして立ち止まった。彼の手にも傘がない。

外の雨をにらんでフリーズしている。

あまり好ましくない、沈黙の雰囲気。

「あの…。」

 ふと彼が口を開いた。

 一瞬、僕らに話しかけているわけではないのだろうと思い、無視する形になってしまったが、明らかにこちらを向いている。

「あの…。」

 ここまで「あの」を連発されてしまっては無視するわけにはいかない。

「どうかしましたか。」

 彼寄りに立っていた長壁君が対応する。

「雨、すごいですね…。」

「そう…ですね。」

 敬語…。先輩ではなかった。

 たしかに冷静に考えれば上級生がココの下駄箱を使う事はない。だが、こんな個性的な生徒が同級で存在しているという記憶もなかった。

「僕、一年生の中貝といいます。君達も、一年生だよね。」

「そうだけど…。君、今まで学校に来てなかったよね。」

「うん。試験に面接で合格したんだけど…その後、事故にあって入院しちゃってたんだ。」

「そうなんだ…。いきなりヘビーだったね。俺、長壁。」

「僕は八須。」

「長壁君に…八須君か…僕、中貝。」

さっき聞いたよ。中貝君。

だが、流石に初対面。まだ口に出しては突っ込まなかった。

「僕、九州から引っ越してきたばかりで、こっちに友達がいないんだ。」

 そんな告白をされてもこちらは困ってしまう。

「そうなんだ…。」

 どうせ小雨になるまでココからは動けない。特に予定もなかった僕たちは中貝君とダラダラと無駄口をたたきだした。

「それにしても背が高いね。」

「良く言われる。でも、これでもだいぶ痩せた方なんだよ。」

「いや、身長の事を言ってるんだけど…。」

 ここまで会話をすればさすがに突っ込める。

 だが、先ほどからの会話を考慮すると、狙っての発言ではないらしい。彼は真面目だ。

「二人は、部活はやらないの?」

「やらないねぇ…。」

「インドア派だから。」

「そうなんだ…。」

 心なしか中貝君が寂しそうだ。

沈黙も嫌なので、あまり興味もないが聞いてみた。

「中貝君はなにかスポーツするの?」

「いや、僕は…大したものはやらないよ…。」

「スポーツに大したものも、そうでないものもないじゃない。」

「でも…僕のは…いいんだよ。趣味程度だから。」

 スポーツはだいたい趣味だろう…。

誰がどんなスポーツをやろうが、僕の知ったことではないが、ここまで引っ張られると流石に興味がわく。

「なにをやるのか教えてよ。」

「僕は…」

 中貝君は恥ずかしそうに口をすぼめながら言う。

「砲丸投げをやるんだ。」

 砲丸投げ…。

これまた渋い。

 僕が心で思ったことを長壁君は口にする。

「また、渋いね…。なんでまた…。」

「父親が趣味でやっていて、その影響かな。」

 確かにこの体格だったら砲丸さんも、さぞかし飛ぶだろう。

若干、リスペクトに近い眼差しで中貝君の体躯を眺めていると、中貝君がこれまた恥ずかしそうに口をすぼめがら僕らに聞いてきた。

「ココの学校、陸上部ってないのかな…。」

 陸上部…。

そうか。砲丸投げなら陸上部か。

 とっさには陸上部と砲丸投げを連結できなかった僕だが、となりの長壁君はすぐに思い当たったようだ。

「陸上部なら割かし活動してるんじゃないかな。今日は雨だから活動してないだろうけど、いつも校庭で走ったりトレーニングしているよ。」

「そうなんだ。じゃぁ…雨の日はどうしてるのかな。」

「どうしてるもなにも…自然解散してるんじゃないか。甲子園を目指す高校球児でもない訳だから、室内で階段上り下りとかまではしないでしょう。」

「この学校はあまり部活に力を入れていないんだよ。陸上部だって三、四人しかいないんじゃないかな。顧問の先生も見たことないよ。」

「そうなんだ…。」

 中貝君がまた寂しそうな顔をする。

分かりやすい奴だ中貝君。

「陸上部、入りたいの?」

「うん…。」

 また恥ずかしそうに口をすぼめる。癖なのか。

「職員室で聞いてみたらいいんじゃないかな。先生たちもまだいるでしょ。誰が顧問の先生か聞いてさ、そのまま入部手続きもしちゃえばいいじゃない。」

「そうだよ。どうせ小雨になるまで動けないわけだし。」

「うん…。」

 すると中貝君。

 今度はさらに恥ずかしそうに口をすぼめながら、

「職員室…一緒に来てくれないかな。」

と、僕たちに懇願した。


     3


 職員室に半ば強引に連れて行かれた僕たちは、陸上部の顧問の先生を探すことになった。

「どうした。お前ら。部活やる気になったのか。」

「いや、僕らじゃなくて…。彼が…。」

 何度同じ説明をしただろうか。

 たしかに三人連れで「陸上部の顧問の先生ってどなたですか」なんて聞いていたら、仲良し三羽ガラスが陸上部に目覚めたのだと思われるに決まっている。

 僕らがバイトをしているのは先生たちも、なかば暗黙の了解ずみで、まさか部活をやる気になろうとはと不思議に思っているのだろう。

 何人かの先生に聞いたが、そういった担当外の事には興味がないらしく、皆様把握していらっしゃらなかった。事務員のような先生に聞いてやっと陸上部の顧問が誰なのかが分かった。

 堅持だった。

 堅持というのは、化け学の先生で、一年生の僕らにも、すでに陰で呼び捨てにされているような、そんな親しみのある、悪く言えばいじめられやすいタイプの先生だ。

「堅持か…。」

「どんな先生なの…?」

 僕らの面倒くさそうなリアクションを見て、中貝君が心配そうに尋ねる。

「堅持はねぇ…。あまり気持ちがよろしくないんだよ。」

「ぐじゅぐじゅって感じの人かな。」

「なんでその人が陸上部の顧問なんだろう…。」

「そんなの僕たちに聞かれたってわからないよ。堅持なら実験室のとなりにある部屋に常備してるから、そこを訪ねなよ。…じゃ。」

 短く手を挙げ帰ろうとする僕たちの二の腕を、中貝君の分厚い掌がしっかりとつかんだ。

 さすが砲丸マン。

 もやし青年の僕らは、腕一つ掴まれただけで、身動きがとれない。

「ここまで来たんだから最後まで付き合ってよ…。」

 ものすごい腕力と不釣り合いな、子供のようにとがらせた口。

 僕らは、彼の握力の威圧感と、とがらせた口の好感度によって、堅持の所まで行ってあげることを承諾した。


「堅持いるかな。」

「堅持いるでしょ。」

「堅持いなかったら。」

「堅持もちもち。」

 堅持の語感がやけに面白く、僕らは堅持ごっこをしながら実験室まで行った訳だが…。

 堅持は本来リスペクトするべき先生だ。

 そりゃ世の中もダメになるわいな。

 やはり尊敬できる人、界隈や恐怖、緊張と言ったジャンルのものはきっと、本来人類には必要なものなのかもしれない。そういったものはだんだん世の中から消えてきている。

 父親は怖くないし、先生は尊敬できない。何かしたらげん骨が飛んでくるのではないかという恐怖心もない。バイトの社員にだって緊張もしない。クビにされたって死ぬわけじゃないと思える。

だから僕らは大抵のものに無関心だ。

きっとそのせいで褒められた時の喜びも、至福も半減しているのだろう。

 でも、だから何が悪いのかと問われると、それを答えるすべは持ち合わせていない。

 要はそういうものなんだ。

 人類の退化は甚だしいが、進化もしていると思う。

 堅持みたいなタイプの人間はいったいどうなんだろう。

 僕ら生徒と会話をする時も臆病なそぶりをみせる。

 生徒が怖いのだろうか。

 もし恐いのなら、仲良く話せた時、その感動は人一倍のものなのだろうか。

 それとも好んで僕らとの会話を避けるのか。

 そこはやはり堅持は他人なのでわからない。

 どうでもいいことだ。

 ―…そう。

 こうやって僕は、いつも思考を停止させる。

 確かに、

 全てはどうでもいいことなのかもしれないのだけれど。

 今、僕の目の前にいる堅持は、僕らの眼を見ない。

 見れないのか、見ないのか、そこのところはわからない。

「り…陸上部…入りたいのね…。わ、わかった。」

「はい。入部届けとかって、どのようにすればいいですか。」

 堅持効果で中貝君ですら常識人に見える。

「わ…わたしが…手続きしておくから…。」

 目も合わせないまま早口で言う。

 このテリトリーから早く出ていってほしいとの意思表示が充分に伝わる。

 が、中貝君には伝わらないらしい。

「自分、どうしたらいいですか。明日の放課後に体操着に着替えて校庭に行けばいいですかね。自分は砲丸投げがしたいんですが、この学校に砲丸投げできるような場所って…」

「わわわわわ…。」

 中貝君の質問攻めに堅持の脳みそがフリーズした。

 すかさず僕らが中貝君と堅持の間に入る。

「中貝君。そんなに矢継ぎ早に聞いたら先生も困るよ。」

それでも眼をオロオロさせながらも堅持が懸命に答えた。

「…ほ…放課後。それで…大丈夫。」

 なぜ彼は教員と言う職に着いてしまったのか…。

 同情してもしきれない。

 まず教員になれたことが驚きだ。

 教員試験の時には、こんなんではなかったのだろうか。


 翌日は快晴。

日も差し、昨日とは季節が違うのではないかと思われるほどの気温の差だった。

まったくもって地球の気候は悲しいくらいに変化をしているが、僕らにはどうすることもできない。微々たる協力は惜しまないが、世の中からプラスチックや車がなくなるのは困ってしまう。結局、現代人は生きているだけで地球に悪影響を与えてるわけだけど、その悪影響ってのも人間サイドの生物からしたらってだけの事であって…二酸化炭素が増えて有り難いと思う生物もいるわけだわな。

結局なるようにしかならず、そこでどうこう言ってストレスを溜めてしまうのは体によろしくない。暑いなら暑いなりに、寒いなら寒いなりに感謝して通る。

現状の環境破壊を打破しようと努める向上心は素晴らしいが、僕はそこまでのテンションにはお付き合いできない。亡びるときは亡びて何が悪い。

まぁ、こんなようなニュアンスの事を、昼休みに長壁君と教室の片隅でお弁当を頂きながら話していると、二人揃って上級生からのお呼び出しをもらった。

「長壁君。八須君。三年の先輩がお呼びだよ。」

 二人で顔を見合わせる。

 部活も委員会もろくに参加していない僕たちは上級生と関わる事がない。

 なぜ呼び出されるのか、なぜ僕たちの名前なんて知っているのか。

どこか癪に障らない部分でもあったのかしら。

 どうであれ、ココは不良学校でもないので殴られるようなこともないだろう。

 油断した心持で廊下に出ると、

 ちょっとファンキーな先輩がそこに立ってた。

 綺麗な坊主頭。暑いからなのかオシャレなのか、制服のズボンは片足だけまくっている。

「どっちが長壁でどっちが八須?」

 ちょっと好感の持てない態度だ。

 だが、こんな態度程度でカチンとくるような僕たちではない。

 円滑に、角なく。それが僕たちのモットーだ。

「僕が長壁で、こっちが八須です。」

「俺、三年の波山。」

「はぁ…。」

 そして沈黙。

 で、何なんだ。波山さん。

 さすがに長壁君が切り出す。

「それで…僕たちにどんな御用が…。」

「お前ら陸上部だろ。」

「え…いや…。」

 堅持が勘違いしたんだ。

中貝君の後ろにいた僕たちも入部希望者だとカウントしたのか…。

それにしても、堅持に名前を呼ばれたこともない僕たちだったが、奴は僕たちの名前と顔をちゃんと把握していたんだ。クラスでも目立つタイプでもない二人なのに…。

僕は堅持が僕たちを入部希望者だと勘違いした事よりも、僕たちの名前と顔をちゃんと知っていたという事に驚いた。

「今日晴れてっから、校庭来るだろ。」

「いや、僕たちは…。」

「なに?」

 ちょっとガンを飛ばされる。不覚にも委縮してしまう。

「中貝君が…。」

「中貝?四組の?」

「四組なんですか…それは知らないですけど…その中貝君が僕らを誘って…。」

「入部したんだろ。」

 説明が足りなかった。

きっと正解は「誘って」じゃなくて「一人じゃいけないから着いていってあげただけなんです」だった。

 この長文が言えなかった。


     4


 長壁君の言葉のチョイスミスせいで僕たちは…。

 否、僕は。

陸上部に参加することになった。

 校庭には体操着を来た一年生が二人。

 僕と、中貝君だ。

 長壁君の姿はない。

「もう一人はどうした。」

「体調不良だそうです…。」

「あんまりやる気なさそうだったもんな。やる気ない奴は来なくて大丈夫。」

 僕もやる気ないんですけど。というか、やる気ないなら来なくても良かったのか…。

 なら、あんな威圧的な態度を取らないでほしい。

 ただ正直、僕の中にはしたたかにも、若干期待する気持ちもあった。

 あの、眼鏡の子とお近づきになれるかもしれない。

 その良い口実が、実に偶然にも訪れたのだと。

 彼女は少し遅れてやってきた。

 当たり前だが、いつも下校時に横目で見る姿そのままだ。

   あの時、拾った赤いセルロイドの眼鏡は掛けていない。でも、しっかり見えているようだからコンタクトをしているのだと予想される。髪はひとつ結びに結っていて、ピンクのゴムで止めてある。

「ああ、苗場。こいつら一年生の新入部員。八須と中貝。」

 こういう時に波山さんはありがたい。苗場さんとおっしゃるのか。

「八須です…。」

「中貝です。」

「私、苗場です。よろしくね。」

 あの時とは違い、上級生としての「よろしくね。」と言うタメ語に違和感を抱く。

また、記憶の中の声と現実の今聞いた声に若干の違いがあって戸惑う。

 人間の声の記憶って微妙にズレるものなんだなと、この時はじめて知った。

 笑った時に少し出た前歯の印象は、記憶通りだった。


 もう一人の部員。影の薄い二年生の西賀さんが到着して、部員は全員そろった。

 三年生一人。二年生、一年生が二人ずつ。計五名。

 こんなに少ない人数で部活をして一体楽しいものなのか…。

 否、僕らが入る前は三人で、この広い校庭を使って練習をしていた。

 いったい何が楽しいのか…。

なにか楽しみがあるわけだから、こんなに部活に力を入れていない学校にもかかわらず

晴れた日は必ず外に出て練習しているのだろうが…。

 全員が揃うやいなや波山さんが号令をかける。

「はい。丸くなって…。いっち、に、さん、し!」

 ベイシックな準備運動。屈伸から始まり、アキレス腱などの筋を伸ばす。

 手首足首ブラブラが終わると、

「解散。」

 驚きの解散号令。

 五人の小さな円は、僕と中貝君を除いて綺麗に解散してしまった。

 取り残された僕たちに波山さんが、この部活の説明をしだした。

 我が陸上部の基本概念は「個人主義」だそうだ。

 あくまでも自分の追求したいものを、好きなだけトレーニングする。

 ならばなぜわざわざ陸上部という形にしているのか。

理由は至極簡単で、私的な理由で放課後、校庭を使うのは学校的によろしくないと、校長に指摘されたため、やもえず部活動という名目で校庭を使わせてもらっているとのことだった。

部活自体の存続には三人以上のメンバーが必要で、波山さんは夏休みを過ぎると受験のため部活を引退することが決まっていた。

残された後輩二人のために、部活を存続させてやりたい。

そんな親心があって波山さんは一年生の僕らを半ば強引に引っ張ろうとしたのだった。

存続のためなら名前を誰かに借りるだけにしたら…。

と考え、初めは帰宅部同然の友達に名前だけ参加してもらっていたのだが、そうなると結局、波山さんだけが放課後、なにやら校庭で黙々とトレーニングをしている形になり、それではあまり体裁が芳しくないと言う事で「実際に活動している生徒が三人以上いない場合は校庭を使わせられない」と言うルールに変更されてしまったそうだ。

個人的に何かをすると言っても、運動音痴の僕はいったい何をしたらいいのか困ってしまう。これからすることもなく、何時間も校庭にいるのは、あまり嬉しいことではない。

だが、その話を聞いた中貝君はものすごく嬉しそうだった。

「最高じゃないですか!」

 彼はただ黙々と砲丸を投げていたかったらしく、陸上部と言う事で、砲丸投げには関係ない陸上の基本練習などに参加させられるのを希望していなかった。

 ただ砲丸をずっと投げていられる。好きな時に腕立てが出来、スクワットが出来る。

 その事が嬉しくて仕方がないようだった。

 僕にはその気持ちが一ミクロも理解できない。

「じゃぁ…解散!」

 と言われても僕には行きたいところも、したいこともない。

 ぼーっと各々が好きなところで腕立てやら、モモ上げやらをしているのを眺めている。

 することもないと、冷静に思考が動き出す。

 波山さんが引退して、人数が最低ラインの三人以下になることによって、二年生が校庭を好きに使えなくなる。それを死守するために一年生を入部させたわけだが、だったら中貝君だけ入れば最低ラインの三人はクリアできるわけで、僕はこの時点で部活をやめてもまったく問題なかったわけだ。

 正直、僕はこの時、このことに気づいていた。

 でも、気づかないフリをしたんだ。

 それはやっぱり…甘酸っぱい感じになってしまうけど…。

苗場さんがいたから。

苗場さんを見ると…。

いつものように、校庭の直線を使って、まっすぐ走っていた。


     5


「…と、言う感じかな。」

 昼休み。長壁君に先日の報告をする。

 もちろん苗場さんの部分は割愛する。

「Just what I expected !」

「どういう意味?」

「そんな事だろうと思ったよ。やっぱり行かなくて正解だったろ。」

「体調が悪いって、僕にすら本気で仮病使ってたじゃないか。」

「Just kidding !」

「英語はよくわからんよ。まぁ良いけど。とにかく波山さんは、長壁君のことはもう大丈夫みたいだよ。」

「残念だったね。長壁君の事は大丈夫って言い方は、八須君は目をつけられてしまったってことだろ。」

 本当はそうではないのだが…。

「そんな感じかな…。」

 苗場さんの横顔がふと頭をよぎる。

「まぁバイトもやめようとしていたんだし、ちょうど良かったんじゃないか。」

 そう。僕はレストランのキッチンでバイトをしていたのだが、土日の忙しい時間帯だけ、しかも二時間だけ参加。などという、まったくもって高校生を愚弄した扱い方に腹が立ち、近々やめてやろうと決めていたのだった。

「うん。今日やめてくるよ。」

「まだ二カ月も経ってないよね。店長も吃驚するだろうに。」

「そうだね。今時のガキは我慢が足りないとか思うんだろうね。勝手に思えばいいさ。」

 今日も雨で校庭は使えない。

 苗場さんの顔が見れないことが、すこしだけ、ほんのすこーしだけ、寂しかった。


 それから二日間、雨が続き、またもや照り照りの気候に急激に変化した。

 前の日が小雨だったからか、水はけがよろしいのか、校庭はぐしゃぐしゃになることもなく、放課後には水たまり一つ残っていなかった。

「はい。丸くなって…。」

 波山さんの軽い準備体操が終わると、

「解散。」

 また、一同バラバラになる。

 まだ二回目だと言うのに、中貝君はすっかりこのシステムに順応してしまったようだ。

 ガラス越しで自分の姿が見える位置を見つけ、砲丸投げのフォルムを整えている。

 西賀さんはひたすらモモ上げ、反復幅跳び、スキップのような走り方をしたりと、定番の陸上部的な基礎運動を繰り返す。

 波山さんは主に腕立て、腹筋。たまに鉄棒にぶら下がっては懸垂をしたりしている。主に筋トレが好きなのだろうか。

 苗場さんはひたすらに走る。

 僕はと言うと…。

 相変わらず皆を傍観しているのみだ。

 そんな手持無沙汰丸出しの僕を見かねてか、西賀さんが声をかけてきてくれた。

「俺、西賀。八須君…だよね。」

「はい。」

「自己紹介が遅れてごめんね。」

「いえ、こちらこそ。」

 外観はもったりした感じの人だが、話してみると意外と爽やかで好感がもてる。

「いきなり好きに校庭使えって言われても困るよね。」

「はぁ…。」

「俺も最初そうだった。波山さんに無理やり連れてこられてね。中学が一緒だったから眼つけられちゃって。で、誘われるまま。」

 この人も自分の意思で入部した訳じゃなかったんだ。

「それでも西賀さん。練習熱心にやられてますよね。」

「ああ。ちょっと理由があってね。」

「理由…。」

「そう。大した理由でもないんだけどさ、一年の時に陸上の地区大会に出て…。」

「大会…?」

「そう。一応、名目上は学校公認の陸上部だからね。大会の話とかは来るんだ。で、面白半分で参加しにいったんだよ。そしたら…。」

 県大会、インターハイを目指す他校の生徒たちに圧倒されたそうだ。

「俺も学校では足が早い方だったからさ。自信あったんだよ。」

でも見るも無残に敗退。初めから予選なんて残るつもりもなかったが、短距離にもかかわらず、ひとつ前の選手に一秒も差をつけられ、初めてやった幅跳びでは予選ノルマの距離の半分も飛べなかったそうだ。

「しかも、適当に参加したのが俺らだけでさ…。他の学校の選手はみんなマジなの。学校での競争を勝抜いて出場してるような人ばっかりでさ…。なんか、陸上って地味だから、こんなに熱い人たちがいたんだって初めて知ってさ…。」

 でもその人たちの姿を見て練習に熱心になった訳ではないらしい。

「試合終わった後に堅持が泣いてさ…。」

「けんもち…。」

「そう。顧問の先生ね。「わ、わたしのせいで、君達に…は、恥ずかしい思いをさせてしまった。く、く、悔しいだろうに…」ってさ。別に俺たち恥ずかしいとも悔しいとも思ってなかったのに…。」

 あの堅持が陸上部の顧問として試合に付き添って行ったことも不自然な画なのに、その場で悔しくて泣いてしまうなんて、ちょっと想像が出来ない。

「まったく練習もつけてるわけじゃないのに、恩着せがましいセリフだよね。他に二人いた同級生は気持ち悪いって言ってすぐ退部したんだけどさ。なんか俺の受け取り方は違かったんだよね。「恥ずかしかっただろうに」って堅持に思われるの。なんかムカついたんだよね。上から目線じゃん。」

 確かにそうだ。

「あいつ走ったって絶対遅いぜ。陸上のりの字も知らないようなやつが、試合見て悔しいだろうにって。なんかウザいだろ。」

「そうですね…。」

「でも傍から見たら俺らそんなんだったんだろうなって思ってさ。堅持がそう思ったんだから、他の生徒とかギャラリーもそう思って俺たちを見てたわけでしょ。」

 それは極論かもしれないけど、そういう部分もあるかもしれない。

「だから次の地区大会では、俺たちのこと足遅くて可哀そうとか思った奴ら見返してやりたいって思ってさ。別に予選なんて通らなくても良いんだ。ただ、陸上大会の平均値?そこらへんには成っておきたいって思って、練習してるの。」

「そうなんですか…。」

 こだわる所は人それぞれだ。

 もし、僕がその場に居合わせても他の同級生と同じように「気持ち悪っ」と言って退部していただろう。

 苗場さんと波山さんも同じ理由で校庭を使っているのだろうか。

 ふと、校庭に目をやると、西賀さん。

「でも、他の二人は違うよ。そんなこと考えてもいないみたい。」

 すごく細かいところに気づくタイプの人なのかもしれない。

 苗場さんは相変わらず走り続けているし、波山さんは筋トレを続けている。あくまでも個人主義か…。

「波山さんは何のために体鍛えてるのか教えてくれないけど、苗場はなんかの映画に憧れて陸上始めたとか言ってたな。」

 映画か…。

「ま、八須君も何かやりたい事みつけて体鍛えたりしたらいいんじゃない。何もしないよりは今のうちに基礎体力つけておくのも良いことだと思うしね。」

「はぁ…。」

「もし辞めたかったらいつでも辞めて大丈夫だしさ。波山さんが辞めても中貝君が入ったし。最低ラインの三人の話、聞いたでしょ。まぁ気楽にね。」

 やっぱり気づいていた。

 どうしようかな…。

このまま辞めても別に構わんのだが…。

 でも、バイトもう辞めてきちゃったしな…。

 否…苗場さんとも…。

「いや、僕やりたいです。運動神経悪いんで…何かやりたいです。」

「そうか。じゃぁ試しにちょっと走ってみる?」

 走る…。

 そう言うと僕の返事も待たずに西賀さんは自分の学生鞄からストップウォッチを持ってきて、僕に渡した。

「これで俺のタイム測ってくれないかな。」

「いいですけど…。」

「苗場とはたまに測りあってるんだけど、最近測ってなくて。俺の測り終わったら八須君のも測ってあげるからさ。」

「わかりました。」

 言うやいなや、軽やかに西賀さんは100メートルのスタートラインに着いた。

 ぼーっと突っ立っている僕に、ゴールラインに立つようにジェスチャーで指示をする。

 僕はおろおろとしながら薄くなったゴールラインを探して位置に着く。

「合図だしてー!」

 西賀さんに大声で指示される。

 100メートルって結構距離がある。

 西賀さんはすでにクラウチングスタートの構えになっている。

「…よーい…。」

 西賀さんは反応しない。

聞こえないようだ。

 ふと背中に視線を感じる。波山さん。中貝君。そして苗場さんが僕を見ている。

 恥ずい…。

 声はこれ以上でない…。

 大きく手をあげる。

 西賀さんの腰が上がる。「用意」の意味だと通じたらしい。

良かった。

 あげた手を大きく振り下げる。「ドン!」の合図。

 と同時にストップウォッチをスタート。

 西賀さんが前のめりに走り出す。

 綺麗なフォルム。

 正面からなのでスピード感はわからない。

 西賀さんがあっという間に近くまで来る。

 タイムは…。

12秒21。

このタイムが速いのかどうか僕にはわからない。

ただ毎日練習してるんだ。早いに決まっている。

僕がタイムを告げると西賀さんは明るい顔になった。

「おお!自己新!一年前と1、2秒延びたかな。でも、やっぱり陸上は渋いなぁ…。」

 育ち盛りの高校生が一年間トレーニングを積んで1、2秒。確かに渋い競技だ。

「次は八須君。行っておいでよ。」

「はい。」

 僕のタイムはどのくらいなのか、少し興味が湧いた。

 先ほどの西賀さんのような走りはできないにしろ、短距離走だ。

     もしかしたら西賀さんとも、タイム的に言えば、そんなに大差はでないのかもしれない。

そんな甘い考えが一瞬、頭をよぎった。

 西賀さんの大きな声「よーい」が聞こえる。

 さっきの僕と同じように大きく手をあげている。

 もちろん他の三人も僕の走る姿を見ようと注目している。

 緊張してしまった僕は、いつもなら不器用ながらも出来るクラウチングスタートをし損ねてしまい、マラソンの構え、と言うよりも小学生の徒競争のような構えをしてしまった。

「スタート!」

 西賀さんのあげた手が振り降ろされる。

 僕は必死で走った。

 走って。走って。

 走った。

 100メートルは非常に長い。

 誰だ。100メートルを短距離走と名付けた故人は。

 走って。走って。

 それでもまだ届かない。

 ようやく届いたころには心臓が破裂しそうだった。

 タイムは…。

 18秒02。

「それって…どのくらいのタイムなんですか…。」

 息も絶え絶えに僕は西賀さんに聞いた。

 西賀さんは言いにくそうに僕に伝える。

「女子の平均…かな。」

 女子…。僕は女子か…。

しかも平均…。

「陸上部の平均ですか…。」

「いや、全国の体力テストの平均かな…。」

 そんな…。

まさかそこまで…。

「例えば…苗場さんは何秒くらいなんですか。」

「苗場は15秒前半。女子としては早い方かな。陸上部としてはちょっと遅めだけど。」

 3秒差…。

 たった100メートルの間に僕は苗場さんにですら3秒の差をつけられてしまうのか。

 西賀さんに至っては6秒の差をつけられてしまう。

「たぶんスパイク履いてないのが大きいんだと思うよ。」

 西賀さんが必死でフォローを入れる。

 やめてくれ。

「俺だってスパイク履いてなかったら、かなりタイム落ちるし…。」

 やめてくれ。

「最初はこんなもんだよ。モモ上げとか意識したらすぐ伸びるって。」

 もう、やめてくれ。

 僕はこのまま、この場を去る事にしよう。恥ずかしすぎる。

きっと僕は自分が気づかないだけで、女の子走りとかをしたりしていたんだ。

内股で、手を不思議な方向にひねりながら…。

きっとそうだ。

苗場さんにまで、こんな姿を見られてしまった。

告白する以前。ちゃんと知り合いになる前に失恋をしてしまった。

僕は西賀さんのように悔しくなって頑張るようなタイプの人間じゃない。

すぐに折れてしまう。そんな弱い人間なんだ。

そのまま、皆さんに背を向けて更衣室に行こうとした。

その時。

僕の後ろで声が聞こえた。

「走って!」

 振りむかなくても分かる。

苗場さんの声だ。

「走るのよ!フォレスト!」

 僕にはフォレストの意味は分からない。

 でも、走ってって。

その言葉の意味は分った。

 諦めないでって。

逃げ出さないでって。

立ち向かってって。

 僕のヒロインがそう云ったんだ。

 だから僕は、走りだした。

 頭じゃなく、体からの発信で走った。

 更衣室の扉を右に曲がり、校庭のトラックを全速力で走った。

 その時は不思議と、さっきのような心臓や肺の苦痛は感じなかった。

 人生で初めて、走ることが気持ちいいと感じた。

でもその時だってきっと僕は、

女の子走りだったに違いない。


     6


「フォレストって…フォレスト・ガンプの事だったんですか。」

「そうよ。他に何があるの?たしかに英語で木はフォレストだけど…。あの場合のフォレストはガンプでしょ。」

 苗場さんの言っていた「走るのよ。フォレスト」というセリフは「フォレスト・ガンプ~一期一会~」と言う映画の名言だった。

 僕も小さいの頃に何度か見たことはあるが、あまり明確には思い出せない。

 たしか、障害はあるが足の速いトム・ハンクス演じるフォレスト・ガンプが、その人柄や周りの人たちの愛情などで逆境に立ち向かっていく。そんな感じの内容だったと思う。

 そう僕の記憶を苗場さんに話すと、

「全然ちがうわよ。あの映画はタダ速く走る。そういう映画よ。」

 完全否定されてしまった。

そうだったのだろうか。

 色々と心打たれるシーンがあったような気がするが…。おぼろげに。

「とにかく速く走るのよ。そしたら嫌なことも、面倒くさいことも、全部ついてこれなくなっちゃうの。だから、速く走らなきゃダメ。足が遅いとフットボールの相手選手にもタックルされちゃうし、戦争では敵の弾に当たってしまうの。」

 よくわからないけど、あまり記憶も確かではないので、否定はできなかった。

 僕が記録的なタイム。18秒02をたたき出してから、すでに一カ月が経過していた。

 梅雨も明け、文月。

 あれから西賀さんと苗場さんの特訓により、僕のタイムは16秒台にまで上がった。

 なんと一ヶ月で2秒も縮まったのだ。

 が、やはり男子としては相変わらず遅い方。

「じゃぁ苗場さんはフォレストに憧れて陸上を始めたんですか。」

「陸上を始めたつもりはないわよ。ただ早く走りたいの。」

「はぁ…。」

「目標は14秒台。」

「なんでですか。全国レベルの高校女子は12秒台でしょ。きっとフォレストはもっと早い設定だと思いますよ。」

「設定とか言わないで。私にとってフォレストはトムじゃなくてフォレストなんだから。12秒台なんて現実的にムリでしょ。私、一年練習して15秒台なんだから。14秒切るって目標でもかなり大変なのよ。」

「はぁ…。」

 こだわる所は人それぞれだ。

「波山さんはなんのためにトレーニングしてるんですかね。」

「さぁ…。なにかを倒すとか、そんなこと言ってたわよ。」

 なにかを倒す…。ボクシングか何かなのだろうか。

「ちょっとタイム測ってくれないかな。」

 西賀さんんがストップウォッチを持ってやってきた。相変わらず真面目だ。

「僕、行ってきます。」

「うん。」

 先月と違って100メートル直線には新しくラインを引いてある。ゴールラインも見つけやすい。くっきりと白で描かれた二本の直線は、どこかこの校庭に不似合いだ。

「よーい!」

 流石に一カ月。もう声もしっかりと出る。

「スタート!」

 相変わらず西賀さんの綺麗なフォーム。腕は大きく振り、モモは程良く上がる。

 僕も頭の中ではこうやって走っているつもりなのだが、中々上手く走れない。

 タイムは。

 12秒53。

 西賀さんはいつもこのあたりを行ったり来たりしている。

 僕の初めて測った西賀さんのタイムは12秒21。きっとこのタイムは僕のミスで、西賀さんはそのタイムを超えることはなかった。お互いその事には気づいているけど、気まずいのであえて口にはしていない。

 練習もそこそこに、僕は文化祭の準備があり教室に戻らなければいけない時間になった。

「そろそろ時間なんで失礼します。」

「うん。いってらっしゃい。」

 僕と中貝君は文化祭の勝手も分からないので、早めに部活を辞した。

 教室ではすでに、なにやらパティーのような、チープな飾りが施されていた。女子が圧倒的に気合を入れていて、その指示に男子たちが駒となって働いている形だ。

 僕も長壁君も、そういった行事にはミクロも興味がないので、ただ言われるままに動き、時折愚痴なんかをこぼしながら、それなりに楽しく時間は過ぎて行った。

気づいたら空は暗くなっていた。

「そろそろ終わりにしよっか。」

 クラスでも少し強気なリーダー各の女の子が今日の作業の終わりを告げた。

 皆はそれに抗う事もなく、

「おわったー。」

「バイト間に合うかな…。」

 などと言いながら各々のペースで帰りだした。

「僕らも帰ろうか。」

「そうだね。」

 長壁君は今日はバイトも休みらしく「カラオケでも行かないか」と誘ってくれたが、僕はバイトをしていないので、金銭的にもあまり余裕なく、部活で体力的にも厳しかったので、申し訳ないがお誘いを断った。

 男二人でトボトボと最寄り駅に向かって歩いていると、

 僕は見たくないものを見てしまった。

 波山さんと苗場さんだ。

 後ろ姿でもわかる。あの坊主頭は波山さんだし、秘かにとはいえ好意を抱いている苗場さんの後姿だ。見間違えるはずもない。

 二人が並んで歩いているだけなら当然の光景だろう。

 同じ部活の先輩と後輩な訳だし。

 一緒に帰ることだってあるだろう。

 しかし、苗場さんの右手は、

 波山さんのソデをつかんでいた。

 オーマイ。ゴッド。

 目の前が真っ白になるのが分かる。足元もおぼつかない。

「どうした。」

 流石に長壁君が心配する。

「いや、大したことない。ちょっと酸欠かもしれないな。」

 とっさに我にかえる。

 こんな感情は初めてだ。これがジェラシーというものなのか。

 否、そんな感じでもない。

 虚脱。そう。虚脱という感覚に近い。

 憎しみや、怒りとか、そういうカテゴリーのものではなくて…。

 そう。虚脱だ。

 その日の夜は、目が冴えて眠れなかった。


 翌朝の僕は人相が変わっていて、心なしか頬が扱けているように見えた。

 少し顔色もよろしくなく、目にも光がない。

 学校を休むことにした。

 長壁君からメールが来る。

「どうした。今日休みか?」

 力を振り絞って、ボタンを一つずつ押す。

「体調不良。先生にヨロシク。」

 最小限の言葉だけをメールして、また布団に入る。

 何度も言うが、僕は波山さんに嫉妬した訳ではない。

 苗場さんは綺麗だが、他にだって綺麗な子はいくらだっている。

 彼女がああいうタイプの男性が好きなら、それはそれで構わない。

 幸い誰かに、苗場さんの事が好きだとも伝えていない。

 面目という言葉は不自然だが、

 あえて使わせていただくなら、僕の面目が潰れた訳ではないのだ。

 それなら、またいつも通り登校すればいいのだ。

 平気な顔をして、何もなかったようにヘラヘラとしていれば良いのだ。

部活はフェードアウトすればいい。

なんの問題もない。

そう。こうやって人間はだんだん鈍感になっていくべきなんだ。

ただ突然部活に行かなくなるのは不自然だ。

仕方ないがあと二回くらいは顔を出さなくてはいけない。

勝手にそう思った。


「どうした。昨日学校休んだみたいじゃない。風邪?」

 西賀さんが僕を心配してくれる。ここ一カ月程は放課後、休みなく校庭に走りに来ていた僕が休んだのが心配だったらしい。

「もう大丈夫です。なんだか体がだるくなっちゃって。」

「そうか。なれない動きで、そろそろ疲労が溜まってきてるのかもね。部活休みたいときは全然休んで良いんだよ。」

 良い人だ。こんな良い人に黙ってフェードアウトはあまりしたくない。

 が、この部活には波山さんと苗場さんがいる。

 僕は、すぐに逃げ出したい気持ちも充分に持ち合わせている。

 そんな中で波山さんがやってくる。

「八須。大丈夫か。」

 あんたのせいで大丈夫ではないのだが…。

「大丈夫です。御心配おかけしました。」

「あんまりムリするなよ。」

「はい。」

 こっちにはどんなに優しい言葉を掛けられても好感の抱きようがない。

 やっぱり僕は嫉妬しているのだろうか。

「波山さんて、苗場さんと付き合ってるんですか。」

 おっと…自分でも吃驚。

こげなことを聞いてしまうつもりなんて毛頭なかったのに、口がすべってしまった。やはり僕は無意識にジェラシーを抱いている。

「付き合ってないよ。なんでだ?」

 しらばっくれるか。この野郎。

 こちとら、下校時を拝見つかまつっておるのですよ。

「またまた~。一昨日、手つないで下校してたじゃないですか。」

「手なんかつないでねぇよ。苗場が俺のソデ掴んでただけだろ。」

 一緒じゃないか。

 一緒じゃないか。

 それ、手つないでるのと一緒じゃないか。

 内心の熱い気持ちとは裏腹に冗談のテンションで突っ込む。

「いやいや、それ手つないでるのと一緒じゃないですか。」

 上手く言えた。

 心とは間逆の表情とテンション。なんとも僕は大人になった訳だ。

 すると波山さん。「一緒じゃねぇよ」と言いながら苗場さんの位置を確認し、相変わらず遠くで走ってる様を見て、僕にスルっと一言。

「あいつ夜、目見えねぇんだよ。だから家まで送ってやっただけだろうが。」

「夜、見えない?」

「そうだよ。苗場、夜盲症なんだ。」

 西賀さんが説明してくれる。

 夜盲症と言うのは、普段明るい所は見えるが、暗いところでは一切見えなくなってしまう病気のことだそうだ。

 苗場さんの場合は先天性で、生まれたころから暗いところが見えない。

「しかも、進行性らしいからよ。今、どのくらい見えてるのかわからねぇんだよ。」

「本人もあんまり言いたがらないからね。」

 僕の勘違いだった。

 波山さんは苗場さんを家まで送って行っただけで、苗場さんは暗くなると一人では行動できない夜盲症。

 この勘違い。喜んでいいのか、どうなのか。

 確かに波山さんと苗場さんが付き合っていなかった。という事は嬉しかった。恥ずかしながら、一日伏せてしまうほどのショックを受けたのだから。

 でも彼女が夜盲症だと言う事を知って、だから僕が悲しむと言うのも変な話しだし、知ったのに関係なく喜ぶってのもなんだか変だ。

苗場さんを今までと少し違う目で見てしまうのも、それは差別と言う部類のものになってしまうのかもしれないし、そんな事を考えること自体が差別なのかもしれない。

なんだかこれはデリケートな所だ。

ただ僕は、彼女が夜盲症だから気持ちが冷めたり、萎えたりはしなかった。

だって別にそこは関係ないだろ。

長壁君じゃないけど、恋に理由なんてない訳だし。

相手がマレーシア人だって夜盲症だって恋をしたら恋をしたってだけだ。

中には夜盲症だと聞いて、「なんとも…」と思ってしまう人はいるかもしれないが、

僕の場合は、そこでどうこうとは思わなかった。

だったら、波山さんと苗場さんは付き合っていなかった。

その事を素直に喜んでも良いのかもしれない。

なんて、そっと一人で考えたりした


     7


 葉月。夏休みに入るも、僕らは週三で校庭のトレーニングを続けた。

 そして中旬になると波山さんが部活を引退した。

 結局、彼が何のために陸上部を立ち上げてまで校庭で三年もの間、筋トレをし続けていたのか、それは分からずじまいだった。

 苗場さんが夜盲症だと言う事を知ってから、練習が暗くなるまで続くと、僕と中貝君は、西賀さんと交代で苗場さんを家まで送るようになった。

 苗場さんの家は学校から徒歩15分程度の所にある。

 目の事を考慮して最寄りの学校を選んだそうだ。

 何度か二人きりになる機会はあったが、告白なんて出来るはずもなく、もちろん疾しいこともしていない。

 暗くなってからの彼女はいつもと違って口数が減る。

 少しの音にでも反応できるように、耳をそばだててるのかもしれない。

 少し会話をしようと僕が顔を見ると、大きく目を開いているが何も見えていないらしく、どこか遠い方に視線を移している。

 そんな時の彼女の声は決まって平常と変わらないトーンでしゃべる。

 意識して普通に話そうとしているのか、この暗闇が毎日の事だから本当に大したことではないのか。それは本人ではないのでわからないが、おそらく前者なのではないかと僕は思っている。

「あ、そこ段差ありますよ。」

「ありがとう。」

 苗場さんの手が僕の制服のソデをぎゅっと握る。

 不謹慎だが、若干嬉しい。

「八須君。だいぶタイム伸びたでしょ。」

 その日は珍しく暗い中なのに彼女から声をかけてきた。

「お蔭さまで。15秒台突入です。」

「私も追い抜かれちゃうかな…。」

「そりゃ男子と女子ですから。僕が苗場さんに負けてることの方が恥ずかしいですよ。」

 だいたい高校生の男子なら15秒でも遅い方だ。

 苗場さんは相変わらずタイムが伸びないでいた。

「私、14秒切れるかな…。」

「きっと切れますよ。あれだけ一生懸命やってるんですから。」

「ありがとう…。」

 そう言うと、苗場さんは僕のソデから手を放した。

 危ない。

 三歩ほど一人で先に進んで振りかえる。

「苗場さん。危ないですよ。見えてるんですか。」

「見えない。でも外灯があるから少しは見えるのよ。八須君。そこでしょ。」

 僕の方を的確に指さす。でも瞳は僕の胸のあたりを不自然に見ているように見える。

 声で僕の位置を把握しているだけかもしれない。

「勝負しない?」

「勝負?」

「そう。どっちが先に14秒を切れるか。」

「いいですよ。」

「何か賭けない?」

「もちろん。」

「じゃ、私が勝ったら、韓流ドラマの「夏の香り」のDVDボックス買って。」

「フォレストは良いんですか。」

「フォレスト・ガンプはもう持ってるもの。」

「分かりました。いいですよ。夏の…なんですか。」

「夏の香り。約束よ!」

 可愛らしい。夏の香りね。忘れないようにしておきます。

「わかりました。約束します。」

「一万か二万くらいするんだから。」

「げっ…マジですか。」

「DVDボックスだもの。当たり前でしょ。14秒切るなんてそんなにすぐの話じゃないんだから、それくらい貯めておいてよ。」

 勝つ気だな。この女。いいじゃない。勝てばいいんだろ。

「八須君は勝ったら、何が欲しい?」

「君だよ。」

 なんて事は絶対に言いだせなかった。

「そうですね…。じゃぁ…。僕が勝ったら…。」

 僕と付き合ってください。

 本当にのど元まで出かかっている。

が、

僕はその言葉を飲みこんでしまった。

「ドリフのDVDボックス買ってください。」


 ラストの夏休み一週間。僕は父方の実家に家族で向かう事になった。

「お盆には忙しくて顔が出せなかったから。」

 との事で、お墓参りも兼ねての親の帰省だった。

 父親の実家は九州の佐賀。

 何もないところだが、小さい頃から何度も行きなれている分、他の県よりは勝手も分かり、居心地はいい。

 陸上部での疲れもあってか、ほとんどの時間を家で寝て過ごしたが、お蔭でかなり体力も回復したようだ。

 ジャージに着替えて、外でモモ上げをしてみる。幾分か調子がいい。

 やはり筋力というのは鍛えている時に付くものではなくて、トレーニングの時に破壊するだけ破壊した筋肉が回復するときに、より大きくなるものだと言う事を実感した。

 筋肉痛は辛い。でも、そこを過ぎた時に感じる爽快感は何とも言えない。

 つらかった100メートルの距離が短く感じるのだ。

 モモだって楽々上がる。

 徐々に僕は、考え方がスポーツマンらしくなってきてしまっているようだ。

 と言ってもすぐにはタイムは伸びず。

 結局、佐賀で測ったタイムも、学校でのタイムとそう変わらなかった。

 いくら考え方がスポーツマン寄りになってきたとはいえ、僕のタイムは男子の平均。ちょっと運動神経の良い奴なんかには簡単に負けてしまうタイムだ。

 学校に帰ったらすぐに練習だ。苗場さんに負けるわけにはいかない。

 バイトをしていない僕の一、二万は大きい。

 学校が始まるのは長月の一日と、だいたい相場が決まっているにも関わらず、トンチンカンなウチの両親はその日に帰りの飛行機のチケットを買っていた。

 別に皆勤賞を狙っているわけでもないし、急ぐ理由もないので咎めたりはしなかったが、やはり夏休み最後は帰省ラッシュでチケットの変更はできなかった。

 僕が開校式に間に合わずに、しれっと登校した長月の二日目。

 僕はこの日を忘れることがないだろう。


     8


「どういう事?」

 僕は長壁君の言ってる言葉の意味が良く分からなった。

 何を言ってるんだ。

こいつ。

「だから、お前の部活の女の先輩。死んじゃったんだって。」

「いや…だって、夏休み一緒に練習したよ?」

「その子、亡くなったの四日前だって言ってたから、お前が佐賀行ってる時だろ。俺も細かいことは知らないよ。開校式で校長が言ってたの聞いただけだから。」

 彼女が。なんで。

「なんか交通事故とか言ってたよ。夜道でさ。みなさんも気をつけましょう的な事言ってたな。二年の女子なんか号泣してる子がいっぱいいてさ。で、黙祷したの。」

「そう…なんだ。」

「知り合い亡くなるって、この年で滅多に経験しないからショッキングだろうな。」

 そう。ショッキング。衝撃的。驚愕。

 すごく近い感覚かもしれない。

 なんだろう。

 ただの知り合いじゃないんだ。

僕にとっては、恋をしていた女性なんだ。

 片思いの。憧れの女性。

 話していると楽しくて、家に帰ってからも何度も会話を思い出したりもしていた。

 そんな、好きな子が亡くなったんだ。

 知り合いが亡くなってショッキングとか。

 そういう感覚とはまた違う。

 そうであるべきだと。勝手に思っていた。

 でも、その感覚の方が近い。

 好きな子が亡くなって、絶望的になって、世の中が灰色になって、とめどもなく涙が流れてくる。嗚咽して、心臓がバクバクいって、胸が苦しくなって、膝に力が入らなくなって、大きな声で叫んで、ただ悲しくて、哀しくて、かなしくてしょうがなくなって…―。

 そうなると思っていた。

でも、そんな風にはならなかった。

 何とも思わない訳じゃない。

 驚いた。

 ショッキングだ。

 でも、ドラマで見ていたみたいな、映画で見たことあるような、そんな風にはなれなかった。悲しいのかもしれない。

 でも、それはかもしれないであって。

 かなしいではない。

 彼女と付き合っていた訳ではないからか。

 ただの憧れで、そこまで緊密な仲になった訳ではないからか。

 彼女が亡くなっても、僕は他の人といずれ恋ができるからか。

 わからない。

 でも、彼女はいない。

 実感が湧かない。

 それが大きいのかもしれない。

 目の前で命が消えていたら、もし僕がその場に居合わせていたら、きっと僕は涙したかもしれない。叫んだかもしれない。大きく振るえたかもしれない。

 でも僕はその場に存在しなかった。

 遠く。佐賀にいたんだ。

 僕は彼女がこの世に存在しないと言う事が上手く想像できていない。

 身近な人が亡くなるという経験を、僕がした事がないからかもしれない。

 人づてに聞いたからかもしれない。

 よくわからない。

 なぜ涙が出ないのか。

 それは彼女が死んでも、僕は困らないからかもしれない。

 そうだ。

 彼女が死んでも、僕の人生には関係ない。

 そう。

 関係ないんだ。

 そして、僕は考えるのをやめた。

 どうでもいいことなんだ。

 ―…そう。

 こうやって僕は、いつも思考を停止させる。

 確かに、

 全ての事はどうでもいいことなのだから。


 夏休み以前と同じように、僕は着替えて校庭に向かったが、西賀さんと中貝君は少し遅れてやってきた。

 二人の目も、涙で腫れていたりはしない。

「八須君。佐賀、どうだった。」

 中貝君が、わざとらしく会話を苗場さんから逸らそうとする。

「楽しかったよ。何もないところだけどね。おじいちゃん家があるから。」

 僕も便乗する。

 そう。僕はいともたやすく、しかも明るく便乗出来た。

 好きな子が死んだって聞いたばかりなのに。

「いいなぁ。僕も夏休み中に九州に帰りたかったよ。熊本なんだけどさ。いいよ。熊本城は。石垣がすごく立派なんだ。」

「そうなんだ。佐賀以外は行ったことないな。今度行ってみようかな。」

 石垣なんて興味ない。

 しばらく九州に行く予定もない。

 でも僕は明るく答えた。

 好きな子が死んだって聞いたばかりなのに。

 さすがに、そんな僕らを見かねたのか、西賀さんが切り出す。

「八須君。…苗場の事きいた?」

「はい。」

「なんか、事故ったみたいでさ…。俺と中貝君はお通夜に行ってきたんだ。」

「そうだったんですか。」

「今日は、練習どうする?」

「別に…どっちでも。」

 違う。

「そうか。中貝君はどうしたい?」

「僕は、そういう事、決めるのあんまり得意じゃないから…。」

「こういう場合って喪に服したりした方がいいんですかね。」

違う。

「そういう訳でもないだろうけど…。」

「だったらやりましょうよ。」

 違う。違う。違う。

 こんなに平気で会話してるのは、おかしい。

 だって、

 好きな子が死んだって聞いたばかりなのに。

「やっぱりやめよう。聞いといて、ごめん。俺あんまり顔に出てないだろうけど、同級生で同じクラスだったから結構ショック大きいんだよね。」

「わかりました。じゃぁ今日は帰ります。」

「なんか着替えちゃってたのに、ごめんね。」

「いえ。」

 一人だけ、すでに着替えていた僕は更衣室に戻った。

 男くさい更衣室。ココに苗場さんは入ったことがない。

だから、別にこの場所に苗場さんとの思い出があるわけでもない。

 でも、なんだか。

 一人になった途端。

 膝に力が入らなくなった。

 心臓がバクバクいって、

 目の前が真っ白になった。

 僕は、彼女の死を上手く想像できないんじゃなかった。

 ただ、彼女が死んだと言う事でうろたえる様を、

 ―…他人に見られたくなかった。

 それだけだったんだ。

 それだけの理由で、僕は明るくふるまった。なんでもないようなふりをした。

 少しおちゃらけたりもした。お通夜なんて興味ないふりもした。

 なんて小さい人間なんだ。

 なんてダサい奴なんだ。

 好きな人のために、涙一つ、人前で流さない。

 なんて冷たい奴。

 なんて卑怯な奴。

 なんて臆病な奴。

 それでも涙は出なかった。

 誰も見ていない。更衣室には僕一人きりなのに。

 僕は彼女のために、

 涙を使う事が出来なかった。


     9


 それから僕は家に帰って一人になっても、涙を流すことはなかった。

 夜になっても、次の日になっても、

一週間経っても、涙は出てこなかった。

 案外、そういうものなのかもしれない。

 二週間も経つと彼女を思い出す回数も自然と減ってきた。

 こうやって人は鈍感になっていく。

 鈍感は進化だ。忘却は進歩だ。

 100メートル14秒を切ると言う約束も、僕は忘れてかけていた。

 目標もなく、ただ走る。

 14秒を切ったって、誰も喜んでくれないし、悔しがってもくれない。ドリフのDVDボックスを買ってもらえることもない。

 なら何のために走るんだ。意味ないじゃないか。

 僕はだんだんと陸上部を休むようになった。


 神無月。

 僕は完全に陸上部に顔を出さなくなっていた。

 そろそろ新しいバイトを始めようと思う。飲食店は大変だから嫌だ。コンビニが楽だという話をよく耳にするので、そこら辺を攻めてみようと思う。

 家から遠いところもよろしくない。せいぜい自転車で五分程度の所がいい。ただ高校生だと午後5時から10時までの5時間しか働けない。学生のガキをなめてかかるのはバイトの定石だ。そこは仕方がない。が、感情はその理不尽を受け入れられない。

「文句言ってるばかりじゃ、バイトなんて選べないよ。」

 バイトマスター長壁君のアドバイスだ。

彼は僕が陸上にかまけている間、バイトを二つ掛け持ちし、休みは水曜日だけだという。週休二日制の先生たちよりも働いていた。

「それにしたって君は働きすぎだよ。なんのための学生生活なのかわからないじゃな

「だから、うちはあんまり裕福な家庭じゃないからさ。」

  と言い続ける長壁君だが、最近も羽振りが良く、装飾品等々もなかなかの代物だ。特に、高校生には不釣り合いな高そうな腕時計が気にかかる。

「だったらその時計はなんなんだよ。」

「これは…彼女に貰ったんだよ…。」

 そう。僕が陸上部にかまけている間、長壁君は愛しのプリンセスをゲットしていた。

 僕がただ走っている間に、世の中はめまぐるしく動いていたのだ。

  長壁君の英語の努力が実を結んだのかと思いきや、彼女は日本語が覚えたいらしく、長壁君に英語で話すことを禁じているらしい。

「まったく困っちゃうよ。こんなに高価なものプレゼントされちゃったら、お返しにも同等のもの返さなくちゃいけないじゃないか。」

「そういうもんなのか。」

「そうだよ。仮にもこっちは男だぜ。この時計より安いものは渡せないよ。」

「付き合うって大変なんだね。僕は経験ないから、その苦労がわからないよ。」

「まぁ好きな人でもできたら、わかるよ。」

「うん…。」

 ふと苗場さんの事が頭をよぎる。

 何気なく長壁君から顔をそらし、廊下側に目線を移すと、そこに堅持が立っていた。

 僕に向かって、手招きをしている。

「なんだろう。ちょっと行ってくる。」

 堅持は主に実験室でしか授業をしないので、この場にいることだけで違和感がある。

 だいたい手招きをして呼び込んでいるくせに僕の眼を見ようとしない。

「さ、最近…部活…。」

「すみません。フェードアウトみたいな形になっちゃって…。」

 部活に出ろとでもいいだすつもりだろうか。自分はまったく顔を出さない癖に。

 面倒くさいから自分から先に切り出す。

「僕、部活やめようと思うんです。すみません。ちゃんと退部届とか出した方が良かったですよね。今度持っていきます。」

「り…理由…。」

「理由ですか。理由は…正直、陸上自体に興味が無くなっちゃったって言うか…もともと流れで入っちゃったみたいな所もありましたし…。」

「な、苗場か。」

「え…。」

「な、な、な…。」

「いやいや、苗場さんが亡くなったのは関係ありませんよ。」

 その時、初めて堅持が僕の眼を見た。

 ほんの一瞬。ほんの一瞬だったけど、僕の眼を初めてしっかり見た。

 僕の勘違いかもしれないけど、何かを知っているような。

 そんな風な眼に見えた。

「そ、そうか…。」

 そう言うと堅持は静かに実験室の方向へ歩いて行った。

「なんだって。」

 長壁君がわざわざ廊下まで出てきて尋ねる。

「よくわからないな。退部届ちゃんと出せみたいな事かな…。」

「そっか。」

 あいつ、何を知ってるんだろう。


 放課後、僕は約一カ月ぶりに陸上部に顔を出した。

 今までのように体操服ではなく、制服のままだったのだけれど。

  現在の陸上部は、人数合わせのため、僕の代わりに中貝君と同じクラスの男子が加えられていた。きっと中貝君が誘ったのだろう。

 彼も長身で、砲丸投げやら円盤投げやらをやりそうな体格の持ち主だった。

 やっぱりそう。僕がいなくても、この部は何とでもやっていけていた。

「八須君!」

 中貝君が僕の姿を確認すると嬉しそうに、そばまで駆けてきてくれた。

「一カ月ぶりくらいだね。復活する気になったの?」

「いや、ちゃんと退部届だそうと思ってね。」

「そうなんだ…。」

 相変わらず感情が顔に出やすい中貝君。

 悲しんでくれるのはありがたいが、やっぱり僕は陸上部から距離を置きたい。

「もしかして…苗場さんの事と関係あるの?」

「ないよ。」

 なに言ってるんだ。

中貝君まで。

「そうなんだ。八須君、苗場さんが亡くなってから部活来ないようになったから…てっきり苗場さんの事、好きだったんじゃないかなとか思って…。」

 そうか。自分でも気付かなかった。

僕は、なんてわかりやすいんだ。

「関係ないよ。たまたま時期が重なっただけだから。」

「そうなんだ。残念だな。」

「残念がってくれてありがとう。でも、新しい人も入ってるわけだしさ。最低人数の三人クリアできてるじゃん。また新しい三人で頑張ってよ。」

「ちがうよ。」

 

「苗場さん、八須君のこと好きだったんだよ―。」

 

「え…。冗談だろ。」

「冗談じゃないよ。僕、よく相談されてたんだ。八須君、彼女いるのかとか。」

 ちょっと待てよ。

「僕、お姉ちゃん三人いてさ。よくわかんないけど、女の子とか僕に相談しやすいらしいんだよね。昔から、そういうのよく相談されるんだ。」

 いやいや、待てよ。中貝君。

「苗場さんも告白したがってたんだけど、自分の目の事すごく気にしててさ。」

 待てって。中貝。

「僕は脈ありそうだから告白してみたらって何度か進めたんだけど…。」

 だから黙れって。中貝。

「八須君、苗場さんの事好きじゃなかったんだ。そしたら告白しなくて良かったかもね。」

 空気読めよ。中貝。

「でも苗場さんってさ、可愛かったよね。」

 ―――…そう。

可愛かった。

可愛かった。

可愛かったよ。

 お前もそう思ってたのかよ。

 だったら、もっと前に言えよ。

 僕もそうか。僕も言わなかった。

 可愛い。

 可愛かったのか。お前にとっても。

 じゃぁ、可愛いと思うのが僕だけだと思ってたのは、

 僕だけだったのか。

 だったら僕は、告白したら良かったのか。

 DVDじゃなくて、君と付き合いたいって。

 あの時、言えていたら良かったのか。

 彼女が言えばよかったんだ。彼女が僕に。

 ちがう。

 彼女は自分の目の事を気にしていたんだ。

 彼女から言う事は出来なかった。

 僕は目の事なんて、なんとも思っていなかったのに。

 暗い所では、手をつなげばいい。

 そう。手をつなげばいいんじゃないか。

簡単なことだ。

 手をつないで、少し僕が前に出て、障害物があったら避けてあげたら良い。

 走ることだって出来るじゃないか。

 暗闇の中でも、僕が思いっきり目を凝らして、

二人で手をつないで、

 フォレスト・ガンプよりも速く走るんだ。

 嫌なことも、面倒くさいことも、

 フットボール選手のタックルも、

 戦場での弾も、

 速く走れば、全てがついてこれない。

 速く、

 速く、

 速く、

 もっと速く。

 気が付くと僕は、校庭のトラックをいつかの時のように走っていた。

 走って。

走るのよ。フォレスト。

 僕はフォレストのように速く走れない。

走れないんだ。

練習しても、練習しても、練習しても、

悔しくて、涙が止まらなかった。

絶望的になって、世の中が灰色になって、とめどもなく涙が流れてくる。嗚咽して、心臓がバクバクいって、胸が苦しくなって、膝に力が入らなくなって、大きな声で叫んで、ただ悲しくて、哀しくて、かなしくてしょうがなかった…―。


     10


 それから僕は毎日練習をして、14秒台にまで突入した。

 でも、このあたりが限界だ。14秒を切ることはできそうにない。

 コツコツ練習してきたからこそ、自分の限界がどのあたりなのか。

 哀しいけど分かってしまった。

 勉強のためにと、堅持が持ってきた陸上大会のお手伝いに参加した時、僕は外国人選手にドロップキックをかましてしまい、別に辞めなくても良かったのだが、それをきっかけに自ら退部することにした。

 そろそろ受験もしなくてはいけない。

 ちょうど潮どきだったのかもしれない。

 長壁君は高校を卒業したらプリンセスと結婚してマレーシアに飛ぶそうだ。プリンセス側の親がお金持ちで、苦労はしない予定だそうだ。

 中貝君は砲丸投げの県代表として、念願のインターハイに出場することが決まった。が、記録的に考えたら予選敗退はほぼ決定らしい。

 西賀さんは聞き覚えのある、そこそこの大学に入った。目標の平均の選手レベルには達したので、陸上は完全に引退した。

 人づてに聞いた話だが、波山さんは現在、大学を中退してインドに修行に行っているとの事だった。いったい彼がなんのために修行しているのか、それは未だに謎だ。

 我が陸上部は僕らが引退すると同時に、幕を下ろす。後輩を誘う事はしなかった。

 だって意味分からないでしょ。

 校庭を好きに使って、自分の追求したいものを、好きなだけトレーニングする。って。

 

校庭には誰もいない。

 砂だか砂利だかが乾いて、ただ風で舞っているだけだ。

 僕はひとり。体操着に着替え、

 ゆっくりと筋を伸ばす。

 今から一年前にようやく買ったスパイクはまだ新品同様だ。

 紐をしっかりと結ぶ。

 正直、苗場さんの顔は明確には思い出せない。

 声も同様だ。

 でも、

 あの不揃いな前歯だけは、うっすらと記憶に残っていて…

 未だに少し愛おしい。

 ゆっくりと片膝を地面に落とす。

 半ズボンなので膝が砂利にあたり、少し痛みを感じる。

 良い感じだ。

 スタートラインを確認し、両手は肩幅にまっすぐと降ろす。

 腰を上げ、重心を手の方に乗せると、今度は手に砂利が少し食い込む。

 膝からは砂利がポロポロと落ちるのが分かる。

 視線を前に戻す。

 

 さぁ。

 これからが僕のスタートだ。


                                    END


読んでいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公が少しずつ成長していくのが読んでいて感じました 苗場さんもすごくいいかんじした。 回りの人達もちゃんとキャラがたっていて個性を感じました。 [気になる点] すこし誤字が目立った気がし…
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