第7話 外交官の胃袋と、故郷の味
「もう限界だ。……助けてくれ、メル」
深夜の裏厨房に現れたディルクは、いつにも増して憔悴していた。
彼の銀髪は乱れ、ネクタイも緩んでいる。
ここ数日、彼が王宮に泊まり込みで外交交渉に当たっていることは知っていた。
「ルザニア帝国の特使様のことですね」
私は彼に、いつものハーブティーを差し出した。
「ええ。バルガス卿……頑固一徹な武人だ。出された料理には一切手を付けず、交渉の席でも『誠意が見えない』の一点張りだ」
ディルクはティーカップを両手で包み込み、深い溜息をついた。
「オスカー殿下は『最高級のフォアグラを出したのに残すとは無礼だ』と逆ギレし、リリアン嬢に至っては『田舎者には味が分からないのですわ』と聞こえるように陰口を叩いた。……最悪だ」
頭を抱えるディルク。
それは確かに最悪だ。
ルザニアは歴史ある北の大国。食事を残すこと自体が、彼らにとっては不本意なはず。
それを「味音痴」呼ばわりするなんて、喧嘩を売っているのも同然だ。
「何か、理由があるはずです」
私はエプロンのポケットから、常に携帯している『在庫管理手帳』を取り出した。
「特使様の出身地は? 年齢は?」
「北部の山岳地帯出身だ。六十代半ば。……そういえば、会議中も時折、腹のあたりをさすっていたな」
……なるほど。
長旅の疲れ。慣れない温暖な気候。そして連日の脂っこい晩餐会。
胃が悲鳴を上げているに違いない。食べないのではなく、食べられないのだ。
「ルザニア北部……。そうだわ」
私は手帳のページを捲り、ある一行で指を止めた。
「ディルク様、第三倉庫の奥に、三年前に外交進物として届いた『木の樽』があるのをご存知ですか?」
「木の樽? いや、聞いたことがない」
「シェフたちが『酸っぱい腐敗臭がする』と言って捨てようとしていたんです。でも、中身を確認したら腐ってはいなかった。だから私が『状態保存』をかけて、熟成を止めた状態で保管してあります」
私の記憶が正しければ、あれは腐敗臭ではない。
発酵の香りだ。
「任せてください。……その樽を使って、特使様を救ってみせます」
◇
翌日の夜。
交渉は決裂寸前だった。
会議室の空気は重く、バルガス卿は不機嫌に沈黙を守っていた。
「……休憩にしましょう」
ディルクが機転を利かせ、別室へ誘導する。
そこには、私が用意したワゴンが待機していた。
「なんだ、またバターまみれの料理か? 結構だと言っているだろう」
バルガス卿はうんざりした顔で手を振った。
しかし、私が鍋の蓋を開けた瞬間。
漂ってきた強烈な酸味と香りに、彼は雷に打たれたように動きを止めた。
「……こ、この香りは?」
そこにあったのは、茶色く煮込まれたスープだった。
華やかさは欠片もない。
だが、湯気からは独特の発酵臭と、燻製肉の香ばしさが立ち上っていた。
「『ザワークラウト(発酵キャベツ)と塩豚の煮込み』です」
私は静かに説明した。
「三年前に貴国から贈られた最高級の漬物樽を、我が国の倉庫で大切に保管しておりました。……キャベツの酸味が弱った胃腸を助け、お肉は余分な脂を落としてあります」
バルガス卿の目が大きく見開かれた。
「三年前の樽……あれを、捨てずに持っていてくれたのか?」
「はい。適度な発酵状態で『保存』しておりましたので」
彼は震える手でスプーンを取り、スープを一口すすった。
そして、ふうっと長い息を吐いた。
眉間の深い皺が、見る見るうちに解けていく。
「……美味い。……ああ、故郷の冬の匂いだ」
彼は噛みしめるように呟いた。
「我が国では、冬を越すために各家庭でキャベツを漬け込むのだ。この酸っぱさこそが、我々の血肉だよ」
フォアグラには見向きもしなかった彼が、この地味な煮込みを、まるで宝石のように愛おしんで食べている。
横には、消化の良い蒸しパンも添えておいた。
「……卿は、胃をお悪くされていたのですね」
ディルクが静かに声をかけた。
「ああ……。医者からは消化の良いものをと言われていたのだが、貴国の料理はどれも重すぎてな。断るのも失礼かと思い、手を付けられずにいたのだ」
バルガス卿は完食した皿を置き、満足げに腹をさすった。
「それを『田舎者』と笑われた時は席を立とうかと思ったが……宰相殿。貴国には、他国の文化を理解し、大切に保管する知恵者がいるようだな」
「ええ。私の自慢の部下です」
「その誠意に免じて、交渉を再開しようじゃないか」
◇
その直後だった。
バンッ! と扉が開かれた。
「おい! 交渉が成立しそうだと聞いたぞ! サインは私がする!」
オスカー様が、リリアン様を引き連れて乱入してきたのだ。
彼は場の空気を読まず、バルガス卿の前の空皿を見て鼻を鳴らした。
「なんだ、結局腹が減っていただけか。しかも、こんな残飯のような臭いのする煮込みで満足するとは」
「殿下!」
ディルクが鋭く制止するが、オスカー様は止まらない。
「やはりルザニア人の舌は貧乏くさいな。……おい、ペンを寄越せ。この国の代表として私が署名してやる」
ピシリ。
空気が凍りついた。
バルガス卿の顔から、先程までの穏やかさが消え失せた。
彼はゆっくりと立ち上がり、オスカー様を見下ろした。
「……貴国の王太子は、我が国の歴史と文化を『残飯』と愚弄されるか」
「は? 事実だろう? そんな酸っぱい腐ったキャベツ……」
「メル!」
突然、オスカー様が私に矛先を向けた。
「貴様だな! 王太子の俺を差し置いて、勝手な料理を出したのは! 王家の品位を落とす気か!」
理不尽だ。
あまりにも理不尽な言いがかりに、私は言い返そうとした。
けれど、それより早く。
ディルクが私の前に立ちはだかった。
「……言葉を慎まれよ、殿下」
その声の冷たさに、オスカー様がたじろいだ。
ディルクの背中から、今まで見たこともないような怒気が立ち上っている。
氷の宰相が、本気で怒っている。
「彼女の料理は、貴方がたが無知と偏見で捨てようとした『友好の証』です。それを拾い上げ、今日の危機を救ったのは彼女だ」
「な、なんだと……! たかが元婚約者の肩を持つのか!」
「ええ、持ちますとも」
ディルクは言い切った。
「彼女は、貴方より遥かに国益を理解している。……これ以上、我が国の外交と、私の大切な部下を愚弄するなら、宰相としての権限を行使し、貴方をこの部屋から排除します」
「き、貴様……!」
オスカー様は顔を真っ赤にし、しかしバルガス卿の冷ややかな視線に気づいて、狼狽えながら後ずさった。
「お、覚えていろよ!」
捨て台詞を吐いて逃げ出す王太子。
嵐が過ぎ去った部屋で、バルガス卿がぽつりと呟いた。
「……いい男を持ったな、嬢ちゃん」
私は顔が熱くなるのを感じながら、小さく頷くことしかできなかった。
ただ、私を守るディルクの背中が、これまで以上に大きく、頼もしく見えた。




