第2話 深夜の訪問者と、復活のポトフ
王宮の裏厨房に異動して、一週間が経った。
私の生活は激変した。
「おいメル! 昨日の残りの玉ねぎ、どこだ!」
「三番棚の下段、左の木箱です! 痛みかけていた部分は切り落として、ペーストにしてあります!」
「おっ、気が利くじゃねえか! こりゃソースに使えるな!」
怒号と熱気が飛び交う戦場。
それが昼間の厨房だ。
最初は「貴族の娘に何ができる」と懐疑的だった料理人たちも、私が整理した在庫表と、魔法で鮮度を保った食材を見るやいなや、手のひらを返したように仲間として受け入れてくれた。
私の固有魔法『状態保存』は、派手な攻撃魔法ではない。
けれど、足の早い葉物野菜をシャキッとさせたり、古くなったパンのカビ進行を止めたりするには最強だ。
おかげで廃棄率は劇的に減り、私は密かに「在庫の魔術師」なんて呼ばれ始めているらしい。
――そして、深夜。
嵐のような夕食の時間が終わり、料理人たちが帰宅した後。
ここからが、私の密かな楽しみの時間だ。
静まり返った厨房。
換気扇の回る低い音だけが響く。
私は残り物の整理をしながら、自分用の夜食を作る準備をしていた。
「今日は冷えるわね……」
石造りの王宮は、夜になると急激に冷え込む。
こんな夜は、温かいものがいい。
私は在庫の隅にあった、少し硬くなった黒パンと、形の悪いカブや人参を取り出した。
その時だった。
ズズ……ッ、と。
裏口の重い扉が、引きずられるように開いた音がした。
「……え?」
振り返ると、そこには闇が立っていた。
いや、人だ。
長身の男が、扉の枠に寄りかかるようにして立っている。
ヒッ、と息を呑んだ。
幽霊かと思った。
顔色は青白いというより土気色。
目の下には墨を塗ったような隈。
美しい銀髪はボサボサで、高級そうな衣服は皺だらけだ。
「……ここまで来れば、近衛騎士も追ってこれないか……」
男が掠れた声で独り言ちた。
そのまま、糸が切れた操り人形のように、床へ崩れ落ちそうになる。
「危ないっ!」
私は慌てて駆け寄り、その体を支えた。
重い。大柄な男性の体重がのしかかる。
そして、体温は氷のように冷たい。
「しっかりしてください! 大丈夫ですか!?」
「……すまない。めまいが……」
「ここへ座ってください。いま、お水を」
私は彼を近くの丸椅子に座らせ、急いで水を汲んだ。
男は震える手でコップを受け取ると、一気に飲み干した。
ふう、と深い溜息をつく。
改めて見ると、ただの迷子ではないことは明白だった。
シャツの袖口に付着しているのは、最高級のブルーブラックインク。あれは宰相府の高級官僚しか使わない特注品だ。
それに、着ているシャツの生地。くたびれているが、光沢からして王族御用達のシルクだろう。
(宰相府の高官……いや、もしかしてご本人?)
これが噂に聞く、王宮のブラック労働の頂点か。
私は、かつて王太子オスカー様の執務室で、徹夜続きの文官たちがよく屍のようになっていたのを思い出し、強烈な同情を覚えた。
この人もまた、あの「無能な上司」たちの被害者なのだろう。
「……助かった。水がこんなに美味いとは」
男は空になったコップを置くと、ふらりと立ち上がろうとした。
正気とは思えない。
「待ってください! その体で仕事に戻るなんて自殺行為です」
「しかし、決裁書類が……山のように……」
「顔色が紙より白いですよ。最後に食事を摂ったのはいつですか?」
私の問いに、男は虚ろな目で宙を仰いだ。
「……食事? いつだったか……。昨日か、一昨日か。砂のようなパンを齧った記憶はあるが」
重症だ。
栄養失調に、極度の疲労。
相手が高位貴族だろうと関係ない。今の彼は、私の厨房に担ぎ込まれた急患だ。
元・世話焼き係の血が騒ぐ。
「座っていてください。何かお腹に入れないと、ここから出しませんから」
「いや、食欲はないんだ。何を食べても、泥の味しかしない……回復魔法も効かないんだ……」
「いいから座る! 医食同源です!」
私は強引に男の肩を押して座らせた。
男は抵抗する気力もないのか、大人しく従う。
私はコンロの前に立った。
弱っている胃腸に、油っこいものは厳禁だ。
かといって、ただの粥では味気ないし、栄養も足りない。
鍋に水を張り、細かく刻んだカブと人参、玉ねぎを入れる。
ポイントは切り方だ。繊維を断ち切るように薄くスライスし、消化の負担を極限まで減らす。
火は弱火。
コトコトと煮込んでいる間に、硬くなった黒パンを一口大にちぎり、牛乳に浸す。
「いい匂いだ……」
背後で、男がポツリと漏らした。
先ほどまでの死んだような声に、わずかに色が戻っている。
私は野菜が舌で潰せるほどくたくたになるまで煮込んだスープに、少量の塩と、整腸作用のあるハーブを散らした。
最後に、隠し味のバターをほんの一欠片。
これだけでコクが出るし、荒れた胃壁の保護にもなる。
「お待たせしました。これなら食べられると思います」
湯気の立つ深皿を二つ、男の前に置いた。
『たっぷり野菜のポトフ』と『ミルクパン粥』。
男は呆然とそれを見つめている。
「……温かい」
「熱いので気をつけてくださいね」
彼はスプーンを震える手で持ち、ポトフのスープをすくった。
恐る恐る、口に運ぶ。
ごくり。
喉が鳴る音が、静かな厨房に響いた。
男の動きがぴたりと止まる。
長い睫毛が震え、見開かれた瞳が揺れた。
「……味が、する」
信じられないものを見るように、彼は私を見た。
「味がするぞ。野菜の甘みと、塩の味が……」
「当たり前です。料理ですから」
「いや、違うんだ。ここ数ヶ月、何を口に入れてもゴムを噛んでいるようだった。なのに……これは……」
彼は憑かれたようにスプーンを動かし始めた。
次はカブを。口の中でほろりと崩れる柔らかさに、彼の眉間の皺がほどけていく。
次はミルク粥を。温かい滋養が、喉を通って胃の腑に落ちていくのが見て取れた。
一口食べるごとに、青白かった頬に赤みが差していく。
まるで、枯れ果てた大地に水が染み渡るように。
私は黙ってそれを見守った。
料理人として――いや、ただの世話好きとして、食べてくれる人がいるのは嬉しい。
それが、こんなにも切実な食べ方なら尚更だ。
十分も経たずに、皿は空になった。
彼は名残惜しそうに最後の一滴まですくい取ると、深々と息を吐いた。
「……生き返った」
その言葉には、実感がこもっていた。
彼は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
その瞳は、先程までの澱んだ灰色ではなく、氷のように澄んだ鋭い青色をしていた。
(綺麗な目をしているんだな……)
私は不覚にも、少しドキリとしてしまった。
「君の名は?」
「メルです。ここの在庫管理係をしています」
「メル……。覚えておこう。私は……」
彼は言いかけて、少し躊躇い、口元を自嘲気味に歪めた。
「……ただの通りすがりの、しがない社畜だ」
「ふふ、大変ですね。王宮のお仕事は」
「ああ、全くだ。無能な上司と、話の通じない部下に囲まれてね」
彼は立ち上がり、服のポケットを探った。
しかし、眉をひそめる。
「……しまった。執務室に財布を置いてきたか」
「あ、お代なんて結構ですよ! 余り物で作っただけですから」
彼は首を横に振った。
そして、袖口できらりと光るものを外すと、コトリとテーブルに置いた。
サファイアのカフスボタンだ。
裏厨房のランプの下でも、目が眩むような輝きを放っている。
「私の命の値段だ。ツケておくのは性に合わない」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってください! これ、国宝級じゃないですか!? スープ一杯の値段じゃないです!」
「釣りはいらない。……また来るための担保だと思ってくれ」
彼は悪戯っぽく唇の端を上げた。
その表情は、一瞬だけ年相応の青年のものに見えた。
「護衛が騒ぎ出す前に戻らねば。……ごちそうさま」
彼は立ち去った。
その足取りは、来たときとは別人のようにしっかりとしていた。
扉が閉まる。
私はテーブルに残された、とんでもない価値の宝石と、空っぽの皿を見つめた。
綺麗に完食された皿は、洗うのが楽そうだ。
「……よし、私も食べよう」
自分用に残しておいたスープを温め直す。
一人の食事も悪くないけれど、誰かが美味しそうに食べているのを見るのも、悪くない。
カフスボタンをどう保管するか頭を抱えながら、私は夜食を楽しんだ。
翌日。
王宮の一部で「氷の宰相ディルク様が、今朝は珍しく機嫌が良かったらしい」「しかも片方のカフスを失くしていたが、誰も指摘できなかった」という噂が流れたのを私は知らなかった。
そして、その夜から、私の小さな部屋に「常連客」ができることも。




