第1話 地味令嬢の左遷と、裏厨房の残り物
「メル・リズリー! 貴様のような地味で華のない女との婚約は、今この時をもって破棄する!」
王宮の大広間。
シャンデリアの輝きが痛いほど眩しい舞踏会の最中、王太子オスカー様の高らかな宣言が響き渡った。
音楽が止まる。
着飾った貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
嘲笑、同情、そして好奇の目。
壇上のオスカー様は、隣に寄り添う可愛らしい女性――男爵令嬢のリリアン様の腰を抱き寄せ、まるで汚れ物でも見るような目で私を見下ろしている。
「私の隣にふさわしいのは、リリアンのように愛らしく、癒やしを与えてくれる女性だ。貴様のように、いつも無愛想で、カビ臭い書庫とインクの臭いが染み付いたような女ではない!」
インクの臭い。
それはそうだろう。
今日の夕方まで、貴方が放置した山のような決裁書類を片付けていたのだから。
私のドレスからインクの臭いがするとしたら、それは貴方の「無能の証明」の香りに他ならない。
私はゆっくりと息を吐いた。
周囲からは、絶望のあまり言葉を失ったように見えたかもしれない。
リリアン様が、扇子の陰でくすくすと笑っているのが見えた。
けれど。
私の胸中に渦巻いていたのは、悲しみではなかった。
(……やっと、終わった)
歓喜。
そう、圧倒的な解放感だった。
十歳の頃から十年間。
次期王妃教育という名目で、王太子の補佐を押し付けられてきた。
彼の見栄のための散財を帳簿操作で埋め合わせ、彼が読みもしない政策案を代わりに起草し、彼が忘れた記念日の贈り物を手配する日々。
地味だと言われても仕方がない。
着飾る時間も、優雅に微笑む余裕も、私には物理的になかったのだから。
私は背筋を伸ばし、静かにカーテシーをした。
膝が震えそうになるのを、太ももに力を入れて耐える。ここで崩れ落ちたら、私の十年間が本当に無駄になってしまう。
「謹んで、殿下のお言葉を受け入れます」
「ふん、殊勝な心がけだ。泣いてすがるようなら衛兵に摘み出させるところだったが」
「つきましては、殿下。お願いがございます」
「なんだ? 慰謝料か? 金なら多少はくれてやるが」
私は懐から、一通の書類を取り出した。
以前から人事局と根回しをして作成していた、私の悲願だ。
綺麗に折りたたまれたそれを、恭しく両手で差し出す。
「こちらの『人事異動願』にご署名をお願いいたします」
「……は?」
オスカー様が間の抜けた声を上げる。
「王太子妃教育の任を解かれるにあたり、私の新しい配属先についての希望です。以前より空席となっておりました『王宮裏厨房・在庫管理係』への異動を希望いたします」
「う、裏厨房だと? あのような薄暗い、ネズミが出るような場所へか?」
「はい。人事局長の承認印は既にいただいております。あとは最高責任者である殿下のサインがあれば、即時発効となりますので」
これは、用意周到な罠だ。
彼が酔っ払って気が大きくなっている今しかチャンスはない。
「ふ、ふん。よかろう。貴様のような陰気な女にはお似合いだ!」
オスカー様は書類をひったくると、中身も読まずにサインをした。
ペン先が紙を走る音が、私には勝利のファンファーレに聞こえた。
これで契約成立だ。
私は書類を受け取り、インクが乾くのを確認してから、再び深く礼をした。
「ありがとうございます。では、これにて失礼いたします」
「待て。まだ夜会は終わっていないぞ」
「明日からの業務に備え、寮への引っ越しがございますので」
私は踵を返した。
ざわめく貴族たちの間を、まっすぐに歩き出す。
「負け惜しみを」「可哀想に、気が動転しているのよ」という囁き声が聞こえる。
なんとでも言えばいい。
私はもう、明日からあの書類の山と格闘しなくていいのだ。
深夜に叩き起こされて、王太子の我儘に付き合わなくていいのだ。
大広間の扉をくぐり抜けた瞬間、私は小さく拳を握りしめた。
(やった……! 私の人生、ここからが本番よ!)
◇
王宮の裏区画。
表の華やかさが嘘のように、石造りの廊下は薄暗く、じめっとしていた。
管理人に無理を言って受け取った鍵束を、錆びついた錠前に差し込む。
ギギギ、と重い音を立てて扉が開いた。
「……これは、ひどい」
誰もいない深夜の厨房。
魔導ランプの明かりに照らし出されたのは、惨状だった。
作業台には使いかけの調味料が出しっぱなし。
床には野菜の切れ端が散乱し、シンクには洗われていない鍋が山積みになっている。
そして何より、匂いが気になった。
澱んだ空気。食材たちが「大事にされていない」と泣いているような気がした。
私は思わず、ドレスの裾を握りしめた。
ここで働くの?
一瞬、令嬢としての私が拒否反応を示して後ずさる。
けれど、木箱の中でしなびかけている野菜たちが目に入った瞬間、私の中の「管理者魂」が火を噴いた。
「在庫管理以前の問題ね……。許せない」
私はドレスの裾をまくり上げ、腰帯に挟み込んだ。
絹のドレスが汚れることなんて、どうでもいい。
まずは換気。窓を全開にして夜風を入れる。
次は分類だ。
「よし、ここから」
私は木箱の中でしなびかけている野菜たちに手をかざした。
体内の魔力を指先に集める。
私の魔力は少ないし、派手な火も水も出せない。
幼い頃、王宮の古い文献を読み漁って独自に編み出した、私だけの技術。
『状態保存』
淡い光が野菜を包み込む。
時間を巻き戻すわけではない。ただ、これ以上の劣化を止めるだけ。
しなびた人参の表面が、細胞活動の停止によって固定化される。
グゥゥゥ――。
魔法を使った瞬間、お腹が盛大に鳴った。
強烈な空腹感と、軽いめまいが襲ってくる。
そうだった。この魔法は、代償として自身のカロリーを著しく消費するのだ。
夜会では何も食べていないし、これはまずい。
「……まずは、私の補給が必要ね」
私は大根の皮、キャベツの芯、少し傷んだ玉ねぎを集めた。
普通なら捨てる部分を丁寧に洗い、繊維を断つように細かく刻む。
鍋に水を張り、くず野菜を放り込む。
魔導コンロに火を点けると、コトコトと優しい音が響き始めた。
掃除をしながら、鍋の様子を見る。
灰汁を丁寧に取り除き、塩と、少しの香草を加えるだけ。
高級な肉もワインも入っていない、ただの野菜スープ。
けれど、部屋に満ち始めた香りは、驚くほど芳醇だった。
私は味見皿にスープを少しすくい、口に運んだ。
じんわりと、熱が空っぽの胃に染み渡る。
優しい味だ。派手さはないけれど、疲れた体にすっと落ちていく滋味深い味。
「……生き返る」
思わず、ほうっと息が漏れた。
「おい、誰だ。勝手に火を使っているのは」
突然、背後からドスの利いた声がした。
心臓が跳ね上がる。
振り返ると、厨房の入り口に巨漢が立っていた。
禿げ上がった頭に、立派な口髭。
腕組みをしたその姿は、まるで岩山のようだ。
料理長のガルバンだ。まだ夜明け前だというのに、もう出勤してきたのか。
「あ、あの……申し訳ありません! 本日付けで配属になりました、メル・リズリーと申します!」
私は慌てて頭を下げた。
「配属? ああ、そういえば上から変な貴族の娘が来るとかいう通達があったな……。てっきり、泣きながら部屋に引きこもるもんだと思ってたが」
ガルバン料理長は、のしのしと私に近づいてきた。
彼は鍋の前で立ち止まり、鼻をひくつかせた。
「……これは、なんだ」
「え、あ、その。廃棄されそうだった野菜の切れ端を使って、スープを……。お腹が空いてしまって」
「くず野菜だと?」
彼は私の手から味見皿をひょいと取り上げると、残っていたスープをぐいっと飲み干した。
沈黙。
長い、数秒間。
彼の太い眉がぴくりと動く。
「……野菜の泥臭さがねえ。下処理をかなり丁寧にやったな?」
「はい。皮と実の間が一番美味しいので、よく洗ってそのまま使いました。芯も、繊維に対して垂直に薄く切れば甘みが出ますので」
「塩加減も絶妙だ。……ふん」
ガルバン料理長は、空になった皿を私に返した。
その口元が、わずかに緩んでいるのを私は見逃さなかった。
「悪くねえ。……いや、ウチの若いのが作るよりよっぽど『食える』味だ」
「え……」
「貴族の道楽かと思ったが、どうやら本気らしいな。メルといったか」
「は、はい!」
「いいだろう。ここの『残り物』は好きに使っていい。その代わり、明日からはこき使うぞ。ドレスを汚したくないなら、さっさと帰るんだな」
彼の視線が、私のまくり上げたドレスに向けられた。
泥と野菜屑で汚れた裾を見て、彼はニヤリと笑った。
「もう汚れてるみたいだがな」
「はい! これくらい、勲章です!」
私は精一杯の声で答えた。
胸の奥が温かかった。スープのせいだけじゃない。
認められた。私の居場所が、ここにある。
ガルバン料理長が仕込みを始める背中を見ながら、私は自分用におかわりをよそった。
窓の外を見ると、東の空が白み始めている。
長い夜が終わろうとしていた。
この時の私はまだ知らなかった。
この薄暗い裏厨房が、やがて王宮中の胃袋と心を掴む場所になることを。
そして、このスープの香りに誘われて、とんでもない夜更かし客が訪れることを。
カタン、と。
裏口の扉が、微かな音を立てた気がした。




