第37話 代償
ヴォルンドの脳裏を、雷鳴が駆け巡ったかのような衝撃が襲う。視界は歪み、耳鳴りが響き渡る。彼の魂は、凍てつくような困惑と、理解不能な絶望に包まれた。信じがたい光景が目の前に広がり、現実と幻の境界が曖昧になる。呼吸が止まり、心臓が凍り付く。なぜ、師がここにいるのか?なぜ、死んだはずのモルドレッドが…?あらゆる疑問が渦巻き、ヴォルンドの精神は、まさにその場で砕け散る寸前であった。彼の手に握られたティルヴィングは、まるでその主の動揺を映すかのように、僅かに震えていた。
ヴォルンドは、その心臓が握り潰されんばかりの極限状態で、必死に自らに言い聞かせた。これは魔王が見せている幻覚なのだと。幼き頃、マタンゴという毒キノコを食し、幻覚に苛まれた記憶がヴォルンドに蘇る。きっと魔王が、再びそのような幻覚を見せる魔法を唱えているに違いない。
だが、片膝をつくモルドレッドの息遣い、そしてヴォルンドを見据えるその眼差しは、紛れもない本物としてしか受け止めることができない。次第に、ヴォルンドの心は、モルドレッドが魔王であるという、信じがたい現実に納得し始める。師との修練の日々、幾度となく受けたその剣。魔王との激戦の中で、ヴォルンドは確かに、その剣筋にモルドレッドの面影を見出していたのだ。剣の達人の域に達すれば、似ることもあるだろうと、彼は魔王とのこれまでの戦闘で自分に言い聞かせてきた。だが、魔王の剣とモルドレッドの剣には、常にとある感情が乗っかっていた。それは『怒り』であった。
モルドレッドの剣は常に怒りを孕んでいた。その怒りの矛先は、当然ながら魔王に向けられたものだと思っていた。しかし、もしモルドレッドが魔王であるならば、その怒りは人間に向けられていたということになる。モルドレッドの怒りが、魔王ではなく、人間にあると思われた時、ヴォルンドは何故か、それがすべての答えであるかのように思えてならなかった。これは、剣をぶつけ合って初めて分かる感覚に過ぎない。しかしヴォルンドにとって、モルドレッドが魔王であることに何の違和感もなく、それが天地の摂理であるとでも言わんばかりの納得感に満ち溢れていた。
「どうして……?」
ヴォルンドの口から、掠れた声が漏れる。モルドレッドは、その言葉に不敵な笑みを浮かべた。彼は何も語らず、首元に宛がわれたティルヴィングの刃を、残る片手で静かに握り、自らの腹へと突き刺した。ヴォルンドは、ティルヴィングを通じて、モルドレッドの、いや、魔王の死を確かに感じ取る。ヴォルンドの瞳から、熱い涙が止めどなく流れ落ちる。
魔王が死に、周囲に満ちていたゴブリンたちの姿が、まるで霧のように消え去っていった。長く続いた戦争は、唐突に終結を迎えたのだ。ヴォルンドは、ゆっくりと辺りを見渡した。そこには、命を終えたリラゼルが横たわり、下半身だけが残されたドーリの痛ましい姿、そして、たくさんの人を、仲間を殺し、自ら命を絶ったモルドレッドの亡骸があった。遠くからは、戦争に勝利した人々が、喜びの歓声を上げているのが聞こえてくる。
ヴォルンドの心は、今、形容しがたい感情の奔流に押し流されていた。勝利の喜びなど、彼の中には一片もない。ただあるのは、喪失の痛みと裏切りの絶望、そして残酷な真実に直面した戸惑いである。愛する仲間達が、目の前で失われた。信頼していた師が、世界を滅ぼさんとする魔王であったという事実。そして、その師が、自らの手で命を絶ったこと。喜びの歓声が、彼の耳には嘲りの声のように響く。心臓が鉛のように重く、全身を蝕む疲労が彼を打ちのめした。勝利とは、これほどまでに残酷なものなのか。
「どうして、どうしてこんなことを……?」
彼の口から、再び、慟哭にも似た問いが漏れ出る。それは師であるモルドレッドに問うた言葉なのか、自分が何故こんなことをしているのか疑問に思ったのか、それは言葉を発したヴォルンドでさえもわからない。その声は、広大な戦場に、虚しく響き渡るばかりであった。
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アイリーン王女の最期を看取り、呆然と立ち尽くしていた将太の目に、突如として信じがたい光景が飛び込んできた。ヴォルンドとモルドレッドが激戦を繰り広げていた戦場の上空は、紫がかった、永遠の黄昏のような不思議な色に染まっていたのだ。それは、この世ならざる美しさを湛えながらも、同時に、深淵なる神秘と、そして畏怖の念を抱かせる、幻想的な光景であった。
将太は、その景色の美しさにみとれるよりも、リラゼルがエルフの秘宝を使ったことを直感的に悟る。それは、一定空間の時間を止める力。そして、その影響範囲は、将太が想像していたよりも遥かに広かった。将太は、ルーンが解き放たれたその空間へと急ごうとする。この時、彼は、自身の計画を中断することを決意していた。しかし、リラゼルが放ったルーンの効果によって、彼の身体は思うように動かない。まるで夢の中を移動しているかのように、身体が重い。
周囲の者たちは皆、人形のように微動だにしない。空を裂いて進む矢も、振り下ろされる剣も、飛び散る血も汗も、そして流れる涙さえもが静止している。永劫の静寂に包まれた世界で、将太だけが、もがきながら、たくさんの後悔を胸に前へと進んだ。
ようやくリラゼルの姿を視界に捉えられたその瞬間、ルーンの効果が切れ、時間が再び流れ始めた。その反動で将太はバランスを崩し、無様に大地に伏してしまう。大地に伏すその一瞬、彼はリラゼルが倒れ、魔王の右腕が切断されるという、一連の出来事を視界の端で確認した。口に草と土が入り込むのも厭わず、将太は起き上がろうとするが、その時、ヴォルンドがティルヴィングを振り上げ、魔王の首を刎ねようとしているのが見えた。
魔王は右腕を切断されたことにより、その腕の先、指にはめられていた指輪の効力が途切れたのだろう。全身を覆っていた鎧が、まるで溶けた飴のように崩れ落ち、真の姿が露わになる。ヴォルンドは魔王の正体を知り、茫然と立ち尽くした。その間に、魔王であるモルドレッドは、残った腕を動かし、ティルヴィングを掴んで、自らの腹へと突き刺し、自害した。
将太は立ち上がり、ふらふらとヴォルンドとモルドレッドのいる場所へと歩き出した。その短い道中、彼の心は激しく揺れ動く。
──俺のせいで、こうなったのか……?
──いや、これはただの失敗だ!
──途中まではうまくいっていたんだ!
──本当だ!
──ただ竜を思った以上に強くし過ぎただけだ!!
──モルドレッドだって、途中で暴走したのも悪い!!
将太は必死に自分は悪くないと言い聞かせながらも、心の中では別の声が問いかける。
──じゃあ、成功するまでまたやるのか?
答えは問うまでもない。将太にはできなかった。なぜなら、ここまでの道中、自分の理想を実現させようとしたせいで、彼はあまりにも多くの死と悲劇を目の当たりにしてきたからだ。
数多くの兵士の死。ドーリの死。アイリーンの死。リラゼルの死。そして、モルドレッドの死。本格ファンタジー小説には、たくさんの死と悲劇がもたらされる。けれどもこれは現実なのだ。現実に於いて、悲劇とはそれ以上でもなく、それ以下でもないことを、将太は痛いほどに知り、打ちのめされていた。
そして、彼の耳に、ヴォルンドの悲痛な声が届く。
「どうして、どうしてこんなことを……?」
将太の鼓膜に届いたその声は、ヴォルンドのものではなかった。それは、幼い頃の自分自身の声であった。幼き自分が、父親に殴られ、同級生達にいじめられた時に、何度となく絞り出した言葉。
『どうしてこんなことを……?』
その時初めて、将太は身をもって悟った。自分があれだけ憎み、軽蔑してきた人々と全く同じことをしてしまったのだと。世界を、人を、自分の理想を叶える為に、それが人生に於いて最も大切な教えだと言わんばかりに押し付け、そして傷付けた。
その事実に将太は絶望した。
内側から魂を抉り取られるような残酷なまでの痛みが彼を襲う。それは彼がこれまで見てきたいかなる悲劇よりも深く、彼自身の存在そのものを否定するものであった。
彼の瞳には自己嫌悪と絶望が入り混じった虚ろな光が宿る。魔王が死に、たくさんの悲劇がこれにて終わりを告げる。これから訪れる平和の世に歓喜する人々の歓声が、将太にとっては皮肉の籠った嘲笑に聞こえていた。




