第32話 地獄の火炎
将太は、眼下に広がる光景に、息を漏らした。人間、エルフ、ドワーフ、三つの種族の軍勢が織りなす総攻撃は、まさに彼が夢見た『理想の光景』そのものである。多くの兵士達が命を散らしているが、彼らの動きは、将太とモルドレッドが描いた壮大なシナリオに沿うものであった。将太の胸には、満足感が満ちていた。
魔王軍は、エルフとドワーフの軍による第二波の猛攻によって、ついに押し込まれ始めた。その勢いを止めるべく、日蝕の始まった闇の空から、おびただしい数のワイバーンの群れが投入される。彼らは、黒い稲妻のように空を切り裂き、その巨大な影が地上を覆い、恐怖を撒き散らした。しかし、ノースエッグ砦での開幕戦で、既にその恐ろしさを経験していた人類の弓兵達は、もはや怯まなかった。彼らは、竜の炎を生き延びた者達の冷静さと、新たなる知恵を携えていた。
「集中砲火だ! 奴らの翼を狙え!」
指揮官の怒号が響き渡るやいなや、盾の影に隠れていた弓兵達が一斉に矢をつがえた。彼らの眼差しは、一点に集中している。無数の矢が、まるで死を運ぶ雨のように、狙いを定めたワイバーンの群れへと放たれた。ヒュンヒュンと風を切る音、そして次々とワイバーンの翼や胴体に深々と突き刺さる鈍い音が、戦場にこだまする。翼を射抜かれたワイバーンは、断末魔の叫びを上げて空から墜落し、地面に激突するその度に土煙と悲鳴が上がる。まだ空に残るワイバーンも、その動きは鈍り、数を減らしていった。将太は、この光景を見て思わざるを得なかった。『人間の強さとは、まさに学ぶことにある』と。彼らは、一度の敗北から、新たな戦術を編み出し、それを実践したのだ。これが本格ファンタジーで重要な要素の1つである。人は何度だって立ち上がれる。虐めや虐待から将太が立ち上がったように。なろう系は努力や一度負けて再び立ち上がるような演出など殆どない。主人公達は葛藤や勇気を振り絞らないのだ。将太はそう自分に言い聞かせて、自分のことを正当化している。だが、彼はそのことに気付いていない。将太は自分を正当化しつつ、次に戦場で起こることに緊張しているのだ。
魔王軍は、その勢いを失い、徐々に後退していく。人間、エルフ、ドワーフの軍勢は、その光景を見て、士気をさらに高揚させ、勢いづいた。勝利への確信が、彼らの顔に浮かび上がる。しかし、将太は知っていた。
「本番は、ここからだ……」
その時、地平線の彼方から、すべてを覆い尽くすかのような巨大な影が、現れた。モービアス──将太が放った、最古の恐怖そのものである竜のおでましだ。その巨体が広野の上空へと舞い上がった瞬間、押し込んでいた勇者達の軍は、一瞬にして深い恐怖に囚われた。彼らは、ノースエッグ砦の兵士達が語った『竜』の存在を知っていた。その姿を目にした兵士達は、もはや迷うことなく、次々と王都へと退却を開始した。
モービアスの口から、再び紅蓮の火炎が吐き出される。灼熱の奔流は、退却する兵士達を容赦なく襲い、彼らの肉体を瞬く間に焼き尽くし、灰と化していく。絶望的な光景が広がるが、将太の顔に動揺はない。
この退却は、決して指揮系統が麻痺していることを意味しない。むしろ、それはノースエッグ砦での戦いを通じて、竜の存在を事前に知らされたからこその、計算された動きであった。これは、すべて作戦の内であり、その作戦の中枢を担うのは、今、広野の中心に毅然と佇む勇者パーティーなのである。彼らは、この絶望的な状況を、勝利への足がかりに変えるために、そこにいるのだ。
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蝕まれゆく太陽の光に包まれた広野に、退却する友軍の影が伸びゆく中、ヴォルンド達は、薄く輝く空を支配する巨大な影を見上げた。それは、古の詩歌に謳われし、空を翔ける竜であった。その威容は、たとえ鋼の心を持つ者とて、畏敬の念に打たれずにはいられない。
ドーリ、かの頑固なドワーフは、ノースエッグ砦での恐ろしい記憶を呼び覚ますように、その顔に興奮の色を浮かべた。灼熱の業火と鋼鉄の爪、そして大地の震え。かつて味わった竜の猛威は、彼を怯ませるどころか、その闘志を一層燃え上がらせる。
「ようし!あの蜥蜴野郎と再戦ができる!今度こそ、その鱗を剥ぎ取ってくれるわ!」
彼の咆哮は、薄闇の静寂を切り裂き、広野にこだました。ヴォルンドは、ドーリの高らかな宣言を聞きながら、自らの内なる震えを必死に押し殺そうとしていた。しかし、それはもはや精神の領域を超え、細胞一つ一つが恐怖に戦慄いているかのようであった。理性の盾は脆くも崩れ去り、本能が激しく警鐘を鳴らす。
その時、モルドレッドが静かに剣を抜き放ち、空を旋回する竜の腹を指し示した。
「見よ、あれは古の勇者、光の勇者がつけた傷痕。おそらく、あそこが奴の弱点となろう」
彼の声には、確固たる信念が宿っていた。
ヴォルンド達は頷き、リラゼルが弓を引き絞る。狙いは定まった。旋回する竜の腹、あの古傷。放たれた矢は、空を切り裂く一筋の光となり、竜の巨体へと吸い込まれていく。しかし、運命の女神は気まぐれであった。矢は惜しくも、わずかに標的を逸れ、硬質な鱗に当たった。
その瞬間、竜はヴォルンド達を明確な敵と認識した。一度、大空に弧を描くように舞い上がり、上空から彼らを睥睨する。そして、その口から、灼熱の炎を噴き出した。空から流星の如く鋭角に降り注ぐ火炎は、彼らめがけて一直線に迫る。
ヴォルンド達は左右に散り、間一髪で火炎を避けた。しかし、その熱さは、鋼の鎧さえも変形させかねないほどであった。そして、火炎を吐き終えた竜が、彼らの間を文字通り通り抜ける。その風圧は、まるで巨大な嵐が吹き荒れたかのようである。そして、間近で見た竜の圧倒的な存在感は、魂を凍てつかせる絶望感を与える。竜の軌跡は、大地に赤黒い死の轍を描き出し、ヴォルンドの心臓は恐怖で縮み上がった。
「また来ます!」
リラゼルの声が響く。ヴォルンドは赤黒く染まった大地から再び上空を見上げた。今度は、炎は吐かない。竜は、まるで飢えた猛禽のように、ヴォルンドめがけて空から真っ逆さまに突進してくる。恐怖で足が震え、まるで蛇に睨まれた蛙のように、彼は身動きが取れない。
竜の巨体が、轟音と共に地面を揺らすかと思うほど間近に迫る。ヴォルンドの視界は、漆黒の鱗と燃えるような瞳で埋め尽くされ、死の香りが鼻腔を衝く。その瞬間、彼の内に眠る何かが覚醒した。それは、恐怖を凌駕する、抗いがたい生存への渇望であった。
竜の大口が開き、鋭い牙が見える。ヴォルンドは噛み砕かれまいとティルヴィングを盾のように構え、迫る竜の大口に押し当てた。物凄い圧力がかかる。ヴォルンドの両足は大地に半ば埋もれ、周囲は隕石が落ちかのような地割れを起こした。竜の生臭い吐息が身体全体にかかり、ヴォルンドの全身が粟立つ。
その隙にモルドレッドの剣が閃き、竜の硬質な鱗に火花を散らす。その一撃は竜の皮膚を貫くには至らないが鱗を傷付けた。ドーリは、その太い身体からは想像もつかない敏捷さで竜の足元を駆け抜け、ハンマーを振り上げた。鋼鉄の音が響き渡るが、竜は微動だにしない。リラゼルが矢を放つが竜は再び翼をはためかせ、風を起こし、矢を無力化させた。
そして空へと舞い上がった竜は、その巨大な翼で嵐を巻き起こし、ヴォルンド達を吹き飛ばそうとする。リラゼルは矢継ぎ早に矢を放つが、竜は巧みに身を翻し、そのすべてをかわす。古傷への狙いは、もはや絶望的かと思われた。
その時、竜は再び炎を、真下に吐く。あまりの近距離が故に回避は不可能と思えた。その炎に魔力を温存していた流石のアイリーン王女も魔法を唱え、火球をぶつける。竜の吐く炎よりも小さい火球である。炎と火の玉はぶつかり合い、ヴォルンド達の避ける猶予を作り出す。ヴォルンド達はその場から離れ、標的がいなくなった火炎はそのまま下降し、大地に赤い華を咲かせた。煙が風に舞う花粉のようにたゆたう。
するとヴォルンド達のいるところから少し離れた場所で大量の矢が竜に放たれた。味方の軍がヴォルンド達に加勢しようと、応戦してくれたようだ。しかし矢は竜の硬い鱗によって弾かれる。竜はまるで小さな羽虫を煩わしく思うように矢の雨を首を振っていなした。
ヴォルンドは思った。
──まずい!?
竜の標的が矢を放った者達に置き換わってしまうと思ったが、竜の標的は別にいた。翼をはためかせながら上昇した竜はまたしても、急降下し、標的に向かう。
竜の標的はヴォルンドの師、モルドレッドだ。竜の鱗を傷付けたモルドレッドは、竜の敵と見なされたようだ。竜が、まるで巨岩の落石かと見紛うように、その獰猛な顔を下に向けて落下してきた。
モルドレッドは笑みを浮かべて、長剣を鞘にしまい、抜刀の姿勢をとる。師匠は迎え撃つつもりである。
「師匠ぉぉ!!!」
ヴォルンドの叫びは、モルドレッドの神速で抜かれた長剣と竜の衝突音に掻き消された。辺り一帯を衝撃波が襲い、ヴォルンドは勿論、味方の軍や魔王軍の兵士を吹き飛ばした。ヴォルンドは何とかその場に踏みとどまり、師匠の様子を見た。土煙が立ち込める中、新たな衝撃波と衝撃音が加わり、煙幕を散らす。竜の咆哮とモルドレッドの雄叫びが後を追うように聞こえてきた。
モルドレッドによる凄まじい剣戟。それに怯まず竜も応戦する。大口をあけ、一飲みにしようとし、それが躱されると今度は赤銅に染めようと火炎を吐く。モルドレッドはそんな竜の口から逃れ、長い首を掻い潜り、口から吐かれる炎を飛び越えた。その動きに目を見張るが、その間にもモルドレッドは攻撃の手を緩めない。竜の攻撃を躱しながらも、必ず一撃、二擊と剣を振るった。そして鱗を傷付け、竜の動きを確実に鈍らせている。
──凄い!!
そう思ったヴォルンドは自分も加勢しようと、師匠の元へと走った。すると竜は師匠から背を向けた。
──逃げる気か!?
ヴォルンドはその背を追おうと、加速して走り出す。しかしモルドレッドは言った。
「よせ!!」
ヴォルンドは何故、師匠が後追いを止めたのか理解できなかった。すると背を向けた筈の竜の尻尾が鞭のようにしなり、ヴォルンドの右半身を叩こうとした。
──しまった!!?
竜は逃げようとしていたわけではなく、その長い尻尾でモルドレッドを薙ぐつもりだったのだ。迫る尻尾に衝突することを覚悟した。ヴォルンドは目を瞑ると衝撃が加わり、弾き飛ばされ、大地に身を横たえる。しかしヴォルンドの予期した、意識を失うような凄まじい衝撃ではなかった。
ヴォルンドは目を開け、立ち上がろうとすると自分に覆い被さるようにして師匠のモルドレッドがうなされていた。
「ぐっ……」
どうやらヴォルンドはモルドレッドに庇われ、受ける衝撃を半減させてくれていたようだ。しかしその分モルドレッドは被害を被ることになり、動くことができない。
「し、師匠……」
リラゼルが矢をつがえながら叫ぶ。
「早く立ってください!!」
ヴォルンドは覆い被さる師匠の肩越しから、上半身を浮かせて、竜を見た。背中に痛みが走るが今はそれどころではない。竜の背が真紅に輝き、火炎を吐き出す予備動作を行っているのだ。そうはさせまいとリラゼルは矢を、射程距離ではないところからアイリーンは火球を放つ。ドーリはハンマーで攻撃しようと間合いを詰める。3人の抵抗も間に合わず、竜は火炎を吐き、焼かれることを覚悟したが次の瞬間、モルドレッドはヴォルンドを火炎の奔流から反れるように投げ飛ばす。
ヴォルンドは遠ざかるモルドレッドを見据えたまま、師匠が火炎に包まれる様を目撃した。
「師匠ぉぉぉぉぉぉ!!!」




