第21話 ヴォルンドの修行
「ぐあっ!」
鈍い音が響き、ヴォルンドの背中がロリス砦の分厚い訓練場の壁に激しく打ち付けられた。肺の奥底に溜め込まれていた空気が、強制的に外へと押し出され、彼の視界は一瞬、白い閃光に覆われた。
「やみくもに振るうな! もっと考えろ!」
師、モルドレッドの声が、鋼鉄の響きをもってヴォルンドの耳に届く。息を整えようと呻き、立ち上がろうともがくが、膝は震え、思うように力が入らない。手にした訓練用の木剣を杖のように地面に突き立て、ようやくよろめきながら身体を支えるのがやっとであった。その姿を見て、モルドレッドは彼の限界を悟り、休息をとるよう言い渡す。
ヴォルンドは、そのまま訓練場の隅へと身を寄せた。壁が陽光を遮り、生み出された冷たい影が、火照った身体に心地よい。まるで、鍛錬によって熱された魂を冷ますかのように、その場所は彼を包み込んだ。彼のすぐ傍らには、まだ幼いジギタリスの葉芽が、力強く土を押し上げていた。やがて花芽をつけ、毒々しい紫の花弁を広げる頃、真なる魔王が茨の森より現れる。女神マアナによって告げられた、避けられぬ運命の日。その日に向けて、ヴォルンドは今、このロリス砦で、モルドレッドと共に剣の稽古に明け暮れているのだ。
ジギタリス──その植物は、奇妙な二面性を宿している。誤って口にすれば、激しい下痢や嘔吐、頭痛、そして目眩といった苦痛をもたらす猛毒を秘める。しかし、それを深く知識ある医術師が用いれば、人を癒す薬へと変貌するのだ。ヴォルンドは、これまでの人生で、このような不思議な現象に出会うたびに、ただ「不思議だ」と呟くだけで、それについて深く思考を巡らせたことはなかった。彼の生きた世界は、常にシンプルで、理解しやすいものであったからだ。
『もっと考えろ!』
先ほどのモルドレッドの叱責は、まさにヴォルンドに決定的に欠けているものであった。彼は田舎の農村に生まれ、農作業や採集といった、生きていく上で必要最低限の知識しか持たなかった。そして、それだけで十分であった。それ以外の事柄は、彼の外側に広がる、自分とは無縁の世界としてしか認識していなかったのだ。
農民の子は農民となり、貴族の子は貴族となる。そして、勇者の子は勇者となる。それが、ヴォルンドの認識する世界の理であった。明日も、明後日も、そのまた次の日も、同じ日々の繰り返し。一年後も、五年後も、十年後も……。彼はそう信じて疑わなかった。しかし、女神マアナの降臨以来、その凝り固まった認識は、音を立てて崩れ始めた。いや、崩れざるを得なかったのだ。
偶然に身を任せて生きてきたヴォルンドだが、モルドレッドより──少し躊躇いがちに──聞かされた、勇者様の生い立ちに衝撃を受けた。なんと勇者様は、自分のような凡庸な家庭に生まれ、育ったというのだ。そしてある日突然、この世界へと召喚され、魔王を討伐する宿命を背負わされた。つまり、今のヴォルンドと同じであることを知った。
そうとも知らず、ヴォルンドは、勇者様──芹澤将太という、その尊いお方を、ただ「勇者」という肩書きでしか見ていなかった。あの御方が、自分のことを名前で呼んでくれたというのに。彼の胸に、深い悔恨が募る。
ヴォルンドは再び立ち上がり、訓練用の木剣を構える。上段から振り下ろし、流れるように素振りを繰り返した。汗が額から滴り落ち、地面に小さな染みを作る。魔王討伐を共にした他の仲間たちは皆、魔王襲来の日まで、それぞれの祖国へと帰還し、更なる鍛錬を積むとのことだ。
ヴォルンドもまた、両親と共に故郷の村へ一時帰還しても良いと言われた。だが、彼はそれを固辞した。女神様より新たな勇者として任命された今、このロリス砦に留まり、モルドレッドと共に訓練を積み、一日も早く力をつけねばならないという、強烈な使命感に駆られたのだ。
漠然とした不安を抱くよりも、ただひたすら訓練に没頭している方が、彼の心は遥かに楽であった。そして何よりも、勇者様から受け継いだこの黒い腕輪が、彼の魂を支える、最も確かな拠り所となっていた。それは、彼の腕に光る希望の証であり、新たな運命へと彼を導く、まばゆい導きの光であった。
ヴォルンドは毎日、師であるモルドレッドと剣を振るった。足場の悪い崖の上、障害物の多い森の中等でも戦闘の訓練をした。数ヵ月が経ったある日、モルドレッドより告げられる。
「お前は今まで、考えなさすぎた。身体の仕組みや重心移動、筋肉の連動、それらが全て一致することによって剣はより鋭さを増す」
何度も言われてきたことをモルドレッドは言った。そして彼は続けて言う。
「お前は、初めて自分のことを知った。ならば次は相手のことを知るのだ」
「相手のことを?」
「そうだ。相手は何を考え、自分と何が違うのか。その差違を常に感じろ。そこが隙となり、相手より一歩先をゆく手段となる」
ヴォルンドは「はい」と歯切れの良い返事をし、剣を構え、相対するモルドレッドを見つめた。
足さばき、重心の位置を見極め、モルドレッドの呼吸すらよく聞こえるようになった。自分のことを知ることで、相手のことを更によく知ることができた。
モルドレッドは一歩前へ踏み出した後、剣を振り払う。ヴォルンドは上体を少し反らすようにしてその攻撃を躱す。いつもは自分の剣をぶつけて防御するのに精一杯なのに、躱す余裕が生まれたのだ。
ヴォルンドはモルドレッドの一撃を躱したことにより、得意気な表情を見せた。しかし次の瞬間、モルドレッドの振り払われた剣はヴォルンドの横にある木を両断し、その木がヴォルンドに向かって倒れてきた。
「うわっ!?」
ヴォルンドは尻餅をついたと同時に、モルドレッドに長剣の切っ先を突きつけられる。
「相手のことを知るとはこういうことだ。だが、その調子で修行に励め」
「…あ、あの質問いいですか?」
モルドレッドは沈黙で促す。
「相手のことを考えた結果、自分よりも強者だと思ったらどうするんですか?」
「認めることだ」
「なにを、ですか?」
「相手の強さと己の弱さを、だ」




