第19話 女神降臨
幾日かの太陽が、魔王の死を確かに大地に刻みつけてから、ロリス砦を取り囲む荒野は、奇妙な活気に満ちていた。ゴブリンの軍勢、そして魔王の軍勢による合わせて2度の襲来により魔の瘴気が立ち込め、草木一本生えぬ荒涼たる地となってしまったが、今は柔らかな萌芽が芽吹いている。鳥達は恐れることなく空を自由に舞い、その囀りが祝福の歌のように響き渡る。まるで、世界の肺がようやく深い呼吸を取り戻したかのようであった。
この英雄の地に、王都から、アイリーン王女のお父上であらするトマス国王陛下が、深き悲しみを湛えて来訪された。彼の瞳には、国の未来を託した若き魂への悼みが宿っていた。さらに、遥か彼方のエルフ王国からは緑衣を纏いし森の王が、石と鋼の地下帝国を築くドワーフ王国からは威厳に満ちた山の王が、それぞれ静かに、しかし深い敬意をもって勇者様を追悼した。世界の理が再び調和を取り戻したかのように、旧き隔たりは薄れ、今はただ、失われた光を悼む心がそこにあった。
人々は、魔王が消え去ったという事実の柔らかな抱擁に安堵し、その安堵はいつしか喜びに変わって、トマス国王陛下の御命令のもと、宴と勇者様の葬儀の準備に勤しんでいた。焚き火の煙が空に昇り、香ばしい肉の香りが風に乗って運ばれてくる。忙しく働く人々の中には、葬儀の準備をしている者でさえ、どこか安堵の微笑みを浮かべていた。しかし、その喧騒の中に、ただ一人、微笑むことさえ忘れた者がいた。ヴォルンドである。
彼の頬は痩せこけ、瞳には深い影が落ちていた。勇者様が斃れてから、彼はあれから一度も心からの笑みを浮かべていない。勇者様より賜った、漆黒の腕輪が、今、夕日の名残を反射して、眩いばかりにきらめく。
その時、一陣の風と共に、懐かしい声が彼の耳に届いた。
「ヴォルンド!?」
声の主は、彼の両親であった。魔王討伐と勇者様の死の報せは、ヴォルンドがかつて暮らしていた田舎の村にも轟き、奉公に出た愛しい息子を迎えに、はるばるここまでやってきたのだ。見慣れた、しかし少し老いた両親の姿を目にした瞬間、ヴォルンドの胸にせき止められていた感情が堰を切ったかのように溢れ出した。彼は安堵の吐息と共に、止めどなく涙を流した。
彼の両親は、息子が魔王討伐を成さんとする勇者の奉公人として、どれほど心細い日々を送っていたのだろうと考え、優しく彼を抱きしめ、慰めの言葉をかけた。しかし、ヴォルンドの涙の理由は、彼らが想像するそれとは全く異なっていた。それは、勇者様への尽きせぬ想いと、何もできなかった己への無力感、そして世界を救った尊い犠牲への、純粋な悲しみであった。その真情を知った両親は、我が子の成長を喜び、同時に深い誇りを感じた。彼らは気の利いた言葉をかけることもなく、ただひたすらに息子を抱き締め、共に涙が止まるのを待った。
やがて、星々が瞬く宵闇の中、勇者様の葬儀と魔王討伐の宴が催された。ロリス砦の住人はもちろん、世界中から集まった大勢の参列者が、静かに勇者様の棺に白い薔薇を手向けていく。勇者様の御体は既に天へと昇り、その亡骸は棺の中にはなかった。代わりに収められていたのは、伝説の長剣、ティルヴィング。その刃は、魔王の血潮を浴びてなお、冷たい光を放っていた。人々は皆、勇者様に想いを馳せ、平和となった世界に感謝を告げる。その偉業が永遠に語り継がれることを信じて疑わなかった。
ヴォルンドもまた、震える手に握りしめた白い薔薇を、前の人々と同じように棺に収めた。その瞬間、彼の頭上に広がる、厚い雲に覆われた夜空に、一筋の後光が差し込んだ。それは、まるで昼間の太陽が再び昇ったかのような、眩い輝きであった。輝きは徐々に強まり、空の裂け目から、何者かが降臨せんとしているかのように思われた。
「もしかして……勇者様が……復活されるの?」
ヴォルンドの瞳は、輝く夜空と同じように希望に満ちて輝いた。しかし、その期待は、次の瞬間に現れた存在によって打ち砕かれる。空から降り立ったのは、神々しい光に包まれた女神マアナであった。マアナ神の全身がはっきりと見えると、宙を輝かせながらふわりと浮き、その場に止まった。その神々しい御姿に、ヴォルンドを含め、そこにいた全ての者がその場に跪いた。
女神は静かに、しかし、幾人ものマアナ神が同時に同じ言葉を語りかけているかのような、深遠な響きを帯びた声でお告げになった。
「勇者が討伐したのは、魔王に非ず」
その言葉は、集まった全ての者の心臓を、一瞬にして凍り付かせた。誰もが息を呑み、沈黙がこの場を支配する。
「あれは、魔王の駒に過ぎぬ存在であった。真なる魔王は、未だ生きている」
ざわめきが、まるで波のように周囲に広がり始めた。安堵の宴が、一瞬にして恐怖の淵へと突き落とされる。
「魔王の脅威は消え去っていない。故に妾が、これより新たな勇者を誕生させようぞ」
その言葉に、ざわめきは再び安堵の波へと変わった。しかし、その安堵は、ほんの束の間のことであった。ヴォルンドもまた、その言葉に一抹の希望を抱いていた。
「勇者は別の世界より召喚せねばならぬ。だが、その力は、もう妾には残されていない。故に、今ここにいる者の中から、新たな勇者を任命する」
皆が押し黙った。その沈黙は、女神が告げる次の言葉を、息を殺して待つ、緊張に満ちたものであった。女神マアナは、静かに、しかし有無を言わせぬ響きで告げる。
「勇者より腕輪を受け継ぎし少年…ヴォルンド。汝こそが、次の勇者である」
その言葉は、夜空に走る雷鳴のように響き渡った。ヴォルンドの心臓は、激しく鼓動を打つ。彼の手に光る黒い腕輪が、まるで新たな使命を帯びたかのように、鈍い光を放ち始める。
「今より一年と一日後、天空を覆いし闇が、輝ける太陽の光を完全に蝕むその時、真なる魔王が姿を現すでしょう。魔王は、恐るべき軍勢を従え、北の彼方、禍々しき茨の森の深淵より現れ、この世界に破滅をもたらさんとするでしょう。心せよ、そして備えよ。されど恐れるなかれ。希望の光は、いかなる闇にも決して消えぬもの。皆で勇者ヴォルンドを支え、研鑽を積めば必ずや魔王を打ち倒すことができるでしょう」




