第15話 宴のあと
ロリス砦の北塔に立つ見張り、ガルム・ギヨームドは、夜明けの冷たい風に身を晒していた。ガルムは、砦の衛兵となって十年を数える。仕事は単純だ。見張り台から地平を監視し、モンスターや盗賊、魔王軍襲来の兆しを見逃さぬこと。松明の火を絶やさず、鐘を鳴らす準備を怠らない。夜は特に神経を尖らせるが、今日のような朝は、霧が薄れゆく地平を眺め、砦の平穏に安堵する瞬間でもある。
昨夜の宴の喧騒が、ガルムの耳にまだ残っている。攻めてきた魔王軍に勝利し、魔王討伐する為のパーティーの決起を祝う宴は、燻製肉の香りと麦酒の泡に満ち、蝋燭の灯りが砦を温かく照らしていた。名残惜しい気分で、ガルムは笑みを溢す。あの夜、勇者様や仲間の衛兵達の姿が、砦の民に希望を与えたのだ。
勇者、芹澤将太様は、見た目は華奢だが、ゴブリンの軍勢を一掃した実力者である。宴での彼の叫び──「テンプレ全開のクソ設定やめろ!」──は、言っている意味はいまいちわからなかったが、妙に人間臭く、ガルムには親しみ深かった。王女アイリーン殿下は、親しみやすく愛らしい魔法使い。従者に抱きつく姿は、まるで姉妹のようで、砦の者たちを和ませた。その従者のエルフは、尖った耳を恥ずかしそうに隠す仕草が魅力的で、彼女の癒しの魔法は衛兵達の信頼を集める。あのドワーフは、豪快な笑いとワインを飲み干す姿で宴を盛り上げ、岩のような頼もしさが心強い。ガルムは思う。
──このパーティーなら、魔王なんて簡単に討伐できるさ!
だが、地平線の彼方を見て、ガルムの視線が凍りつく。朝霧の向こう、薄灰色の空と大地の境に、黒い影が蠢いている。最初は遠くの獣の群れかと思ったが、影は不自然に広がり、まるで大地を這う墨の如く、ゆっくりと近づいてくる。ガルムの心臓が跳ね、目を凝らす。影の中から、歪んだ人型のシルエットが浮かび上がる。赤く光る目、ぎざぎざの牙、腐臭を帯びた風が、遠くからでも鼻をつく。ゴブリンだけでなくトロールにホブゴブリンも多数いる。そのホブゴブリンよりも大きな巨人に、黒い霧に包まれた騎兵──それは正に魔王の配下による軍勢だった。
不気味な唸り声が地を震わせ、金属の擦れる音が朝の静寂を切り裂く。軍勢の中心には、黒い霧が渦を巻き、まるで生き物のように脈打っている。ガルムの背筋に冷たい汗が流れる。
──あれは…ただの軍ではない……
死と混沌そのものだ。 恐怖が喉を締め付けるが、彼は見張り台の鐘に飛びつき、力の限り綱を引く。カンカンカンと甲高い鐘の音が砦に響き渡る。
「起きろ! 皆、起きろ!」
皆、昨夜の宴により泥のように眠っていた。魔王軍はまるでこの時を見計らっていたかのようだった。
「くそッ!」
ガルムは周囲を窺うと、城壁の上に人影を見つけた。勇者、芹澤将太様だ。朝焼けに照らされた彼の顔は、鋭くも冷静で、遠くの軍勢を睨みつけている。ガルムの胸に安堵が広がった。
──流石は勇者様! いち早く魔王軍の襲来を察知し、様子を窺っておられる!
将太の視線がガルムと交錯する。勇者様の唇が動き、風に乗って言葉が届く。
「おい! 領主に伝えろ! 急げ!あそこに──」
ガルムは頷き、見張り台の階段を駆け下りる。木の階段が軋み、足がもつれそうになるが、恐怖と使命感が彼を突き動かす。砦の石畳を踏み鳴らし、息を切らしながら領主の館へ向かう。衛兵達が寝ぼけ眼で飛び出し、住民が戸惑いながら門に集まる中、ガルムは全速力で走る。心臓が破裂しそうな痛み、肺が焼けるような息苦しさ。だが、止まるわけにはいかない。
走りながら、勇者様の言葉が頭を巡る。
「あの軍勢の中に魔王がいる」
ガルムの背筋が凍る。勇者様の声は確信に満ちていた。魔王が、ロリス砦に迫っている。
──なぜ今? なぜこの砦に?
恐怖と疑問が渦巻くが、ガルムは歯を食いしばり、領主様の館の扉を叩く。
だが安心だ。ここには勇者様がいる。我々の希望がいる。きっとまたこの前のゴブリンの軍勢のように魔王を倒してくださるだろう。




