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#89 顧問ではない

 華やかに飾られたロビーから扉をひとつ抜けるだけで途端に現実的な舞台裏に通じるのがホールというもの。


 白と灰色ばかりの長い廊下を走らされながら、未だに僕の手を引いたままの西野さんに無駄な抗議をしてみた。


「だけど……、さすがにリハもなくいきなりは無理だよ」

「そこをなんとかお願いします!」


「曲目だって……、知らないし」

「メジャーなものばかりですっ!」


「いや……、服もこれしかないし」


 完全休日の今日、舞台に出られるような服装なわけがない。ましてや定期演奏会の指揮者なら燕尾服でもいいくらいなのに。


「えっ……や、そのままで充分素敵ですっ」


 どさくさ紛れに褒められたようだがそういうことではない。観客は事情を知らない。こんな普段着の見知らぬおっさんがいきなり指揮台に登ればブーイングこそ起きずともざわつきは避けられない。


「あ、そんなら斉藤の着よるスーツ脱がせればええよ!」


 言うのは先程チケットを切ってくれた香川先輩と呼ばれていた女子だ。話の流れからなんとなく察しはつくが、その言い様は元男子吹奏楽部員の僕としては少々悲しいものだった。


 三月半ばの今、三年生はもう卒業生ということでこの演奏会には制服ではなくスーツを着てスタッフ及びゲスト奏者として参加するらしい。それで白羽の矢が立ったのは三年生で、アマ高の部員で唯一の『男子』だという斉藤くん。


 面識はないがその言われ様から彼がこれまでいかに部内でしいたげられてきたかが窺える。似た環境を経験した者として……同情する。まったく。男子吹奏楽部員がハーレムだなんてとんだ空想だ。


「──というわけやから、脱いで! 斉藤!」


「ああ……。わかった」

「ちょっとここで脱がんとってよ有り得ん! キモすぎ!」


 悲しいな。ミト中では男女半々だから見られなかったがこれぞ吹奏楽部リアルだとしみじみ思い出した。


 幸いサイズは良かった。斉藤くん、キミの協力を無駄にはしないよ。「初めて役に立ったやん」という褒め言葉に似た暴言を浴びせられる彼に「ありがとね」と同情の念を込めてその肩を叩いて何度か頷き合ったが戯れている暇はない。


 真新しいえんじ色のネクタイはさすがに若すぎるからと遠慮した。代わりに首元のボタンを二つばかり開ける。普段の僕らしくはないが『彼』らしくはあるだろう。急きょ『出番』となったことへの僕なりのタクトへの気遣いだ。


 渡された楽譜はポップスなどが七曲とコンクール曲。それから締めの一曲は。


「あ…………これだ」


 無意識にそんな声が出ていた。僕の目線はある曲目が書かれた一点から離れない。これだ。これしかない。なんで候補に挙げていなかったんだ。


 一瞬身体に電撃が走ったように錯覚したが逸れた思考をなんとか目前の定演へと戻す。


 今は目の前のことだけを考えよう。


 振ったことのあるコンクール曲が入っていたのは幸いだが他のものは曲こそわかるが細かい振り付けやソロ奏者などが全くわからない。頭を抱える僕に西野さんは申し訳なさそうに水色の紙に印刷されたプログラムを見せてきた。


「先生、あの、ここ……。一部と二部の間に、『顧問インタビュー』っていう名物コーナーがあって、その、伝統なので……」

「え!? いや……」


 伝統もなにも僕はこの学校の顧問ではない。


「アドリブでなんとかお答えいただけませんか」


 バカ言うなよ。何人の前で恥をかかせる気だ。


「う……とにかく、なんとかするから。学指揮、石川さんが振るのはどれ?」

「これです……。ああもう時間です響木先生ええええ」


 普段の雰囲気とまったく違う西野さんに戸惑いつつ「大丈夫だから。なんとかしよう」と励ました。本当に。ただ観に来ただけのはずがなぜこんなことになっているんだ。


 憂いている暇はない。とにかく半ばやけくそになりながら移動しようと立ち上がった。するとそこには当然だがこの状況にわたわたと混乱する部員たちの姿があった。


 その姿を見渡して、気がついた。


 ああ、そうだ。今僕がすべきことの最優先は譜読みや段取りの確認じゃない。


 それは吹奏楽部顧問の、いちばん大事な仕事だった。




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