#88 敬語禁止ではない
いよいよ閉校式が迫った三月あたま。ただでさえ練習時間がないというのに未だ曲目が決まらず本当は今日一日頭を悩ませたいくらいの焦りを抱えていた僕だが、日曜の今日だけはどうしても外せない約束があった。
寝癖を無理やり押さえ込んで身支度を整えると、下の階から話し声が聴こえる気がした。待たせてはなるまい。急いで階段を降りる。
「おはよう、ございます……」
「おはようございます。ワタルくん」
美咲先生……なのだがなんだ、なんとなくいつもと雰囲気が違う。正直、ああ、うん。綺麗だった。
「準備できた?」
「あ、はい。でもまだ早くないですか?」
時刻は朝の8時前。開場時刻は午後の2時半だ。朝のバスはまもなく出るが昼のバスでも充分間に合う。
「デートですから」
そう微笑むと、僕の手を取って歩き始める。天ぷら夫婦の目の前ということもありさすがに照れたが相手は構わず嬉しそうににっこりとした。
あれ。……そういえば。
「『敬語禁止』って、言わないんですか?」
会ってすぐに言われるだろうと覚悟していたのに。バス停でそう訊ねてみると相手は「ああ」と軽く応えてこちらを向いた。
「いいです、やっぱり」
「え……」
「その方がたくさん話せそうだし」
なんだ……。急に鼓動が激しくなった。
なにを話すつもりか、と内心身構えたが彼女が出す話題は部活のことや部員のことばかりで最近の話から昔話までいろいろとしてくれた。おかげで……まあ、会話はとても弾んだ。
「でも春から響木先生が抜けたら、吹奏楽部はどうなるんですかね……」
「まあ……存続を願うことしか出来ないです」
噂や予想はあるが不確定なことは話さないほうがいい。
無力だな、と改めて思う。その中で頼れる望みといえば。ちらと隣に座る彼女を見た。
「……美咲先生、合併後も吹奏楽部を支えてください」
「……え」
「本当は顧問になってほしいところなんですけどね」
思いつきで言っている訳ではない。実際適任と思うし、以前は本人もそれを望んでいたはずだ。
もちろんそれは個人が希望したところで簡単に通るものではない。それなら今同様のボランティアで構わないから、この人にだけは居てほしい。
「あなたしかいません。お願いします」
頭を下げたが、相手がふいとそっぽを向くのを感じた。
「いやですっ! そんなのダメですよ」
「え、なんでですか」
教員に戻れ、とまでは言わないから。
「『あなたしかいない』、そのままお返ししますっ!」
ハッとして口をつぐむ。泣かすつもりはなかったんだけどな。
その後美咲先生は窓の外を眺めて黙ってしまった。気まずさを感じはじめたところでバスは駅へとのっそり到着する。
ため息のような停車音に合わせて美咲先生は窓から目線をはずして俯き、どういうわけか少し微笑んだ。
「……今日は現実逃避デートだったね。ごめんなさい」
こういう意外に素直な一面とかはなかなかまともに効くから正直参る。
バスを降りると次は電車だ。五駅進むと会場の最寄り駅に着く。座席に並んで緑溢れる車窓を眺めた。
「曲目、なんでしょうね?」
「あ、それはまだ…………ん?」
しまった。たぶんちがう話だ。無言でぼーっとしていたからつい閉校式の曲目を考えていた。美咲先生が言うのは……定期演奏会のほうの話か。
「すみません、閉校式の曲目のこと考えてて」
「校歌じゃないの?」
「そうですけど、それだけじゃダメかな、と」
ふむ、まあたしかにね? と腕を組む。相談に乗ってくれるのか。
「それならなおさら。今日の定演でなにかヒントがあるかもしれませんよ」
「ああ……たしかに」
けれど高校生の定期演奏会で中学の閉校式に相応しい曲があるだろうか。まあ美咲先生も「ヒント」と言っただけで丸パクリできるとは言っていないが。
そうこうするうちに目的の駅に着いていた。
改札を出るとまだかなり時間があったので近くの喫茶店に入ることにした。途端にデートっぽくなって落ち着かない。いや、はじめからデートなんだが。
「わっ、ケーキ美味しそう。頼んでもいいですか?」
そんな僕をよそにこの人はウキウキと楽しそうだ。
「……どうぞ」
向かいの席で幸せそうにケーキメニューを眺める美咲先生を見ていると、ふいに目が合う。すると相手はにっこりと笑った。
お……。心臓が跳ねたのはばれてないといいのだが。
「ワタルくんは甘い物好き?」
「まあ……好きですよ」
「タクトくんは嫌いそうだよね」
「ああ……そうですね。嫌いってほどではないですけど」
自分でも不思議だが食の好みは結構変わる。タバコがいい例だ。
「ならワタルくんも一緒に頼みましょう。どれにします?」
「え……と。じゃあコレで」
とくにこだわりはないから最初に目に付いたチョコのケーキを指す。するとなぜか目の前の女性が「ええーっ!」と高い声を上げるから周りを気にして慌てた。
「な、なんですか」
「私もそれがよかったの!」
なるほど。被ったらしい。
「じゃあ2個頼めば……」
「いやいや。同じじゃ味見出来ないじゃないですか、二人で頼む意味、わかりますよね?」
『二人で頼む意味』よりも『どうして責められるのか』がわからない。
「なら違うのでいいですよ」
仕方なくそう言うと「じゃあ第二希望はどれですか? ちなみに私は」と先回りしてくる。この人は。見た目は綺麗系なのに中身はかなり子どもっぽいというか。ああだから生徒たちから人気だったのかもな。
「なんでもいいです。美咲先生が食べたいの2個頼んでください」
すると「ええー? それはなんかヤダ」とまた面倒くさい。いいんだよ、こっちの第二希望もあんたと同じだったんだから。
「すみません」
ブツクサ言う彼女を無視して店員を呼んだ。このまま彼女と面倒なやりとりを続けていたらロクなことにならない気がして。
なかば投げやりになりながら強引に注文を終えた。
「本当にそれでよかったの?」
「いいんだってば」
到着したケーキは仲良く半分ずつ分けた。こんなラブラブカップルみたいなことを外で堂々とやっていいものかわからないがまあこの際恥は忘れよう。
ああ、そうだな。楽しい、そう思う。
中途半端な時間にケーキを食べてしまって腹がすかず、賑やかしにとささやかなブーケを近くの花屋で買ってそのまま会場へ向かうことにした。駅前のバス停から直通バスに乗って約20分。そこは夏にコンクールが行われたあの会場と同じところだ。
『県立総合文化会館』
僕が文化祭での利用を断念した小ホールではなく、なんとコンクールと同じ大ホール。さすがは何年も吹奏楽部が続く高校。羨ましい限りだ。
ホール付近には定期演奏会と題された大きな立て看板があり、すでに大勢の人で賑わっていた。高校生が多いらしく客層は若めだ。かと思えば家族連れや年配の人の姿もちらほらある。入口にできた行列の最後尾に揃ってならんだ。
「変装して来なくてよかったですかね」
今更なんの心配をしているんだこの人は。
「べつに僕と美咲先生が二人でいても誰も変だと思いませんよ。アマ高にはこの一年本当にお世話になったんでミト中として二人で来ても違和感はなにもないです」
順番が回ってきてチケットを出す。制服ではなく真新しいスーツに身を包んだ三年生らしい知らない生徒だったが、相手はなぜか僕を知っているようだった。
「あ……響木先生、ですよね!?」
僕はいつから有名人になっていたのか。
うしろがつかえて気になったので「どうも」と会釈だけして進もうとしたが「ちょっと待っててください!」と引き止められてしまった。
「松阪先生呼んで来ますっ!」
興奮した様子の女子生徒に向かって慌てて「いい、いい」と手を挙げたが「ダメですよっ」と叱られた。と、その時遠くから慌てた涙声が聴こえてきた。
「あああ、香川せんぱあーい!」
ん。この声は。こちらに駆け寄る制服姿の女子生徒はあの西野さんで間違いなかった。間違いないはずなんだが、その様子が明らかにおかしい。っていうか、泣いてる?
「ひぇあ!? う、うわあ、響木先生じゃないですか!? ひぃえー!? なんで!? だっだっ誰が連絡したの!? ああああ、いいや、なんでもいい! あの、来てくださいとにかくっ!」
強引に手を引かれてさすがに慌てた。ブーケを持ったままの美咲先生もキョトンとしている。というかむしろ一歩下がって無関係を装ってないか!?
「ちょ、どういうこと!?」
訊ねると西野さんは驚くべき事実を叫ぶように話した。
「松阪先生がっ、産気づいて病院に行っちゃったんですうっ!」
勘弁してくれ。




