幕間 指導する相手ではない
「なーに感傷に浸ってんですか」
音楽準備室の入口から聞こえた声に驚いて振り向く。薄暗いからその姿がよく見えず一瞬視線を彷徨わせた。
「ここです」
聞き慣れた低音の声。ひら、と手の影が見えた。いつの間にこんなに暗くなっていたのか。
「ああ、おつかれさまです、中村先生」
しかしまた意外な人が来たものだ。
「どうしたんですか、こんなところに来るなんて」
「いや、その……」
ん。なんだろう。
妙に歯切れが悪いようだが相手の表情が見えないため用件が測れない。
「……響木先生、飲み、どうです。これから」
「え?」
耳を疑った、などと言っては悪いが。
「まあ例の喫茶店になりますけど」
パチン、と音がして少しの間ののちに部屋が白く照らされた。思わず目を細めるが入口に寄りかかるようにいつものやる気ない中村先生が立っているのがわかった。
「相談したいことがありまして」
まさか。
特別指導は終わったはずだが。
「僕に、ですか?」
「そう。あんたや」
苛立たせてしまったか、先生らしい敬語がなくなりいつものやさぐれた中年男性の風情になるから首をひねりつつも内心で苦笑した。
「ハイボールを」
「あ、僕はウーロン茶で」
美咲先生と違って「ああそやったな」とあっさり注文を通してくれた。よかった。
「……で、どうしたんですか、一体」
訊ねるけど「まあまあ」となだめられて「まずは腹ごしらえじゃ」と中村先生はナポリタンを注文した。またハイボールとナポリタンの組み合わせか。この土地の文化なのか?
「あんたは」と訊ねられて、ならばと僕もナポリタンを頼んだ。
「久原の件な」
ポツリと言うからドキリとした。
「あんたなんか言うたやろ」
口笛でも吹いて誤魔化そうか。むりか。
「決めたのは久原くんですよ」
「現在しか見えとらんガキが決めたんでは最善を逃す場合が多い」
中村先生の言う意味はわかる。けど。
「『最善』は、人それぞれなんじゃないでしょうか」
中村先生は答えずに横目に僕を見てから届いたばかりのハイボールをあおった。
「……なあ」
今度は僕が中村先生を横目に見る。カウンター席にしたのは正解だったか不正解だったか。
「あんたあいつをどやって手なずけよん? なんかタネがあるんか」
「……は?」
一体なにを訊ねられたのか。逡巡するも答えは出なかった。
「久原や。あの暴れ馬を、あんたは出会ってすぐから簡単に手なずけて操縦しよる。それが俺には不思議でならん」
僕の前で手付かずになっているウーロン茶のグラスは早くもびしょ濡れだった。つい流れでアイスウーロン茶を頼んでしまったが今は真冬。こんなもの見るだけで震える。
「手なずけてなんかないです。僕なんか完全に舐められてますから」
「つまり指揮者のほう、ちことか」
「ん……」
勘がいいな。ちなみに僕の特徴のことはもう校内だけでなく外にも広く知れ渡っている。
「タイプが合っただけだと思います」
「タイプ……か」
んん、と中村先生が唸ったところでナポリタンが到着した。
「うまそう」
「はじめて?」
「え……はい」
そういえば前回は美咲先生がひとりで食べていただけだった。
「うまいで。ここのマスターが昔、東京で覚えてきたいう秘伝のレシピやとかで」
「それはまたすごい……」
真実かどうか怪しそう、とは言わないが。
「ん。うまい」
「んじゃろうー」
味はたしかなようだ。
食べて一層相手の訛りが強くなった気がした。せっかくだし身の上話でも聞いてみよう。
「中村先生は生まれも育ちもこの辺なんですか」
「あーまあ近くよな。生まれは天原のほうで」
「え。じゃあアマ中の卒業生なんですか?」
「まーな」
なんと高校もアマ高らしい。意外なところに卒業生がいたものだ。
「なら……卒業生として今回の合併は。ていうか僕ら吹奏楽部の活動は」
実際どう思われていたんだろう。
「べつに。なんも思わん」
「え……」
「合併の話は前から出よったし、時代やな、ち思うだけじゃ。んで吹奏楽部は、まあ……」
言葉を濁されてつい眉間に力が入る。中村先生は「こわい顔しなや」と笑う。こわい? そんなこと初めて言われた。
「次の音楽教師の話が出たんや」
思わぬ話題に僕のフォークがぴたりと止まる。下手に巻きつけていた麺がほどけてぼとぼとと皿に戻った。
「産休育休明けすぐの、音大卒の女性の先生」
中村先生の顔を見つめ続けることしかできなかった。瞬きさえできていたかわからない。
アマ中にはもともと音楽教師はいない。今までは他所と掛け持ちの非常勤の先生がやっていたらしいがそれも今年度までだという。つまり来年度からの中学の音楽教師はその育休明けの若い先生だけということだ。
「……響木先生、この意味わかるか?」
産休育休が明けてすぐ、となれば家に小さいお子さんがいるお母さん、ということ。つまり放課後や休日に部活なんかに時間を割くことはむずかしいと予想ができる。
「顧問が……不在に」
言葉にしたら実感がぞわりと背中を冷やした。
「で、でもまあ、形だけでも名前を貸していただけたら部活はできますし」
「そんな適当でええと思うか」
思うわけがない。
「そもそも先生本人が『部活顧問はぜったいに無理です』ちて言うとるらしい」
ああ……そうなのか。
「ほかに吹奏楽経験者の先生は」
「おったらとっくに協力させとるやろ、あんたなら」
それはそうだ。
がっくりと項垂れた。ナポリタンのオレンジ色に僕の影が重なる。
美咲先生さえいてくれれば、と思うがこの願いは今からではどうやっても叶わない。だって『音楽教師』の枠は既に埋まっているから。そしてこれまでも散々語ったことだが部活顧問は職業じゃない。職務ではなく有志なんだ。
なんで僕じゃだめなんだ。
やりたい人間がいて、やれる状況にあっても、職務の都合でやらせてもらえない。なんてもどかしく、馬鹿らしい話だ。
ちら、と中村先生を見るとすでにナポリタンの皿はからだった。ハイボールの入っていたこれまたからのジョッキを僅かに挙げておかわりを注文している。
「強いんですね」
「ああ……そいやあんたは、……大変じゃろな、いろいろと。そんな体質じゃあ」
「え」
まさか労ってもらうとは思わなかった。
「ひと口でもあかんわけ?」
「まあ……そうですね」
「んで即寝落ち?」
「だいたいは」
「ほでも酒の席で美咲先生を吹部に引き入れた、ち聞いたけど」
ああ。そんなこともあったな。
「まあ……がんばれば1時間くらいは起きてられます」
「その時っちうのは」
「指揮者の人格、ですね」
人格、などと言うのはあまり好きではないのだが。中村先生にとってはわかりやすいだろうと思いあえて使った。
「……でもま、嫌やわな」
ははん、と哀愁満点に笑うからなるほど。どうしてこの先輩が僕のそんな話題をしつこめに掘ったのかわかってしまった。それならば、と、つい。
「……指揮者のほうに用があるんですか」
ならこうしたほうが早いです、と自ら指揮棒ケースを取り出していた。煮え切らない中村先生に内心で苛立っていたのもある。べつに構わないが、最近はこんなふうにタクトのほうから出たがるんだ。
「それ……で?」
「ああ、はい。持つだけで変わるので」
「え」と目を丸くされる反応にはもう慣れた。
思えばタクトで中村先生と話すのは初めてだ。
さて。どうなるか。
「……ふーーー。煮え切りませんねえ」
「えっ、と、えっ……?」
「あー、ぜんぜん、いつも通りに接してもらったんで大丈夫です。記憶も知識も共通なんで」
脚がダルいから組ませてもらう。先輩の前っつっても酒の席ならいいだろう。
「……う、すげえ、っすね」
「は、敬語やめてください」
ひら、と手を振って顔を伏せた。まずい、笑いがこらえられない。
「んんと……」
気まずそうにされても困る。あんたが望んだんだろーが。ああそうだ。せっかくだから言っておきたいことがあった。
「あー、あの。蒸し返して悪いんすけど。久原のことはもうほっといてやってください。あいつはあれでも自分の未来をちゃんと見てる人間だし、危なっかしいとこはあるけど人の道踏み外したりもないと俺は思ってます。例の名門私立を蹴ったのは正直アホすぎだけど、アマ高からでも実力次第ではいくらでもレベルの高い大学へ行ける。なによりアマ高に行くことがあいつのモチベになるんならそれこそ『最善』だと俺は判断します」
おい、固まるなよ。もしもーし。
ふいに、ば、と指揮棒を奪われてしまった。勘弁してくれと思うがなんだか懐かしい。大学時代によく先輩にやられたような。そうそう、こんな青ざめた顔でねぇ。
「強烈すぎじゃわ、あんた……」
「う、すみません。でもまだ肝心の話ができてないんじゃないですか」
こわごわ問うと中村先生は「んん」と苦しげに呻いて渋々指揮棒を返してくれた。
「中村先生は俺にどうしてほしーんです?」
「どう、いうか……」
「はっきり言ってほしーんじゃないんすか」
「それは……んん」
煮え切らないにも程がある。先輩じゃなかったらもうさっさと帰るところだ。
数秒待つけどやはり言葉は出てこなかった。そんならこっちから言わせてもらいます。
「自信がないのなら努力でもして自力で自信つければいいでしょう。それをせず、俺にアドバイスや保証をもらおうなんてのはお門違いです。まず俺とあんたはちがう人間なんだから。俺のやり方をあんたがやることはできない。相応しいかどうか? そんなの俺やあんたが決めることじゃない。生徒たちが、部員たちが決めることです」
まだなんも言ってないだろって? 状況からしてわかるよ。つかこんなのバカでもわかるだろ。
今日の『相談』。中村先生は、自分が来年度からの吹奏楽部顧問をすべきかどうかを俺に問いたかったんだ。じつにくだらない。そんなのこの場で話してどうなることでもないのに。
怒りに任せて雑に指揮棒ケースを手にすると、……ん。ぴたりと動けなくなった。
ははん、なるほど? 戻りたくない、と。ったく。この場で逃げてもどうせ明日には職員室で顔合わすんだろーが。
「……どうしました、響木先生?」
「ああ……なんつーか。珍しいんですけどね、ワタルが、ああ、『あっち』が戻るのを拒んでて」
「え」
「はは」
……おい。戻るぞ。
半ば強引に指揮棒をケースに押し込んだ。
……う、あああああああっ!
「すっ、すすす、すみませんっ! 言い過ぎです、その、言い過ぎました。ほんと、あの、えっとその! な、中村先生、き、気を、気を悪くしないで」
ください、が涙声になった。本当に勘弁してほしい。
しかし中村先生はそれほど怒っている様子でもなくキョトンとした顔でこちらを見ているだけだった。
やがて「ふっ」と笑むと、「なるほどな。たしかにこれはおもろい」と肩を揺らして二杯目のハイボールを飲み干した。
「…………決めつけて発言したこと、謝ります」
なんで僕が尻拭いをさせられているんだ、と思うがあれもこれも僕なんだ。
中村先生は「いやぁ、ご名答や」とまた笑う。
「たしかにあんたに委ねよったとこはあったもんな。向いとると言われりゃやる気になったやろし、無理やと言われりゃやらんかったかもしれん」
そうしたくなる気持ちも、わかる。抜擢されたわけでもないのにしゃしゃり出てもいいのか、という迷いがあるんだ。しかも彼は音楽の知識はおそらく皆無。
しかし不安がる生徒たちを放置したままで平気でもないんだよな。この先生は。
「僕は」
あえて言わなかったが、タクトも気持ちは同じだ。
「中村先生が顧問を引き継いでくれたら、嬉しいですよ」
梅吉の世代。さく坊の世代。そしてまだ見ぬ、さらにずっとあとの世代まで。僕らの吹奏楽部が消えずに続いていくことを、僕は切に願うから。
この人になら任せてもいい、と。そう思える。
「けど俺は音楽ちうんは全然で」
「もちろん勉強は必要です。でも、知ろうとして向き合えば、必ず身につく。それが音楽です。生徒たちの成長を間近で見てきた中村先生ならわかるでしょう」
たったの一年であそこまでやれるようになる。その証明が目の前にあるじゃないですか。
「わからないことは新しい音楽の先生に聞けばいいし、美咲先生だっています。梅吉たちだってきっと力になってくれます」
言いながら目が潤んでしまう。やり切れない。けど、僕はもう関われない。
中村先生は黙ったままどこか遠くを眺めていて、やがてポツリとつぶやいた。
「まあ……考えとく」
ちなみにこのあと「飲み直しや」と連れて来られた天ぷら〈たちばな〉で結局酒を飲まされてしまった僕は、大将と中村先生を相手に30分ちかくも部活顧問論を熱弁してからことんと電池切れになり二階の自室に運び込まれたそうだ。いやあ、面目ない。
「あいつらのこと頼みますよ。中村先生」
小声でそんな寝言を、タクトのままで言った気がした。
〈幕間 終〉




