#82 得意ではない
「また二人きりでお話したかったんです」
「え……」
なんとなく今更わかったこと。僕はこの生徒のことが苦手かもしれない。
銀ピカのフルートを携えた『黒毛のアン』は不敵な笑みを浮かべながら僕を見下ろしていた。
「え……と、芹奈さん?」
どうぞ座って、と言ったはずだが。
「美咲先生とのこと、詳しく聞かせてください」
「ええっ?」
ようやく僕の向かいの椅子に腰を下ろすと、今度は期待のこもった目で見上げてきた。
「いつからですか」
「どっちから」
「キスは?」
「デートは?」
「結婚は?」
「……ちょ」
ちょっと待て。なるほどそうか、どうやらこの生徒は、『恋バナ』というやつをしに来たようだ。
「普段『美咲』って呼んでるんですか?」
なぜ訊ねた本人が頬を赤くする。
「……知ってどうするの、そんなこと」
女子の『恋バナ』というものに僕が慣れているはずがない。すっかり気後れする僕に構わずピンク色の恋バナは続く。
「お正月に神社で会った時、かっこよかったです、ヒビノ先生。あの時って指揮棒持ってなかったですよね?」
「ああ、うん。……まあ」
「あの時は父と母が失礼しました。あとで私、怒ったんです」
失礼、というほどではないが肝を冷やしたのは確かだ。
「でもヒビノ先生が美咲先生のこと守ってくれてたから、ああ、美咲ちゃんももう大丈夫なんだな、って。……あ、すみません」
つい普段の呼び名が滑り出たらしい。
「美咲先生って人は一見強そうですけど、本当は繊細で、壊れやすくて、傷つきやすくて、か弱い、守られるべき人なんです。あの人の笑顔が私は大好き。もう誰にも泣かされてほしくない。だからヒビノ先生……」
この二人の絆は、周りが思うよりもずっと尊いものなんだ。彼女の話しぶりからそれが伝わった。
「美咲ちゃんのこと泣かしたら許さんからね」
「……えっ」
突然飛び出した訛り混じりの脅迫にドキリとした。ギラリと光らせた目を細めてにっこりと笑うからこちらは硬く笑い返す。
「……大丈夫だよ。大丈夫だから」
「信じてますからね」
これは裏切ったら高確率で刺されそうだ。
「じゃ、『タクト』さんになってください」
……!?
「えっ、え!? なんで」
さすがに驚いた。なぜ芹奈さんがその名を知っているんだ。まさか。……いや、それ以外の可能性は考え難い。
「ふふ。実はぜえーんぶ知ってます。『コンクール当日の夜の件』も『その翌日のデートの件』も、それから『初詣の件』も」
目を見開いて固まったあとゆっくりと視線を外してこめかみを押さえた。ああ……。女性という生き物はなんて恐ろしいんだ。なぜそんなことを人に話すんだ。それもいくら絆が尊かろうが相手はまだ中三だぞ!?
芹奈さんがこの半年間僕のことを『そういうふう』に見ていたのかと思うと盛大に憤った。ああ……。もういいが。
「……はい。じゃあ演奏指導させてもらうよ」
言いながら僕がゆるりと立ち上がると指揮棒をにっこり差し出されてまたたじろいだ。
「どうぞ。『タクト』さん」
「先生からかうのやめてね」
やりづらいことこの上なし。この際『タクト』になって乗り切ろうとさっさとそれを手に取った。
「芹奈は指導するまでもないから、二、三回通したらもう終わる」
「うっきゃあ! ヤバ! 美咲ちゃんの気持ちわかります。いきなりの呼び捨てとか突き放す感じとかギャップ萌え! たまんないですよこんなの!」
ああ……。
やりづらいことこの上なし。
「はい、おつかれさまでした。どうもありがとう」
絶対僕の方が疲弊したと思う。
さて……。
次の人、いってみようか。




