#81 傑作かもしれない
「ヒビノ先生、最高傑作ができましたっ!」
「ええ?」
小柄でメガネの『作家少女』はまず楽器ではなくノートを片手に音楽準備室に飛び込んできた。
「見て! 見てくださいこれっ!」
例によってメガネを曇らせながらノートを僕の前の机に叩き置く。
「……見てもいいの?」
開くのにはそれなりに勇気が要る。彼女は頬を赤くしたまま僕の目を見つめ「はい……!」と少し緊張したふうに答えた。
恐る恐る、表紙をめくる。見えたのはあの日見たのと同じだが幾らか装飾が増えて色も綺麗に塗られたあの文字だった。
『市立美音中学校、全校生徒で吹奏楽部!』
文字の周りには前に見た時にはなかった楽器の絵があった。……おお、これは。かなり正確でなにより上手い。
さらにページをめくる。
「う。……ははは」
悪いとは思いつつ笑いを堪えることは出来なかった。
似ているかはともかく、これはなかなかの力作だと伝わった。面白さは……、まあ当事者として話の大筋が見えているのでなんとも言えないが、絵はとにかく細かくリアルで楽しめた。
「……すごいね、咲良さん。すごく本格的で、絵、ほんと上手い」
素人とは思えない技法の溢れた絵だ。かなり研究や勉強をしてきたんだろうとわかる。
「遊びでやってるわけじゃないので」
「う、なるほど……」
本気だということらしい。迂闊に褒めると怒られてしまうのか。難しいな。
「それでこの続きは」
話はまだまだ序盤でコンクールどころかやっと全校生徒が揃ったあたりまでだった。
「まだこれからです。それで続きを描くために……、ヒビノ先生に許しを得たいのです」
「許し?」
描くことに関しては春の面談の時にすでに許可したはずだが。
「……コンクールの結果を、現実のものと変えてしまっても、いいでしょうか」
あ……、なるほど。
「つまり、どこまで行けたことにしたいの?」
だいたいの予想はつくが。
「……全国大会、金賞」
やっぱりそうか。
本当は即答してあげたかったがなかなか言葉が出なかった。これは架空の物語としてこの戸田 咲良さんが描いているただの趣味の漫画だ。公になるものでもないし登場人物も仮名。おそらく咲良さん本人も漫画としての型や盛り上がりを考えてその結論を出したことはよくわかる。
でも────。
「咲良さんは、それでいい?」
ずるい質問と言われればその通りだ。だけどそこの線引きは明確にしたかった。
戸田 咲良はミト中吹奏楽部の一員として、ここまでの歩みをどう捉えているのか。漫画を『作品』として仕上げることは偉大だ。僕には出来ない。だけどそのストーリーに『素』となる『現実』が存在する以上、それを変えるという行為は慎重に行わなければならないはずだ。
僕の質問を受けてこの才能溢れる少女は机の上の自分の作品を見つめたまま真剣な顔で考え込んでしまった。
「……ごめん。作品に口出しするつもりはないんだ、だけど」
黙り込む咲良さんに向かって僕はまっすぐ言った。
「コンクールでいい成績が出せなかったことは、ミト中吹奏楽部にとってなくしちゃいけないことだと僕は思うんだ」
咲良さんは俯いていた顔を上げて僕を見つめた。曇りの取れたメガネの奥にあるのは、潤みのある澄んだ瞳だった。
「たしかに僕たちはコンクールを目標としてがむしゃらに頑張ってきた。思うような結果が出なくて落ち込んだ……だけど」
目の前のひとりの『部員』は、いつの間にか鼻を赤くしてその目に涙を震わせていた。
「コンクールのあの結果があったから、あの文化祭ができた。そして『今』の僕たちがある、そう思うんだ」
すべてを現実の通りに描いてほしいというわけではない。ただ、あのコンクールの結果だけは変えてはいけないように思った。そこを変えたらたぶんそれは、美音原中学吹奏楽部ではなくなる。
「すんなりうまくはいかないから、なんでも面白いんだと思わない?」
微笑んで問いかけると、「その通りでずうううぐぐぐ……」とわんわん泣かれてたじろいだ。
そもそも楽器を持ってきていないので指導もなにもする術はなかった。
「やっぱりヒビノ先生って凄いですっ!」
さっきまで大泣きしていたはずの咲良さんは例のノートを片手に出入口の前で振り返ると輝く笑顔を見せてそう言った。
完成版を、読ませてもらえる日はくるのだろうか。こわいもの見たさ、というか。はは。
では次の人、いってみようか。




