#78 ほかの道なんかない
こうなればこの人に報告しないわけにはいかない。既に「普通いちばんに言うよね?」「昨日のうちになんで言わなかったわけ?」と腕組みの姿勢で唾と文句を連射されている。
休日の今日、美咲先生を例の喫茶店に呼び出していた。
「……それで? 受けるんですか」
「まあ」
答えるとまた不満げに見られて困った。
「ほかに道なんてないですよ」
「待つんですか? 空きが出るのを」
「まあ」
「いつまでも?」
「んん」
「我慢して?」
ならどうしろと言うんだ。
すると美咲先生ははあ、とため息をついて雪の残る窓の外を眺めてから「私だったら辞めるわ」とあっさり言ってのけた。
「よその地方でも、高校でもなんでも。部活顧問のできる道はほかにだってあるでしょう? この市にこだわる理由なんかあるんですか? 響木先生ほどの人ならほかの学校でだって充分通用しますよ?」
「買いかぶりすぎです」
いつからこんなに褒めてくれるようになったんだろうか。かえって居心地がわるい。
「空きを待つことになるのはどこへ行っても同じことです」
「だからってここに留まる必要なんかある?」
あえて言わないが収入面などでなら留まる意味はある。よそへ行こうと退職したならば一時的でも無職になるということだ。その間の生活はどうなる? 教頭が言いたいのはたぶんそういうことだ。
攻めるか守るか。難しいところではあるが。
「すぐにでも部活顧問をやらせてくれるってツテでもあるんなら話は早いんですけどね」
人生なかなかそううまくもいかない。実際僕がミト中で部活顧問をするまでに五年もの月日がかかったんだ。これがまた五年後かまさかそれ以上かと思うとかなりキツいが。
美咲先生は状況を理解したのかまた大きく息をついてカップに口をつけた。相変わらずこういった優雅な仕草はとても絵になる人だ。黙ってさえいれば。
「みんな、怒るでしょうね」
「今朝さっそく乗り込んできましたよ。梅吉が」
さすがの美咲先生も「うそ」と驚きの表情を見せた。「どこから漏れたの?」
「……さあ」
「あーーー。嫌です。こんな、誰も得しない異動だなんて。せめて響木先生のことすごく必要としてくれてる学校からのオファーとかなら納得もいくのに」
「だから買いかぶりすぎですって」
冷め始めたコーヒーをやたらと苦く感じる。ただの教師にそんなオファーがあるはずない。まして実績のひとつもないのに。
「仕方ないですよ。美咲先生だって同業だったんだからわかるでしょう。僕らは部活顧問である以前に教師なんですから。上に従うしかない。教委に行けと言われたら、行くしかないんです」
「つまらん大人」
う。あえて言うなよ。
「梅吉にも言われました。『しょーもない』って」
美咲先生は黙ってまたカップを手にした。結局のところやはり僕には《命令に従う》以外の選択肢はないんだ。
すると美咲先生はカップをテーブルに戻しながら「そういうどうにもならない時にはさ……」とカバンを探り始めた。
ん。なにが出てくる?
「現実逃避、なんてどうですか?」
「え……?」
「これで私とデートしてください。ワタルくん」
その手元を見て驚いた。
水色の色画用を細長く切った手作り感のあるチケット。印刷された文字にはこうある。
『第◯回 天原第一高校吹奏楽部 定期演奏会 前売券』
「……なんでこんなものが!?」
「ふふん。欲しいでしょ? これ」
これは、欲しい。かなり欲しい。
「欲しかったら言うこと聞いて」
「えっ」
伸ばしかけた手をとめた。
「敬語はなるべくやめること。名前で、『美咲』って呼ぶこと。あとはリクエストしたら『タクトくん』に」「いやどれも無理ですよ」
「なんでよ」
「無茶言わないでください」
すると相手は「ちぇー」と悔しがってから「ふふ」と笑った。そして「まあいいわ」とあっさりチケットの一枚を渡してくれた。
代金を支払おうと財布を出すと「いいよ」と断られた。いや、だからバイト暮らしの人におごらせるわけには。というか僕にも少しは格好をつけさせてほしいのだが。
ほんとうに受け取るつもりがないらしい美咲先生は「生徒たちのケアならさ」とまた意外な話題を出してきた。
「『特別指導』なんてどうですか? 希望者を募って『一日ひとり一時間』。今からやれば全員が希望したとしても年度中に見てあげられるでしょ」
絶対に喜ばれるし、必要なことと思うんです。生徒たちのために、あなたにできることはまだまだあるはずです。
そうだよな。『その日』はすぐそこに迫っている。悲観している暇なんかないんだ。
それは翌、練習日のこと。
「えっ……、ヒビノがおらんなる!?」
部活後の自主練を順に回っていると教室からそんな声が聴こえて足をとめた。声から察するにこれはアマ中の笠井くんだ。新学期になってからもこうしてたまに部活時間に顔を出してくれていた。
「ああ、笠井知らんかったんか。ヒビノは春で異動なんじゃ」
言うのはナンプ。いつの間にかアマ中のメンツともずいぶん仲良くなったようだ。
「けどそしたら、合併後の部活はどうなるんや?」
「……わからん」
「わからんって……。そもそもヒビノの話はなんとかならんのか!? あいつがおらんやったら部活続けるんは無理じゃろ!」
んん……。聞いているのが辛くなり再び歩きだそうとしたところで、梅吉の声がした。
「いや、無理ちゃう。俺らはちゃんと『やり方』を知っとる」
その声は、僕に喚き散らしていたあの日とはもう違う色をしていた。
そこに怒りはなく、しっかりとした覚悟があった。
「ヒビノのやってきたことをそっくり真似すんのは無理かもしれん。けど、俺たちはもう『知らん』わけやない。未熟やけど後輩に教える『技術』やって少しはある。だから。……吹奏楽部は、絶対続ける!」
ちょっと、こらえ切れなかった。
「…………く、……はあ、ぐすん」
立てなくなって廊下の隅にしゃがみ込んだ。声を出さないように、と極力努めたが鼻水が凄くて無理だった。案の定教室のドアから三名の頭がひょっこりとこちらを覗く。
「う。ヒビノ……なに泣きよん」
「……はあ、なんて立派なこと言ってんの、梅吉」
なんというか、爆笑されてしまった。
「……はあ。不意打ちだよ、まったく」
僕はよろりと立ち上がって教室に入るとグスン、と手の甲で鼻水を拭いながらそう文句を言った。
「でも、……ありがとう」
そして少し笑って三人の顔を順に見て、「梅吉」とキウイ頭に呼びかけた。
「指揮と……ラッパも。ちゃんと教える。僕のできることを、残りの時間で全部やる」
嬉しすぎると人間は、いや、とくにこの生徒はうまく反応できなくなるんだ。
「これから次の本番『閉校式』の演奏の練習を始めるまでの期間、基礎練に加えて僕の『特別指導』を希望者全員にやりたいと思うんだ」
部活前の部員たちの前で僕はそう話した。
「スケジュールを組むので希望者は今日の部活後に僕のところに来てください」
うはは。全員が来たのは言うまでもない。しかも伝えていないはずの、いやそれより受験真っ只中のはずの三年生や久しぶりの咲良さんまで希望者となって現れたので「ちょ、慌てないで」とこちらが慌てた。
そんなわけで、全部員42名。プラス、アマ中不良組の笠井くん他3名、合わせて46名。
一月下旬から開始した僕の『特別指導』は『一日ひとり一時間』という決まりのもと46名、たまに一日ふたりをこなしつつ、結局三月までくい込んで連日行うこととなった。




