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#76 予想はしていない

 こうして冬休みはまたたく間に過ぎて新学期が始まった。三学期。閉校式の日が徐々に見えてきた一月下旬のある冷えた日だった。


「響木先生」


 職員室には誰もいないと思っていたから驚いた。振り返ると見慣れたタヌキおやじがそこにいた。


「ちょっと話、ええですか」


 ずいぶん久しぶりに呼び出しを受けた。



 バーコードを眺めながら部屋の隅に移動すると「まあ座ってください」と柔和な表情で言われこちらは顔を強ばらせる。


 向かい合って腰を降ろし、久しぶりに見つめ合った。これまでこの相手と何度こうしてきたことか。


「いやぁ、なんべんでも言わしてもらいますが、あの文化祭はほんまに感動しましたわ。広報の方も反響がすごかったですからねぇ」


「……はあ、ありがとうございます」


 本当になんべんも聞いたセリフだ。


「閉校式の演奏も楽しみにしとりますんで。また新聞社と今回はテレビ取材も来るらしいですぅ。いや凄いですね、ほんま。全部響木先生の功績ちうかね」


「いや、よしてください。僕じゃなくて生徒たちの実力ですよ」


 これが本題ではない、ということはわかっていた。しかしだとすればなにが本題なのか。まったく予想はつかなかった。


「ほれでね、響木先生……」


 タヌキ……もとい、教頭は椅子に浅めに座り直して再びこちらを向いた。来る。


「閉校式のその後の……来年度のことなんですけど」

「え……」


 内容を聞くより先に鼓動が速くなるのを感じた。まさか。でもそんなのって。


「異動の話がありまして。響木先生の」


「は……?」

 さすがに驚いた。


「ええ。私も驚きましたわ。ほれでその、行き先なんやけども。……市の教育委員会の方に、行ってもらえんやろか、ちう話でね」


 笑うでもなく、同情の表情を見せるでもなく、教頭は淡々とそう述べた。


 その口元を見つめたまま、僕は動けなくなってしまった。


 教育委員会……。予想だにしない言葉だった。そこには部活どころか、生徒すらもいない。つまり創部の機会すらもないということだ。


「いやね。べつに響木先生のことが嫌いで追い出したいとかそういうわけやないんですぅ、異動を決めんのんは私の意志は関係ないですからね? ただねえ、こん土地で下宿してまで教師やってもろとんのんは響木先生くらいやし。下宿言うても居候みたいな感じやないですかぁ、四六時中気ぃも抜けんじゃろ、気の毒やちみーんな思うわけで」


「……」


「教育委員会なら響木先生の地元からもわりかし近いですしぃね? こんな田舎におるより、ずっとええんとちがいますか」


 反論を許さない圧と、憎いほどによくできた異動の理由を前に答える言葉がうまくまとまらなかった。


 追い出したい、か。他所から来て、ミト中を引っ掻き回したこの僕には、まあ当然の報いとも言える。


「あの。聞こえとります?」

「え。……ああ、はい」


「いやあ、私もお伝えすんのがほんに心苦しいんですけどね。ほでも言われたもんはしゃーないですからねぇ。まあなるべくよう音楽の先生として吹奏楽部のある中学に赴任してもらえるように調整するいう話ですよって。今は空きがないし、これもまた苦渋の決断ちいうかね。ほんで答えるまでにはまだ時間があるんで、まあよう考えてもろて、結論を出してください」


 出せる結論なんて、そんなの一択だろ実質。


 ニヤリと喜ぶこの黒タヌキが実際どこまで関与したのかわからないだけに下手に抗議することもできなかった。



「……ちなみに響木先生」


 急に声色が変わった気がして顔を上げた。


「いやぁ、つかぬことを聞きますが」


 一体なんだ。途端に言いづらそうにもじもじしだす教頭に僕は眉根を寄せる。


「……あの。……美咲とは、あの噂ち言うのは、その、ほんまですか」

「えっ」


 いきなり父親の顔でそんなことを訊ねられてもこちらも困る。公私混同甚だしいな。


 詳細はご想像にお任せするがあの初詣がきっかけとなったことは言うまでもない。


 隠そうとしていたわけではないがだからって僕ら自身もそこまで堂々と見せびらかすような真似はしていなかったはずだ。


 噂の元は芹奈さんか? いや。

 ふいに天ぷら〈たちばな〉のおかみさんの顔が浮かんだ。合宿を境に? コンクールの夜から? ……バカ言うなよ。当時は根も葉もなかったはずなのに。しかし結果がすべてと言われては反論できない。本当に恐ろしい話だ。


「いやぁすんません。立ち入ったことを。けど知っときたいんですぅ、響木先生の今後を考えるにしても」


 僕の今後をあなたに考えていただく必要はないのだがな。


「……本当ですよ。僕は美咲先生を、『そういう相手』として見ています」


 今更隠すこともできないのでこの際堂々と宣言した。まさか結婚の申し込みを学校でするつもりは絶対にないが。


 すると教頭は目を丸くして改めてこちらを見つめた。それはまるで、珍しい生き物を見るかのような……え?


「ほんまですか」

「……はい」


「ほんまにほんまに」

「……はい」


 散々確認すると教頭、いや、彼女の父親は「はあ」とため息をついてそれでもなお信じられない、というような表情で床に視線を落とした。


 なんだそれは。嫌なのか、嬉しいのか。


「……いや失礼。美咲は、バツイチであの気ぃの強さ、酒癖も悪いよって、ええ、正直嫁のもらい手なんもうない、ち思うてたもんで」


 実の娘に対してにしてもひどい言いようだ。まあその通りではあるが。なんにせよつまりはこのタヌキは一応喜んでいるらしい。


「けどな響木先生」

「……はい?」


「まああんたは聡明やし、重々わかっとるち思いますけど。美咲との将来を考える、言うんなら、今度の異動が嫌やから、ちて妙なことを考えたり、ち言うんはね……父親としては、ちょっと」


「……」

「言うてる意味、わかりますよね」


 早い話が部活ができないからと言って教師を辞めるというような馬鹿な真似は絶対するな、という圧だった。


 親心……ちがうな。たぶん世間体を保つためだ。なんだそれ。じつにくだらない。


「……考えて、答えさせていただきます」


 僕の人生ですので、という言葉をなんとか飲み込んで、頭を下げその場を離れた。



 異動……。考えてもなかったが公立の中学教師としては充分有り得る話だった。


 しかも教育委員会とは。どこまでがっかりさせてくれるんだ。


 生徒たちに……なんて言えばいい?


 考えがまとまらず、帰るなり部屋でひとり布団にうずくまって唸った。




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