#75 じじいではない
ごくりと唾を飲んでいた。相手は会話を弾ませながら石段を登ってくる。僕たちの存在にはまだ気がついていないようだが時間の問題だ。石段の幅はそれほど広くはない。すれ違う際に気が付かないという奇跡は起こり得そうにない。
美咲先生は無言だったが僕の腕を掴む手に力が入るのを感じた。身体が硬くなって、少し震えている気もする。
とにかく遭遇は避けられそうにない。それなら少しでも彼女の負担を減らしたいと考えた。
僕たちは下段の石本家から見て石段の左側にいる。僕が端で美咲先生は真ん中寄りだ。このままでは美咲先生がダイレクトに石本家とすれ違ってしまう。それは恐らくとても良くない。
すっかり固まっている彼女に「こっちに」と声を掛けて手を引く。美咲先生ははっとして曖昧な返事をしつつ僕と位置を替わった。
そうこうしているうちに石本家の三人はどんどんこちらに近づいてやがて────
見つめ合って、止まった。
「……あれ。芹奈さん。こんにちは。こんなところで会うなんて新年早々奇遇だね」
なるべく平静を装いたいが残念ながら声は上ずった。『タクト』になるのもひとつの手だがタネを知っている芹奈さんの前でそんなずるを晒すのも滑稽だ。
「あ、あけましておめでとうございます、ヒビノ先生。と……」
どうしよう、と顔に書いてあったので小さく首を振った。芹奈さんに気を遣わせるのは心苦しいがこの状況ではどうしようもない。気まずさを拭うためにもこちらから声を掛けた。
「ええと、お父さん、ですか。初めまして。美音原中の響木と申します」
今僕は一歩進めば途端に膝が笑い出すマヌケなじじいだが現在は立っているだけなのでそれはばれていない。真面目な顔で真面目に挨拶をした。
お父さんは僕よりおそらく10歳以上年上の爽やかな男性だった。今日は私服ではあったがスーツ姿の似合いそうなエリート社員、という印象だ。
「ああ、聞いとります、芹奈から。それと……、妻からも」
この場で『妻』という言葉を出せるこの人の人間性はどう受け取ろうか悩むところだ。
「ああそうです。その節はカレー、ご馳走様でした」
あの日とまったく違う硬い表情をしているお母さんに内心引き攣りながらもなんとか笑い掛けると、相手は少しだけ表情を緩めて「あ、いえ」とだけ応えた。
「それでは」
会釈をしたが相手はなぜかまだ会話を終える気がないようだった。僕が困惑すると、相手から驚くべき言葉が飛んできた。
「失礼ですがお二人、そういうご関係なんですか」
「えっ」
このエリートは空気が読めないのか。それとも全てを察した上で僕を試しているのか。目線はおそらく僕の陰で僕の腕を握りしめている美咲先生の手だった。
少しの間、黙って見つめ合ってしまった。相手は立ち入った質問をしたことに悪びれる様子もなく真っ直ぐこちらを見て僕の答えを待っていた。
……いや。臆することはない。
「ええ、そうです」
堂々とその目を見つめ返して言った。
一瞬、沈黙が流れたがすぐに相手は「へえ」という顔になって「そうですか」と笑顔で返してきた。その内なるところは『喜怒哀楽』のどれに近いのか。まさか『嫉妬』ではないとは思うが、表情から読み取ることはできなかった。
「それでは」
再び会釈をすると相手も納得したようで会釈を返してきた。
すれ違う瞬間にお母さんが明らかにホッとした顔をしていたのを見てしまった。さらに「よかったわね」とお父さんに囁く声も。もちろん本人に悪気はないのだろう。だけどそのひと言は発言者の自覚なしに彼女を切りつけ、その表情は『勝者の笑み』に取れてしまった。
まったく、人間とは本当に面倒な生き物だ。
「……行こう。美咲」
あえて石本家に聴こえるような声量で僕はそう声を掛けた。
美咲先生は一瞬唖然として見開いた目玉だけで僕を見上げてきた。だけどすぐに泣きそうな顔になりながらくすりと笑って「うん」と小さく答えた。
まあ勢いはそこまでで、一歩踏み出した瞬間に僕はまた盛大によろけて美咲先生を慌てさせたのは言うまでもないが。
普段あまり神だ仏だと言うタチじゃないんだが、あとから彼女があまりにもこの日の僕のことをご加護だご利益だなどと言うものだから、僕も少しだけ歩み寄って今日のこれを『運命』として受け入れることにした。
彼女とは、まあ、なんだ。この先長い付き合いになる気はじつはずっと前からしていたんだ。




