#73 芹奈ではない
年末は帰省せずに天ぷら屋で静かに年を越した。
「あけましておめでとう! 先生今年もよろしうね!」
新年一番、元気に声を掛けてくれたのは奥さんだった。天ぷら〈たちばな〉の店内は休業日のはずだが朝からなにやら賑やかだ。
「おう先生、新年おめでとさん!」
階段を降りると大将が明るく迎えてくれた。周りには知った顔や知らない顔がいくつか。どの顔も既に赤い。元旦から酒盛りとは景気がいいな。
「先生も今日くらいは一杯、どう?」
わかっていて果敢に勧めてくる大将の性格は嫌いではない。
「はは……。いやあ、朝から潰れて元日早々無駄にするのはまずいんで」
苦笑いで答えると「なんやー」と残念がられた。
今日はここに留まらないほうが懸命だ。そう感じながらも部活はもちろん休み。行く宛てもなく仕方なく僕は『相棒』を片手に外に出た。
さすがに元日から芹奈さんもいないだろう。
田んぼの小道を進むと見えてくるその大きな木。今日はトンビはいないようだった。……いない、はずだが。
──C……
いや、トンビなんかとは全然ちがう。芹奈さんのものとももちろんちがう。例えようにも上手くは言えない。なんだ、すごい、この音色。
無理やりに言うとすれば、現存しないもの。つまり、妖精や精霊といったものの類、それの発する美しい音。そのくらい現実離れした幻想的な音だった。
集中しているのか奏者はこちらに気づいておらず、手に持つ銀の楽器に金の朝日を美しく反射させて演奏に熱中していた。
気づかれないようにそっとその場で足を止めて耳をすませた。
──……
芹奈さんの演奏もかなり上手いと思っていたが、やはり違う。格段に違う。上手い。感想はそれに尽きた。
曲は続けていくつか奏でられていた。名曲から難度の高い曲まで。手元のトランペットの重みも忘れて数分間すっかり聴き惚れてしまった。
四曲目に入ったところで荷物の重みで手が痺れだしたまらず持ち直すと、残念、奏者に気づかれてしまったらしい。
「えっ、なにしてんの!?」
さっきまでの幻想的な雰囲気を瞬時にぶち壊す品のない声。それも年明け一発目にしてはひどい挨拶だった。
「……あけましておめでとうございます。美咲先生。はは、すみません。頭から聴いてました」
「なっ……」
僕の言葉に少し赤くなりながら「たまにはね……」と俯き加減にボソボソと言う。かわいいな、などとタクトならおちょくったかもしれない。
「さすがですね。でもフルート、辞めたんじゃなかったんですか?」
そもそも楽器自体芹奈さんにあげてしまって持っていないと聞いていたが。
美咲先生は「ああ」と手元の銀色の楽器に目を落としながら「芹奈が返してくれたの」と答えた。
「『これは先生が持ってて』って、『また吹いて』って」
困り顔で笑った。
「ワタルくんこそ、吹きに来たんでしょ? だったら私も聴きたい」
「ええっ……っていうか、なんですかその呼び方」
「なに。だめ?」
大きな瞳からの視線は僕の右手のトランペットのケースを射抜いていた。だからその「だめ?」が呼び方のことなのか僕が演奏を披露することなのか判然としない。
「自分だけ勝手に聴くなんてずるいでしょ」
そっちか、と思うと同時にもっともなことを言われて参った。しかしそんなつもりではなかったしできればそれは勘弁してほしい。
「ああ……、そうだ、もしよかったら初詣にでも行きません?」
「ええー?」
不満げに返されたが名案だと思う。なんたって今日は元日だ。
「ほら、有名なんですよね? 『天原天神』って」
たしか合宿をした天原山のふもとにある神社でここからならバスで行ける、と昨夜天ぷら夫婦が言っていた。
こうして期せずしてまたしてもこの人と二人きりで出かけることになってしまったわけだ。
貴重なほどに本数の少ないバスは今日くらい混むかと思ったが意外にも、いや意外でもないが他の乗客はほとんどいなかった。揺られながら美咲先生は口を尖らせる。
「ねえ、なんで吹いてくれないんですか? この前梅吉も言ってた『あいつは上手いくせになかなか聴かしてくれん』って」
「べつに……。面と向かって聴かれるのがあんまり好きじゃないだけです」
「ワタルくんって、あんまりトランペットっぽくないよね」
僕の顔を確かめるように眺めながら不思議そうにそう言った。呼び方のことは結局つっこませてもらえてないままだ。しかし奏者として美咲先生の言わんとすることはよくわかる。
「まあ、それこそ梅吉みたいなタイプの奏者が多い楽器ですからね」
吹奏楽では目立つ旋律やファンファーレなどを吹くトランペットは『花形』と言われる楽器。奏者も目立つことが得意なタイプが多い印象だ。まあ一概には言えないが。
「『タクトくん』で吹くことはできないの?」
「ええ?」
思いもしないことを訊いてくる。『タクト』の方がまだトランペット奏者らしいとでも言いたいのか。
「……まあ、できますよ」
「できるんだ!?」
目を輝かせるので「やりませんよ」と釘を刺した。案の定「ちぇ」と言うからこわい。記憶に新しいのは文化祭で梅吉の指揮のもと演奏した一曲。舞台上ということもあってあの時の僕は限りなく『タクト』の意識に近かった。
ほんとうに、だんだんと曖昧になってきているのかもしれない。もちろんそれはああいった特殊な場面に限りのことで、指揮中の感覚は変わらず『タクト』だし普段の僕が相手に暴言を吐いたりすることは絶対にないのだが。
「タクトにならないにしても。出し惜しみしてないでちゃんと聴かせて教えてあげたらいいのに」
「出し惜しみしてるわけじゃ」
「梅吉のこと、気にならないんですか?」
「ええ?」
「傍で見てたら誰にでもわかります。梅吉にとって『ヒビノ』はただの学校の先生なんかじゃないでしょ」
そんなこと────。
「あなたがどう思っていようと、少なくとも梅吉はワタルくんのことを『師匠』だと思ってますよ」
──『俺ヒビノみたいになりたいんや』ちて、目ぇ輝かして言うてきました。『音楽の先生目指す』って。
本当はわかっている。でもだからと言って……。
「梅吉だけを特別扱いするわけにはいきませんよ」
苦く言って隣の彼女を見ると、またかなり不満げな顔をしていて困った。
「ワタルくん、一体誰を守ってるんですか?」
この恥ずかしい呼び方はもしかしたら先日美咲先生にかなりの無理を言ってリコーダー三本を買いに走らせたことへの罰かなにかかと勝手に予想をつける。
「ヒビノ先生が梅吉にトランペットや指揮の指導を特別にしたとしても、誰も梅吉やヒビノ先生を責めたり嫉妬したりしないと思いますよ。それは自然で、必然だから。私と芹奈も、そうだったから」
美咲先生は膝の上の自分の指をふわりと眺めてからまたこちらを向いた。
「三学期、ミト中での残りの時間を悔いなく過ごしてくださいね」
にっこり、とても綺麗な笑顔だった。まさかと思うが、どきりとした。僕が彼女に対してそんなことを思うことも、彼女が僕にそんな態度をとってくれることも、去年の春には想像もできなかった。
三学期か。春は、もうすぐなんだな。




