#63 悩みに慣れていない
呼び鈴を鳴らすと梅吉とよく似たお母さんが出てきた。僕の姿を見るなり「え!?」と声を上げて一瞬引き取ろうとするも「いや無理やわ」と申し訳なさげに笑って「とにかく中へ」と案内してくれた。
靴を脱ぎつつなんとか運んでお茶の間の隅に急きょ敷いてもらった布団に倒れ込む。ああ、こんな肉体労働は二度とごめんだ。
立ち上がるとお母さんに「せっかくやしお茶だけでも」とにっこり笑って座布団を勧められた。熱の息子はいいのか。しかし断るのも悪い気がして恐縮しつつもナンプと並んで腰を降ろした。
「昔っからやりすぎるところのある子で」
言いながらガラスコップに冷えた麦茶を注いで僕たちの前に出す。おお、ありがたいと拝みたい心境であったが小さく会釈するだけに留める。
「一晩寝たら案外ケロッと治るんです」
困った笑顔は梅吉自身はしないものだがよく似ていた。
「響木先生の話、いつもよう聞かされてます。偉そうに『あいつは』『あいつは』ち言うて」
はは。目に浮かぶ。
「大吉は、目立ちたがり屋でやる気だけはあるけど、何事も長続きせん子やったんですぅ。将来の夢も仕事らしいもん言うたことなくって、野球して遊んだ日には『野球選手になる』ち言うたのに、今度サッカーした日にはもう『やっぱりサッカー選手やな』とか言うて」
「ふは、大吉くんらしいです」
それもまた目に浮かぶ。
「けどね、変わったんです。あの子」
お母さんは自分にも用意したガラスコップの中の透き通る麦茶を眺めながら微笑んだ。
「『俺ヒビノみたいになりたいんや』ちて、目ぇ輝かして言うてきました」
「え……」
「『音楽の先生目指す』って」
……そういうことか。だからあんなに指揮をやりたがっていたんだ。
「いっぺん決めたらなんも見えん、真っ直ぐすぎる子やし、ご迷惑かけてないですか」
心配そうに見上げられて「いえ」と慌てて答えた。
「部長として本当に頑張ってくれています。それにトランペットも、どんどん上手くなってる。大吉くんの向上心がそのまま部の向上心となっているのは間違いないです」
真実を述べたつもりだったがお母さんは「かっはは、いややわ先生。褒めすぎですよぉ」と笑った。
「けどね。ほんに最近はあの子ちょっと、なんや元気なくて。どないしたんや、ち聞いたら『ヒビノは俺のことなんもわかっとらん』ち、言うて……」
ナンプを見ると「いや知らん」とう顔で首を振った。
「ようわからんけど、なんや珍しく悩みよるみたいなんですぅ。もしかしたら今日の熱もそれが原因かも……」
困り笑顔は部屋の隅で寝息を立てる息子に向いていた。しかし悩み過ぎて熱を出すとは……。まあ『悩み』に不慣れな梅吉ならないこともないか。
──学指揮やりたい。
心当たりは当然ある。だけどちゃんと説明もしたはずだ。たしかに納得した返事はもらえてはないがそこまで悩ませているとは正直思っていなかった。
「ヒビノ、学指揮は中学以降でもやれるち思とるじゃろ」
「え……」
ナンプの言葉に驚く。たしかにその気持ちはあった。今焦って部長と学指揮を兼任する必要を僕は感じなかったんだ。
「ふ。わかっとらんな、梅吉の気持ちを」
ニヤリと笑われて「ええ?」と動揺する。なんだろうな、この甘酸っぱい展開は。いやいや。
「梅吉はな、『今』、響木先生に教えて欲しいんじゃ。自分のいちばん最初の、基礎となるところを」
いちばん最初の、基礎。
──響木先生は、高校の先生になろうとは思わなかったんですか?
僕が中学教師を選んだ理由。
「あいつの『今』を、もっと大事にしてやってくれ」
部長は学指揮をしてはいけない。そんなの誰が決めたんだ。潰れるのが心配ならフォローすればいい。贔屓と取られると思うのならそうならないように立ち回ればいい。
『今』は、今しかない。
帰る前にもう一度梅吉の様子を見ると、病人は病人らしからぬ大胆な寝相でイビキをかいていた。
静かに笑って、その家を後にした。
本当に翌日ケロリと元気に現れるから笑ってしまった。
「おはよう、梅吉。あのさ──」
意を伝えると、キウイ少年は目を剥いてその場に固まった。
「な、なんて……?」
「だから。やってもいいよ。学指揮」
ニヤリと笑って繰り返してやると固まっていたキウイは「……ぃよっしゃあああああ!」とわかりやすく跳ねて喜んだ。
「ただし部長の仕事は今後は部長代理のナンプに任せること。やるからには手抜きはなし。楽器練習も今まで以上にちゃんとやる。約束できるね?」
真剣に見つめると梅吉は「当たり前っ!」と元気に返した。そして「ありがとう!」と照れもせず無邪気に頭を下げて笑った。




