#06 できることはなくはない
暗い職員室前の廊下にある掲示板には教育関連のポスターと並んで見覚えのある黒いポスターが貼られていた。
それは『最寄り』と呼べるか怪しいが一応最寄りのあの駅にびっしりと貼られていたあのポスター。『日本人宇宙飛行士 西野 湊斗』のことが書かれたポスターだ。
こうまでしつこくこのポスターが町中に貼られている理由は、彼がこの土地にゆかりがある唯一の有名人だからとのことだった。
「ゆかりってなんなの?」
職員室前でばったり会った梅吉にちょうどいいから訊ねてみた。
「なんや、ヒビノ知らんの? 西野 湊斗って隣のアマ中出身なんよ。ほんで高校もそこのアマ高で」
社交的で愛嬌のあるこの生徒はクラスでは中心的存在。形のいい坊主頭はよく撫で回されている。
「はあ、じゃあこの辺りが地元なの?」
「いや。中三で転校してきたらしい」
「中三で……」
話す間に教室に着いた。これからホームルームをして生徒は下校となる。
「なになに? 西野 湊斗の話?」
食いついてきたのは南部。クラスでは『ナンプ』と呼ばれている。太めでがっちりした身体で梅吉と違い身長もそこそこあって力も強そう。ついでに老け顔で貫禄も二重丸の生徒だ。
「西野 湊斗なら、その娘が今アマ高の二年におるいうやん」
「そうそう。そんで西野 湊斗本人は天文館の館長やしな。就任した時おれ見に行ったで」
「盛り上がったよねぇ。天原の駅とかアマ中アマ高がテレビ出てて私ひっくり返ったもん」
男子二人相手に頷いて言う女子生徒は柏木 真知さん。長めの黒髪を横に流して括っているクールな印象の女子生徒だ。家はこの土地唯一のコンビニ代わりのなんでも屋『柏木商店』。一人娘の跡取りらしい。
「ま、アマ中の話やしうちらには関係ないっちゃそやけどね」
ため息混じりに言う真知さんの言葉を受けて梅吉が「いや」と否定して急に声を潜めた。
「……それが関係あるんよ。おれ聞いたもんね。この中学、『合併される』いう話」
は……?
ほかの生徒たちとは別の理由で耳を疑った。おいおい、なんでもう知ってる!?
「え、え? ここなくなるん!? 廃校!?」
「いついつ!? 今年度!?」
「げえ、アマ中まで通うん? めっちゃ遠いで?」
「バスじゃろ、バス通学」
「うっそ、むりむり!」
口々に疑問や思いを述べる生徒たち。まったくこの坊主頭は一体どこからそういう情報を入手してくるのか。
そして案の定全員の疑問の矛先は僕に向けられた。
「「先生、ほんま!?」」
「……しらない」
否定以外のそれは全て『肯定』に取られるというのは知っている。だからといって嘘を言うわけにもいかない。
「癪やな……」
「……癪?」
ナンプが小さくこぼした。『癪』とはまた中二らしからぬ言葉だが。
「癪や。アマ中と合併したら、絶対負ける! この『美音原中学』の名前は絶対消される! 向こうはなんたって『有名宇宙飛行士の出身校』なんゆうバカでかい看板があるんやぞ、勝てるわけない!」
「いや、勝つとか負けるってなんで」
「悔しい、悔しい。悔しいわ! ヒビノ!」
クラスの雰囲気がみるみるうちにメラメラ燃えてきてたじろいだ。
「ま、まあ……。落ち着いて」
「落ち着いてられるかっ! 規模はほとんど変わらんのやで!? なんで俺らが譲らないかんのじゃっ!?」
「しかも西野 湊斗が在籍してたのって中三の秋からなんよ? 卒業生ってだけでほぼ中身はないんよ!」
「まあ、言いたいことはわかるけど。まだ決まったわけじゃないから、合併も、名前もっ」
合併に関しては『正式決定』と聞いてはいたが一応認めることはしないでおきたい。
「決まったようなもんじゃろ……」
居酒屋のオヤジか、と思うようなため息をついて梅吉はシケた。
「勝ち目なし……」
ナンプの言葉にクラスが沈む。
「そんなにこの中学のこと、大事なんだ?」
この春来たばかりの身としてはこの熱気には正直戸惑った。母校の名前がなくなるのはたしかに喜べたことじゃない。だけどそこまで合併相手を敵視するのも違う気がする。
「大事に決まっとる」
言うのは梅吉……ではなくナンプだった。珍しいな。なんだかさっきからこの件に関して彼は誰より熱い気がする。
「ナンプのじいさんはここの一期生やもんな」
梅吉がボソリと言った言葉に驚いたのは僕だけだった。
この土地で育った彼らにとって、この学校はただの中学というだけではないらしい。この校舎も、景色も、校歌も、歴史も、なにもかも……僕が思うよりも遥かに愛しているのがこの一瞬で伝わった。
「卒業できんのじゃな、美音原中を」
ナンプの声が床に虚しく落ちていく。
そう。二年生の彼らは残り一年を合併後の新たな中学で過ごして、そこの第一期卒業生となる。それはたしかに『美音原中学の卒業生』ではない、と言える。
合併話は僕もショックではあったが、生徒たちがここまでの反応をするとは正直思っていなかった。
帰宅してからも彼らの顔が頭から離れなくて、早々に二階の部屋へこもってぼんやりと考えた。
自分にできることはないのか。
美音原中の名前は本当に消えるのか。いくら有名人の母校だからといって合併後も『天原中』のままということなどあるのか。
わからない未来を考えても仕方ない。考えるべきはそう、『今』できることだ。
ふと目に付いたのは部屋の隅に置いた黒い直方体の大小二つ。トランペットと指揮棒だった。
あるはずだった吹奏楽部。かつてはあった、吹奏楽部。
吹奏楽部────。
並べて置いてあるトランペットと指揮棒のケースを見つめながら、僕はあるひとつの『案』にたどり着いていた。けれどそれは、果たして正しいことなのか。ひとりよがりではないのか。本当に生徒たちのためか。
でも。だけど────
────吹奏楽。
今の僕にできるのは、それしかなかった。