#56 恋人ではない
「響木先生……?」
ああ。変わった途端に腹の底から怒りが湧き上がってきた。生徒たちを前にしたあの時もそうだった。我ながら困った体質だ。
ふと見ると目の前に酒があって一気にあおりたい心境だったが中の『ワタル』が全力でとめてきたから留まった。ち。
苛立ちまぎれに向かいの酔っ払いに問いかけてみる。
「……美咲先生から見て、どーでした? 今日の演奏と、これまでの響木の指導は」
「え……と」
「正直に」
苛立ちが指を動かす。テンポはAllegro(快速に)。
「急に攻めますね」
「あんたがそれがいいって言ったんだろ」
嬉しそうにニヤニヤされて更に苛立つ。美咲先生はなんとか笑むのを押し込めたらしく真面目な顔になって答えた。
「今日の演奏は……悪いばっかりじゃなかったですよ。そりゃ結果が全てなのはそうだけど、今回の経験であの子たちもまたひとつ成長できたのはたしかです」
そんなことはわかり切ってる。もっと具体的なダメ出しがほしいってのに。
「俺の指導は、どうでしたか」
「え……」
訊ねると相手は目を泳がせた。
「ふん、結局『ワタル』が相手の方が言いやすいんじゃないの」
手に持つ指揮棒を指でいじりながら軽く笑う。戻ろうか? 今ならまだ間に合うけど。
「そ、そんなことないですよ」
「ならどーでした?」
「……響木先生は、指揮者の才能はかなりあると思います。耳もめちゃくちゃいいし、知識も豊富で口は悪いけど説明は上手い。だから誰も反発しないで付いて来れてるんです。『音』に関する記憶力だって並以上ですよね? 足りないのは『実績』それだけ。そんなくらいご自身でわかってるんじゃないですか?」
見つめるとわかりやすく照れたふうに目を逸らされて呆れた。
「俺相手だとガッチリ敬語話しますよね」
「そりゃあ……一応」
「なんの一応?」
「尊敬してるってことですっ!」
「はあ、そりゃどーも」
まったく。せっかく指揮棒を持ったのにこれじゃほとんど意味がない。まず反省点を話そうってのに「尊敬」なんて言われちゃ反省のしようがないだろ。バカかよコイツ。
「『実績』ねえ……。たしかにそれが全てっすよね。初心者だったあいつらをどれだけ成長させてやれたとしても、結果が伴わなかったんじゃ意味がない。『やっぱな』『所詮な』って言われて終わり」
「だけど響木先生の指揮は本当に」
「褒めないでください」
「え……」
はあ。こうなると思った。だから『俺』になりたくなかったのに。
「なら言うけど」
あーあ。もう止まりませんよ。
「俺がそんなにすげーんなら、なんで勝ち上がれなかった? 原因は? あいつらの技量の低さ? 時間のなさ? それもこれも、全部俺の責任だろ!? 顧問は俺なんだから。あいつらが今傷付いて泣いてんのも、どん底まで落ち込んでんのも、全部俺の責任なんだよ!」
「響木先生……」
「ああくそ。悔しい。悔しい。悔しい! なんで出来なかった? なんでもっと練習しておかなかった? 想定しなかった? 出来たはずなんだ。あいつらになら。それだけの実力があったはずなんだよ! なのになんで! あんただってそう思うだろ!?」
なんで、あんたが泣いてるんだよ。
「…………すんません」
小さく謝って、そっと指揮棒をケースにしまった。
僕に戻ると、ああ、たしかにスッキリはしていた。
「……ありがとうございます。吐き出せて、すっとしました」
「いーえ」
ふふ。と濡れた瞳を細めて笑った。あれ。なんだろう。綺麗だな。……いやその。
「はー。悔しがる『タクト』が見られて満足。うふふふ」
前言撤回。……この人は本当に。
ちらりと見ると美咲先生のジョッキはすでに一つはからになっていて二杯目も半分以上減っていた。
「……あの、だいぶ酔ってます?」
できれば面倒ごとは避けたい。
「酔ってまへん」
「酔ってますね」
「……送るは送るけど潰れるのは勘弁ですよ? 教頭に知れたらなにを言われるか」
つい忘れそうだがこの人はあの教頭の娘だ。
「なら響木先生の部屋に泊めてください」
「バカ言わないでください」正気かよ。
美咲先生はぶう、と膨れてテーブルに伏せつつ「なんでー?」とこちらを見上げてくる。なんでもなにも。当然でしょうが。
「妙な誤解を招くような行動は慎みましょうよ。お互いのためにも」
「…………」
黙られても困る。僕はひとつ息をついて伝票を手にした。
「……明日」
「え」
立ち上がった僕を見上げるようにして美咲先生は続ける。
「行きますよね、高校の部、観に」
「……はい」
関わった高校の本番を観ないわけにはいかない。礼儀というよりは自らの意思だった。
「一緒に行ってもいい?」
「え」
なんでですか、と訊ねる前に立ち上がった美咲先生にさっと伝票を奪われてしまった。
バイト暮らしの人にお金を出させるわけには、と取り返そうとしたが「ほとんどは私が食べた分だから」と結局払ってくれた。珍しいな。
会計でマスターらしい蝶ネクタイの年配男性がやたらとニヤニヤして見てくるからなんだかいたたまれない。会釈をしてさっさと店を出ることにした。
ぽつりぽつり、他愛のない会話をしつつ、彼女を自宅付近まで送る。湿り気を帯びた夜の空気は土の匂いが濃かった。合宿所ほどではないが、虫の音が辺り一帯に響き渡る。そんな田舎の夜道は暗い。慣れているからと遠慮されたが、酔った足では田んぼにでも落ちるんじゃないかと心配になり結局家の前までついて行った。
おお。さすがは教頭の家。立派な瓦屋根の日本家屋だった。庭は広く野菜かなにかがツルを伸ばす畑もある。裏手は竹やぶだった。
「ではまた明日」
「あの、本気ですか」
「どうせ同じバスになるもん」
「…………」
田舎暮らしを憎むしかないのか。ひとりでじっくり、と思っていたんだが。
「……仕方ない、わかりました」
「天ぷら屋に迎えに行きます。バス停も近いし」
「いや、バス停集合でいいですよ」
「え、なんで?」
こちらこそ「なんで?」だ。なんとなく外堀を固められている気がしないでもないが、あいにくこの手のことをあれこれ詮索するのはあまり得意ではない。
……まあいい。
なにを噂されようがどうせ根も葉もないことだ。
この考えが安直すぎたことはあとから身に染みたわけだが、この時はまったく深く考えてなんかいなかった。




