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#05 ふえとは呼ばない

 翌朝職員室に着くと教頭に呼び止められた。


「ああ中村先生と日比野先生もええですか、ちょっとほかの先生方も」


 このタヌキのような父親からどちらかと言えばキツネ似の美咲先生が誕生したとはな……、とその顔に今更あの面影を探していた。だからその、話を聞いていなかったというわけではないが、いきなり耳に届いたその内容に非常に面食らってしまった。


「いよいよ本校、隣の天原あまばら中と合併が正式に決まりまして」


 ……え?


 一瞬理解できなかった。しかし僕の隣にいた中村先生がいつになく真剣な面持ちで教頭に返した言葉で全てを理解した。


「ついに決まったちわけですね。うちは……『廃校』ちわけですか。実質」


「まあ……。生徒たちにはまだ、知らさんようにお願いします」


 頭を殴られたような衝撃、とはよく言ったものだ。



 その日も美咲先生に睨まれながら早めの夕食を終えて大将にお礼を述べてから二階へ上がった。自室でゆっくりと明日の用意などをしてから部屋の隅に置いてある黒いケースに手を伸ばす。


 長辺が50センチ少々の堅いながら柔らかな手触りの直方体。取っ手を掴み持ち上げると案外ずしっと重みがあるが、楽器の中では軽い方だ。


 ガチャリと金属音を立てて金具を外し、ゆっくりとそれを開くと、銀ピカの僕の相棒────トランペットが現れた。


 取り出すことはせずに、す、とその管を指で撫でてため息をついた。


 言わずもがな僕は、吹奏楽部の顧問になるために教師になった人間だ。


 なのに────。


 結局この地でもその夢は叶わなかった。もしかしたらもう一生叶わないのかもしれない。いっそもう諦めて市民楽団で吹くか。


 ……でもなぁ。


 ちろ、とトランペットケースの隣に密やかにある黒の小さなケースに目を向けた。ペンケースほどの大きさのこちらにはタクト、つまり指揮棒が収まっている。


 そう。指揮。


 吹奏楽部顧問といったらそれなんだ。楽器は探せば吹ける場所はある。でも指揮となるとそうはいかない。仲間がいなければ、楽団がなければ指揮者は成り立たない。


 トランペットケースを開いたままにして、そっと指揮棒ケースに手を伸ばした。


 定期的にこうして状態を確認しているのにはある理由がある。


 それは『指揮棒』自体の確認ではなく、それを手にした『僕自身』の確認のためだ。


 固い封印を解くかのように、ゆっくりとそのふたを開いた。


 すら、と指を滑らせるようにして触れ、手にする。目を瞑り、ひとつ呼吸をして、そしてゆっくりと目を開いた。


 そう。この感覚────。


 相変わらず夢見がちな馬鹿な男だ、と自嘲しつつ、再びそれをケースにしまった。


 ──ぱちん。

 


 いつかこうして指揮棒を持つ真似すらも、僕はしなくなるのかもしれないな。そうしていつしかこの『指揮者』の存在なんか、すっかり忘れてしまうことだろう。


 感傷に浸りながらトランペットケースのふたをそっと閉じようとした時だった。


「せんせー、お風呂どーぞー」

「ああ、はい」


 声を掛けられて顔を上げると、開け放っていたふすまからおかみさんがひょっこり顔を出した。


「わ! それトランペット?」


 言うや興奮した表情を見せると、そのままそろそろと中腰で部屋へ入り僕の隣に小さく屈んだ。


「うわあ、綺麗やねえ。初めて近くで見たわ」


 自分の愛しいものをうっとりと眺めてもらえて悪い気はしなかった。


「そうかあ、響木先生はトランペッターなんやねえ」

「いや、そんなすごいもんじゃないですよ」


 本当にそうだった。トランペットの才能はそれほど飛び抜けたものは僕にはない。


「いんや、すごいよ。楽器できるってだけですごい。こん土地じゃあ楽器いうたら美咲ちゃんくらいやもんねえ」


「ああ、美咲先生はなんの楽器されるんですか?」


 名前が出てそういえば、と疑問を持った。あの人にはまだ謎が多い。本人には恐くて訊けないし、周りはなぜかあまり教えてくれない。


「えーとね。なんちうたかな、ほれその、うーん、……『ふえ』」


「『ふえ』……フルート、ですか」


「ああそうそう! 銀色でキラキラ綺麗なねえ。演奏する姿も美しいよって、あの子にぴったりの楽器や、ちて言われよったんよ」


「ぴったり……」

 そうか? とは言わない。命は大事だ。


「おかみさんは詳しいんですか? その……美咲先生のこと」


「まあね。小さい時からよう食べに来てくれてたし、大きなってからも悩みがあるとしょっちゅうここへ来て愚痴りよったもん。いろいろ知ってるっちゃそうやわね」


 居酒屋も兼ねるこの天ぷら屋。カウンター席でくだを巻く美咲先生の姿が目に浮かんだ。


「その……美音原みとはら中の吹奏楽部のことも、ご存知ですか?」


「ああ、そやんね。知りたいよねえ」


 おかみさんは屈んでいた体勢からよいしょ、と言いながら正座になると、出したままの僕のトランペットを眺めながら話し始めた。


「美咲ちゃんのおる間は、ほんに人気で」

「えっ、そうなんですか?」


 訊ねるとこっくりと頷いた。


「ほんまよ。人気(もん)やったのよ、あの子美人さんやしね」


「はあ……」

 いくら美人でもあれでは……いやなんでもない。


「せやけど結婚して辞めることんなって、去年も入部希望はみーんな断ってしもて。ひとりだけね、熱心な子がおって、その子にだけは教えたりはしよったみたいやけど。セリナちゃん。今の三年生やわね」


 まだ三年生の名前まで憶えられていなかったので名前を聞いてもピンとこなかった。


「けど先生が辞めても部は存続できますよね? なんでそんなわざと潰すようなことを」


 そう、なにも潰してしまわなくてもよかったんじゃないか。そして僕に引き継ぎさえしてくれていれば今頃は……。


「やあ、続かんかったち思うよ。教頭先生もずうっと嫌がっとったし、美咲ちゃんありきの部活やったもんね。それにセリナちゃんとあんなことんなっては……」


「え……?」

 あんなこと……?


「かーちゃーん! なんしとるんじゃあ? 早う片付けて!」

「ああ、ごーめんごめん、今行くよって!」


 一階のお店から大将がおかみさんを呼ぶ声が響いた。おかみさんはごめんね、と言って痛たた、と膝に手を当てながら立ち上がる。


「ああ先生、お風呂入ってくださいね」


 呼び止めたかったがそうもいかず「ああはい」と曖昧に返事をしておかみさんを見送った。




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