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#44 寝てはない

 楽器が鳴り響いている。


 フルート、オーボエ、クラリネット

 弦バスとユーフォ、チューバが重なっていく


「……おはよーございまーす」


 ホルンが轟く

 トロンボーンが鳴る


「あの、響木先生?」


 ここでトランペットのファンファーレが────


「えっ、起きてますよね?」

「……ああ、おはようございます」


 集中の水の中から僕を引っ張り出してきたのは笑顔の宮下さんだった。


「はは、すごい集中力ですね。声掛けていいものか迷いました」


「はは……すいません」


 窓を見るとカーテンの向こうの空は端から白んでいるようだった。もう朝か。


「早起きですねえ、今何時です? えっ、まだ四時半ですよ」


「ああ……ちょっと無茶しました」


「ええ? まさか寝てないとか?」


「はは……まあ」


 苦笑しつつゆっくりと立ち上がって控えめに伸びをした。


「顔洗ってちょっと風に当たってきます。ああ宮下さんはまだ寝ててもらって大丈夫ですよ。生徒たちは六時半起床なんでその頃に起きてもらえれば」


 言い残して部屋を出る。トイレと洗顔を済ませていると鏡越しに例の笑顔と目が合った。


「あれ……」


「なんというか、先生のことにも興味が湧きまして」


「ええ?」


 ドキリとした。参ったな。


 寝起きとは思えないほどスッキリとした顔をしてすでに仕事モードの様子の宮下さんをさすがだなと思う。


「邪魔は一切いたしません。私のことはどうぞお気になさらず。あ、でも質問には答えてほしいですが」


 向けられた笑顔に「はあ」と曖昧な笑みで返しつつ土間にあったサンダルを拝借して外へ出た。


 西側にはまだ星も見える早朝の山の空気はしっとりと水気を帯びて澄んでいる。見渡せる世界は全体が青みがかっていた。広い空の端では朝のあかく輝き始める。


 湿り気のある草の中で虫たちが競うように重ねる涼やかな音が辺り一帯を包んでいた。


「すごい景色ですねえ」


 振り向くと宮下さんが金の朝焼けに照らされ始めた景色を眺めていた。


「昨夜もまるで星が降るようでした。本当に素晴らしい所だ」


「不便なことも多いですけどね」


 謙遜したが僕もこの土地の者というわけではないのでほどほどにしなくては怒られる。


「それで……今日はどういう予定になさるんですか? まさか中高どちらもおひとりで?」


 たしかにほぼ丸一日『指揮者』で居続けるのは徹夜明けには無理があった。体が持つか、精神が持つか、大学時代の苦い記憶がじわりと甦る。


 もしまたああなったら────。


「響木先生?」


「……ああ、失礼しました。まあ、様子を見ながら調整します」


 僕の答えに宮下さんは「そうですか」と頷いた。


「ヒビノおはよー、……うわっ、誰」


 早起きのキウイ坊主は挨拶続きに怪訝な顔をしてくれた。いい加減その初対面の相手に対する無礼は控えるべきだと教えておかなくては。


「おはよう梅吉。こちらは市の広報担当の、宮下さん。今日からミト中を密着取材してくれるそうで」


「なっ、なにい!?」


 田舎(もん)丸出しなのは彼の短所であり長所だ。


「ジロジロ見てないでちゃんと挨拶してよ、梅吉」


「……ああ、えっと部長の梅田 大吉、『梅吉』いいます。よろしくお願いします」


「うめきち……くん?」

「はい!」


「いいね! 今何年生?」


「二年です」

「担当楽器は」

「トランペット」

「おお」


 トランペットと言うとだいたいの人はこういう反応をする。それだけその楽器が有名でその分期待も大きいということになる。


「そしたら梅吉、朝の用意と朝食」「聞いたでヒビノ、松阪先生のこと」


「えっ」


 そうだった。この生徒は謎に情報通なんだった。


「どうせまたひとりでなんとかしようとしよるんじゃろ、顔見たらわかる」


「か、顔?」


 クマでもあったか、慌ててわたわたと手で隠した。


「無理すんなよ。ヒビノも俺たちにとっては『いちばん大事な人』や」


「え……。ああ」


 なんだか上手く反応できないでいるうちに梅吉はニッと笑って「じゃーな」と片手を挙げて駆けていった。


「あの……『ヒビノ』とは?」


 訊かれるだろうな、と思っていたので苦笑いで迎えた。


「すみません。おかしいですよね、呼び方も話す態度も。でもこの距離感は結構気に入ってるんです。僕は『先生』よりも生徒たちと近い存在でいたいので」


 笑いかけると「ほほ、なるほど。いいですね」と頷いてくれた。



 ラジオ体操と軽い朝食を済ませてミーティング。黙っておけることでもないので松阪先生のことはこの場で明かした。もちろん「体調不良」とだけ。


「コンクール当日には必ず指揮してくださるとのことなので、アマ高のみんなは不安かもしれないけど『松阪先生を当日驚かせよう』というくらいの気持ちで残りの合宿に臨んでほしいです。僕も全力でフォローします」


 さすがは高校生、よくまとまった返事がもらえた。


「それともうひとつ、今日からアマ中に、密着取材が付くことになりました」


 途端にザワつく生徒たち。こんな田舎では当然の反応だろう。そうでなくても『密着取材』なんて言葉に動じない中高生は少ない。


 宮下さんに挨拶をしてもらい、今日も午前はアマ高が合奏室、ミト中はパートに分かれて練習、午後はその逆ということを伝えた。


 合奏はもちろん僕が見る。パートは美咲先生に回ってもらうことで落ち着いた。


「「よろしくお願いしますっ!」」


 元気な返事をすり抜けて現れたのは美咲先生だった。


「響木先生、大丈夫?」

「……なにがです?」

「『たぶん寝てない』って梅吉が」


 お喋りキウイ……。いや、心配してくれているんだ。梅吉も、そして美咲先生も。ここは素直にありがたく思うべきだ。


「大丈夫ですよ。まだ二十代なんで」

「嫌味ですか」

「えっ」


 女性という生き物はなんて面倒くさいんだ。


「滅相もない。はは。とにかく大丈夫です。やるしかないので、やるだけです。パート練習の方、よろしくお願いします。ああでも、もし時間があったら合奏室もたまに覗いてください。僕が……暴走してないか、その、点検に」


「えっ、なんですかそれ」

「……まあ、大丈夫とは思うんですけど」


 大学時代の苦い記憶。あの時もこうして無茶をしていた。加えて顧問から「指揮棒を手放すな」と呪文のように唱えられ続けていて精神的にもどうかしていた。


 その中で僕の身になにが起こったか……。実のところよく覚えてはいない。知っているのは後から仲間たちから聞いたことだけで僕の記憶に『それ』は残っていなかった。


「とにかく、そういうことで」


 会釈をして合奏室へと向かった。



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