#43 妻ではない
当然譜読みはストップ。風呂待ちで賑やかに談笑する部員たちのいる座敷の脇にある廊下でぺこぺこと頭を下げ合った。
「いやあ遅がけにすみません。今日は朝から張り切って出発しようと思ってたんですけど、あっはは。なかなか仕事が片付かなくて。結局こんな時間になってしまいましたよ。それにしても凄いところですねえ! ああいや、自然豊かな」
素直な感想には苦笑したが好感は持てた。
もと居た男部屋に戻って座布団を勧め自分も近くに腰を下ろした。するとタイミングをはかったらしい美咲先生がまるで奥さんのような態度で麦茶を出すので慌てて「ああすみません、『美咲先生』」と彼女との関係性を示す。念押しも兼ねて「吹奏楽部の手伝いをしてもらっている先生です」と紹介もしておいた。なんとしても誤解だけは避けたい。
宮下さんは美咲先生のもてなしにニッと笑って応え麦茶をひと口含んだ。「ご自身の車で?」と訊ねると「運転は割と好きでして」とまた笑う。よく笑う人だ。しかしあの大変な山道を苦としないなんて信じ難い。
「しかし驚きましたよ。西野館長からこの部活動の話を聞きましてね。いや、痺れました正直。響木先生、いいです、これはいい」
「はあ、ありがとうございます」
『いい』と褒められて嫌な気はしないが素直に喜ぶのもまだ早い。
「それで──」
本題が来る、とわかってつい身構えた。
「せっかくの合宿ですからねえ。ぜひ『密着取材』をさせていただきたいんです。今日から本番までの間」
「っええ!? や、広報に載るだけですよね?」
身構えていたにもかかわらず慌てすぎて舌を噛みそうになった。さっきからこの人には驚かされっぱなしだ。取材なんて言ってもちょっと話をするくらいだと想像していたし、市としてもこんなド田舎の寂れた中学校にそこまでの労力をかけられるほど暇じゃないだろう。
「や。それがね」
ニヤリと笑われて嫌な予感が僕の背筋を寒くする。
「この件のことを地域応援の特集記事として年度末まで定期的に連載させてもらいたい、という話になっているんです。それでこの合宿のことは先駆けというかで」
要は市としてもこの取材にかなり気合いを入れているということらしい。いや、そんな話誰からも聞いてないぞ。
なんにせよこの緊急事態では簡単な取材だって厳しい。まして密着取材だなんて想像もできなかった。
「いや……その、先程も言ったんですがいろいろ『アクシデント』がありましてその、僕ら職員にも余裕がないんですよ、本当に」
だからなんとか密着取材だけは避けられないか、と懇願したかったのだが、どういうわけか宮下さんはその目を余計にギラリと輝かせる。
「そう。さっきも聞きましたその『アクシデント』というのはなんでしょう?」
ははあ、この人は『記者』なんだ。と今更理解した。そしてどうやら記者という生き物は『アクシデント』という言葉が好物らしい。しまった。迂闊だった。
「ああ……ええと」
困りながらさっきまで怒涛の勢いで見つめ続けていたアマ高のコンクール曲のスコアをちらりと見た。瞬時に宮下さんの視線もそこを射抜く。
「総譜……コンクールの曲の、ですよね?」
「ええまあ……。けどこれはミト中のものではないんです」
「というと?」
もう取材が始まっていた、と気がついたのは松阪先生のことを話し終えて「妊娠のことはまだ非公表だそうで」と言い終えてからだった。
「響木先生」
「はい……」
一体なにを言われるのか。まさか「それではご迷惑ですよね」と引き下がるはずのないこの敏腕記者を前に少々緊張した。
「それはおもしろいですね」
反応に困る感想にもはや笑った。
結局その後も創部の頃の話や入部交渉について根掘り葉掘り訊ねられ相手がようやく寝てくれたのが日付を越えてからだった。
おそらく僕より十五歳以上年上だろうその人の寝顔を眺めてため息をつき、やっとスコアを再び手にした。
言うまでもなく生徒たちはすでに寝ている。起きているのは僕ひとりだろう。外の虫たちも賑やかだが今は生徒たちの寝息とイビキのほうがよく聴こえる。腕時計を見ると深夜二時を回ったところだった。僕が今夜寝る余裕は果たしてあるのか。幸い今日は指揮らしい指揮をしていなかったので体力は少しなら残っていた。
しかし密着取材……。この記者さんが指揮者の僕を見たら一体どんな反応を示すのか、怖いが少し、気にはなった。