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#34 タクトくんではない

 夏休みの迫る七月のある日、校舎の外では蝉が元気に鳴いていた。蒸し暑い音楽室で僕はみんなの前に立ちこう告げていた。


「この辺りで一気に成長するために、夏休みに二回、『合宿』をやろうと思うんだ」


「合宿……って、どこで?」


 皆がざわつく中で訊ねるのは梅吉。


「『天原山てんげんやま』って知ってる? アマ中の近くの山で、頂上付近にお寺があるんだ。アマ高の吹奏楽部が毎年そこで夏に合宿をやってるらしくて、今年はうちもそれにお邪魔させてもらえることになりました」


 言いながら日程などを記載した紙を配った。


「期間は今月、夏休み初日からの二日間と来月、コンクール直前の三日間。一度目はパート練や個人練を中心に進めて、二度目では合奏を中心に進めます」


 紙には集合時間や予定の詳細、持ち物と参加費が記してある。


 『合宿』という言葉に浮き足立つ生徒たちを眺めつつ、どうなるか、と未来を案じた。




「すみません、ヒビノ先生」


 その生徒が僕のもとへ来たのは翌日の昼休みのことだった。場所は職員室だ。


「ああ、ミクさん」


 顔を見てすぐに合宿の話だとわかった。


「やっぱり、泊まりで家を空けるのは難しいかな」


 僕が眉を下げて訊ねると多妹弟だいかぞくの長女は困ったような顔で首を傾げた。


「ほんまは、そうなんやと思うんです」


 今度は僕が首を捻る番だった。


「だからお母さんには言わんとこ、と思ってたんです。けど……なんでかもう知ってて。たぶん誰かのお母さんから聞いたんと思うんですけどね。それで、寝る時間なっても、朝なっても言い出さん私に、学校行く前にいきなりすっごい怒ってきて」


「え」

 ははあ、怒られたのか。


「『ちゃんと合宿行きなさい。行かんと許さん』ちて。もう……」


 そう言ってミクさんは泣きそうな顔で笑った。


「それで行かんわけにいかんくなったんです。でもおかあ絶対無理しよる。貧血もあるし、末っ子の夜泣きがまだ酷いのに、朝も早起きなん無理やん。一日くらい、って言うけど、それがもとで体調崩すことだってあるんよ? 私、心配で……」


 顔を伏せるミクさんを前に心が痛む。しかし僕は同時に不謹慎かもしれないが嬉しい気持ちも湧いていた。


 ミクさんがちゃんと僕に相談して、頼ってくれたのだ。冥利に尽きる、とまで言うのは大袈裟だろうけど。それでも。


「ミクさん」

「……?」


「話してくれてありがとう。大丈夫。僕がなんとかするよ」


 策はある。ただ、僕の『策』といえばなぜかいつもこの人絡みな気がしないでもないが。



「……それでそんな低姿勢で頭なんか下げてくるわけか」


「はい。無理は承知です。でもお願いします。すみません、美咲先生」


 言わずもがな、ここは天ぷら屋〈たちばな〉。僕の下宿先であり、美咲先生の勤務先だ。


 ミクさんの前でしっかりカッコつけた僕はその代償としてその夜こうして未だ苦手な美咲先生に頑張って自ら話しかけて、深々と頭を下げている。しろというなら土下座でもなんでもする所存だ。


「バカな人」

「はい。その通りです」


 要は合宿の日、ミクさんに代わってミクさんの家の手伝いをやってほしい、という無茶な依頼というわけだ。


「そもそもそれ、ミクちゃんやミクちゃんのお母さんには許可もらってるの?」


「まだなにも」


「はー? 私が行って断られたらどうするの?」


「いや、美咲先生なら少しくらい断られても無理やりやるだろうと」


 あ、しまった。口が滑った。

 痛烈なビームが見開かれた目から放たれてあわや殺されかける。


「お、お願いします。ミクさんと、お母さんのためです。いや、ミト中吹奏楽部のためです!」


 また頭を深々と下げる。美咲先生がふんーっ、と鼻でため息をつくのがわかった。


「ねえ、ところで今回はそれなんで『タクトくん』で言おうと思わなかったの?」


「……へ?」


 質問の意味がよくわからず顔を上げた。ちなみに『タクトくん』というのは美咲先生が勝手に決めた『指揮者の僕』の名前だ。


「だって前に顧問の手伝いを頼んできた時は『タクトくん』になって無理やり押し付けたでしょう? だからやろうと思えば今回だってその手が使えたわけじゃない。なのに『ワタル』のままだから」


 ああ、そういえばあの時は酒を飲んだついでに『あっち』で強引に引き込んだんだったな。


「……『あっち』は気が短いんで。相手の気持ちを無視するところもあるし、いい場合ばかりじゃないんです」


 こうしたい、と思ったら一直線。自分の音楽を追求する『指揮者』らしい性格といえばそうだが。


 美咲先生はキョトンとした顔で僕を見ていた。


「顧問手伝いの依頼の時は、強引に決めてすみませんでした」


 まああの時はそれが最善と思った上でやったわけだけど。


「でも今回はあの時とはちがいます。ちゃんと美咲先生の意見も聞きたいし、ほかにもっといい案があるのなら無理に美咲先生がやらなくてもいいと思うし」


 どうですか、と問うように見つめると、美咲先生はふいと目を逸らせて黙ってしまった。なんだろうか。


「いいですよ」


「……え」


「やります」


 ホッとしていると僕の晩ごはんとなるはずの天丼からメインのエビ天を二尾とも小皿に取って「代わりにもらう」と持ち去ってしまった。ああ僕のエビが。まあいいけど。


 エビ天以外のおかわりを取られないうちに残りの天丼をさっさといただくことにした。




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