#30 言うことはない
古びたレンガの外観。ツタが絡んで、周りは深々と草が生い茂っている。年代物と思われる黒く立派な門の横には読みづらい書体でこう書かれていた。
『天原天文館』
普段はとても静かなこのロビーも、年に一度、六月に催されるこのサマーコンサートの日には多くの人で賑わうのだそう。
会場の貸出しはたしかに『その人』の許可を得たものなんだろうけど、まさか『ご本人』と直に会って話せるとは思っていなかった。
「はじめまして。館長の西野 湊斗です」
名刺を頂戴すると僕の横で梅吉が羨ましげに口を開けて眺めていた。気がついた館長さんが「よかったら」と男前の笑顔で無垢な少年にも差し出してくれる。普段はお喋りのはずのキウイは耳を真っ赤にしてお礼すらまともに返せていなかった。
「娘がいつもお世話になっているそうで」
お世話になっているのは完全にこちらだが。「いえ」と返すと目の前の有名人は「いろいろと聞いてますよ」と微笑んで驚くべきことを提案してきた。
「全校生徒で頑張っておられる美音原中のこと、市の広報に載せてもらったらどうかな、と思うんです」
「え、広報!? ……ですか?」
聞き返すと西野館長は男前の笑顔でこくりと頷く。
「ええ。役所に知り合いが何人かいるので僕から言えば記事にしてもらえると思うんです。そしたら少しは『美音原中』の知名度も上がります。もちろん先生が気乗りしないのなら無理にとは言いませんが」
まさかだった。だけどこれは、チャンスだ。それもまたとない大チャンス。
「ぜ、ぜひ。よろしくお願いします!」
「はは、よかった。今の僕にできるのはそれくらいなので、おこがましいかもしれませんが少しでも、まあお詫びというか、応援というか」
「お、お詫びだなんて」
こんないい人を毛嫌いしてはバチがあたる。
「僕も応援しています。『全国大会金賞』ね。娘もお世話になってるんだし、今後僕でなにかお役に立てることがあればなんでも仰ってください」
完全に恐縮したタイミングでアマ高の松阪先生がやってきて話題は今年のサマーコンサートのことへと移っていった。
リハーサル前からミト中の生徒たちには緊張がうかがえた。
「え、大丈夫? 梅吉。そんなに緊張しないで」
そう言ってみるものの我が校の部長からは「は、はん」というカチコチで意味不明な返事しか出なかった。
「……はは。そんなじゃ『良さ』が出せないよ、梅吉。せっかくいっぱい練習してきたんだから、本番楽しまないと」
「楽しむ……なんて」
できないか? 簡単なのにな。
「アマ高生たちもいるし、大丈夫だってば」
やんわりと肩を叩いてその場を離れた。今回僕は指揮はしない。アマ高単独で演奏する数曲もミト中が混ぜてもらう二曲も、すべてアマ高顧問の松阪先生が指揮することで合意していた。ミト中の生徒たちは「えー!」と本気か建前上かわからない不服の声を上げたがさすがに大先輩の先生の前でまで『アレ』を晒すのは僕自身が嫌だった。
そんなわけで彼らにとっては初めての『僕以外の指揮』だ。さて。どうなるか。
部屋の隅から梅吉を見ると、緊張でガチガチだった彼は隣の席の西野さんに手をマッサージ……されかけて「むりむり!」と大きく断っていた。なにしてんだ。
「緊張ほぐれるよ?」とかなんとか言われて顔が真っ赤になっている。はは、なるほど?
青春らしい光景にくすりとしつつ、程なくして始まったリハーサルに集中した。
ふむ。さすがは高校生。中学からの経験者は少なく初心者ばかりだと聞いていたがバンドとしてその演奏はなかなかのものだった。
なにより『本番』を一度以上経験している生徒たちだ。その点だけでもミト中のみんなとかなりの差が出る。
着席した生徒たちを脇から眺める。やはり硬くてみな顔が怖い。初めての本番前だ、無理もないか。本当はもう少し余裕を持って高校生たちの本番前の雰囲気や振る舞いを学んでほしかったのだが。
松阪先生の指揮は的確で美しかった。なにがってソプラノの歌声が。なるほどこの先生は『歌』が本命なのかもしれない。音楽教師にもいろいろいる。
リズム、伸び、緩急。歌うように。弾むように。押し寄せるように。……はは、ついて行けてるか? みんな。
そうして迎えた本番。ミト中が参加するのはラストの二曲だ。マイクを握った西野さんから紹介された中学生たちは舞台上に温かく迎えられ、それぞれの楽器を携えてそれぞれの演奏席へと収まっていく。
硬い足取り。舞台袖のこちらにもその緊張が伝わる。おそらく、客席にも。
皆の前に立つのは白のブラウスにスラックスというシンプルな正装をした松阪先生だ。一呼吸つき、手に持つ指揮棒が静かに挙げられると、舞台上にいる90名近くの若者たちの呼吸音が、「すっ」と揃った────。
一曲目は吹奏楽の定番曲で一般的にもよく知られる『コパカバーナ』。軽快なラテンのリズムが特徴の一曲だ。この選曲の理由はパートごとに注目される仕様になっていることで挨拶がわりになるから。だがそのぶんパートごとの粗も際立ってしまう。
あらら。そう、こんな風にね。
はは、指揮棒を手にしていないのに少々辛口が過ぎたかもしれない。
二曲目はテレビCMなんかでもよく聞く名曲『風になりたい』。梅雨の鬱陶しい空気を爽やかに吹き飛ばす、という狙いらしい。
爽やかに……ねえ。
『混ぜるな危険』が混ざってしまったような不快音。これの原因はそれぞれの音程の微妙なズレだ。音は二つが近いほど不安定な響きを出す。ひとつの音程を目指していながら生じている微妙な音の差は、全体の音を汚く濁らせる。
今日の奏者たちはその不快感に気づきながらコントロール出来ずにいる。さらにそれをつんざく「ピィッ」というクラリネットのリードミスがしつこく何度も。はは、下手なバンドらしい演奏だった。
さて。我らミト中吹奏楽部は、この初舞台でなにを感じただろうか。少し厳しい言い方だがどんな演奏だろうと曲が終われば拍手は起こる。高額な座席代を出しているわけでもない地元の観客が、一生懸命演奏した中高生相手にブーイングなどするはずはない。
発展途上の彼らを誰より厳しく評価するのは、いつだって『彼ら自身』なんだ。
「ヒビノ……」
解散後に声をかけられた。振り向くといつもの元気が完全に消え失せしなびた梅吉がそこにいた。今回僕からの感想らしいものを述べなかったからそれを聞きに来たのかももしれない。だけど、必要か? 充分わかった顔をしているが。
「本番って……すごいな」
「……どうだった?」
「……のまれた」
ほほう、いい感想だ。
「ヒビノとしては、どうやった?」
聞きたいのは僕の方だ。意地が悪いと思いつつ「部長としてはどうだった?」と聞き返してやる。
梅吉は少し面食らいながらも、ボソボソと話しはじめた。
「……よくは、なかった。練習でできとったはずのこと、本番でできんかった部分がいくつもあった。全体の音も、アマ高の先輩たちをかなり頼った感じやったし、それすらうまく混ざってなくて気持ち悪かった」
「『気持ち悪かった』か」
繰り返して「へえ」と笑った。そこまでわかるとは大したものだ。
「よくわかってるじゃない。なら僕から言うことはもうなにもないよ。今回の目的はあくまで『本番を経験すること』。それでみんながそれぞれ『本番』を味わえたなら出来の方はまあ言っちゃ悪いけどどうでもいいんだ」
梅吉は「え……」と改めて僕の顔を見る。
「本番は、恐い。でも恐がってほしくない。大丈夫。上手くはなってる。今日のみんなの演奏を『下手だ』とだけ思ったお客さんはたぶんいないよ」
慰めたが梅吉は複雑な表情を浮かべていた。それでいい。その気持ちが、糧になる。
「これが終わって、いよいよ次はコンクールの曲に入ろうと思う。練習、もっと厳しくなるから、覚悟しといて」
がんばれ。
大丈夫。ミト中はまだまだこれからだ。
ありがとうございます。
幕間一話をはさんで第3章に入ります!




