#29 演技ではない
「はあー……」
「ありゃ、お疲れやねえ先生」
おかみさんに勢いよく肩を揉まれて「おおお」と思わず声が出た。
「そんなに大変なの?」
コップの水を出しながら美咲先生が訊ねる。また文句かと身構えつつ「まあ」と短く返すとやはり睨まれた。
「なにがどう大変なんですか? 独り占めしないでちゃんと教えてよね」
「独り占めって……」
「そうじゃないですか。私は平日は行けないんだから。週に一度二度会うだけじゃ、あの子たちのこと全然わかってあげられない」
なるほど……。生徒たちを想ってのことだとわかると少し嬉しくなった。
「ふふ。案外熱血なんですね、美咲先生って」
僕がつい口を滑らせるとあからさまに膨れるから身の危険を感じこちらは縮こまる。
「な、バカにしないでよ!? 私だってちゃんと役割を果たしたいんです!」
「わ、わかってますよ。ええと、今週、土曜の練習でも合奏をやるんで、そこで見てもらえれば全員の現状がわかると思います。美咲先生の存在が生徒たちの心の支えになってるのは確かです。だからそんなに心配しないで」
言ったものの『あの指揮』を美咲先生にまで晒すのかと思うと憂鬱だった。まあここまで来たら避けられるもんでもないが。
考えながら丼のえび天をかじった。瞼が重い。食べながらも眠気がひどかった。ここ最近、特に『合奏』を終えた水曜の夜はいつもこんな調子だ。僕にとって指揮をすることはかなりエネルギーを使うらしい。
眠り込んでしまう前にさっさと天丼を口に押し込んで水で流すと、お礼を述べて自室へと向かった。
迎えた翌、土曜。
「じゃ、今日はここまで。来週水曜日の合奏で詰めるから、そのつもりで練習しといてください。午後は自主練です。僕と美咲先生が順番に各パート回るので質問とかはそこで。ではおつかれさまでした」
「「おつかれさまでしたっ!」」
「あのっ!」
音楽室を出て廊下を歩いていると美咲先生が追って来た。やはり来たか。合奏中もかなり熱い視線を感じていたからこうなると思った。
「ああ美咲先生、おつかれさまです」
一応普段通りに対応してみた。
「あの……びっくりしました。お酒飲んだ時以外も、出るんだ?」
「『出る』って……」
幽霊じゃあるまい。
「今は、どっち?」
「僕は僕ですよ。梅吉たちにもよく言うけど」
「なぁんだ『ヘタレ響木』か」
「う、いきなり暴言ですか」
いくら事実でも『ヘタレ』はひどい。
「私、『キレキレ響木』の方と話がしたいんですけど」
「……変な呼び方やめてください。だから、それは僕なんだってば」
「『俺』って言ってたじゃない! 完全別人でしょ、それとも演技?」
演技だとしたら僕は教師ではなく役者を目指したい。
「人聞き悪いな、それじゃまるで僕が普段言えない本音を音楽を盾にしてぶちまけてるみたいじゃないですか」
「そう……なの?」
「ちがうってば!」
珍しく大きめの声で否定した。はあ……。どうやらちゃんとした説明が必要らしい。面倒だけど仕方ない。
「……子どもの頃は普通だったんです。けど大学で初めて指揮棒を持った時からなんでかそんなで。自分でも戸惑ったけど、どっちも自分なのは確かで。今は受け入れてます。それとお酒飲むと出るのもそう。まあある種の『解離性障害』、いわゆる多重人格だとは自覚してます」
美咲先生は「多重人格……」と繰り返してまた僕を珍しそうに見る。
「それで美咲先生みたいな反応もいつもそう。普通の状態の時は『おまえじゃない』とかって言われて、無理にタクト持たされたり、お酒飲まされたり……。そんな変な人生を歩んできたんです」
「ん、タクト持たされたり……って?」
あれそうか、そこに気づいてはいなかったのか。
「ああだから、合奏だからとかそういうスイッチじゃなくて、これなんです。これを持つかどうかで切り替わる」
言いながら指揮棒ケースを示した。
「えっ、『タクトを持つと切り替わる』!? なにそれ、マンガ!?」
元々大きな目が更に見開かれて迫力が増す。こわい。食われる。
「その指揮棒になにか秘密があるんですか?」
「なにもないです。ただの指揮棒」
しかもよく叩き折るからもう何本目かの安物だ。
「なら棒ならなんでも持てば切り替わるの? 例えばこういう、ペンとか」
「……指揮棒として使うのなら」
そのあたりの線引きは実際曖昧でその時の状況なんかも大きく影響する。なんならなにも持たない『手振り』の指揮でも変化は起こる。これは自分でも不思議に思うところだ。
「僕にもよくわからないんです。けどそれが事実なわけで────あ、ちょと」
話す僕の手元から指揮棒ケースを抜き取った。え!? まさか!
「美咲先生……!?」
「一回だけ試させて」
なんて自分勝手な人だ。人の大切なものを簡単に奪い取るなんて、どこのジャイアンだ。
反抗する勇気はなく差し出された『それ』を渋々手にした。──瞬間、空気が変わる。こうなったら指揮者バージョンで撃退するのが得策だろう。
「……こういうことはこれっきりにしてくださいね。つーかできればコレ秘密にしてほしいんすけど。特に教頭とかその辺には」
「うわあ……」
「聞いてます?」
「どういう心境なわけ?」
「なんだその質問」
「う、興味本位っていうか、ね。響木先生みたいな人、初めてで」
興味本位だと。正直なのは褒めるが言われて嬉しいわけはない。意識せずとも大きめのため息が出た。
「もうしまいますよ」
「ああ、待って」
「どっちも俺なんだからいいだろーが」
「ええっ、全然ちがうのにっ!」
「はあ?」
なんだこいつ。
「あの、もう少し話、しません? 今後の部活方針とかっ」
「タクト持って?」
「タクト持って」
「なんで」
「えっ……だから」
ははん。なるほど? この人も俺に対して『そういう見方』をする人間ってわけか。
「美咲先生、そういうの迷惑なんでほんとにやめてください」
「えっ、あ!」
ぱちん、と音を響かせてケースを閉めた。
「……午後の自主練、フルートパート中心に木管全体をよろしくお願いします。僕は金管から順に回るので。天ぷら屋の時間になったら自由に抜けてもらって大丈夫です。それじゃ」
ふい、と彼女に背を向けて僕は歩き出した。
はあ。またこのパターンだ。つまり彼女は、指揮者バージョンの僕のことがいたく気に入ったらしい。嬉しい? まさか。僕がこれまでそれでどれだけ酷い目に遭ってきたことか。正直もううんざりだった。
待ってよ、ねえ、と騒ぐ声を背に受けながら、さっさとその場を離れた。
雑務を終えて夜に帰宅。いつも通りに天ぷら屋の戸を開くと大将の笑顔がひときわ眩しく見えた。
「いらっしゃい! おう先生おかえり! なんや聞いたで、二重人格なんやて?」
「美咲先生にクレームをひとつ」
「あいよー! 美咲ちゃんにクレーム一丁!」
大将のノリの良さだけは褒めよう。
「おつかれさまです、響木先生」
「言いふらさないでって言いましたよね僕」
「そうだっけ」
白々しくとぼけて舌を出した。やっていい年齢かは死にたくないので訊けない。
「ま、いろんな人がおるさ、美咲ちゃん。なーんや急に響木先生への当たりが柔らかなった気いするけどどうかした?」
大盛りの天丼を僕の前に出しながらおかみさんは美咲先生をニヤリと見る。
「そ、そんなことないよ」
あからさまに動揺されてはこちらも反応に困るのだが。
「お水どーぞ」
「はあ、ありがとうございます」
まあこれで彼女から僕への当たりが柔らかになるのなら悪い話でもない。「ねえ」
「っ……なんですか」
予想以上に距離が近くてたじろぐ。なんなんだ。
「『タクト』って名前はどう?」
「……はあ?」
意味がわからない。
「僕は『ワタル』っていうんですけど」
「それは『ヘタレ』のほうでしょ」
「『ヘタレ』とか言わないでもらえません?」
「ややこしいじゃない? 今どっちか、自分ではわかるかもしれないけど。梅吉たちだって『ヒビノ』と『響木先生』で分けてるみたいだし」
「だからって新しい名前なんていらないです」
「私は呼ばせていただきます」
「……ご自由にどうぞ」
本当に強引で自由な人だ。やはり女性版ジャイアンか。なるべく関わらないでいたい。まあ無理だろうが。




