#02 期待通りではない
◇
母親が家を出たのは必然だった、と芹奈は思っていた。
好奇心旺盛な上、派手好き。娘が中学生になっても少女の心を持ったままだった母が、こんななにもない田舎でおとなしく専業主婦なんかやれるはずがなかった。
芹奈の中に『引き止める』という選択肢は初めからなく、それはまるで上京する姉を見送る妹のような心境だった。
「人生、たのしんで」
すべてを理解したふうを装って言ってみると、相手は嬉しそうに頷くから。芹奈にはやはりこの人を母としたままにはできなかった。それは芹奈のほうが母よりいくらか、大人だったからかもしれない。
空いた穴は、部活で埋めようとした。なにかに熱中していたら、ある程度のことは忘れられた。
顧問は美しい女性の音楽教師だった。美咲先生、というその人は芹奈に割り当てられた楽器と同じ、フルート奏者だった。
担当楽器が同じということで、自然と指導を受ける時間はほかの部員より多くなった。「スジがいい」という美咲先生のことばの通り、芹奈には素質があって、十教わるだけで十二はできた。
やがてほかの部員たちからも『師弟』とみられるようになってきた頃、美咲先生から、ではなく、父親から話をされた。
「美咲先生と結婚しようと思うんや」
まるで知らなかった、わけじゃない。子どもといえど中学生。幼心にうすうす感じてはいた。さすがにいつどこで出会ったかまでは知らないし聞かなかったが、なんとなく、そんな気がしていた。
「いいよ」
あっさり答えてみせると父親はバカみたいに安堵した顔になった。
美咲先生となら、うまくやれる。母親の代わりにはなれなくても、穴を埋めるセラミックにはなってもらえる。
芹奈も芹奈なりに自分を納得させて心を決めた、そんなある日。
ほんとうに、なんでもない『ある日』に、その嵐は舞い込んだ。
◇
深海にいるかのような、静かな始まり。気が付かないくらいに静かに、だけど確実に、そこから始まる。細かな粒が見えて、徐々に水面へと向かって昇る。あぶくが虹色に光り、さかなの腹がきらめく。
ばしゃん! と弾けるように空気に触れる。途端に音が押し寄せる。鳥がさえずる。獣が吠え、うたう。重なる旋律に聞き惚れているうちに地響きにも似たけたたましい低音が響き、いつの間にか絶頂を迎えている。
このままでいたい。
このまま音に酔いしれていたい。
だけど確実に終わりは近づいていて、音は自然とひとつの塊になってゆき、やがて、ひときわ大きな光となり、そして、
握られた指揮者の手の中にあっさり消える。
大きな余韻だけをのこして。
瞬きも、息さえも忘れた数秒の静寂ののち、どっ、と押し寄せるような拍手がホールを膨張させるほど鳴り響く。
忘れられない光景。
忘れられない快感。
鳴り止まない大拍手────。
いつのことだったか、天ぷらを揚げる音が大観客の拍手の音に似ている、と友人に話したことがあった。
何度何人に話しても誰にも共感してもらえず笑われた。
────パチパチパチパチ……
共感が得られなかったからといって自分の耳を否定はしない。この音は、やはり大拍手だと今でも思う。
「おはようございまーす……」
「お! 先生おはようさん!」
借りている部屋を出てすぐの階段を降りたところに靴棚があって、その先は仕切りもなしにいきなり店になっている。
僕の冴えない挨拶に満面の笑みで応えてくれる初老の男性はここの大将。板前のような白衣に身を包み、ねじりハチマキを巻いている。髪型は白髪混じりの角刈り。今後希少価値が上がっていきそうな風情だ。『エプロン』ではなく『前掛け』と呼ぶべきそれの裾には紺色の糸でこんな刺繍が施されている。
〈天ぷら たちばな〉
それがこの店の名前。僕がこの春からお世話になることとなった下宿先だ。
いや、いくら大拍手を浴びたいからってなにも好きで天ぷら屋の二階を間借りしているわけじゃない。さすがにそこまで変態じゃない。
「先生ぇ、今日の新作、いっとく? 今日はなんと……ぬか漬けきゅうり天や! 初めてっしょ? わしも初めて! かっははは」
「う……はは、遠慮しときます」
靴棚から自分のものを取り、履きつつ苦笑いで答える。
「あんった、朝からいらんわよそんなん! ねえ、先生。あっははは!」
反り返るように大笑いするのは大将よりいくらか体にふくふくと厚みのあるおかみさん。こちらは白衣ではなくえんじ色系の濃淡でデザインされた仕事着だ。
こんな田舎で天ぷら屋なんて経営は大丈夫なのかとはじめは心配したが、店は昼も夜もそれなりに賑わうから不思議だ。客は一体どこから来ているのか。間違ってもそこの山に住む狸や妖怪じゃないとは思いたい。
「いやー。今日から新年度が始まるわけやな! ええねえ! 先生もやっと『先生』になれるちわけや。ほでは行ってらっしゃい張り切って!」
「はは。……いってきます」
どれだけ明るく見送られても、やはり気持ちは晴れなかった。
引越し自体は数日前に済ませていて、学校での勤務ももう始まっていた。ただしそれは『春休み』中のことであったため、実際に教務に就くのは今日からとなる。
外は春の陽射しが眩しかった。
中学教師になって五年。これまでに二校赴任したがいずれにも吹奏楽部は存在しなかった。運のなさを恨んだが、この春ついに念願叶って吹奏楽部のある中学校に赴任できることとなった。
よし。やっとだ。これでまた部活ができる。懐かしいあの日々を『顧問』として味わえる。慣れないガッツポーズまでして期待に胸を膨らませたが、ふたを開ければそこは市内でいちばん小さい、いちばん田舎の、いちばん知らない中学だった。
山奥すぎて自宅からは車でも通うことが不可能だった。下宿先を探したのだが信じ難いことに空き部屋どころかアパートそのものがなく。教頭のツテで今の下宿先である天ぷら屋を紹介してもらった。
──そうまでして来てもらわんでも。
僕だってそう思わないこともない。だがここに吹奏楽部が『ある』と聞いたからには多少のことは妥協できた。肩身の狭い居候だろうと、部活さえ始まればそう長く自宅にいることもないはずだから。
天ぷら屋での下宿は大将夫妻の人柄のよさもあり順調だった。間借りとあって部屋に鍵がないのは難点とも思えたが、使い放題の電気に水道、そこに昼食用の天むすと天丼の晩ごはんまで込みでたったの月三万円という破格の好条件。毎晩の豪華な天丼だけでも半月経たずもとが取れる。
田舎暮しはたしかに不便ではあるがもともと物欲などないし身体も丈夫なほうだ。加えて順応性もそこそこにある。数日住んでみて困ることはそれほどなかった。
なんにせよこれで長年やりたかった教師生活が送れる。生徒がどれだけ少人数だとしても、校内で楽器に触れられる。指揮ができる。それだけで幸せだ。
……というのに。
僕のそのパンパンに膨らんだ期待が一気にペシャンコに踏み潰されたのは数日前の、赴任初日のことだった。
「は……ない?」
「はあ。ないんですわ、日比野先生」
「……ひび、き、です。すみません」
「ああ、失礼。せやから、ないんですわ」
「いやでも、あると聞いて来たんですが」
「うん。あったにはあったんですぅ、ついこの間までは。ほでも入部者が絶えて、顧問も昨年度でちょうど退職したもんで」
「え……つまり、廃部、ってことですか!?」
「ええ、ま、そうゆうことですわな。実質」
「そ、そんな、なんとかできないんですか!?」
「なんとかちぃ、言われてもねえ」
唖然……。
「まあそう気を落とさんと。日比野先生は二年生の担任、やってもらいます。一番多い学年やし、気合いを入れて。ね!」
「ひび、き、…………いえ。わかりました」
この瞬間、僕の『妥協』はただの『苦痛』と化した。