お隣の楽器がうるさい
「またはじまった」
夫が溜め息を吐いて立ち上がり、ヨガマットをひろげてストレッチをしていたまり子はそれを仰いだ。「お隣?」
「そう。お前、気にならない? ほんと、寛大だよな」
夫は刺々しく云い、リビングから出て行く。お隣へ抗議するのだろう。
まり子は夫から投げつけられた言葉がおなかのなかへゆっくり沈んでいくような気がして、せなかをまるめる。言葉のとげで体の内側からちくちくさされているみたいだ。
下手くそな管楽器の音がかすかに聴こえる。――わたしだって、気にしてない訳じゃない。あのひとが気にしすぎなの。彼は神経質だから。
門馬まり子は女優だ。いや、今は「俳優」と表記される。
十九歳で、今はなくなってしまった新人女優コンテストに合格し、映画デビューを果たした。その後もコンスタントに映画やドラマに出演し、三十五歳で結婚してからは食器洗い洗剤やかび取り剤などのCMにも出演するようになり、役の幅もひろがった。
門馬、というのは芸名で、本名は違う。コンテスト優勝後、すぐに所属した芸能事務所の社長が、健康的なまり子の体型を見て「和製マリリン・モンローとして売りだそう」と云いだしたのだ。名前がまり子なら丁度いいと。
まり子に断る権利はなく、凡庸な名字は封印され、「頭文字も一緒にする」という社長の決断で門馬まり子という芸名をもらった。
社長の思惑は外れ、まり子はかの大女優のような扇情的な役をもらうことはほとんどなかったが、どんな役でも文句を云わず真摯に向き合う彼女をつかいたがる業界人は多かった。デビューから間もなく、チャリティ活動に参加しはじめたのも、彼女の印象をよくしていた。
まり子は地道に、実直に、俳優をしていた。
ひと月後から撮影が決まっているドラマのプロデューサーに呼び出され、TV局へ行ったのが、一週間前のこと。
まり子はそこで、ドラマが放送されるのと同じ局で放送している、健康番組のことを聴かされた。まり子はTVが好きなので、その番組を知っていた。
ダイエット企画に挑戦してみないか、と云われ、まり子はしばらく頭がまっしろになった。
たしかに最近、下腹が出てきていた。脚も太くなった。デビュー当時と比べたら、確実にサイズは大きくなっている。だが、TV番組で密着されるほど肥っているつもりはなかった。
プロデューサーはまり子の表情が強張ったのに気付いて、おもねるような顔をした。「違うんですよ、マリさん。マリさんがそんな、みっともない体型してるってことじゃないんです。そうじゃなくて、ほら、最近話題でしょ? 腸活ってやつ。菌活とか、温活とか、色々あるじゃないですか? そういうのを、マリさんくらいの年代の女性がやったらどうだろうって云うことですよ。若い女の子がちょっと食生活をかえて体重落ちるのは普通でしょ」
とおまわしに、お前はもう若くないんだぞと云われているのか、とまり子は思ったが、云わなかった。プロデューサーの云いたいこともわかる。たしかに、まり子は今年で四十二歳になり、「おばさん」役も増えてきた。作中でそう云われるような役だ。
プロデューサーは困ったような顔をつくった。番宣としてバラエティ班に直談判したのだと云われて、まり子はダイエット参加を承知した。まり子はドラマで、中盤からどんどん扱いが大きくなっていく役をもらっていたし、撮影に参加するまではまだ時間もある。すっきりした体になるなら、役柄にもあっているし、いい話だと思った。思うことにした。
夫は戻ってくると、冷蔵庫をあさり、缶チューハイを飲む。かすかに香りがして、まり子は顔をしかめた。彼女は酒を呑むことはない。CMも断っていた。下戸なのだ。
「飽きないね、それ」
「この間、説明したでしょ?」
まり子は微笑みを夫へ向ける。「テレビの企画なの。ドラマの宣伝をしてもらえるんだから、これくらいはしなくちゃ」
「ふうん。なんだか、テレビ業界もしみったれてきたよな」
まったく業界と関わりのない仕事をしている夫はそう云って、まだ開けていない缶チューハイと、まり子が大事にとっておいたチーズを手に、リビングを出て行った。書斎で呑むのだろう。酒をきらうまり子に対しての配慮だと云うが、まり子はそれに欺瞞を感じている。
あのチーズ、食べたかったのに。
だが彼女はそれを口にしない。
管楽器の音がまた、かすかに聴こえてくる。トロンボーンだろう。オーケストラに関する映画に出たことのあるまり子は、けれど自分の耳を信用できず、あとで夫に訊こうか、と思う。夫がまともに答えてくれるとも思えないが。
「マリさん、マリさんですよね!」
台本のはいった鞄を手に街中を歩いていたまり子は、呼びかけられて、交差点の前で立ち停まった。先程まで、喫茶店で台本を読んでいた。これから、また別の喫茶店へ行って、台本を最初から読み直す予定だ。
慌てたように走ってきた、金髪の女性が、まり子の手をとる。「お久し振りです!」
「ああ、おはようございます、南山さん」
南山は金髪をふわふわ揺らすようにして、何度も頷いた。満面の笑みだ。
まり子は業界内では、マリさん、とか、マリちゃん、と呼ばれることが多かった。一般人がまり子に気付いて声をかけてくる場合は、門馬まり子さん、とフルネームで呼ばれることが多い。
まり子はひとの顔を覚えるのが得意で、南山のこともはっきり覚えていた。
「おめでとうございます」
「え?」
「あら、だって、ちょっと前に監督デビューしてらしたから。ドラマの時に、監督になりたいって云ってたでしょ、南山さん」
「お、覚えててくれたんですか?」
南山は感激したらしく、目に涙をうかべた。まり子はそれを、切ないような愛しいような気持ちで見詰めている。南山は、十年ほど前、今の夫と付き合い始めた頃に出たドラマの、ADだった。雨で撮影できずに出演者に怒鳴られても、機材の不具合で監督に叱り飛ばされても、腐ることなく精一杯仕事をしていた。その一生懸命さや必死さが、まり子には新鮮だったし、まぶしかった。
南山はにっこりする。
「わたし、マリさんみたいな凄い女優さんでも、気さくに話してくれて、それでやっぱり映画とかドラマをとるのって素敵だなって……マリさんに宣言してから、勇気が出たんです。ほんとに監督目指そうって」
「ううん、南山さんが頑張ったからよ」
「頑張れたの、マリさんのおかげです。マリさんはずっと綺麗で、ずっと素敵だから」
不意に、誉められて、まり子は頬をゆるめた。かなり芸歴も長くなり、歳下のスタッフが増えた今、誉められてもお世辞だろうかと考えてしまうことが多くなった。だが、南山は今、利害関係もなく、同じ作品に携わっている訳でもない。彼女からの賞賛は素直にうけとれる。
「あの、宜しかったら、これからご飯でも」
「あ、ごめんなさい。実は、わたし、食事制限中なの」
「え、そんなに痩せてるのに」
南山はつい云ってしまったみたいで、ぱっと口を覆った。まり子はくすっとする。南山の素直な感想で、少しだけ気分が楽になった。
交差点の向こう――。
ふと目にはいった。なにが気になったんだろう、と目をこらして、まり子は口をぎゅっと噤む。
「南山さん、でも、わたし、コーヒーなら大丈夫なのよね」
「え、本当ですか? それじゃ、お茶しましょう!」
「ええ、あのね、行きたいところがあるんだけど……」
まり子は南山の腕を掴み、丁度青信号が光り始めた交差点を渡る。その向こうには夫が居た。彼はビルに這入っていった。彼の腕には若い女がぶら下がるみたいに掴まっていた。
「おかえり」
「……ただいま」
夫はリビングのテーブルにお皿を並べていた。エプロンを外しながら、まり子へ笑いかける。「今日は君の好きなムニエルだよ」
「ありがとう」
「きちんと、カロリー計算もしてるし、指定されてる食材もいれたから」
「あら、ほんと?」
「ああ。パプリカとえのき」
「ありがとう。あなたってほんとに素敵な夫だわ」
まり子がかがやくばかりの笑みで云うと、夫は笑み崩れ、キッチンへ這入っていった。冷蔵庫を開け閉めする音がする。
まり子は表情を消し、洗面所へ向かった。「手洗いとうがいをしなくちゃね」声の調子は普段のままだ。夫は疑わない。
食後まり子は、バラエティ番組の医療監修をしている医師からもらった資料を、ぱらぱらとめくっていた。また、あの下手くそな管楽器の音がして、夫がいらいらと足を踏みならす。
「まり子、ウォーキングでも行かない? さっきも注意したのに、あいつなにも聴こえないみたいだ」
「そうね……ああでも、ごめんなさい。マネージャーから電話が来ることになってて、台本の話かもしれないから」
「ああ、そうか……じゃ、ひとりで歩いてくる」
「喫茶店にでも行ってきたら?」
まり子は資料から顔を上げ、夫へ笑みかけた。「昨日、あなたがお部屋へ行ったあとにも、あの音ずっと聴こえてたの。十一時くらいまで……それまで、喫茶店でゆっくりしてきたら?」
「ああ、そりゃいいね。うん、ありがとうまり子」
夫はいそいそと準備し、そういえば資料が、とかなんとか云いながら仕事用の鞄も持って、出て行った。
まり子はゆっくり立ち上がると、きがえをすませ、部屋を出る。
「奥さん、放ってきたの?」
「大丈夫。あっちも仕事で忙しいんだよ」
「あっちは、でしょ。あなたはこうやってわたしと会ってるんだから」
「あのねえ、一応、こっちもほんとに仕事してるだろ。君という部下も居るし」
夫と隣り合って座っている、茶髪の女は、くすくすっと笑った。
三十手前くらいだろうか、と、まり子はその姿を、窓ガラスの反射でたしかめて、考える。きちんとした仕立てのパンツスーツに、完璧に調えられた眉、アーモンド型の目。
夫はまり子の一歳上だ。随分、若い子に手を出したものだな、と思う。
まり子はソフトドリンクをすすり、脚を組みかえた。彼女は以前、映画祭で着たドレスを身につけ、野暮ったいサングラスをかけている。どぎつい化粧を施しているので、誰も「門馬まり子」には気付かない。夫でさえ。
事務所の社長が和製マリリン・モンローとして売り出すことを画策するくらいには、まり子は豊満な体型をしていた。普段は肌を露出する役をあまりしないだけだ。
まり子はバーの、カウンター席に居て、夫と連れの女性は窓際の席に座っている。ふたりの顔は窓ガラスに反射していた。夫が顔を隠してくれたらいいのに、と少しだけ思う。それに、こんなにも雰囲気のある、いかにもなところじゃなくて、喫茶店にでも行ってくれたらいい。
「隣、いいですか?」
「……どうぞ」
体格のいい男性が、まり子の隣に座った。スーツを着ているのだが、胸板が厚くて型が崩れてしまっている。夫を密かにつけてきた緊張と、その男性のスーツとで、不意に笑いがこみあげ、まり子はくすくすと笑ってしまった。
男性はきょとんとしたが、次第に一緒に笑った。
「なんです?」
「あの」まり子は息を整え、笑いを引っ込めようとした。「ごめんなさい、わたし……ああ、だめ」
だが、不可能だった。まり子はしばらく笑い続け、男性もにこにこしている。
驚いたことに、夫はまり子の笑い声にまったく気付かなかった。ひとあし先に家に戻ったまり子がきっちり化粧を落とし、ヨガマットの上でストレッチをこなしていると、夫は普通の顔で戻ってきて、まり子になにも云わなかったのだ。
まり子もだから、なにも云わなかった。
「こども……」
「はい」
南山がはにかんだみたいに笑っている。
南山は、痩せて、男っぽくない男をつれてきていた。再会後、一緒に這入った喫茶店だ。あれから南山とは頻繁にやりとりしていた。
ご飯を食べましょうと誘われ、医師に確認して、食べても大丈夫なメニューを教わった。喫茶店へ来ると、南山は男性連れで、結婚を考えていること、妊娠したことを喋った。南山は髪を染めるのをやめているらしく、根元が数センチメートル、黒くなっている。
まり子は微笑む。「おめでとう」
「ああ、ありがとうございます」
南山は泣きそうな顔になり、恋人の手を掴む。
「マリさんに叱られたらどうしようって考えちゃって。両親には、籍もいれてないのにはずかしいって云われたものだから」
「そんなことないわよ。おめでたいことじゃない。ご両親も、吃驚してそんなことおっしゃったのよ、きっと。南山さん、監督としても成功してるんだし、なんにも心配もないんだから」
まり子は笑みを深くした。「あ、そろそろ南山さんじゃなくなるのかしら? それとも、恋人さんが南山さんになるの?」
まり子の冗談に、ふたりはくすくすっと笑い、まり子は満足した。南山に対して、うらやましさを感じたが、隠しおおせた。まり子は子どもをうんだことがない。
まり子が子どもをほしがっていない訳ではない。単に、夫の意向だった。
バラエティ番組の収録が近付いてきて、ドラマの収録参加が明後日という日、まり子はリビングで、ひとり、牛肉のステーキを食べていた。
分厚い肉をカットする。医師には許可をとった。赤身肉ならなんの問題もないそうだ。まり子はすでに数回、なにかしらの検査をうけていて、数値がよくなっていると医師は喜んでいた。
まり子はスーパーで、分厚いブロック肉を買い、据え付けのオーブンでそれを焼いた。ある程度でとりだして、あみで表面をあぶり、焼き目をつけた。味付けは塩だけ。添え物もない。
肉を切り、フォークで突き刺し、口へ運ぶ。チーズを食べたい……だが、まり子が食べたかったチーズは医師のお眼鏡にかなわなかった。
下手くそな管楽器が響いてくる。夫は最近、この時間帯には外に出てしまう。何度も抗議に行ったようだが、隣人はチャイムを鳴らそうがドアを叩こうが、まったく無視するらしい。
肉を咀嚼して、まり子は考えている。夫のことだ。どうやって殺すかを。殴る? 刺す? 毒を盛る?
チャイムが鳴った。
まり子はナプキンで口を拭い、席を立つ。洗面所で軽く口をゆすいで、玄関へ向かった。
かちゃっと錠が外れる音がして、まり子は顔をしかめる。
扉が開き、茶髪の女が立っていた。
「別れてください」
茶髪の女はなのりもせず、旦那さんと不倫してます、と云って、部屋にずかずか上がり込んできた。それでなにを云うかと思ったら、別れてくれと来た。
まり子はコーヒーを淹れ、マグを彼女の前へ出す。「妊娠したんです」
ぱっと、マグをひっこめた。
「なんですって?」
「妊娠しました。わたし、彼の子どもがおなかに居ます」
まり子はあおざめて、マグを落とす。
マグが割れ、けたたましい音が響いた。
茶髪の女性は怯えた顔になって、首をすくめる。
「妊娠?」
「……はい」
「そう。そう……」
お隣から大きな音がして、くぐもった声がかすかに聴こえてきた。なにを云っているかはわからない。まり子は壁を見る。マグは割れたままだし、コーヒーはカーペットにしみこんでいる。
「そう……子どもができたの……」
「ただいま」
「おかえりなさい」
「どうしたの?」
まり子は床からはがしたカーペットを、ごみ袋へいれながら、夫へ笑みを向けた。
「コーヒーをこぼしてしまって。ちょっとこの柄にも飽きてたし、丁度いいから捨てることにしたの」
「俺、気にいってたんだよ」
まり子は微笑んでなにも云わない。夫は不満げに鼻を鳴らした。
「……お酒、呑んだ?」
「あー、ちょっとね」
夫はソファへどっかり座りこみ、脚を組む。少しどころではなく酒を呑んでいるのはわかったが、まり子は指摘を避けた。
どうしてこのひとと結婚したんだっけ?
門馬まり子ではなくて、まり子として見てくれた、と思ったからだ。
結婚直前から、自分が思っていたのと違う方向へ物事がすすんでいった。
「台本、覚えなくちゃだから、ちょっと出てくる」
「ああ。起きてようか?」
「ううん。大丈夫。寝てて。鍵は持っていきます」
あのバーに行くと、スーツが型崩れしている男性が、友人らしい男性達と一緒に呑んでいた。「お隣、いいですか」
「はい……あ、この間の」
まり子はにっこりして、男性の隣へ腰掛ける。男性の友人達は、気を遣ってくれたのか、少しはなれた席へ移動した。
まり子はソフトドリンクを注文し、グラスのなかで氷が溶けるのをじっと見ている。男性がまり子の横顔を見詰めている。
「あなたは横顔も綺麗ですね」
「……お上手」
「いえ、冗談でもお世辞でもないですよ」
まり子は男性を見る。期待していたけれど、本当にここに居ると思わなかった。もう一度会いたい、と思っていたのだ。しばらくぶりに、本当に笑わせてくれた相手に。
そして、やっぱりまり子は、彼のスーツを見ると笑ってしまった。
「ごめんなさい。あの、わたし、待ち合わせなんですけど……よかったら、電話番号、教えてもらえません? ごめんなさい、古い人間なの……」
まり子は葬祭場の控え室で、あの茶髪の女性が泣くのを見詰めていた。夫の部下で、名字は平井。はじめて知った。
「平井さん、大丈夫だから」
「……奥さん」
「さっき話したこと、ちゃんとまもってね。約束」
椅子の上で体をまるめている彼女の肩に、腕をまわした。まり子は平井のせなかを撫でる。痩せた体だった。夫はこういう体が好みだったんだろうか。
「マリさん……」
マネージャーが廊下から、顔を覗かせる。「警察のひとが……」
平井がまり子の喪服の袖を掴んだ。まり子は彼女へ笑みかけて、優しく手を解かせると、廊下へ出た。
「家へ戻った時には、旦那さんは死んでいたと?」
「死んでいるかどうかはわかりませんでした」
まり子は機械的に答えた。「ごみ袋……あの夜、たまたま、カーペットをかえようとして、はがしたところだったんです。そのカーペットが這入ったごみ袋に顔をつっこんでいるみたいに見えて。彼はあのカーペットを気にいっていたので、取り出そうとしているのかと」
「だが、死んでた」
「そうみたいですね。なにをしてるのって云っても返事がないので、よく見たら、シャツに血がついていて、吐いたりしたのかしらと思って、すぐにマネージャーを呼びました」
「救急車ではなく?」
「動転していたもので」
まり子はすべての質問に、その調子で、しっかり答えた。
あの晩、家へ戻ったら夫が死んでいた。頭をかち割られ、ごみ袋へ突っ込まれて。
「夜遅く、家に上げるような間柄の友人は、居ますか?」
「さあ……」
「部下の平井という女性と、ご主人が……」
「ああ、それはありません」
まり子は頭を振る。
「彼女とは話しました。夫の不倫相手ですよね」
「……随分、冷静ですね」
「うすうす感じていたんです。この三年ほどは、夫はわたしによそよそしかったですし」
本当はもっと前から、夫とはベッドをともにしていなかった。彼が子どもをほしがらなかったから。
「平井さん、丁度あの日にうちに来たんです。夫が居ない頃に」
「……は?」
「それで、妊娠していると聴かされました。夫にも話したけれど、堕ろすように云われたと」
「それは……そうでしょうね」
刑事の無神経なひと言に、まり子は一瞬黙る。
「……ええ、そうでしょう。でも刑事さん、夫は子どもを持ちたくないと云っていたんです。わたしに対しても。だから、拒否反応は大きかったでしょう。それ以前なら彼女を家にいれたかもしれませんが、妊娠の話をされたあとなら別です。彼は彼女が来ても、追い返したと思います」
「成程。奥さんが不倫相手を庇うなんて、めずらしいこともあるものだ」
「庇うとか庇わないとかではありません。わたしは夫を殺されたんです。愛が少々さめていたと云っても、夫は夫です。無関係のひとを犯人と間違われたら悔しいですもの。ですから、本当の犯人を捕まえてください」
まり子が平然と云うと、刑事達は面喰らったらしかった。
週刊誌や新聞は、中堅女優の夫が殺された事件を激しくかき立て、あおった。どうやらまり子も、世間からは疑われているらしい。家で死んでいたら家族が疑われるのは当然よねえ、と、まり子はそのことにはあまりショックをうけなかった。
「マリさん、いいんですか、こんなに書かれてて」
「ええ……」
ドラマの話が流れてしまい、バラエティ番組からも出なくていいと断られた。まり子は久々に、コーヒーフロートを食べながら、南山と向かい合って座っている。
南山のおなかは、だいぶ大きくなっている。まり子はにっこりして、南山のおなかへ向けて喋る。
「赤ちゃん、お母さんはとってもいいひとよ。お父さんもね。こわいことはないから、安心してそこで大きくなってね」
「マリさん……」
南山が涙ぐむ。
からんと音がして、喫茶店の扉が開いた。まり子は南山に断って席を立ち、這入ってきた人物を迎える。
席へつれていくと、南山が唖然とした。
「このひと……」
「平井さんって云うの。夫と親しくしてたひと」
平井はぺこりとお辞儀し、まり子がすすめた席へ着く。こちらも腹部はだいぶ大きくなっている。
事件が起こってだいぶ経つが、警察は犯人をなかなか捕まえない。自分への容疑が濃いことは、まり子は気付いていた。仕事も減り、CMはなくなった。
だが、まり子はあまり危機感を覚えてはいなかった。妊娠した女性を世話する必要があるのに、自分のことで汲汲としていても仕方ない。
「平井さん、経過は? どうだった?」
「順調です」
平井は腹部を撫でる。まり子も平井の腹部を撫でた。「赤ちゃん、大丈夫だからね。お母さん、あなたのこと大好きだって。ゆっくり大きくなるのよ」
南山が泣き出した。「マリさん、ダンナさんのこと……」
平井が涙ぐみ、ありがとうございますと頭を下げる。
南山も平井も誤解している。まり子は夫に、ひと欠片の愛情も残っていなかった。
子どもは要らない、つくらない、と云われて、まり子は納得した。彼が云ったからだ。自分が子どもの頃、親に虐待されて、子どもを持ったら自分もそうなりそうでこわいと。
だがそれは嘘だった。それが理由ではなかった。
二年前、夫が電話しているのを聴いてしまった。まり子はその日も、台本を覚えに喫茶店をはしごしていたのだが、忘れものに気付いて家へ戻った。彼はたまたま休みで、電話していた。友人と。
「俺も子ども、ほしかったのになー。門馬まり子にちえおくれの妹が居るって知ってたら、付き合わなかったのに。ばかの子どもができたらいやだからさ……」
まり子には知能に障碍のある妹が居た。IQは70に満たないが、日常生活の大部分なら自力でこなせるし、仕事も持っている。
まり子が高校卒業後、ほとんどすぐに芸能界入りしたのは、妹の為だった。芸能人はお金を稼げると思っていた。妹が苦労しないように、自分が稼ごうとしていた。
チャリティ活動をはじめたのも、妹が居るからだ。事務所の意向で公表は避けているが、妹が暮らしやすい世のなかになるようにと、バリアフリーを推進している団体や、障碍者への差別反対を訴える団体に協力してきた。
その妹をばかにされた。
平井は夫に、妊娠したと云い、夫は喜んだ。
まり子とすぐに離婚するのは難しいだろうが、子どもがうまれるまでにはかならず離婚する。そう約束したらしい。
だが平井は不安になって、まり子に会いに来た。
堕ろすように云われたと嘘を吐きなさい、と命じたのはまり子だ。合鍵は没収した。平井が疑われないように。
「奥さん、どうして素直に教えてくれなかったんですか? 不倫相手と一緒にバーに居たと」
「わたしは不倫をしていません」
「ああ失礼、平井千奈さん、あなたの旦那さんの不倫相手と、バーに居たんでしょう? バーテンがやっと、あなた達のことを話しました」
まり子は刑事を睨みつける。
「彼女が悪く云われたらいやだからです。わたしがあの場所に誘いました。くわしく話したいからと。どうにかして夫と離婚して、平井さんと結婚させるつもりでした。妊婦さんをバーに連れてくなんて非常識ですけれど、飲んだのはお水ですし……コーヒーだって飲ませませんでした。あの場所は静かで、込み入った話もできそうでしたから」
「あなたはかわったひとですね」
まり子は黙っている。
夫が子どもをほしがっていたのは、事実だ。平井に対しても本当にあんなことを云ったのだろう。
だがまり子にはわかった。夫が責任をとるつもりがないことは。彼が本気で、平井と結婚するつもりなら、妊娠を告げられた時にまり子に別れを切り出している。
腐っても夫婦だった。ある程度は理解している。子どもを引き取って、平井と別れるつもりだったのだろう。彼は「女優・門馬まり子の夫」であることに固執していた。
「犯人が見付からなかったら、あなたか平井さんのどちらかを逮捕することになっていたかもしれませんね」
「そうですか。日本の警察は優秀だと聴いています。すぐに疑いは晴れたでしょう」
刑事は顔をしかめる。「優秀な割りに、何ヶ月もかかったもんです。あんた達が怪しすぎたんでね」
「それはどうも」
「犯人について、知りたいんでは?」
「ええ。わたしは夫を殺されましたから」
切り口上に、刑事は目を白黒させた。まり子は付け加える。「それに、疑われたので、仕事もだいぶ失いました。でも大丈夫です。真犯人が捕まったんですものね。ご近所トラブルなんて、彼らしいと思います」
犯人は、お隣の大学生だった。
あの管楽器は、犯人の趣味ではなく、サークルの先輩に強要され、宴会で披露する為に必死に練習していたらしい。自腹で何万円もする楽器を購入して。
まり子の夫は何度も抗議に行き、おとなしい犯人はそれにいいかえすこともできなかった。ただ、夫が喚くのをやり過ごすだけだった。
あの晩、酔った夫は、お隣に抗議に行った。犯人は丁度先輩が来る約束だったので、そのひとだと思って開けた。
カーペットを勝手にはがされた怒りもあったのか、夫はかなり激しい調子で犯人を批判した。最後には容姿や生まれ育ちまでいろいろといいはじめたので、犯人はそれに我慢ならなくなり、持っていた楽器で夫を殴った。
犯人は夫を部屋まで運び、頭から血が流れていたので、何故だか「床を汚したらよくない」と考え、頭をごみ袋へ突っ込むようにして死体を放置した。靴もきちんと脱いで上がっていたらしい。
まり子は、犯人に同情した。夫の皮肉やいやみを知っていたからだ。だが、実力行使に出たのはよくないとも思った。
「どうなるんですか、その子は?」
「精神鑑定中です。大学では陰湿ないじめに遭っていたようで、だんなさんがその相手に見えたなんてことも云っているらしい。奥さんにとっては残念なことになるかもしれませんね」
なにがわたしにとって残念なことなのか、この刑事は理解していない、と、まり子は考えた。犯人が無罪になったらわたしは大喜びするだろう。いやな夫を自分で殺さずにすんだし、平井さんはあの男にこれ以上くいものにされなくてすんだし、犯人は無罪になる。これ以上いいことはない。
半年後、まり子はドラマに復帰した。夫を殺された女優をつかう監督は居ないと多くのひとから云われたが、やはり監督業をしている南山の夫がまり子を起用したのだ。
まり子は大家族の母親役を立派に演じ、彼女の演技をしばらくぶりに見た視聴者達は、まり子を絶賛した。
裁判は始まったが、犯人には強力な弁護団がついた。まり子はくわしく教えてもらえなかったが、犯人は有名な企業役員の子どもだったらしい。
減刑嘆願書を出したかったが、事務所に停められて断念した。けれど、心配しなくても、犯人は無罪になりそうだ。立派な設備の整った、きちんとした精神病院へはいることになるだろうと、刑事から聴いた。まり子はほっとした。
あれから度々、まり子はあのバーへ行っている。
まだ、妊娠できない年齢ではない。これからもチャンスはある。
「まり子さんは、なにをしてらっしゃるんですか?」
「芸能関係です」
「ああ、モデルさんかな」
スーツの彼は芸能人に興味がなく、ニュースもあまり見ないらしい。まり子は微笑んで、ソフトドリンクのグラスを傾ける。
「あなたは?」
「事務です」
「トレーナーさん?」
「いえ、漢字の事務ですよ」
あまりにも似合わなくて、まり子はまたくすくす笑った。彼は微笑む。
「まり子さん、冗談じゃなくて、お願いしたいんですけれど。俺と付き合ってくれませんか? 結婚を前提として」
平井は無事出産し、まり子は生涯にわたって平井の、平井と夫の子どもを支援することを約束した。
まり子が手配したベビーシッターに子どもを任せ、平井はばりばり働いている。まり子は平井から連絡が来る度に満足だった。週に一度、平井とその子どもと食事に行くのが好きだ。平井は可愛い女性だし、子どもも文句なく可愛かった。
子どもの三歳の誕生日、まり子はあたらしく購入した一軒家に、平井親子を招いた。リビングは業者を呼んで飾り付け、まり子の親族、それにチャリティ団体のひと達、事務所のひと達、仕事関係者が集っている。南山夫妻もいた。本当に、夫のほうが南山姓になったそうだ。南山は子どもを抱いていて、子どもはまり子に手を振ってくれた。
平井も子どもを抱えてやってくる。
「みーちゃん、まり子ママだよ」
「みーちゃん、こんにちは」
平井の子どもは、さしだしたまり子の指をぎゅっと掴む。子どもはどうあっても可愛いけれど、この子は特別に可愛い。
平井が目を潤ませている。
「どしたの? 千奈ちゃん」
「いえ、まり子さんのおかげで、この子、元気で居られるんだなって」
「そんなことないわよ。お母さんに愛情たっぷりに育ててもらってるからでしょ」
「まり子さんが助けてくれなかったら、わたし、この子を殺しちゃってたかもしれません」
「千奈ちゃんだめよ、みーちゃんが聴いちゃう」
まり子は人差し指を唇の前に立て、微笑んだ。「千奈ちゃんはそんな子じゃないわ。わたしにはわかります」
「まり子さん……」
「まり子さん、またプレゼントが届いたよ」
彼がやってきて、まり子はにっこりした。彼とはあれから、結婚を前提に付き合っている。そろそろ結婚する予定だ。妹に会わせても、彼はなんとも云わなかった。子どもはほしいけど、女優さんの仕事は大丈夫なの、と心配してくれる。
彼が持ってきたのは子ども用のおもちゃの箱で、平井が泣き笑いになった。平井の子どもが手足をばたつかせる。まり子は平井の子どもの頭を撫でた。夫が生きていたら、この子をまもるのは大変だっただろう。まったく健常な女性との間に、知的な障碍を持った子どもがうまれると、夫は予測したかしら。