18話 若き魔導士の献身
前回のあらすじ
・巨大なレッドドラゴンはメイスの父、オルスだった
・……?
黒曜石のような、どす黒くもどこか透明感を誇る鱗。金色だった瞳は黒に濁り、理性は消し飛んだ。
「おとう……さん……?」
太陽を固めたような、眩しい赤色の鱗があまりにも変異し、メイスは震えた声でつぶやいた。すでに、気配からも、見た目からも、己の父であったオルスを根本から変異させられていた。
沸き立つ炎は黒すらも黒に汚れ、産声のように高らかに咆哮するその声は、もはや言語体をなしていない。数秒前まで父だったそれは、怪物と化した。
「ガルァァ!」
「……っ?!」
意味もない叫びとともに、黒の竜は大きく羽ばたく。あまりの事象に茫然としていたメイスは、黒の竜の飛翔を止めることはできなかった。
大きな翼で空をたたき、即座に飛びあがった黒の竜の視界に、メイスの姿が写り込む。次の瞬間、人間体のメイスは、全身にすさまじい圧力を感じ、反射的にドラゴンの姿に変異した。
そして。
「グルァァア!」
「?!」
短い雄たけびとともに、口から黒色に染まった炎のブレスが吐き出される。ギリギリのところで空に逃げ、何とか直撃を躱すことのできたメイスだったが、かすった左足がヒリヒリと痛むことに気が付いた。
レッドドラゴンであるメイスは、火傷と言うものを知らない。だからこそ、メイスは左足の痛みの原因が理解できなかった。
黒色の炎の掠ったメイスの左足は、赤黒く焼けただれていた。外から見れば、明らかに危険な状況であると理解できたが、なまじメイスに火耐性があったばかりに、本人には何が起きたか自覚できなかったのだ。
レッドドラゴンすらも焼き焦がす、黒の炎。それが直撃した地面は、汚れ、燃え上がり、半分融解し沸き立ち始めていた。
圧倒的な火力と、吐き気を催すような邪悪さ、そして、心の底からの恐怖に、アルガダ卿はつばを飲み下した。あの黒炎は、己の命を賭して結界を展開したとしても、町を守りきれるかどうかわからなかった。
何かしなければならないことは、理解していた。しかし、竜同士の戦いで、人間はあまりにも無力だった。
目の前で繰り広げられる黒の竜の蹂躙を止める魔法など存在せず、傷つきながらも必死に戦うレッドドラゴンを支援するすべもない。ただ、黒の竜と言わずとも、レッドドラゴン一体の攻撃がそれて飛んでくるだけで簡単に破れてしまう程度の防御魔法でヒルドラインの町に降り注ぐ被害を減らすことで手いっぱいだった。
__勝てない……
妻を失ったときと同等に近しい絶望を感じたアルガダ卿は、『セーブザワールド』のことも忘れ、ただ茫然とすることしかできない。ただ、赤の竜が勝つことを、何か、ただ町を救うような助けが、来ることを祈るしかなかった。
ふとその時、アルガダの脂肪で膨れた頬に、雨粒が一滴、触れる。
驚いて空を見上げると、重たい鈍色の雲が、青空を覆い隠していた。
一滴、二滴、と、落ちる雨粒が増え、そして、ある瞬間から断続的な音が降り注ぐ。ざあざあと、音を立てながら、雨が降り注いだ。
「えっ、イルナ?! 何で、怪我が……?!」
「?!」
動揺する兵士の声。驚いたアルガダが空から視線を落とし、城壁を見回すと、傷つき今にも息絶えそうだった兵士たちの体が、雨粒に触れるたびに少しずつ癒えていった。
「何が……?」
困惑するアルガダは、周囲を見回し、そして、ふと、城壁から町の方を見たその時、その魔導士の姿を見た。
手には、金属製のロッド。決して高級品ではない厚手のシャツに、麻布のズボン。貧相ないで立ちで、靴はブーツや革靴ではなく、簡易的なサンダル。
湯屋の煙突の上に立ったその少年は、集中したいで立ちで両手で杖をしっかりとつかみ、確かに、膨大な魔術を支えていた。
「……あんな、小さな子供が、最上位の水魔法を……?」
結局、昨日のうちにジルディアスを見つけることのできなかった少年エルは、結局日が暮れるよりも前に何とか自宅に戻り、杖を眺めていた。
「……そう言えば、あの兄ちゃんはこの杖を使えって言ってたけど、どうやって使うんだろう……?」
そう呟く少年エル。
実のところ、少年エルは杖の使い方がわかっておらず、詠唱のみでクリエイトウォーターを成功させていた。夕飯も入浴も済ませた少年は、しばらく杖を眺めながら、時折触れる。
すると、ある部分に触れた瞬間、少年は水魔法を使ったときと同じような感覚を覚え、慌てて杖から手を離した。
少年が手を触れた場所は、ロッドの先端、他の金属よりも澄んだ色をした金属に触れた時だった。少年は布越しにその部分に触れながら、慎重に観察する。
どうやら、この部分は、少しの魔力でも通常の魔法を使うようことができる、魔力の倍化装置のような働きをするらしい。そして、少年は首を傾げた。
「ん……? だったら、杖にこんな余計な金属、いらなくないか……?」
魔法を使うのがうまくなる、これを使って魔法が使える、と言うなら、金属の柄の部分は必要ないはずである。先端の魔力の倍化装置だけを用意すれば、それだけ費用が抑えられるはずだ。
貴族らしい装飾かとも思ったが、この杖の見た目は、彼の父親が『金属棒』と形容したほど、装飾らしい装飾はない。ならば、本当にこの金属の柄の部分に、意味はないのではないのだろうか?
そう思っていた少年だが、先端の異質な金属を意識しながら柄に触れたとき、ようやくこの金属の柄の意味に気が付いた。
この金属の柄は、どうやら魔力が通りやすく、そして、意識さえすれば通る魔力の量を相当加減できるらしい。
つまり、金属の柄を握ることで、先端のうっすらと透き通った金属に流す魔力を調整できる、ということだ。なるほど、先端の金属に触れたとき、少年は勝手に魔力を持っていかれるような感覚を覚えた。それが、金属の柄を解すことで、自分が意図した時にのみ魔法が使えるようにしているのだろう。
杖の仕組みを理解した少年は、改めて杖を握り、そして、目を輝かせた。
「魔法って……すっげえ……!」
少年からしてみれば、魔法を補助するこの杖もまた、魔法のように見えた。
ただ、彼はまだ専門的な知識を知らないがゆえに「すごい」という言葉でしか形容できない。そして、何よりもこの杖が客の忘れ物であるがゆえに、あまり他人に言うこともできない。
少年は、小さく息を飲んで、自分の部屋に置きっぱなしだった空のコップに目を向ける。そして、杖を握り、威力を相当絞って詠唱する。
「水魔法第一位【クリエイトウォーター】」
すると、今まではバケツにいっぱい出されていた水が、空のコップの半分ほどを満たすほどでとどまった。
「魔力もあまり使っていない……この杖、凄い高級品なんだろうな……」
杖をそっと指で撫で、少年は小さくつぶやく。これだけの魔力変換効率のいい杖を知ると、少年は今まで自分が詠唱だけで魔法を唱えていた効率の悪さに気が付いた。
なるほど、だから魔法使いは、指輪や杖を介して魔法を使うのだ。詠唱だけでもできないわけではないが、魔力を余計に使ったり、威力が調節しにくかったり、効率が悪いはずだ。
「俺も杖欲しいな……」
そう呟く少年だったが、流石に自分の家ではこの杖を変えるほどのお金を工面することはできないと理解していた。もちろん、湯屋を経営している以上、貧乏というわけではない。しかし、この杖は正真正銘貴族の持ち物だ。貴族の持ち物が安物であるはずはない。
少年は少しだけうーんとうなりつつ、これだけいい杖なら、湯屋に忘れたことに気が付いて明日には来るはずだろう。まさか、自分の武器を忘れたことに気が付かない魔導士などいないはずだ。
そう判断した少年は、じっと杖を見る。
「……うん、客の物を勝手に使うのはマズいよな」
脳裏だというのに、このことがバレて自分の母親に激怒される様を思い浮かべてしまった少年は、少しだけ顔を青ざめさせながら、杖をそっと自分の部屋の隅に立てかける。
明日朝一であの兄ちゃんに渡そう。そう、思っていたのだ。
__だがしかし、ジルディアスは少年に杖を貸していたことも忘れていた上、昨日使った湯屋のことなど、そこにあるという以上に覚えてはいなかった。
当然、翌朝になっても現れないジルディアスに、少年は少し困惑しながら店番をする。そして、隣の宿屋の親父が上げた悲鳴で仕事の手を止めた。
「ど、ドラゴンだ!!」
「……?!」
その言葉を聞いた少年は、店番を放り出して店の玄関扉を開けはなし、空を見ていた。
しっとりと濡れた地面。奇妙に途切れた雨雲の隙間で、巨大なレッドドラゴンと、一回りか二回りほど小さいドラゴンが激しくもつれ合っている。どうやら、戦っているらしい。
そして、少ししてから巨大なレッドドラゴが、全身に炎を纏った。
そのころには、少年ですら小さいほうのレッドドラゴンが巨大なレッドドラゴンを止めようとしていることに気が付いていた。だからこそ、全身に炎を纏ったドラゴンを見た瞬間、なまじ魔法をかじった少年は、その炎が魔法に近い何かの仕組みであることを直感した。
「……町を守っているほうのドラゴンが、負けちゃう……!」
少年の脳裏に、昨日のことがフラッシュバックする。町中に響く悲鳴に、ワイバーンの金切り声。慌てて逃げ出す大人たちの罵声。
あんなの、少年はもう二度と見たくなかった。いや、それ以上に、あの小さいほうのドラゴンが巨大なレッドドラゴンに負けてしまえば、昨日以上の悲劇がヒルドライン街を襲うのはほぼ確定事項に見えていた。
少年はぐっと口元に力を入れ、急いで自宅……湯屋の二階に向かい、ジルディアスの杖をとる。そして、階段を駆け下りて、まだ火の番をしていた親父に声をかけた。
「親父! 今日は絶対に客が来ねえ! だから、ガンガン風呂の湯を沸かしてくれ! 沸騰させるくらい!」
あまりに突然の言葉に、当然親父は困惑して、そして、少しだけ怒ったように少年に向かって言う。
「何馬鹿なことを言ってんだ、エル坊。んなことしたら、風呂釜が壊れるだろうが。ってか、客が来ねえって何だそりゃ」
「外にドラゴンが出た! 領主様も町を守るために出てるけど、ありゃムリだ! だから、オレが魔法を使う!」
「ん?! 何言ってんだエル坊! そんならとっとと逃げるぞ!」
ドラゴンのことを聞いた親父は、慌てて火を消そうとする。当然だ。今すぐに避難しなければならないのに、湯屋の火をつけっぱなしにしてしまえば、大火事になりかねない。
そんな親父を、少年は慌てて止める。
「頼む親父! ちょっと待ってくれ! オレは雨を降らせたいんだ! そのためには、水がいる!」
「あに言ってんだ、エル坊! 天候を操る魔法なんざ、偉い魔導士さんじゃなきゃ使えねえだろうが! お前さんができるもんか!」
湯屋のかまどを背にして火を消すのを止めた少年に、親父は頭を抱えて怒鳴る。とにかく、親父は一刻も早く少年を抱えて避難してしまいたかった。ついでに、隣の宿屋には足が不自由な爺様もいる。いくら宿に若いのがいるとはいえ、手伝えるなら手伝わなければならない。
しかし、少年は己を抱え上げようとする親父に怒鳴り返した。
「違う! 天気は操らない! 雲を補強するだけだ!!」
「雲を、補強する?」
突然のセリフに、親父はきょとんとした反応を返す。親父はさほど魔法に詳しいわけでもないが、雲を補強する魔法など聞いたことも無かった。
「先生に教えてもらったけど、雲って水でできているんだろ? なら、空に水を細かく作れば、雲を補強できる!」
「……そうなのか?」
きょとんとした表情を浮かべる親父。実のところ、親父は学校には行ったことがなかったため、学はない。それゆえに、雲が何でできているかなど考えたことも無かったし、事実上それが可能か不可能かなど考えることもできない。
少年は杖を片手に、短く詠唱する。
「水魔法第一位【クリエイトウォーター】」
すると、次の瞬間、まるで湯気のような、霧のような形で水が現れる。
「これを空でやって、雲を分厚くする。雲に水が集まれば、雨が降る……と思う!」
「俺に聞かれたってわからねえよエル坊。でも、それだったら何だって風呂を沸かさなきゃなんねえ?」
「湯気も水だから、それを使ったらもっと雲を作れる。たくさんの雨を降らせるには、とにかく水がいる」
少年の言葉に、まっすぐな目に、親父はしばらく困ったように考えながら、そして、深くため息をつき、少年に言った。
「……しょうがねえな。ただ、窯が壊れねえように、沸騰させるまではできねえ。ギリギリまでは沸かしてやるから、近所の養鶏所から卵もらってこい。ついでに茹で卵作ったっていいだろ」
「?! いいの?!」
目を丸くする少年。そんな彼に、親父は苦笑いして言う。
「お前さんがそこまで頑固なところを見ると、おふくろに似たんだろ。なら俺がどうこう言ったってお前さんはするんだろ。人様に迷惑かけねえ程度にしろよ?」
「__わかった! 絶対、成功させるから!」
「わかってねえ時の返事だな、そりゃ」
親父は苦笑いしながら、窯に木材を放り込んだ。
少年は急いで駆け出し、するすると屋根に上ると、湯屋の煙突を見る。煙突には、手入れのための梯子が付いており、少年自身も掃除のために何度か上ったことがある。
少年は金属製のロッドを腰に縛り付けると、急いで煙突を上った。
その間にも、ドラゴンたちの戦いは目まぐるしく変わっていく。弾き飛ばされる小さいほうのドラゴンに、空に飛び散る真っ赤な炎。町ではすでに困惑の声や避難のために嫌がる子供を外へと連れ出す母親の切実な声が聞こえていた。
下唇を少しだけ噛み、少年は急いで煙突を登る。
煙突の上は、湯気の湿気や煤でぬるぬるしている。滑らないように注意しながら、少年は煙突の上に立った。
曇った空を見上げ、少年は深く息を吐く。状況がいつの間にか変わったのか、黒に変貌した竜は、小さなレッドドラゴンに向かって暴虐の限りを尽くそうとしている。
杖を両手でつかみ、目を閉じる。
すると、世界は、静まった。
聞こえるはずの音がない。感じるはずの熱がない。におうはずの煙ももはや感じはしない。
深く深く息を吐き、そして、少年は周囲を意識する。
静寂した世界の中、少年は、『水』を感じた。閉じた視界の暗闇の中で、誰かが少年の手を包み込んだ。
少しだけ驚きつつ、少年は目を開けずにそのまま集中を高める。なんとなく、今自分を触れている者は存在しないと直感していた。というよりも、後ろのソレは、水そのもの、と言うようにすらも感じていた。
「__手伝ってくれるの?」
少年は、自分の手を包み込んだその存在に問いかける。目をつぶっている以上、見えてはいない。見えるわけはない。だが、その存在は確かに笑顔を浮かべ、頷いていた。
ふっと、杖をつかむ感覚が軽くなる。頬を撫でる風にやさしい熱を感じた。
「ありがとう。……町を守るために、力を貸してくれ」
『__』
存在は確かに少年に同意を返す。すると、少年の脳裏に、新たな魔法が浮かんだ。
少年は、少しだけ驚きながらも、その呪文を詠唱した。
「傷つきし兵に癒しを、汚れに光を__水魔法真位、【クリエイトウォーター】」
次の瞬間、割れていた雲が、一気に膨らんだ。そして、薄く金に発光する雨を、地上に降り注ぎ始めた。
【精霊の愛し子】
先述しておくと、人族は精霊に愛されていることが多い。具体的には、エルフは水や風の精霊に、ドワーフは火や土の精霊に愛されやすい。
そして、魔法を使えるものの中には、精霊の愛し子と呼ばれる存在がいる。精霊の愛し子となった者は、基本的にその精霊の属性の魔法が特出して得意になる。
わかりやすく言うと、ジルディアスは闇の精霊の愛し子である。
また、ごくまれに、精霊を感じ取れるほど繋がりをもつ精霊の愛し子も存在するが、数例しか発見されたことはない。




