138話 黄金の誓いは今、果たされる
前回のあらすじ
・第四の聖剣がイリシュテア前に到着
・元イリシュテアの祓魔師たちが、恩田を助けてくれる
・ジルディアスが、北の大陸に到着する
満身創痍なジルディアスは、己の両手足を戒めていた茨のような金属の紐を拾い上げ、ある程度長さの残った部分のみを武器にするために回収した。現状、ジルディアスは武器一つ、防具一つ持っていないのだ。素手でもある程度は戦えるとはいえ、できるならば最低限の武器はあるに越したことはない。
「魔法の発動体となるものも拾えればいいが……まあ、無理か」
毒のしみ込んだ茨の紐の欠片を拾い上げ、魔力を流し込む。当然、流し込まれた魔力量に耐え切れなかった茨の紐は、赤熱して砕け散る。もしも腕に巻きつけられた状態で魔力を流して破損しようとして入れば、腕に致命的な火傷を負っていたことだろう。
役に立たない茨の紐の欠片を放り捨て、ジルディアスは浅瀬にたどり着いた船から降りる。ひざ下までの海水は酷く冷たく、傷まみれの素足に鈍い痛みを与える。とはいえ、この痛みも内臓が腐り吐き気を催すような苦痛になっている腹部に比べれば蚊に刺されたような痛みに他ならない。
血の流れた足のまま、浅瀬を適当に歩き岸を目指す。
当然、そんな地につられた海の怪物たちは、舌なめずりをしてジルディアスへ音もなく這いよる。
ざぶん、ざぶんと波立つ海の音に紛れ這い寄るのは、シーサーペントの変異体、ポイズンシーサーペントプリンセスである。青紫色の麗しくも毒々しい鱗は、あたりの岩に紛れ保護色に成り代わる。本来なら人一人どころか小さな船なら一つ丸のみ出来てしまうほど巨体に生長するシーサーペントが魔王領域の側の生存競争に敗北し、代わりにその牙に猛毒を秘めた凶悪な海蛇と化した、ポイズンシーサーペントプリンセスは、アンデットさえも殺すと言われるほど強力な毒をジルディアスに打ち込もうとその口を開く。
その次の瞬間、ジルディアスは自然な立ち居振る舞いで船の側部に就けられていた魔道具のオールを引き抜く。オールの長さは2メートルにギリギリ届かない程度。邪魔な部分を手で引きちぎりながら、ジルディアスはオールを軽く振るい、小声でつぶやく。
「まあ、これで十分だろう」
そして、オールを水面に向かって直角に振り下ろす。
的確に頭蓋を砕かれたポイズンシーサーペントプリンセスは、少しの間水面をその尾でびちびちと叩き暴れまわっていたものの、すぐに死体と化す。ジルディアスは死んだ毒海蛇の尾をつまむと、小さく舌打ちをして巨体の猛獣さえもひと噛みで殺す毒蛇を遠くの海へ投げ捨てた。
「毒蛇では腹ごしらえにはならんな。……水と肉……いや、今は胃がないからとにかく水分だけでも補給するか」
ジルディアスはそう言うと、反対側のオールももぎ取り、陸地へ向かって歩き出す。二刀流をするわけではなく、単純に予備の武器としての扱いである。
元勇者は魔王の居城周辺にいるはずの魔物たちを思い出しつつ、改めて岸の向こう側、北の大陸イシスは荒涼とした砂漠地帯が広がるのみ。朽ちた枯れ木は黒く錆びれ、微生物たちに分解されることもなくカラカラに立ち枯れていた。
魔王の呪いに侵されたこの大陸は、もはや生物の住める環境ではない。乾き朽ち果てた大地に呪いに汚染されていない微生物はおらず、分解者も捕食者も生産者も通常には存在しえない。故に、北の大地イシスは死の大地と化していた。
魔王の呪いに汚染された生物は、生きたままアンデットと化す。そして、魔王の呪いを繁殖させるために自壊するまで暴虐の限りを尽くすのだ。暴れる過程でより良い宿主が見つかれば、呪いの核を移し替え、だんだんと繁殖していく。
そうやって、多くの生物が呪いに汚染された結果、北の大地イシスは完全に滅んだ。微生物のいない大地は水分が保てず、からからに乾ききっている。大地がこんな調子ではろくに植物が生えることもできず、生態系の下を支える草食動物たちは枯れ滅びる。喰らうものがなくなった肉食獣もまた、滅びるか魔王の呪いに侵され、朽ち果てるその時まで正気もなくあたりをうろつくばかりだ。
瘴気と死で満ちた朽ち果てた大地を前に、ジルディアスは深くため息をつく。魔王の居城まではまだしばらくかかる。乾き崩れた砂の地面は砂漠というには固く、枯れ地という形容が一番正しいように思えた。ジルディアスは現在、血でじっとりと濡れた麻布の下履きのみという軽装であり、靴は履いていない。乾いて石まみれのその大地を、上半身裸かつ素足で歩かねばならぬのだ。
冬に差し掛かろうという今、気温はかなり低く、このままだと低体温症になりかねない。早急に上着を確保する必要があった。
しかして、ここまで枯れ果てた土地ではそう生物がいるわけでもなく、あたりを見回しても見つかるのは石か砂、時折朽ち果てた枯れ木ばかりである。そう簡単に装備が入手できるとはとてもではないが思えなかった。
ジルディアスは表情を歪めながらも、とにかく北へ歩き始めた。歩いていればいずれ、魔王の呪いに侵された獣と遭遇するはずだ。生物の生存環境が出でるこの地に新たな生存者が踏み入れたのだ。おそらく何もしていなくても向こうから獲物はやってきてくれるはずなのである。
「ついでに食えそうな胃にやさしい魔物でも出てきてくれればうれしいが……」
ジルディアスはそう呟きながら、荒野を一人、歩きだす。
数時間歩き、時折現れた魔物をオールで殴殺し、魔法の発動体として魔石と毛皮を剥ぎ取り、上衣代わりに羽織る。水は魔法で何とかなるが、毛皮を処理するための皮なめし液やらナイフやらを所持していないため、本当に防寒の役割しか果たさない低品質な毛皮を纏い、ジルディアスはやがて、魔王の居城を見つけた。
黒曜石の柱に、黒水晶のガラス窓。透き通る夜のような城は今、どす黒い瘴気に覆われ、生理的な嫌悪感と恐怖を醸し出していた。
__勇者とはすなわち、魔王の結界を乗り越えられる者のことである。
聖剣を奪われたジルディアスだったが、それでも彼は魔王の城へ足を踏み入れることができる。何故なら、勇者たる資格はあるのだから。
それでも、魔王を殺すためには、聖剣が必須である。神が創り出した理不尽を破壊するには、魔王を殺しえる可能性を秘めた武器が必要なのだ。
ろくな武器もなく、まともな装備もなく、怪我も癒えてはいない。それでも、まだ、ジルディアスは生きていたし、諦める気もなかった。諦めるのは己の正義に反するのだ。逃げるのは己の誓いに反するのだ。
だからこそ、ろくに休憩することもなく、命続くままに歩みを進める。その先が自壊のみと理解していても。
一歩、一歩、荒れ果て砂地と化した地面を進む。そして、足がふと、固いものに触れる。首を傾げ足元を見てみれば、そこには砂に薄く覆われた黒い石畳がまばらに敷き詰められていた。きっと元は城へと続く美しい街路だったのだろう。しかし、長い年月を経て死の大地と化したイシスにおいて、その栄華はあっという間に過ぎ去ってしまったのだ。
ともあれ、朽ちた石畳のおかげで比較的地面は歩きやすくなった。ジルディアスは素足のまま、歩みを続ける。
そんな時だった。砂に埋もれるようにして潜んでいたライオンのようなケダモノが、突然ジルディアスの目の前に躍り出る。
ジルディアスは小さく舌打ちをすると、船からもぎ取ったオールを構え、敵を正視する。
呪いに侵されたそのケダモノは、とっくの昔にその身を腐り崩し、腹部からはあばら骨が見えており、顔は黒色の結晶に覆われ何とかソレが元はネコ科の何らかの生物だったということが判別できる。吐き気を催すような瘴気を纏う怪物を前に、ジルディアスはぐっと眉根を寄せた。
とびかかって来たライオンのような怪物は、歯肉のほぼない口を大きく開け、ジルディアスの頭を食いちぎろうと突進してくる。
元勇者はその噛みつきをステップで回避し、お返しとばかりにその空っぽな眼窩に向けてオールを振り下ろす。
いつもならこの程度の移動や戦闘で疲労を感じることなどまずない。それでも今、彼は確かに疲れていた。
その疲労ゆえだろうか。力加減を間違えた彼は、振り下ろしの衝撃で、オールを一つ、へし折ってしまったのだ。
折れた柄を片手に、ジルディアスは小さく舌打ちをして、即座に壊れたオールを投げ捨てる。そして、予備のオールに手をかけ__その瞬間、怪物の爪が、ジルディアスの左脇腹を捉えた。
「ぐっ……!」
突き立てられた爪にジルディアスは小さくうめき声をあげる。一応纏っていた毛皮がその衝撃を減少させてくれてはいたものの、不覚だった。
即座に体制を立て直し、握り締めたオールを再度構えなおす。しかし、左脇腹の鈍い痛みが、まだ直らない。
久々に、ジルディアスは己の死を幻覚する。それほどまでに追い詰められていることを自覚した。
死に瀕した肉体を己の意志のみで動かし、吐きそうになる血反吐を飲み下す。そして、吠える。
「ああああああああああ!!!」
獣のような声を上げ、ジルディアスは己の肉体の限界を超える。
本能が体に残された残りカスのような魔力を引きずり出し、無理やりオールに付与する。彼自身の才能と血のにじむ努力、そして、精霊の加護により、魔法の武器と化した木片は、自壊しながら怪物の首を刎ねる。
崩れ落ちる獣の死骸。ジルディアスは荒く息を吐き、魔力を帯びて軋む木片を握る。まだ死ねない。まだ生きている。なら、進むしかない。
魔力の使い過ぎで、全身は重くだるい。己の寿命を削り進む。不屈……否、執着とも言うべき己のプライドで、酷い罪悪感で、ちっぽけな生存本能で、血みどろの彼はまだ、足を動かす。
自壊を孕んだ行進をする彼の前に、血の匂いを嗅ぎつけた怪物たちが、ぞろぞろと集まる。
__もはや、恐怖はなかった。ただ、己の義務感だけで、彼は軋む木片を構えた。
怪物たちの鼓膜を震わせる叫び声と、男の咆哮。骨が固い街路を踏みしめる音と、よだれをたらす怪物たちの息遣い、空を切る爪の音、空気を噛みしめた牙の打ちかう音、怪物の首が落ちる音。
いくつもの音が響き、いくつもの命と言えない命が消え、死骸が散らばる。様々な生物だったその骸を踏み越え、死線を乗り越え、一歩ずつ、一歩ずつ、悪役はその歩を進める。
まだ死ねない。まだ生きている。
肉の崩れた鳥のような怪物が、耳障りな鳴き声を上げ、上空から曲刀のような爪を振り下ろす。疲労から回避することもできず、ジルディアスの肩の肉が抉れ鮮血が黒くつややかな石畳にこぼれる。
お返しとばかりにオールを振り鳥の頭蓋を叩き割る。そして、無理やり魔力を引きずり出して【ヒールウォーター】を唱え、肉体の損傷をつなぎ合わせ、前に進む。
まだ、幾百もの怪物が、いる。
鹿とも馬とも取れるようないびつな怪物が、ジルディアスの腹を突き破ろうとその雄々しい角を低く構え、突進してくる。
ジルディアスはオールを使ってその体当たりを無理やり受け流し。その流れで首を手でへし折る。鋭い体毛や穢れた正気のせいで、腕が爛れる。
まだ、進める。
乾きヒビの入った甲羅を背負った怪物が、ジルディアスの足を噛みちぎろうとその大口を開ける。
寸前のところで足を引き回避し、逆に全力で亀のような怪物を蹴り上げ、その内臓をあたりに散らす。まるで鉛の詰まった麻袋を蹴り上げたような重量感に、右足の腱が軋むように悲鳴を上げる。
まだ、終われない。
まだ、まだ、まだ!!
ジルディアスは奥歯を噛みしめ、唸る。吠える。叫ぶ。
「まだ、俺は約束を果たしてはいない!!」
まだ、ユミルを帰していない。まだ、王太子の護衛に復職するという約束を果たしていない。まだ、罪を償えていない。まだ、バルトロメイの挑戦を果たせてはいない。
そこに、己のためという感情は存在しない。ただ、己にかかった責務のために。ただ、己の未練のために。悪役は、足を、進め続ける。
だからこそ、前に立ちふさがる怪物たちが、ただただ邪魔だった。
戦う。武器とも言えない武器を振るって。
やがて、その粗末な武器さえも、戦いに耐え切れなくなって砕け散る。
それでもまだ、男は諦められなかった。己が執念で命をつなぎ、つい先ほどまで両手足を戒めていたあの茨の縄を握りこみ、拳で邪魔を排除し、歩みを続ける。
その姿は、正義のように華やかではなく、泥臭いというにはあまりに血なまぐさ過ぎた。__それでも、悪の末路というには、諦めが悪すぎた。
血を流しすぎて意識が遠のく。失った魔力が多すぎて末端の感覚が失われていく。死を乗り越えた先の死を踏み越え、魔王の居城へと、歩を進める。
流した魔力に耐え切れず、茨の縄が赤熱して砕け散る。その崩壊に巻き込まれ、拳が焼けただれ血みどろになる。
最後の武器とも言えない武器が失われた、その時だった。
「____ス__」
遥か空から、声が聞こえてきた。
それを幻聴だと判断した元勇者は、失われた両腕の感覚を捨て、足で目の前の怪物を蹴り殺し、行進を続ける。
だがしかし、幻聴はまだ、聞こえてきていた。
「ジルディアス!!」
「__黙れ」
「ひどくないか?!」
空から降り注いできた幻聴は、ジルディアスの言葉に間の抜けた返答を帰す。
そして、突然、目の前の怪物が、光に包まれて消し飛んだ。
あまりに突然なことに、流石のジルディアスも目を丸くして、その足を止めた。
その瞬間、怪物たちが殺到する。
しかし、そんな怪物たちの爪が、角が、牙が、男に突き立てられることはなかった。
「光魔法第3位【ファストバリア】!!」
黄金の障壁が、ジルディアスと幻聴の主を包み込むように展開される。
強力な防壁に阻まれた怪物たちは、酷い声を上げて金色の壁を破壊しようとその爪を、牙を、角を振り下ろすが、清廉な魔力で作られたその障壁を打ち崩すことはできはしなかった。
足を止めたせいで、どっと疲れがよみがえったジルディアスは、己にかかる重力が嫌に重いことに気が付く。そして、力の抜けた足が悲鳴を上げ、ついには役割を放棄した。
がくん、と、男は膝をつく。
そんなジルディアスに、幻聴は慌てて呪文を唱えた。
「おい、マジで大丈夫か?! 【ヒール】!!」
癒しの奇跡が、ジルディアスの血に濡れた肉体を癒す。そして、同時に内臓がジワリと復活する気配が起き、彼は激しく嘔吐した。
突然口から金属のような土のような何かを吐き出したジルディアスをみて、幻聴は間の抜けた悲鳴を上げる。どうやら幻聴はジルディアスの内臓が土魔法によって置換されていたことを知らなかったらしい。
「やばい、おい、マジ、よくないって!! 腹の中何入れてんの?!」
「……内臓を、いくつか代用している」
「土で?!」
「それ以外に何の材料がある」
アホっぽい幻聴の声に、ジルディアスは思わず返事をしてしまう。
欠損した内臓が、光魔法によって癒されていく。抉れた肉体に肉が戻り、枯れて久しい体力が回復していく。そこでようやく、何故こんな奇跡が起きているのか、疑問に思えた。
「……?」
ジルディアスはきょとんとした表情を浮かべ、元通り治っていく両腕の握力を確かめる。そして、初めて後ろを振り返った。
「……何でお前が?」
「マジで頑張って駆け付けたのに、それはちょっとひどくないか???」
そこに立っていたのは、ファストバリアを維持しながら、アーテリアでもらった魔道具を使い、ジルディアスを治癒している恩田裕次郎の姿だった。
__こうして、恩田裕次郎とジルディアスは再び合流を果たした。