131話 司教バルトロメイ
最終章すたーと
イリシュテア神殿の地下。通常の罪人が閉じ込められる神殿の牢よりも、2階層ほど下の、太陽の光など一切差し込まない、完全なる暗闇の牢獄。そこに、魔道具のランタンを片手に、やってくるものがいた。
地下の湿り気のせいで苔むした冷たい石レンガの床を高品質な靴で踏む。紫色の法衣は風ひとつ吹き込まないため、移動の体の揺れ以外で動くことはない。
そう、地下牢を一人歩いていたのは、バルトロメイだった。
最下層の牢獄の奥の奥。そこは光沢のない魔法金属の異様に頑強な檻がはめられ、鍵はなく、魔法で溶接された箇所に施された触れると爆破を引き起こす刻印のみがなまめかしく光を反射していた。
バルトロメイはそんな最下層の牢の奥へ魔道具のランタンを軽く掲げる。
陽の光の一筋さえも入り込まない氷室のように凍てついた牢をぼんやりと真っ白なランタンの光が照らし、檻の向こうに磔にされた男の姿を浮かび上がらせる。
痛々しい鞭の跡がさらされた上半身にびっしりと広がり、両手首は魔法を封じる魔道具によって拘束され、冷たい魔法金属の混ぜ込められた石レンガにくくりつけられている。息は凍てつく牢の中で白く濁り、病的な量の二重丸のエンブレムが檻や床にちりばめられたその檻の中で、久方ぶりの光を受けた赤色の瞳が鈍く輝く。
「……何のようでしょうか、バルトロメイ司教」
「はは、睨むなよ忌み子。君とて願ったりかなったりだろう? この世界の悪である魔王を討伐できるのだ、間違うことなく君は正義ではないか」
そう言って笑顔を浮かべるバルトロメイ。
そんな彼に、ジルディアスは吐き捨てるように言う。
「……どうせ、俺を弱らせて魔王に殺させるつもりなのでしょう? 司教殿が差し向けた下手人では俺を殺せなかったようですからね」
「本命は光の妖精さ。……まあ、二人とも、思ったよりも使えなかったがな」
小さく肩をすくめ、悪びれる様子もなくそう言うバルトロメイ。そして、彼はさも楽しそうにジルディアスに言う。
「さ、体調はどうだい? 生きて魔王の居城にたどり着いてもらわないといけないんだ、船に乗っている最中に衰弱死されてはたまらないからね。水分はちゃんととっているかな?」
「……ええ、おかげさまで負傷以外は全く問題がありませんよ」
「……化け物め。この前お前と同じ調子で背徳者を裁いたら1日で死なせてしまったのだぞ?」
ボロボロなジルディアスは、バルトロメイをあざ笑うように言う。睡眠すら許されない拷問が続いた今でさえ、確かに彼の肉体は拷問による負傷以外の損傷は存在していなかった。強すぎる彼の意志によって、精神に問題をきたすことは一切なかったのである。
今でさえ笑う余裕を見せるジルディアスに、叔父であるバルトロメイはあきれたようにため息をつくしかなかった。
四肢を適当にもいでしまおうかとも思ったが、それでは魔王の居城へ移動する際に気付かれてしまう。確実に五体満足のまま連れていく必要があった。
「……次回以降は死にはしない程度に内臓を切除させてもらう。発狂してもらえれば楽なのだが、貴様は闇の精霊の加護があるからな……胃と肝臓、どちらを先に失いたいか考えておけ」
「……ええ」
ジルディアスはそっと目を伏せ、バルトロメイのおぞましい宣告に頷く。叫びも取り乱しもしない己の甥に、バルトロメイは吐き気を覚えた。
掲げていたランタンを下ろしてしまえば、再び奥の牢には闇が舞い戻る。人は暗闇の中で拘束され続ければおおよそ発狂しかねないものなのだが、闇の加護を持つジルディアスにとって、その常識は通用しない。どうしたものか、と小さく息を吐き、司教は踵を返して上の階へ向かう。
こつん、こつん、かつん、かつんと響く、石レンガを叩く靴の音。それ以外はバルトロメイ自身の紫の法衣の布ずれの音と、僅かばかり聞こえるジルディアスの呼吸の音だけだ。
しばらく歩けば、甥の呼吸音は聞こえなくなる。そこまで離れたところで、バルトロメイは不愉快そうな表情を隠しもせず、盛大に舌打ちをした。
__聖剣なしでは確実に魔王には勝てない。だがしかし、他の勇者どもと合流されると、どうなるかわからない。
そう思考しながら、バルトロメイはガリガリと爪を噛んだ。できるだけ人前ではこらえているものの、ストレスがあると幼いころからの癖が抜けず、親指の爪を噛んでしまうのだ。
確実にフロライト家を滅ぼす。亡き姉のために、できることはそれしかないと確信していた。だからこそ、ジルディアスという姉の最高傑作たる存在を殺すために、ありとあらゆる手段を考え抜いていた。
「できるだけ残酷に、できるだけ残虐に、やさしく、真綿でくるむように、しないとな」
バルトロメイはそう言ってこれ以上爪を噛まないよう、ぐっと手の中に親指をしまい込む。姉の罪を濯ぐため、彼女の息子であるジルディアスには、より残酷に死んでもらう必要があった。__否、姉、エルティアが死んだ理由は、ジルディアスの存在に他ならない。
彼がいたせいで、エルティアはフロライトに縛り付けられることを強いられた。さらには、ジルディアスが光の妖精に手を上げるなどと言う暴挙をしたからこそ、エルティアは妖精の怒りを買って、死体を残すことすら許されず消滅した。
だからこそ。
ジルディアスをむごたらしく殺すため。
フロライト家を粉砕するため。
そのためだけに、血のにじむような努力の末にバルトロメイは司教の地位までのしあがり、その伝手と権威でジルディアスを殺しえる強者を探した。
できるならばゲイティスに聖剣の中でも別格の存在である原初の聖剣を装備させ、その状態で殺してしまえれば一番よかったのだが、何故か原初の聖剣は行方不明になっており、それはかなわなかった。
次に考えたのは、彼と因縁のある光の妖精を使って殺させることだった。都合よく妖精の花嫁もいるため、それを使ってそそのかせば、あっという間に光の妖精はゲイティスら神殿に物資を提供し、花嫁奪還のためにジルディアスに刃を向けてくれた。……結果は無残にも敗北し、その後の足取りもわからなくなっている。
今まで企てたすべての暗殺計画は、ジルディアスと聖剣によって事の如く潰されてきた。とはいえ、今回は違う。ジルディアスに協力していたユージロー……第四の聖剣は、今フロライトの台座の上。ウィルドという正体不明の協力者も、ゲイティスにテレポーターを破壊させた以上、フロライトに留まらざるを得ないはずだ。たった一人、損傷しきった状態で魔王に挑めば、確実に殺せる。
やかましいほどの胸騒ぎを必死に聞かないふりをして、バルトロメイはそう心の中で言い聞かせる。
今回こそ、ジルディアスを殺せる。そう司教は、己に言い聞かせた。
寒々しい冬の日差しが、フロライトの広場に差し込む。
俺は広場の石の台座に突き刺さったまま、茫然と空を見上げていた。
ジルディアスが連れていかれてから二日。完全に壊滅したクーデター犯たちと入れ替わりに、神殿兵たちが脱税行為の断罪という名目の元、フロライトへの総攻撃を仕掛けてきた。
連日の戦闘で疲弊していた兵士たちは神殿兵たちへの対応を強いられ、フロライトの街の人々は疲れ切ってしまっていた。
それでもフロライトが陥落していないのは、ヒルドラインからの支援と原初の聖剣の力に他ならなかった。
フロライトの窮地に、ヒルドライン子爵は物資と兵の提供を即時決定してくれたのだ。国境付近の守りを手薄にするのはマズいのでは、と思ったが、どうにも国境自体はエルフの村が協力してくれているらしく、国境を守る屈強な兵たちを8割ほどこちらへよこしてくれたのだ。男前が過ぎる。
そして、原初の聖剣……ウィルドは、楽しそうに『役目を果たしたから』と言ってフロライトの守護を買ってくれている。何が何だかわからないが、あくまで人間対人間の争いでしかないこの戦いに参戦しているため、ヒルドライン子爵の援護と合わせ、神殿兵たちはフロライトの街どころか領土の境界の土すら踏めていないのが現状であるらしい。
そんな中、フロライトはテレポーターの復旧が急務となっていた。
どうやら、ゲイティスがフロライト神殿のテレポーターを破壊したらしく、即座には使えなくされていたのだ。そのせいでウィルたち勇者一行はジルディアス救出のために強制的に二の足を踏まされていた。
目まぐるしく復興するフロライト。魔王の呪いを解呪されたアルバニアも日々責務に追われ、さらにはジルディアスの違法判決に対し抗議を行ってもいる。ついでに、救援のためにクラウディオと部下数名を王都へ向かわせたらしい。(哀れにも)ジルディアスの直属の部下だったクラウディオたちの実力は折り紙付きであるため、いくら神殿から暗部の人間たちを差し向けられたところで死ぬことはないだろう。
ジルディアスの弟……まあ、弟と言えば弟のルーカスも、彼自身の持つ伝手を使い、支援と応援を呼び込んでいる。シスは続々とフロライトに到着してきたイリシュテアの元祓魔師たちとともに怪我人の救護に当たっている。
__何もできていないのは、剣になり果てた俺一人だった。
ジルディアスとのつながりを断たれた俺は、突き刺さった台座の上で何もすることができなかった。勇者でなければ、この台座から俺を引き抜くことはできない。台座に突き刺さったままでは、文字通り手も足も出ない。
死にたいほど無力な気持ちにさらされながら、俺はひたすら空を見上げた。
聖剣であるこの体が憎い。何もできない俺が憎い。互いに励まし合いながら行き交う人々が、大荷物を抱えて働く人々が、時々俺を見上げて悲しそうに目を逸らす。
何で、俺は聖剣なんだ。……いや、分かっている。ヘルプ機能なんて不相応なスキルを身に着けたせいで、肉体が崩壊したからだ。
何で、俺は無力なんだ。……いや、分かっている。俺はあくまで武器でしかなく、担い手がいなければ何もできないのだ。
めぐる思考が、めぐる無力感が、血潮ひとつ流れていないこの体にしみこんで凍てついていく。
空を見上げていれば、自分の力で歩いて復興しようと働く人々が見えなくて済むから。俺は、無力感を噛みしめる。酷く苦い味のする感情は、無いはずの胃に溜まるわけもなく、ただ吐き気を催した。
何もできないことが、ここまで苦痛だと知らなかった。ジルディアスを助けてやれなくて、ここまで後悔すると思ってもいなかった。
『畜生、悔しい……悔しい!!』
血反吐をはきちらすようにそう叫んでも、この声が届くウィルドは、今この街にはいない。
俺の声は届かない。俺の思いは届きはしない。ああそうだ。俺が、人間じゃないからだ。人でなしだからだ。悔し涙一つこぼせず、助けさえ求められず、今でさえ己の弱さと見つめ合わず、逃げている。そんな弱者だから、俺は、一番大切な時に何もできないのだ。
沈み込む気持ちと、感情。
そんなとき、空に、一羽の鳥のようなものが見えた。
いや、鳥ではない。一対の翼に人間の胴体を持ち合わせた、ウィルドの姿だった。
涼やかな風が吹き抜ける。大きな羽音が数回鳴り響き、ウィルドは広場に降り立つ。そして、彫刻のように美しい顔を俺の方へと向け、きょとんと右に首を傾げた。
「どうしたの、四番目。元気ないみたいだけれども」
そんなウィルドの言葉に、俺は何を言うこともできず、ただ視線を俺自身の突き刺さった台座へ向ける。返答がなく、今度は左に首を傾ける。
大分言いにくかったが、俺は重い口を開いた。
『その、みんな頑張ってんのに、俺だけ、何もできていないから……』
「……? 何もできてないわけじゃないだろう? だって君は、この街のみんなにヒールをかけていたりするじゃないか」
『それしかできてねえ。他のみんなはもっといろいろしているだろ?!』
思わず強い言葉でそう言ってしまった俺。
それでも、ウィルドは依然何が何だかわからないという表情で首を傾け、ゆっくりと俺の突き刺さった台座の方へ歩く。そして、俺の柄をつかんだ。……うん?
訳が分からず目を見開く俺をよそに、柄をつかんだウィルドは全力で俺を引っ張り上げた。
『おいおいおいおいおい?!!?! いや、いっっっっった!!?!』
ガリゴリと嫌な音が聞こえそうなほど全力で俺を引き抜こうとするウィルド。それでも、俺はかなりがっちりと台座に突き刺さっているのか、抜けることはなかった。
そんな俺を見て、ウィルドは少し残念そうに言う。
「……僕じゃ、引き抜けないみたいだね。僕が原初の聖剣だからかな?」
『いや、そうじゃねえよ! 何で俺を抜こうとした?!』
「……? だって、君がしたいのは、今すぐにでもここから離れて、ジルディアスを助けに行くことだろう?」
その言葉に、俺は思わず間の抜けた声を上げた。
……ああ、そうだった。俺は、ジルディアスを助けに行きたかった。今現状で自分がクソザコなのは十分理解できている。それでも、俺は、あの悪役を、あの外道を、あの大馬鹿野郎を、助けに行きたかった。
それでも、今の俺にそんな力はないから。だから、ひたすら自己嫌悪することしかできなかったのだ。
俺は、ぐっと拳を握り締め(手などないが)、ウィルドに言う。
『……なあ、今すぐ、みんなに声かけてもらえないか? 新しい勇者が、必要なんだ』
「ううん、しなくてもいいかな」
『え……』
笑顔で返されたそんな言葉に、馬鹿みたいな声を上げる。
そして、顔を上げて、目を丸くした。
「聖剣って二本持てるのかしら?」
「うーん……ぼくも今までそんな機会がなかったから、やったことはないけれども……」
杖の聖剣と、鍛え上げられた片手剣の聖剣を持ったサクラとウィルド。
「前は聖剣を引き抜けなかったが、今回はできる気がする」
「私も勇者には興味があったんだ。魔王倒せば将来安泰だからな!」
「……あんまり無謀なことはしないでくれよ、二人とも」
ぐっと拳を握り締めて台座を見上げるアルフレッドと、楽しそうに言うアリア。そんな二人をあきれたような表情でたしなめるロア。
「しかし……ワシが勇者になっても足手まといになるとしか思えぬが……」
「正直、私もそう。でも、エルフは、恩返す」
少しだけやせたのか、それでもでっぷりとした腹を撫でながら頭をかくアルガダ子爵と、世界樹の杖を片手に首を縦に振るルアノ。
「ユージさん、お仕事が忙しくて、あまり来れなくてすみません」
少しだけ申し訳なさそうに頬をかきながら言うシス。
集まって来た彼らを見て、茫然とする俺に、ウィルドはニコッと自慢げに笑って言う。
「僕が呼ばなくても、みんな来てくれただろう?」
『……ああ』
心の中でこぼれそうになった涙を飲みこみながら、俺は首を縦に振る。当然、人間の肉体を伴っていない俺が首を縦に振ることなどできないが、気分的に振ったのだから、確かに首を縦に振ったんだ。
今、人々の反逆が、剣の物語から外れた未来が、紡がれ始めた。
【バルトロメイ・ローゼ】
イリシュテア名門のローゼ家長男。姉にフロライトの女王エルティアを持つ。
姉を心底敬愛していた。そして、敬愛していた姉を間接的に殺したフロライトの人間を心の底から憎んでいる。