124話 忌まわしき過去(4)
前回のあらすじ
・ジルディアスの過去回想
・幼いジルディアスが光の妖精に反逆する
・ユミルと婚約する
ジルディアスがユミルを光の妖精から強奪した後。
月明かりの差し込む書斎で、母エルティアはデスクに座り、ガリガリと己の顔や頭を爪でひっかく。髪が乱れるだの化粧が崩れるだの、そんなことを気にしていられないほど、酷い感情に振り回されていた。
己の息子が、大罪を犯してしまったのだ。
光の妖精を追い返すなどありえない。ましてや、ジルディアスは妖精を半殺しにして花嫁を奪ったのだ。場合によっては彼の処刑のみならず、フロライト領にも悪影響を与えかねない。
がりがり、がりがり、と頭をひっかく音とエルティアの歯ぎしりの音が響く。
__わかっている。あの妖精の行動を見て、本当の正義は我が息子にあることを。
小さな子供であるユミルを、妖精はおぞましい方法で拷問にかけた。……いや、妖精本人にとっては、あの拷問さえも遊びの一環に過ぎないのだろう。罪悪感がないのかと問われれば、もちろんあった。
それでも、我が子の将来とフロライト領の安寧をはかりに乗せてしまえば、見ず知らずの他人の子供一人など軽い命でしかなかった。たとえ、少女がこの先永久の拷問にかけられていたとしても。
それでも、エルティアの心の支えであった神殿の教えの根幹を揺るがされ、彼女は確かに動揺した。正しいと思い続けていたことが……妖精は尊い存在であり、神の代理を務める高潔な存在であるということが、虚実だったのだ。動揺しないほうが可笑しいに決まっている。
信仰も将来も己の立場さえも失い、残されたのはこの命と捨てる当てもない愛情だけ。……いや、正しくは、愛情と呼んでもいいのかわからない、淀んでとろけた重く熱い感情のみ。
いつからここまで愛情が歪んでしまったのか。何でこうなってしまったのか。もはや正気ではないエルティアには、分からなかった。それでも、歪みきっていても、愛情は捨てきれない。染み付いた感情はいくら己を焦がしても、首を絞めても、おぼれさせても、失せはしない。
__夫のアルバニアを愛していた。フロライト領を愛していた。息子のジルディアスを愛していた。
だからこそ、守り切れなかった息子が、息子の不名誉のせいで被害を被りかねない領民たちが、己のことを思い出してくれない夫が、離れていく。止まってくれと願っても、距離は離れていく。重すぎる感情を抱えているために、他の人々の歩みに、他の人々の感情に、ついていけなくなったのだ。おいて行かれたのだ。
己でさえ抱えきれない愛情に焦がされ、エルティアは徐々に涙があふれ出てくるのを感じた。ただひたすらに、苦しかった。誰でもいい。誰だっていい。この感情を、愛情を、与える先が欲しかった。縋る何かが欲しかった。
今までなら、こんな時は神へ祈りを捧げれば気もまぎれた。それでも、妖精の醜悪な本性を見てしまった今、宗教に縋ることはできなかった。
そんな時だった。
エルティアの書斎の扉を、ノックもなしに乱暴に開ける。驚きに目を見開く彼女をキッとにらみ、無遠慮に室内へ足を踏み入れたのは、フロライト領公爵のアルバニアであった。
久々に見たアルバニアの姿に、エルティアは少なからず歓喜した。……たとえ、その瞳に怒りが込められていようとも。
激高した様子のアルバニアは、憎しみを隠し切れないという表情を浮かべ、エルティアに怒鳴る。
「お前は、お前という女は、一体何を考えているんだ!! 妖精様に危害を加えるだなんて、一体どんな教育をした?!」
「ああ、アルバニア様。お久しゅうございます」
泣きはらした顔をぬぐって隠し、エルティアは完璧な淑女の礼を行う。しかして、そんなエルティアの頬をアルバニアは手加減もなく平手で殴った。
したたかに打ち据えられた頬をおさえ、エルティアはその場に倒れ込む。おおよそ紳士の行為ではないその蛮行に、エルティアは困ったように眉を下げ、口を開く。
「アルバニア様。女性に対して手を上げるのは公爵として相応しい行為ではございませんよ」
「__君は、本当に何を考えているんだ。何のために私を村から連れてきた。くだらない妄言を吐いて私を貶めるのがそんなにも楽しいのか?!」
そう怒鳴ってエルティアの胸ぐらをつかむアルバニア。平手打ちのために口の中を切ったエルティアは、血の酷い味を飲み下しながら、悲しそうに言う。
「私たちの息子の件に関しましては、申し訳ありませんでした。あの子があそこまで少女のことを気にかけているとは思ってもおりませんでした」
「私たちだと……?! 私の息子はルーカス一人だけだ!」
憎々しそうにエルティアを睨むアルバニア。その言葉に、エルティアは悲しそうに眉を下げた。
アルバニアが事故に遭ってから幾年たっても、彼は記憶を取り戻すことはなかった。そして、同時に、村から引き離したエルティアへの恨みは尽きることはなかった。
公爵として仕事をしているアルバニアは、何も言い返さないエルティアにしびれを切らしたのか、彼女の胸ぐらを突き飛ばすようにして放すと、吐き捨てるように言った。
「君のことなど知ったことか。光の妖精様の怒りを買った以上、領民にも被害が出かねん。いくら献金が必要になっても構わん。神父を呼んで祈祷をささげてくれ」
酷く冷たいアルバニアの視線。その瞳はおおよそ妻に……いや、令嬢相手に向けるべきものではなかった。それでも、エルティアは自分に声がかけられたと、仕事をお願いされたと、微笑んで返事をする。
「はい。かしこまりました、アルバニア様」
「……本当に、意味の分からない女だ」
理不尽な要求であると、アルバニアも自覚している。それにもかかわらず、笑顔で要求を引き受ける。それが、愛ゆえだと彼自身もわかっていた。だからこそ、見ず知らずの女にここまで盲目的な愛をささげられる理由がわからず、彼女を不気味がることしかできなかった。
__正しく言えば、アルバニアはエルティアがとうの昔に狂気に陥っていることに気が付けなかったのだ。
夫の不在、フロライト領を狙う不届き者、そして胎にいる子供。他にも領民の命も重圧も王からの要求も、全てを愛ゆえに守り戦い抜いた彼女が、正気なわけがなかったのだ。
だからこそ、アルバニアはエルティアを放置して本館に戻ってしまった。__それが、取り返しのつかない過ちだと気が付かずに。
書斎の扉を叩きつけるように閉めたアルバニア。アルバニアに声をかけられ、恍惚とした笑みを浮かべたエルティアは祈りをささげられる神官を呼ぶために手紙を書き始める。その瞳は、もう地平線へ隠れようとしている月明かりが入り込み、いびつに輝いていた。
朝一番に次期司祭の地位についた弟に手紙を送り、彼女自身はある程度身なりを整えてからジルディアスがいるはずの地下牢へ向かう。
石レンガで作られた冷たい地下室には、ユミルの手を握るジルディアスと、ジルディアスの祭事服を布団代わりにすやすやと眠るユミルの姿があった。愛おしそうにユミルの寝顔を眺めていたジルディアスは、母の気配を感じてその視線を地下室の階段に向ける。
ワインレッドのドレスを纏ったエルティアに、ジルディアスはやや警戒したように、ユミルの左手を握り締めたまま目を細める。そんなジルディアスに、エルティアは依然優し気な笑みを浮かべたまま、牢屋の鉄製の格子の側に歩み寄り、赤色の瞳を怪し気に輝かせる。
「母様」
「ええ。ええ。あなたの母様ですよ、ジルディアス」
焦点の合わない、瞳孔の開き切った赤色の瞳。口元にたたえられた笑みは美しく、しかして隠し切れない狂気がにじみ出ていた。
ジルディアスは警戒心を強め、ユミルを庇うように体勢を変える。そんな彼に、エルティアは鉄格子にその白い指を絡め、息子に声をかける。
「ジルディアス。三つのことを約束なさい」
「……何でしょうか?」
ジルディアスは確認のためにそう問いかける。しかし、エルティアはそんなジルディアスの言葉をまるで聞こえなかったかのように無視し、言葉を続けた。
「一つ、貴方の婚約者を大切にしなさい。光の妖精様から奪ったのよ、最低でも妖精様のところにいたときよりも幸せにしなさい」
「当たり前でしょう! ユミルにこれ以上苦しむ理由はない!」
闇と月光の指輪を薬指にはめたユミルの左手を握り締め、ジルディアスは母に言う。しかし、この言葉も母は聞いてはいなかった。少年の言葉にかぶさるように、エルティアは淡々と言葉を続ける。
「二つ、貴方は貴方の正義を貫きなさい。すべてを敵に回しても、誰が貴方を謗ることがあっても、正しくあり続けなさい」
「……公爵家長男として恥じる行いはしません」
エルティアの真っ赤なドレスが、石畳の地下牢に触れて、かすかな布ずれの音を響かせる。今度の少年の言葉も、まるで聞こえなかったかのようにエルティアは言葉を続ける。
「最後に、光の妖精様に逆らい大罪を犯した貴方は、これから先の人生、必ず多くの困難や非難にさらされるはずよ。__だから、貴方はそれらから絶対に逃げてはいけないわ。それが、貴方に科される罰なのだから」
「……母上……?」
紡がれる約束に、ジルディアスは困惑して声をかける。しかし、エルティアは何も反応しない。最後に牢の中で手をつなぐ二人を見て、ひとりごとのように言葉を紡ぎ始めた。
「あのね、最初に貴方が大罪を犯したとき、私は貴方と心中しようと思ったのよ。それでも、貴方とその子は、思い合っているのでしょう? __そんな二人の愛を、私は引き裂けないわ」
エルティアはそう言って、ジルディアスに指輪を手渡す。それは、ユミルに渡した魔法の発動体の代わりのものであった。そして、エルティアはジルディアスの手をぎゅっと握り締める。
酷く体温の低い母の手に、ジルディアスはかすかに目を見開いた。母は、もはや人であることを、まともな精神を放り捨てていた。先ほどからの言葉も、ジルディアスのことを意図的に無視していたのではない。もはや、聞こえてはいなかったのだ。
慈しみに満ち溢れた笑みを浮かべ、名残惜しそうにジルディアスの左手から手を放す。
__そして、それが、エルティアとジルディアスの最後の会合となった。
エルティアは地下牢から出たその足で神殿へ向かい、領主の代理として光の妖精の怒りをその一身で受け止めたのだ。雷にも近いその怒りを受け止めたエルティアの死体は骨の一本も残らず、ただほんの一握りの灰と長くつややかな金の髪だけが、彼女の死の跡として遺されていた。
一身に光の妖精の怒りを買ったエルティアのおかげで、フロライト領に妖精の怒りが注ぐことはなかった。__女王の命と引き換えに、ジルディアスの大罪は許されたのだ。
エルティアの死後、ジルディアスは彼女から課された三つの約束を守り続けた。逃げず、引かず、己の正義を貫き通す彼の姿は、立場が違えば、強大な悪役に見えたことだろう。
だからこそ、ジルディアスが神前裁判を終えた後にようやく記憶を取り戻し、己の罪を知ったアルバニアを、彼は深く憎んだ。彼が母を忘れなければ、彼が母を庇えば、彼が母を愛していれば、こんな残酷な運命は訪れなかったはずなのだから。
同時に、母を間接的に殺した己にも、罪があるのだと、理解していた。
片手剣を握り、ジルディアスは恩田の庇う父アルバニアを睨む。
魔王の欠片に浸食されたアルバニアは、今まで理性で抑え込んでいた謝罪の言葉を吐き続ける。言いたくても、絶対にジルディアス本人が許さないために、言えなかった言葉だ。
記憶を取り戻したアルバニアは、真っ先にジルディアスを己の息子だと認めた。それはそうだろう。瞳は母エルティアそっくりで、その顔立ちも髪色も、アルバニアのそれとそう変わりはしなかったのだから。ジルディアスとルーカスと瓜二つなのがその証左になることだろう。
そして、同時にこの罪悪が許されることはないと、公爵は理解してしまった。アルバニアとエルティアが婚姻している証明は、いくらでもあった。それでも、アルバニアは記憶を失っている間に結ばれた村娘ティアとの恋を優先し、ついぞそれを認めることはなかったのだから。
妖精の怒りを買って灰になっても、女王はアルバニアを、領民を、己の息子を愛し続けた。いくら狂った愛だったとしても、いくら罪深い愛だったとしても、女王のその行動は、確かに降り注ぐはずだった災いからフロライト領を守り、同時に、大罪を犯した愛する息子を守った。
どれだけおぞましくとも、どれだけ不器用でも、彼女のそれは確かに『愛』故だった。
だからこそ、神前裁判から生きて帰ったジルディアスは、父を生かした。__母が愛した夫であるアルバニアを殺すことは、どれだけ不本意でも、己の正義に反するからだ。
その代わりに、ジルディアスは母との約束をアルバニアに伝え、謝罪を禁じた。未来永劫ジルディアスはアルバニアを許すことはない。それだけの罪を、アルバニアは犯したのだから。
それゆえに、投げかけられた「逃げろ」の言葉を、「すまなかった」の謝罪を、許すことができなかった。ジルディアスの退路を断ったのは、彼に大罪を背負わせる一旦となったのは、まごうことなく、アルバニアのせいに他ならないのだから!
殺意に満ち満ちたジルディアスの視線を前に、恩田は小さく身震いした。同時に、今逃げてはいけないと、本能が叫んでいた。
「落ち着いてくれ、ジルディアス。俺ならこのおっさんの魔王の呪いを解除できる。それはわかっているんだろう?」
「だからどうした」
「そう言われると困るんだよなぁ……」
だらだらと出血を続ける肉体。血液は肉体から離れ地面に落ちると、光の粒子に変わって消える。
恩田はジルディアスの過去を知らない。事情だって知らない。それでも、彼が己の父を殺すことは、決していいことだとは思えない。だからこそ、恩田は無理やり笑顔を浮かべ、吐き捨てるようにジルディアスに言った。
「とりあえず、頭冷やせよ馬鹿野郎。冷やせねえなら__」
恩田の脳裏に浮かぶのは、いつぞや、サンフレイズ平原でかわした軽口。あの時は剣の姿しかとることができなかった。それでも、今は違う。
酷い激痛の走る右肩。そこに突き刺さった剣に右手を伸ばし、まるで悪役のような不敵な笑みを浮かべ、恩田は彼に言った。
「__ぶん殴ってでもお前を止めてやる」
そして、肩に突き刺さったジルディアスの剣を片手で砕いた。
【殴ってでも止める】
三章57話参照
たとえ悪だとしてもその正義を貫くジルディアス。しかして、恩田はそんな彼を味方し続けた。もちろん彼自身、ジルディアスが聖人君子かと問われれば間違いなく腹を抱えて笑って首を横に振るだろう。そんなわけがないのだから。
だからこそ、恩田はジルディアスが間違ったときには止める。今はもう、手も足も手段もある、たとえ弱くとも、力がなくとも、彼の危機を救えないほど無力ではないのだから!