123話 忌まわしき過去(3)
前回のあらすじ
・ジルディアスの過去回想
・幼いころのジルディアスとユミルの出会い
酷い痛みだった。頬も、心も。
軋むようなうめき声をあげ、ジルディアスは客室の赤色のカーペットに横たわったまま、胎児のように体を丸める。同時に、母のあの冷たい目が脳裏によぎり、酷い吐き気を催す。
窓から差し込む月明かりが、青く煌めく。カーペットの赤から見えるその青に照らされ、ジルディアスはクツクツと、喉を鳴らした。
いや、違う。
「ふふふ、ははは、ははははははははははははははははは!!」
笑って、いたのだ。
口元はひきつるように弧を描き、瞳に涙をためたまま、笑う。哂う、嗤う。時折咽てせき込みながらも、少年は狂ったように笑い続けた。
少年から、闇の靄のような魔力が発せられる。光魔法をほとんど使用不可能にする様な、あまりにも強すぎる闇魔法の才能。ひびが入り、崩れかけた心を修復するため、己の絶望を殺すため、無意識のうちに闇魔法を使っていたのだ。
こころが、凍り付いていく。高ぶり壊れかけた精神を正常な状態に固定化するため、いびつな激情を、正常な感覚を、凍らせる。凍り付く。
「ああ、母様。貴方は、正しい! 神殿の教えを深く守り、信仰深く、美しい!」
赤色の瞳に狂気をたたえ、少年は横隔膜を痙攣させるように笑い声を上げ続け、少年は陶酔するように叫ぶ。そう、母の言葉は、正しかった。間違ってはいなかった。
宗教的に妖精は神の次に尊い存在とされており、神無き今神殿の頂点に立つのは、妖精に他ならない。そんな妖精の花嫁を、ジルディアスは無理やりこの世界にとどめようとした。それは、大罪に他ならない。母はそれを止めてくれたのだ。
ああ、何と美しく、素晴らしい母子愛なのだろう。我が子を守るために、涙を飲んでいやがる少女を贄に戻す。そして、我が子のつらい別れを見守り、安寧と輝かしい将来を守る。
__ああ、狂気に陥りながらも、なんと、女王は合理的なことか。なんと、完璧なことか。
少年は、鈍く痛む頬を水魔法による回復で癒し、ゆらりと、立ち上がる。狂ったような笑い声は留まることを知らず、不気味な笑みは、まるで絵本の中の悪役のようだった。
ジルディアスは、己の右手にはめていた指輪の発動体が、変貌していくのを理解した。指輪の発動体は魔力に耐え切れず一度砕け散り、月光と影がまとわりついて再構築される。
同時に、母からもらっていた無機物だけが入る魔道具の指輪をキャビネットから取り出し、左手の中指にはめる。
そして、狂気に包まれた笑みを浮かべ、天性の悪役はつぶやいた。
「__だから、僕が、悪い子になる」
豪華な客室のカーテンが、はためく。窓は砕け散り、赤色の絨毯に透明な破片が零れ落ちる。
そうして、悪役は覚醒した。
フロライト邸から少し離れた場所にある神殿。普段はフロライトの街にある聖剣を維持管理し、勇者の選定を行うに過ぎないその場は、現在、光の妖精の花嫁を帰すための儀式が行われていた。
白色のドレスで豪華に飾られたユミルは、正面中央、教会のエンブレム……例の二重丸の前で、ひたすら跪いたまま顔を伏せていた。恐怖はある。それでも、帰らなければ、ジルディアスに迷惑をかけてしまう。……それは、嫌だった。
大人たちは神語魔法の詠唱に似た意味のない讃美歌を唱え続け、当たりに満ちる劣悪な感情の入り混じった魔力はただ少女を追い詰める。正気がそがれるようなその状況はたっぷり十分以上続く。……ユミルからしてみれば、あまりにも長すぎる十分であったが。
そして、たっぷり時間をかけて、神殿に光が舞い降りた。
まるで無邪気な子供のような、光の結晶。それこそが、光の妖精だった。
『やあ、ユミル。気は済んだ?』
響く神殿関係者の歓声や歓喜の声を無視し、光の妖精はニコニコと笑って花嫁衣裳のユミルに言う。その言葉に、ユミルは表情を引きつらせ、気が付けば、口をついていた。
「__き」
『ん?』
聞き取れなかった光の妖精は、笑みを崩さず、首をかしげる。普段なら、そんな光の妖精の反応でさえ、おびえるはずのユミルはしかし、少しの間の安寧の日々で、正気を取り戻していた。
ユミルは顔を上げて、光の妖精を涙目で睨む。そして、叫んだ。
「嘘つき!! 私を、お父さんとお母さんのところに帰してくれるって約束したのに!!」
『__ああ、そのこと? ごめんごめん、人間の寿命のこと、忘れちゃっててさ。でも別にいいじゃん』
「いいわけない!! お父さんとお母さんのところに、帰してよ!!」
花嫁衣裳の裾をぎゅっと握り締め、ユミルは叫ぶ。
その言葉に、光の妖精は、不愉快そうに眉を下げた。そして、ふん、と小さく鼻を鳴らすと、短く宣告した。
『生意気。罰ゲームね』
「__!!」
次の瞬間、光の妖精から細く鋭い光が放たれる。
物質と化した光の結晶は、容赦の欠片もなくユミルの両足と腹を貫き、周囲の肉を焼き焦がす。
少女の甲高い悲鳴が、響く。
これこそが、ユミルが光の妖精から逃げたがった最大の理由。人権を一切認められない、無邪気だからこそ容赦のない罰だ。……いや。妖精は今、『罰』と形容したが、この程度の悪戯は退屈だからという理由でも、気まぐれだったからという理由でも、面白いからという理由でも、行われる。
赤色の血が、純白の花嫁衣裳を汚す。それを見て、愉快になったのだろう。光の妖精はキャラキャラと甲高い笑い声をあげて言う。
『それいいね! 白よりの赤のドレスの方がいいよね! もっといっぱい赤くするね!』
光の妖精はそう言って、少女の右手を握ると、無数の光の槍で、その右手の表面を切り刻む。
苦痛と絶望に沈む少女の瞳。ようやく事態の異常性に気が付いた神殿の人間も、小さく悲鳴を上げて、しかし、介入することはできず、ただとんちんかんな讃美歌を命乞い代わりにつぶやきながら見守ることしかできない。
純白の花嫁衣裳の右半分がドス赤く染まったところで、ユミルはついに悲鳴を上げることすらできなくなり、ガクンと台座の上に崩れ落ちる。それを見た光の妖精は、少しだけ不思議そうに首を傾げたあと、思い出したようにニコニコと笑う。
『ああ、そうだった、人間って脆いから、ちゃんと直さないといけなかった』
そう言って、光の妖精は少女の右半身につきささった光の槍を消失させ、詠唱する。
『パーフェクション』
回復の光が、瀕死の少女を癒す。いや、直す。
光の妖精の強力な光魔法は、人間が行使するパーフェクションでは不可能な、失った血液さえもその体に戻す。同時に、ユミルが苦痛の内に失った意識もまた、取り戻された。
酷い痛みに、ユミルは声を上げることもなくただ涙を流す。光の妖精に連れ去られたばかりのころ、泣き声を理由に生きたまま解体をされるという死ぬことさえ許されない拷問を受けたため、ジルディアスと安寧の日々を過ごすまで、声を上げて泣くことなど忘れてしまっていた。
命を取り戻した玩具に満足したのだろう。光の妖精は嬉しそうに笑って、真っ赤な口を開く。
『もう半分も赤くした方がきれいだね』
「__嘘つき」
赤く汚れ、さらに重くなった花嫁衣裳。傷一つないのに、苦痛と痛みの記憶は消えはしない。この後訪れる未来の絶望に心は酷く重かった。
普通の精神状態に戻ったユミルが面白かったのだろう。光の妖精は愉快そうに笑って光の槍を呼び出す。
その時だった。
突然、神殿の扉がすさまじい音を開けて開かれた。
いびつな讃美歌も、光の妖精の笑い声も、大人たちの悲鳴も、その音にかき消され、一瞬の静寂が訪れる。ひとりでに開かれた神殿の両開きの扉。その奥から堂々たる出で立ちで歩み寄ってきたのは、子供用の祭事服を身に纏った、ジルディアスであった。
台座の上に溜まっていた血と肉の焦げる嫌な臭いは、吹き抜ける夜風によって攫われていく。開かれた神殿の扉から、まばゆい青の月光が差し込み、ジルディアスの白銀の髪を優しく、冷たく、輝かせる。
そんなジルディアスの姿を見て、光の妖精は初めて、その瞳を驚愕に歪ませた。
満ちる怒りと殺意が、光の妖精に向けられている。ユミル以外の人間全員を軽視していた光の妖精は、初めて彼女以外の人間を『個』として認めた。
『いきなりなんだよ!!』
不機嫌さを隠すこともできず、怒鳴る光の妖精。そんな妖精の言葉を無視し、ジルディアスは真っ赤な絨毯の敷かれた神殿の通路を歩き、正面の台座へ向かって歩み寄る。赤の瞳には怒りと殺意を、口元には笑みをたたえた魔性の少年に、大人たちはようやく我に返って彼を止めようと体を動かす。
__が、しかし、誰もジルディアスを止めることはできなかった。
「【グラビティ】」
右手の闇と月光の指輪が、揺らめく。その次の瞬間、すさまじい重力がユミル以外全員に加わり、大人たちは皆地面に倒れ込んだ。体の弱い神官の数人は、その衝撃で意識を失う。
そして、ジルディアスは血みどろのユミルをその両の目で見ると、吐き捨てるようにつぶやいた。
「下郎が」
その言葉に、光の妖精は激昂したように光を強める。そして、ユミルに向けようとしていた光の槍を、ジルディアスに向けた。ユミルは、小さく悲鳴を上げて、ジルディアスに叫ぶ。
「逃げて、ジル!!」
懇願にも近いユミルの悲鳴。しかし、ジルディアスはその悲鳴を無視し、淡々と言葉を紡ぐ。
「婦女子には優しくすること。人を傷つけないこと。約束は守ること。__全て、母上に教わった正しく人としてあるための道理だ」
紡がれることば。同時に、ジルディアスは指輪の倉庫から一振りの剣を取り出す。それは、神殿の警護をしていた兵士から奪ったものだった。
月明かりと殺意に煌めく鋼の刃。しかし、光の妖精は余裕な表情を崩さず、ジルディアスを鼻で笑って言う。
『だからどうしたの? ボクは君たちみたいな人間じゃなくて、妖精だ』
「__人でなしに、ユミルをくれてやるつもりはない。帰すなんてことのほかだ」
ジルディアスはそう言って、己の身には大きすぎる剣を構える。血を吐くような鍛錬のおかげで、多少武器の大きさが違う程度で支障が出るようなことはなかった。赤色の瞳に怒りをたたえ、ジルディアスは光の妖精を睨む。
「お前一人で帰れ。ユミルは、僕の……いや、俺のものだ」
短く宣告するジルディアス。怒りのあまり額に青筋を浮かべた光の妖精は、一斉に光の槍を少年に放つ。
一般人なら……いや、優れた戦士でも、数秒と立たずひき肉に変えられてしまうような猛烈な攻撃。しかし、少年は少しも動揺することなく、赤色の絨毯を蹴って走り出す。
そして、走りながら詠唱した。
「闇魔法第5位【ダークジャベリン】!」
眩しい光に比例するように、濃密な影。そこから、いくつもの影の槍が生み出される。
少年にとって幸運だったのは、その光の槍が、あくまでもユミルを痛めつけるための、比較的殺傷力が低いものだったことだろう。だからこそ、ダークジャベリンは降り注ぐ光の槍を撃ち落とし、直接ジルディアスの肉体を狙った光の槍は、剣で切り払う。
砕け散る光の槍。人間なら容易に屠れるはずの光の槍が打ち砕かれ、驚きで集中を切らした光の妖精。その隙を、ジルディアスは見逃しはしなかった。
風魔法を使って空気を蹴り、一気に加速して、光の妖精の右腕を撥ね飛ばす。無意識のうちに願われた精霊の加護により、ただの剣に過ぎなかったそれは、妖精さえも両断する魔剣と化していた。
冗談のように軽やかに吹き飛ぶ妖精の右腕。そして、痛みで表情を歪めた妖精のその首に、魔力の込め過ぎで軋む剣を突き付ける。小さく悲鳴を上げる光の妖精を無視し、ジルディアスはその状態でユミルに問いかけた。
「ユミル。これを、どうしたい?」
「……え?」
そう問われたユミルは、茫然とジルディアスを見上げた。
返事のないユミルに、ジルディアスは冷たい視線をそのままにさらに言葉を続ける。
「何も言わないなら、これを殺す。ユミル。君の願いを言え」
淡々と言葉を紡ぐジルディアス。その言葉に、ユミルは、即座に答えた。
「おうちに帰りたい。お父さんとお母さんのところに、かえりたい!!」
「__わかった。」
ユミルの望みを聞き入れたジルディアスは、首に剣を突き付けたまま、光の妖精を見下ろす。そして、淡々と問う。
「ユミルを元の時代に帰せ」
『はぁ?! 何でそんなことしなきゃいけないんだよ!!』
「それがお前とユミルの約束だろう。守らないというなら__」
ジルディアスはそう言って、徐々に崩壊の始まりだした剣を振りかぶる。それを見て、ようやくジルディアスが本気であると理解したのだろう。慌てたように表情を引きつらせ、苦し紛れに叫ぶ。
『すぐには無理だ! で、でも、方法は絶対に見つける!!』
「……なら、契約しよう。お前は絶対にユミルを無事に元の世界に帰れるようにする方法を確立する。それまで、お前は絶対にユミルに接触するな。元の世界に帰した後も、接触するな。時代が違おうとも、彼女は俺のものだ」
『はぁ?! そんなの了承できるわけないだろ! この人間はボクのものだぞ?!』
目をむいて怒鳴る光の妖精。しかし、ジルディアスは依然冷酷に宣告する。
「人でなしにくれてやる道理はないと、言ったはずだ。契約をしないなら、俺はお前を殺し、自力で時を遡る魔法を研究するまでだ」
『?! そ、それはダメだ! 摂理に反する!!』
「だめだろうと何だろうと知ったことか。もとはと言えば貴様の約束を破ったことから始まったことだろうが」
ジルディアスの台詞に、光の妖精は目に見えて焦りだす。神無き今、この世界を代理で守る義務のある妖精にとって、少年の台詞はシャレにならなかったのだ。そして、光の妖精はこの少年に秘める勇者の素質を見抜いていた。
人間には不可能な『時間遡行』も、勇者なら可能とするかもしれない。そして、何よりも、ジルディアスの背中。彼の右手を背後からつかむようにしてこちらを覗き込む、闇の精霊。少年の目には見えてはいなかったが、あの精霊はジルディアスの感情に呼応して力を貸し続けている。妖精よりも格下の精霊ではあるが、属性の相性が悪すぎた。
近づいてくる崩壊しかけた刃。その刃が、真っ白な喉に触れるよりも先に、光の妖精はついに根を上げた。
『わかった! ユミルを元の時間に戻す方法を探す! 見つけるまでは、ユミルに接触しない! 元の時代に帰した後は関わらない! これでいいだろ?!』
「……ああ、そうだな。契約しよう。ただ……」
光の妖精の降伏に、ジルディアスはそっと剣を下ろす。
離れた脅威に、ようやく光の妖精は少しの安堵を覚え、失った右腕を再生する。そして、すぐにジルディアスを殺そうと魔力を集中し始め__その瞬間、右半身を失う。
『……は?』
茫然と声を漏らす光の妖精。気が付けば、ジルディアスが禍々しい剣を振り抜いた残心を見せていた。
己の存在の消失。その恐怖に、錯乱しかけた光の妖精を一瞥し、ジルディアスは神殿に響くようないびつな笑い声をあげる。そして、ぼそりと「これでもユミルの苦痛には足りはしない」と吐き捨てながら、言葉を続ける。
「僕には……いや、俺には少しの不安があるんだ。妖精であるお前は、絶対に部下がいるはずだ。なら、お前が接触せずに、配下にユミルを攫わせる可能性もある。だから、こうしよう。」
ジルディアスはそう言って、右手の中指の指輪に意識を向ける。
「契約が成立するまで、お前の記憶を封じる。貴様に花嫁などいなかった。__闇魔法真位【フォーゲット】」
闇魔法7位の比較的高位の記憶消しの魔法。本来の魔法はたった数秒の記憶しか奪えず、敵の攻撃を阻害することしかできないような弱小の魔法は、しかし、闇の精霊の援護によって変貌し、光の妖精からユミルに関するすべての記憶を奪う。人間に向けられて詠唱されれば、間違いなく廃人になるような、禁術レベルの魔法であった。
そのころには、光の妖精も限界だったのだろう、わらわらとあたりに集まって来た光の精霊たちによって、妖精の園へ引き返していく。
茫然とする大人たち。ユミルも、ようやく妖精の花嫁から逃れ、自由になったという事実に気が付けず、茫然とジルディアスを見上げた。
まばゆい光の妖精が消え、ジルディアスはガクンとその場へ倒れかける。それでも、彼はまだやらないといけないことがあった。
ジルディアスは、かろうじて意識を保ちながら、中指から魔法の発動体にしていた闇と月光の指輪を取り外し、ユミルの左手をとって片膝をつく。そして、魔力の使い過ぎでふらつきながらも言葉を紡ぐ。
「ユミル。俺と婚約してほしい。君に婚約者がいれば、アイツだって、無理やり連れて行けなくなるはずだ」
「……は、はい」
茫然と返事をするユミル。そして、彼女の左手の薬指に、魔法の発動体だったその指輪がはめられる。__その時に、ジルディアスの闇精霊の加護が彼女に分け与えられたのだろう。ユミルの絹糸を金で染め上げたような艶やかな金髪は、やさしい夜のような、つややかな黒髪に変わる。
それを見て、ジルディアスは満足そうに微笑んだ後、魔力不足で意識を落した。神殿の床に倒れた剣は、粉々に砕け散る。
__神の代理たる光の妖精を傷つけ、あまつさえその妻を奪うという大罪を犯したジルディアスは、その日から、光の魔法を一切使えなくなった。