二十話 パンを買おう
真夜中の山中で、巨大な卵が割れていた。
全身卵白でぐっしょりと濡れそぼったベルラが、這いずって卵から出てくる。
「ぜひーっ、ぜひーっ……ひ、ひどい目に遭った」
深呼吸して酸素を貪ると、頭に乗った殻がずり落ちた。
「デミスン様……石にした私を卵に閉じ込めて、脱出地点まで飛ばしたのね。石化して脆い私の身体を、卵で保護するなんて……」
卵液の中で石化が解けた結果、窒息しかけたのだが、落下の衝撃で小さなヒビが入っていたらしい。少し叩いただけで割れて、こうして外に出られた。
「……石にしたのは、私なら言うことを聞かずに最期まで戦い続けると、そう予測したから……? デミスン様……どうかご無事で」
本当は石化の巻き添えにされたのは「カッとなったとき偶然近くにいたから」なのだが……ベルラには知る由もないことである。
ともかく、ベルラは祈る心地で街の方角を見た。
一面の雲に、ひとつぽっかり開いた穴があるのをすぐに見つけた。
「……仇はとります。ここは一度退散よ」
月が高速回転しているのを見たベルラは、明らかに手に負えない事態になっていると悟り、大人しく撤退することにした。
早朝の駅。
真っ二つになった客車を修復している作業員たちを、オリヴィアは眺めていた。
いつものドレス姿ではなく、ひらひらした袖のフレンチスリーブに、すね丈のハイウェストスカート。かなりカジュアルな服装だ。
「で、修理にはあとどんくらいかかるわけ?」
こちらはいつも通りのラフなタンクトップにラフな短パンのサーノ。髪色は黄色の強いオレンジ。
「明後日には終わるそうです。一週間も長居することになってしまいましたわね」
「いいんじゃね? 急ぐ旅でもないし」
「それはそうなのですが、そろそろ紅茶ハンバーグとか紅茶プリンとか紅茶ソテーとか、紅茶系の料理ばかりで飽きてきましたの……」
「いいじゃん。姫さん大好きだろ、紅茶」
「程度ものですわ」
ため息をつくオリヴィア。
「いくら特産品だからといっても、朝から晩まで紅茶ばかり食べさせられては、身体から紅茶が染みてきてしまいますわ」
「じゃあしばらくティータイムは無しだな」
「それはそれ、ですわ」
「筋金入りだねぇ」
サーノが苦笑して肩をすくめる。
「まあそれはそれでそっちがいいんなら、それでそれはいいんだけどよ。それはそれよりもそれだよ姫さん」
「それそれとしつこいですわね」
サーノはオリヴィアの恰好を珍しそうに眺めまわした。
「どこから持ってきたんだ、そんな軽いカッコ」
「可愛いでしょう。似合います?」
「落ち着かねぇ。いっつもフルアーマーな姫さんが軽装備だと、なんかな……」
「まあ、うふふ♪」
サーノの返答に、オリヴィアは何故か機嫌良さそうににこにことしている。
「……どういう魂胆なのか教えろよ。日焼けは敵とか言ってなかったか?」
「え、それは言ってませんわ。わたくしなら言うかもって思われるでしょうけど」
「……言ってなかったっけか。言ってなかった気がしてきた……」
「今日のサーノは調子が悪そうですわね。大好きな露出過多の女の子を近くにして、平常でいられるわけもありませんか」
「それも言ってない。なんか近いことは言った気がするけど、間違いなくそういうニュアンスではない」
「うふふふ、さあ観光に行きましょうサーノ」
「言ってないからな。……言ってないよな?」
オリヴィアはサーノの手を引っ張って、街へ出た。
サーノとオリヴィアは、駅を離れて通りのパン屋を訪れていた。
そこの店員の、サーノを見た第一声がこれだ。
「いらっしゃいませ……あっ、脱獄犯さん!」
「お、でべその嬢ちゃん」
サーノは、牢屋で会った少女を見て、気さくに手を振って答えた。
「……サーノ、でべそって?」
「脱獄犯のほうがワードとして剣呑だと思うんだけど、なんでそっちを気にするのかね姫さんは」
「そ、それは言わないでください脱獄犯さん……!」
恥ずかしそうに顔を隠す少女。さらに険しくなるオリヴィアの表情。
「だから、でべそとは? サーノはこの子とどういう関係ですの?」
「お互い名前も知らねぇ仲だよ」
「そうだ、まだお名前聞いてませんでしたね。うちはパンの焼き跡で名前を書くサービスしてますよ、おひとつどうですか?」
「へぇ、名前をね。姫さん、試してみる?」
「おっきなハートの中に『サーノ&オリヴィア』って書いてくださいまし」
「相合傘かよ」
「はーい、少々お待ちをー」
少女は軽快に返事をして、工房へ引っ込んだ。
「……それで、でべそとは?」
「まだ言うか。ヒントやるなら、髪色の変化にも気づかない程度の仲だよ」
「なるほど、それなら安心しましたわ。まあサーノに限っては、鈍感ですから、万一もないとは信じていましたが」
少女が工房からひょっこり顔を出す。
「焼き上がりまで店内で待ちますかー?」
「いえ、メイドを寄越しますわ。ペペと名乗らせますので、そちらに引き渡してくださいまし」
「はーい」
少女が再び引っ込んでから、サーノはオリヴィアに尋ねた。
「ペペに伝言するためだけに、また駅に戻るわけ?」
「いいえ、連絡手段がありますの」
そう言って、オリヴィアは何やら板のようなものを取り出した。
「これに字を書くと、汽車に備え付けた石板に同じ文字が浮かぶのです」
「へぇ、ハイテクだな。どういう仕組み?」
「さあ? お父様の発明コレクションから拝借しましたので……」
「……あ、そう……社爵って立場を満喫してやがるな、クソジジイ」
サーノは呆れて、ため息をついた。
「……? ていうか、ペペって外に出れんの?」
「引きこもりではありませんよ。田舎はよそ者を殺して食べると教えただけですから、都会は歩けますわ」
「姫さんの仕業かよ。最低だな」
詰所。
オリヴィアが執務室の扉をノックする。
「フィラヒルデ様、入りますわよ」
『あ、れ、令嬢!? 少々お待ちくださ』
「ごめんなさい、急ぎなので失礼しますわ」
フィラヒルデの制止も聞かず、オリヴィアは扉を開けた。
「……?」
オリヴィアに続いて執務室に入ったサーノが見たものは、コップ片手に硬直しているフィラヒルデだった。
「な、な」
「あらあら、お薬の時間でしたのね」
オリヴィアは執務机に大量に並べられた薬包を眺めた。
「え、あ、そ、そそ、そうなのです。身体が弱いので」
「嘘つけ。病弱ぶるな超人」
何やら取り繕おうとしたフィラヒルデの嘘を、サーノは否定した。
「ふむふむ。全部胃薬ですわね。フィラヒルデ様、胃袋をいくつお持ちなのですか?」
ニコニコと薬品名を読んでいくオリヴィア。
サーノの眼には、オリヴィアの顔がやたらつやつやと輝いて見えた。
オリヴィアはサーノの視線にすぐ気づいた。
「……どうしましたの、サーノ?」
「いやあ、ほんと楽しそうだなー、って」
「別にお薬を飲むのはかまわないと思うのですが、ここまで露骨にうろたえられると、久々に人を小突きまわせそうな気配がしますの」
「満面の笑みで邪悪な動機を堂々と語るな」
「うふふ」
「……お願いします社爵令嬢。このことはどうかご内密に……」
観念したように、フィラヒルデはオリヴィアへ顔を寄せてささやいた。
フィラヒルデは切羽詰まった表情をしている。
「内密、とおっしゃられましても。胃薬をたくさん飲んでいらっしゃっただけではありませんか」
「そ、それはそうなのですが……」
「ずいぶん遠方の地の霊薬やら、この世に残り十粒しかないと言われる悪魔の種やら、ずいぶんとお高いものばかりを手間暇かけてそろえていらっしゃるご様子ですが」
「う、うぐ」
「内臓が悪いのですか? わたくし、人体改ぞ……ごほん、手術には自信がありますの」
「け、結構です! え、先ほど人体改造と言われましたか? 聞き間違いですかな?」
「お耳も不調でしたら、なんならそちらも手を加えてさしあげますわ」
「聞き間違いではなかったらしい。サーノ、社爵令嬢とは何者なのだ」
「変態」
「わたくしの本性などどうでもよいのです。フィラヒルデ様、結局この薬の数はなんなのです?」
「うう……正直に話しますが、笑わないでいただきたい」
フィラヒルデは観念したように語り始める。
「……私は、胃薬のテイスティングが趣味なのです」
「は?」
「あら」
「様々な胃薬の飲みやすさ、効果に副作用、コストパフォーマンス……そういったものをデータにまとめるのが、殺伐とした軍隊生活でのささやかな楽しみなのです。……老婆のようだと笑われるでしょう?」
「いや、最初から別に笑っちゃあいないんだが……意味がわからなかったっていうか、困惑のが先に立っただけで」
「そうですわ、良いご趣味だと思います。気にし過ぎて先走り過ぎでしょう」
「そ、そうでしょうか……」
「そうですわ。こそこそやらずに、皆に周知しましょう。ではこれで」
「あああ! ま、待って! お待ちください社爵令嬢!」
踵を返したオリヴィアに、悲鳴のような声でフィラヒルデはすがりついた。
サーノからは、オリヴィアの顔が恍惚でほころんだのが見えた。
「ああ、この保身のための悲痛さ……極上ですわ……」
「……いやさ、フィラヒルデ。別に胃が弱い程度で部下から蔑まれるとは思わないぞ」
オリヴィアに任せていては話が進みそうにないので、サーノは口を挟んだ。
「ひ、日頃居丈高に振舞う巨乳が薬物狂い等と知られて無事だと思うか!?」
「自分で巨乳って言っちゃうのはどうかと思いますわよ……」
「それは態度と乳のデカイ自分が悪いんじゃあないか? というより、薬物狂いって」
「そうだ! リーダーとは気高く、強く、綻びのないもので! 決して、休日に薬局で鼻歌を歌いながら新商品をチェックする乙女であってはならないのだ、わかるなサーノ!」
「まあ! 休日ショッピングだなんて可愛らしいですわ!」
「勝手に自爆してんじゃねーよ……。やっぱ気にし過ぎだって。場所のチョイスが乙女かも怪しいし」
「そうですわ。理想が高過ぎでしてよ」
「そ、そうでしょうか……変な趣味ではないでしょうか」
「いや、正直へんてこな趣味ではあると思いますわ」
「まあうん、一般的な趣味じゃないとは思うぞ」
「やっぱり! 私は変態だ! どうか、どうかご内密に……!」
「あぁ……このなりふり構わないしがみつき……美しいですわ……」
勝手に焦るフィラヒルデ。満足そうにその頭を撫でるオリヴィア。
「……あ、サーノの頭の方が丸くていい頭ですわよ?」
「誰も聞いてねぇよ」
なんとなく不機嫌な調子の返答になったのを、サーノ本人は気づかなかった。
「それでだ、サーノ」
一度オリヴィアには退室してもらい、執務室にいるのはサーノとフィラヒルデのふたりだけだ。
机の上は片付いている。
「ゲレプテンの……いや、この国を守るために、今一度国に雇われてはくれまいか?」
「あー……」
誘われることを予想していないわけではなかったが、サーノの返事は決まっていた。
「悪いけど、今はオリヴィアの護衛で金もらってるからなぁ」
「では、護衛の報酬の五倍を払おう」
「五倍!?」
サーノはいきなり決心がぐらついたのを自覚した。
「ご、五倍かぁ~。う、う、うーん。でもなぁ、この左腕も治療してもらわなきゃだし……」
「治療? ……ああ、義手なのか」
フィラヒルデは手元の資料に目を落とす。
「調べた? 人気者で困るなぁ」
「お前程の魔法の使い手ならば、腕を自力で再生するのも不可能ではあるまい?」
「あー……そいつはみっつくらいの理由があって無理なんだよ」
「ほう」
「ひとつ。オリヴィアとの契約には、新作義手のテストも組み込まれてる」
「それは国に仕えれば、気にする必要はなくなるな」
「ひとつ。再生治療には莫大なエネルギーが必要なんだよ。寝貯め食い貯め、老化対策、その他諸々……」
「手間と時間がかかるということか。それも全力でサポートしよう」
「……ずいぶん入れ込むじゃねぇか」
サーノはそろそろ怪しさを覚えてきた。
「そこまでダークエルフの魔法が必要かよ?」
「先日のメドゥーサとの戦闘で、まだ私たちは力不足だと思い知らされた。サーノ、あなたの力が必要なんだ」
「……ラストひとつの、自力での再生をしたくない理由なんだけどな」
サーノは自らの左腕をさすりながら、ぽつりとこぼした。
「怖くないんだよ」
「……怖くない? 怖い、なら理解できるが……」
「この腕はドラゴンに食われたわけだけど……なんていうか、『ああそうか』って感じなんだ。油断したことを全然悔しく思えない」
「それは……どういうことだ?」
「魔力中毒で実感が湧いてない。このままだと、死ぬような怪我をしても気づかなくなりそうだ」
サーノは表情に少し焦りを滲ませた。
「傭兵とか亜人とか、そういった以前の問題として、生き物としてマズイだろ。だから、しばらく積極的な命のやり取りは控えさせてくれ、って話」
「……護衛仕事というのも、かなり危険だと思うがな」
「そうか? 神経はそこまで使わないぜ」
「ふむ……よくわからんが、わかった」
魔法について門外漢のフィラヒルデは、深く追求するのをやめた。
「そこまで言うなら、無理には誘わんよ。自身の問題に専念してくれたまえ」
「そうしてくれ。姫さんに頼られちまうと弱いんだ、昔から」
「仲が良いな。……し、しかし、まさか社爵令嬢が、か、改造手術などという不穏な単語を口にされるとは」
「……ああ……それは忘れたほうが身のためじゃねーかな……姫さん、時代が時代なら悪の親玉やってたろうから、いろいろ躊躇しないし……」
「そこまで言われると、人々の平和を守る立場としては見逃しにくいのだが……」
「しっかり紐つけてるから、信じてくれ」
「……まあ、そうだな。今は見逃しておこう」
「話は終わりか?」
「ああ。社爵令嬢! お入りください!」
『はーい。待ちくたびれましたわ』
重そうに扉を開けて、オリヴィアが入ってきた。
「んしょ……ふう、鉄板でも仕込んでいるのでしょうか」
「私からサーノへの話は終わりです。社爵令嬢、そちらのご用件とは?」
「用事と言いますか……まずはご挨拶を」
サーノの頭を片手間で撫でながら、オリヴィアは続ける。
「三日後に出立します。お世話になりましたわ」
「なんで手持無沙汰だとすぐ頭に手を置くんだ。置物じゃねぇんだぞ」
サーノの抗議は聞き流された。
「そうですか。こちらもご迷惑をおかけしました。お身体にお気をつけて」
「はい、お互いに」
「フィラヒルデもこの悪い手になんか言えよ、他人と話すときに手遊びすんなとかさ」
「ははは、お似合いだぞサーノ。可愛らしい」
「てめぇ!」
「こらこら、サーノったら。はしゃぎすぎですわ」
「子供扱いするのか!? 年の差が明白なのに!?」
「あとですね、フィラヒルデ様。ちょっと今後のために、うかがいたいお話がありまして」
「なんですかな? 答えられることであれば」
「ドリルレイピアの使い勝手はいかがですか?」
「この珍妙な武器、発明したのあなただったんですか!?」
ペペはパンを受け取った。
「はいどうぞ、名前入り紅茶パンです」
「こ、紅茶ですか……そろそろ飽きたなぁ」
少しげんなりしつつ、笑顔を返したペペは、袋を開けて中身を確認して、
「……何見せつけてるんですか、オリヴィア様は。胸焼けしそう……」
露骨にげんなりした顔をした。
大きなパンは、焼き目でハートの中に『サーノ&オリヴィア』と書かれていた。