不運の遭遇
前回:ある日、森の中~。ヤバいのに会った。
「グルルルル……!」
尻尾の先までも毛を逆立て、キュウは大きく唸り声を上げる。
ハッキリと見せる敵意が、キュウの魔獣の本能としてのそれ。…つまり、それだけ目の前の魔獣が危険なものだと言う事なのだ。
しかし一方で、向こう側はこちらを意にも介さないで、こちらに背中を向けたままで、最悪な音を立てている。
それはソイツの食事の音なのだ。
まるで人がそうするように、何か隠してごそごそと動く。その頭が動く時に『バキッ』『ボキッ』……と、骨が折られる音、獣が口にそれを頬張り鼻息荒く貪る音―――。
多分、今まで生きてきた中で最悪中の最悪な場面だ。もうすぐ、キュウにとっての再会、それに俺にとっても久し振りに人と話せる大事な瞬間だと言うのに…。
「……キュウ、……キュウ!」
小声でもハッキリと名前を呼んで、キュウの意識をこっちに向かせる。
名案とはいかないが、アイツは今、食事に夢中でこっちには意識が向いてない。このままやり過ごしてしまえる可能性がある。
下手にこっちに気取られる前に、この場から退散したところで誰に咎められることでもない。
…だからこそ、キュウを落ち着かせなくては。
「頼む、落ち着いてくれ、な? アイツとやりあったらダメだ」
俺なんて、もう最初から戦意なんて無かった。離れていてもよくわかるくらいに大きい。
地面に尻をつけていても、アイツは自分の身長かそれよりも大きく、最早中型の魔獣というより大型の分類に入ってる。
…そんなヤツを相手をするのには、最低でも熟練クラスの戦闘職で3人は必要だ。加えて、アイツがどんな魔獣か、予備知識さえないのに戦うなんて選択肢は存在しない。
「ゆっくり、静かに下がるんだ。…そしたら全力で逃げよう。頼む!」
唯一の選択をキュウに懇願する。
気付かれていないと言うより、興味がないならば『逃げるが勝ち』だ。
キュウよりも先に、ゆっくり、静かに後ずさる。けしてアイツから目を離さないで、ほんの少し前の記憶を頼りに―――。
恐怖を感じていても、まだ体が自由に動かせるのが奇跡に思える。胸の鼓動がやたらと大きく聞こえて、耳を利かせなくしている。
本当に息苦しくて、時間さえ重たく感じる。
…十分な距離とあとはタイミングだけ。
理想は完全な逃走。二度とアイツに出逢うことさえないくらい、そのテリトリーからの脱出。
俺の気配を感じているのか、キュウも気配を抑えながら器用に後退していた。まだ少し、小さな唸り声を出してはいても、俺の意思を汲み取って言う通りの動き。
…もうすぐ、森に紛れ込める。
俺の意識には、その一点で余裕さえ浮き初めていた。
ーーーーーーーーーー
迂闊だった。
間抜けだった。
……俺は大きな勘違いをしていた。
あの魔獣のある部分を過小評価していた。
――それはアイツの頭の良さ。
俺とキュウに無くて、アイツにあるもの。
この森の知識を知るモノと、そうでない俺達では余裕の意味合いが違っていた。
俺とキュウは間違いなく、アイツから逃げれたと思った。
後ろのことなんて一切振り向かないで、我武者羅に走って、走って、走って―――。
あの時点で、アイツから目を離した時点で逃走が成功したと思った。
気配が近くにも感じないし、絶対に追い付けない、届かない……もう内心ホッとしていた。
……そして、走りに走ってたどり着いた拓けた場所。
確かにそこはさっきとは違う場所だった。
「やった…、ハァハァ、んっ、ハァハァ」
荒く呼吸を繰り返して、それでもキュウに向かって声を掛ける。
「ハッハッハッ……」
キュウもそんな風にして、舌を出して呼吸をしている。
結果として、また知らない場所まで来てしまったが、空が見えるだけ拓けていれば、キュウを捜していた娘に見つけて貰える。
もしかしたら、アイツとは違う魔獣と戦う事があっても大丈夫だろうとしか思わなかった。
少なくとも、息を整える時間が経った頃、また空からあの娘の声が聞こえ始めた。
「キュウーーーッ! どこにいるのーーーッ!」
それに応える為に、キュウが空に向かって遠吠えを上げる。
……それが決定的に悪かった。
俺にはキュウの気持ちを止める事なんて考えて無かった。そのお陰で俺も助かると思っていたから。
何処か遠く、違う場所に向かっていく声。だから、キュウは駆け出そうとしていた。
「グルルルル! ワウッワゥッ! ウ~、ワウッ!」
そんなタイミングで、キュウが唸り声を上げて、来た方向とは違う木のある方に吠える。
俺も一応剣を抜き放って、その方向に構える。『きっと、違う魔獣が来たんだな』くらいに考えていた俺の耳にも、異様な音の近付きが聞こえ始めた。
木が揺れ、葉っぱがガサガサと鳴る。何か重たく、響く足音。
そして、目の前に唐突に道が現れた。
……その道を悠然と四足で歩くアイツの姿。
「何だそれっ! ウソだろっ?!」
俺達の知らない、この森の特性。
ヤツはそれを知って、それを使う。
信じられないモノを見て、俺はその衝撃に、頭の中を真っ白にされてしまった……。
何処かおかしいと感じていた森の謎が深くなった。そして、それだけじゃなく、あの魔獣がこっちを敵意を持って見ている。
ぶり返した恐怖が、今度は体を鈍らせている。
……それはよく聞く最悪な話。
希望が見えた時に、絶望を感じるという話。
体験するのはこんなところじゃないと、叫びたい―――。
後ろ足だけで、立ち上がる目の前の魔獣。
やはり自分の身長を悠に越えて、その威圧感はすぐ横に生い茂る大木よりも大きく見える。自分が知っている世界には、そんなヤツは居なかった。
ただその前足を振っただけで、幹の半分程を抉り、反対側に大木を折る。
その体格、その見た目通りの力を、今から俺達に向けるかと思うと怖くて堪らない。
剣を持つ手が震え、膝もガクガクと震える…。
この森での経験で、多少戦える程度じゃあほとんど詰みの状態じゃないか…。
……変わらず空から降ってくる、キュウを知る娘の声に、一声吠えるとキュウはアイツに向かって走り出す。
「ダメだ! お前は逃げろっ!」
だが、振り絞って上げる叫び声が、アイツの咆哮に掻き消される。
「グォォォォオオオーーー!」
瞬間的に空間をビリビリと震わせる、地の底から響くような声。
ただの咆哮だと言うのに、飛びかかるキュウが吹き飛ばされて、遠くに転がる。
そんな目の前の光景が、やけにハッキリと、ゆっくりと……目に焼き付く。
信じる信じないじゃない。
―これは現実。
わかるわからないじゃない。
―ヤツがそうした。
震える俺は、その場から動けないでいた。
ヤツはそれを見抜いているからか、最初に飛び掛かったキュウを目指し、ゆっくりと四足で歩き始めた。