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松賀騒動異聞 第十章

第十章


「さて、木幡さん、それでは小姓騒動に移りましょうか。この騒動も本当のところは何

だったのか、判りませんね。事件のあらましはこんなところです」

小泉さんが史料を私に見せながら話しを続けた。


 大須賀次郎(筠軒)著「磐城史料」(明治四十五年)から

 小姓騒動

 義概の小姓目付を山野井八右衛門と云う、桜町の邸に住す、小姓と隙あり、

 小姓松井源二、篠崎勝之進、松浦吉弥、松川粂之助、滝本三弥、青山九八郎の六人、

 協謀盟約し、夜山野井の邸中に忍び入り、襲うて八右衛門夫婦を殺し逃亡す、

青山九八郎創を被る、松川粂之助、滝本三弥扶けて滝の坊に至る、此に安藤平八の

居宅あり、二人九八郎の終に扶くべからざるを知り、曰く平八の義侠なるは、吾人の

曾て耳にする所なり、今君の創重し、逃んと欲するも、逃るべからず、平八に就て後事 

を托するに若かずと、決別して去る、

九八郎は、平八の戸を敲き、事の首尾を告げて曰く、吾既に重傷を負う、願くは君憐み

を垂れ、我死骸を匿せ、生々世々の鴻恩之れに過すと、平八憫然、之を諾す、曰く

子之を安せよ、平八誓って一諾を食ますと、九八郎自栽す、

翌朝に及び、山野井夫妻横死の事、一藩に喧伝す、雨野彦右衛門は、事変を喜ぶものな

り、急ぎ八右衛門の邸に赴き、虐殺の状を按検し、逃亡の踪を捜索するに、忽ち井中に

叫ぶ者あり、引き揚げ見れば、小姓部屋炊夫、角平というものなり、汝何の故を以て、

井中にあるぞと訊うに、某は小姓衆に脅迫され、導いて此に来る、其同罪に陥らんを恐

れ、身を投じて死せんと思いしなりと、曰く小姓は何方へ逃去せしぞ、曰く某井の中に

あり、死せんと欲して死を得ず、何ぞ其他を知らんと、雨野は追捕時期の後れんを恐れ、

角平は後日の審査とし、急に足軽十人を具し、合戸を指して追行きける、

松井、篠崎、松浦の三人は北方に向い、足に任せて逃走せしが、山路の険なるに疲労し、

林下に就て憩い、覚えず困睡してありけるを、雨野は得たりと、足軽を指揮し、直に抅

執して帰る、族大に其功を賞す、

松川滝本の両人も、北口へ逃走せしが、背後より追捕の来るを見て、赤井嶽に登り、薬

師堂に入り、将さに自殺せんとす、別当之を止め、二人を内陣に入れ隠しける、

既にして、松賀忠右衛門、足軽十九人を率い来り、所々捜索すれども得ず、内陣の銷鑰

厳然たるを見る、別当をして之を開かしめ、其内を探らむとす、別当制して曰く、凡そ

内陣に入るには、必ず七七日の修斎を要す、否らざれば厳罰あり、公等且つ入るを得ず、

況んや犯罪人をや、且彼銷鑰を破らず、焉んぞ龕中に潜入するを得んと、衆以て然りと

為し、手を空うして帰る、二人は別当の慈悲により、虎口を逃れたり、(後高野山に登

り僧と為り、朋友の冥福を修せしとぞ)

是日塚本重兵衛と、八右衛門の兄山野井茂右衛門の二人は、植田に赴き、関番渡丁(わ

たしもり)等に就て物色するに、毫も踪跡を得ず、相議して曰く、彼輩必ず上遠野路に

走りしならん、転じて彼方を追尾せむと将に去らむとす、一士の疾歩し来るを見る、近

けば雨野彦右衛門なり、曰く、我小姓三人を合戸の山下に縛し、即時に知行百石を賜う

と、茂右衛門聞て、某が弟殺されずば、其方爭てか百石を得んと、雨野大に怒り、抜打

に茂右衛門を斬る、塚本傍より快手雨野を斬り、速かに刀を納め、手を束ね、従容とし

て關せざるものの如くす、二人の死、終に相闘どうしうち交殺に帰す、郡奉行今村

長左衛門も、相継て植田口に向いけるか、茂右衛門、彦右衛門の諍闘けんかを聞て、  

裸馬にて北け帰れり、さて平にては、八方部索てわけすれども、残三人の小姓、茫

として影迹なし、惟安藤平八が門に、血蹤あるを見るのみ、族義概を見て曰く、事変の

起る、山野井と小姓と和せざるに源すと雖も、必ず首悪とうどりありて、小姓を教

唆せしと思わる、平八の門に血蹤ある、頗る疑うべし、請う彼を検按せんと、平野又右

衛門に命じ、平八が家宅を捜索せしむ、又右衛門捜索遣る所なし、最後に僻隅米苞の下

に於て、新撥土あるを見る、乃ち苞をのぞき、地を穿つ、青山九八郎の尸(しか

ばね)を得たり、又右衛門復命す、族義概に白し、平八を首悪とし、切腹を命じ、忍四

郎兵衛を検使とす、平八曰、昨夜図らざりき、青山が最後の哀嘱を受け、之を拒絶する

に忍びず、事此に及びしのみ、豈他あらんやと、事実を陳述する、太た明白なりければ、

四郎兵衛は姑く平八の切腹を止め、事の次第を義概に訴う、義概族と議して曰く、果た

して然らば、首悪の罪は免れしむべし、九八郎の死骸を隠匿したる咎は、遁るべからず

とて、彌切腹に処せられ、四郎兵衛介錯したり、

雨野が拿捕せし小姓松井、篠崎、松浦の三人も、屠腹を命ぜらる、

雨野彦右衛門の死する、人皆以て浅香を殺せしの報と為す、

其妻死後に分娩し、男子を生めり、煢煢頼る所なし、

島田利兵衛なるもの。母子ともに引きとり世話しける、

其子後に島田利助と称す、松賀正元の悪計、露顕するに及び、利助及び其子源五右衛門、

皆松賀の私党なるを以て切腹に処せらる、(按に浅香の忠死、及小姓騒動皆年月を逸し

伝らす、今考うべからず、蓋し延宝の初年なりと思わる)

【現代語訳】

 義概(三代藩主・内藤風虎)の小姓目付に山野井八右衛門(松賀族之助の甥)と云う者が居て、桜町に屋敷を構えていた。彼は小姓と仲が悪かった。小姓の松井源二、篠崎勝之進、松浦吉弥、松川粂之助、滝本三弥、青山九八郎の六人が共謀して、或る夜、山野井の屋敷に忍び込み、八右衛門夫婦を襲撃して殺して、逃亡した。襲撃の際、青山九八郎は疵を受けた。松川粂之助と滝本三弥が青山を助けて滝の坊というところまで行った。ここに、安藤平八という者の屋敷があった。二人は青山九八郎の疵が重く、もはや助かる見込みはないと思い、九八郎に安藤平八の義侠心はかねてから聞くところだ、君の疵は重く、逃亡しようとしてももう無理だろう、後の事は平八に任す方が良い、として九八郎に決別を告げて去って行った。それで、九八郎は、平八の屋敷の戸を叩き、平八に今夜の事を打ち明けた。その後で、自分は既に重傷を負っており、もう助からない、願わくは平八殿の憐みを乞いたい、自分の死骸を隠して欲しい、そうして戴ければまことに有り難いと告げた。平八は九八郎をかわいそうに思い、承知した、安心してくれ、誓って約束すると言った。それを聞いて、九八郎は自決した。

 翌朝になって、山野井夫妻が何者かに襲撃され殺されたことが藩中に知れ渡った。雨野彦右衛門という男は事変を喜ぶ者であり、話を聞いてすぐ、八右衛門の屋敷に行き、虐殺の状況を調べ、犯人たちの逃亡の跡を捜索したところ、井戸の中から叫ぶ者が居た。その者を引き揚げてみると、小姓部屋の炊事人の角平という者であった。お前はどうして井戸の中に居たのかと尋ねると、自分は小姓たちに脅迫されて、彼らを案内してここに来た、同罪と見られるのを恐れて、この井戸に身を投じて死ぬつもりであった、と語った。小姓たちはどの方向に逃げたか、と問うたが、自分は井戸に身を投じて死ぬつもりであったが死ねなかった、どうしてその他のことを知りましょうぞ、と言う。雨野は追捕時期が遅くなってしまうことを恐れ、角平のことは後で調べることとして、足軽を十人連れて、急いで合戸の方角に小姓たちを追い駆けた。

 松井、篠崎、松浦の三人は北に向って、足に任せて逃走していたが、山道が険しく疲れたので、林のところで休憩した。ところがいつしか、眠り込んでしまった。それを見つけた雨野はしめたとばかり、足軽を率いてすぐさま、三人を捕え、捕縛して連れ帰った。族之助は大いに雨野の功を誉めた。

 松川、滝本の二人も北口へ逃走したが、後ろから追捕の者が来るのを見て、赤井嶽に登り、薬師堂に入り、自決しようとしたまさにその時、別当が二人の行為を止め、二人を内陣に入れて隠した。そこに、松賀忠右衛門が足軽を十九人引き連れ来たり、方々を捜索したが見つからない。内陣の銷鑰が厳然としてあるのを見て、別当に開けさせて中を捜索しようとしたが、別当はこれを制して言うことには、そもそもこの内陣に入るためには必ず七七、四十九日の修斎を必要とする、さもないと、厳罰が下されるということで、殿様と雖も、中には入れない、まして、犯罪人であればなおさらであるし、またこの銷鑰を壊さずに誰が内部に潜入できようぞ、ということであった。それを聞いて、追手の者たちはそうであろうと考え、そのまま捜索を諦めて帰路に着いた。そして、二人は別当の慈悲により、虎口を脱したのであった。(その後、高野山に登り、僧となって、朋友の冥福を祈ったということである。)

 この日、塚本重兵衛と八右衛門の兄の山野井茂右衛門の二人は、植田に赴き、関番とか渡し守などに聞き回ったが、小姓たちの足取りは全然摑め無かった。それで、相談した結果、彼らは必ず上遠野路を走って逃亡したものであろう、捜索の方向を変えてそちらの方を追って行こうとその場を離れようとしたところに、一人の侍が疾走してこちらに来るのを見た。近づいて来たのは雨野彦右衛門であった。彦右衛門が言うのには、自分はもう小姓三人を合戸の山裾で捕え、縛り上げて、即刻知行百石を賜った、ということであった。

 茂右衛門がそれを聞いて、自分の弟が殺されなかったら、其の方が百石を得るなどということは無かったのだ、と言うと雨野は大いに怒り、抜き打ちに茂右衛門を斬った。それを見て、塚本がすばやく雨野を斬り、すぐに刀を鞘に納め、何気ない振りを装い、二人の死を同士討ちで殺し合ったものとした。郡奉行・今村長左衛門も彦右衛門の後に続いて、植田口に向かっていたが、茂右衛門と彦右衛門の喧嘩・同士討ちを聞いて裸馬に乗って北に帰って行った。さて、平では、四方八方手わけして捜索していたが、残り三人の小姓の行方は皆目見当が付かなかった。ただ、安藤平八の屋敷の門に血痕が付いているのが発見されたのみであった。族之助は殿様の義概公にお目通りを願って、この事件が起こった直接の原因は山野井と小姓たちの仲が険悪であったのが原因だとしても、必ず、黒幕が居て小姓たちを唆したものと思われる。そして、平八の屋敷の門に血痕があったところから、平八を疑るべきと思われる、従って、彼を取り調べることをお許し願いたし、と請い、平野又右衛門に命じて、平八の屋敷を捜索させた。又右衛門は捜索したが、特に怪しいところは発見出来なかった。最後に、屋敷の片隅に米の苞があり、その下の土が新しいのを発見した。そこで、苞を取り除き、地面を掘ってみたところ、青山九八郎の死骸が出てきた。

 又右衛門が戻り、族之助に報告した。族之助は殿様に平八が黒幕であったと奏上し、殿様は切腹を命じ、検使として忍四郎兵衛を派遣した。平八が述べるには、昨夜思いがけず、青山が屋敷に来て最後の願いということで死骸を隠すよう請い願った。自分はこの哀願を拒絶することが出来ず、青山の死骸を屋敷に隠したが、事ここに至っては昨夜のことを話さざるを得なくなったと事実を隠さず述べた。平八の言うことは非常に明白であったため、四郎兵衛は平八の切腹を止め、殿様の御前に出て、事の次第を殿様に言上した。そこで、殿様は族之助と評議した結果、そうであれば、平八の黒幕・首悪の罪は無かったことになるが、九八郎の死骸を隠匿したことの罪は免れることは出来ない。切腹させよ、との仰せに、平八は切腹し、四郎兵衛が介錯を務めた。雨野が捕縛した小姓の松井、篠崎、松浦の三人も切腹を命ぜられた。雨野彦右衛門の死に関しては、浅香十郎左衛門を殺した因果応報の報いであると人は噂をした。そして、雨野彦右衛門の妻は彦右衛門の死後、男の子を産んだが頼るところが無く、島田利兵衛という者が母子共に引き取り世話をした。その子が後に、島田利助と称した。そして後日、松賀正元の悪謀が露見するに及んで、利助とその子・源五右衛門は松賀一派ということで切腹に処せられた。(とは言うものの、浅香の忠義の死、並びに、小姓騒動等全て詳しい年月が伝承されていない、今となっては判らないが、おそらくは延宝の初年であったと思われる。)

(内藤侯平藩史料に依れば、延宝七年に浅香事件、翌延宝八年に小姓騒動となっている。)


いわき地方史研究会編「いわきの歴史」(昭和四十七年)から

小姓騒動

 延宝八年(一六八〇)、義概の小姓目付山野井八右衛門は、小姓衆との争いがもとで、小姓の松井源二、篠崎勝之進、松浦吉弥、松川粂之助、滝本三弥、青山九八郎ら六人に殺害された。うち三名は捕えられて切腹を命ぜられた。三和町合戸には、「小姓塚」が残っている。他の二名は僧となり、残る一名は自殺した事件である。これは藩の側近の風紀が乱れていたことを示すものである。


 「これらの記事では、山野井八右衛門となっていますが、内藤侯平藩史料では山井八右

衛門という名前になっています。また、家臣名簿でも、五百石取り・山井八右衛門となっており、上級武士であったことが判ります。ちなみに、安藤平八は七百石、山井茂右衛門は四百五十石取りと云った重臣でした。この事件の形としては、名門藩士の息子たちの新参者に対する日常的な不満が暴発した事件と解釈することが出来ます。つまり、三河以来と出自を誇る譜代家臣の息子たちが松賀族之助の引きで出世した山井八右衛門という新参者に顎で使われている現状に対して鬱屈した思いが爆発して、上司である山井を夜半襲撃して暗殺したという事件であり、松賀族之助の一党に対する敵意と嫉みを強く感じますね。前にもお話をしたかと思いますが、女の嫉妬も怖いものですが、男の嫉妬もなかなか手強いものです。女の嫉妬は、まあ、感情をストレートに出すことが多いので判りやすいのですが、男の嫉妬は、なんやかんやと正論めいた理屈でうわべを飾って、上手に人を攻撃するので、その言動の陰に隠れているのが嫉妬とは感じさせません。その陰湿さはさすがの女性も真っ青でしょう。まあ、それはともかく、前年の浅香十郎左衛門事件、そして、この小姓騒動の二件は四十年近く経った後の松賀騒動が落着して松賀族之助が興した家が断絶してから書かれた記事であることは間違いが無いのですから、事件或いは騒動の本当の姿、本質を注意深く隠してしまい、全てを松賀族之助派の奸悪さ、獰猛さを際立たせるように仕組まれて、悪意に満ちたシナリオに基づいて書き直された可能性が強いと思っています」


 「小泉さん、どうもよく分からないのですが、義概と義英という親子の仲は廃嫡騒動と

なるくらい険悪だったんでしょうかね」

 この疑問は私がずっと抱いていた疑問であった。

 義概は義英が世子であった頃に実に丁寧な家訓を書いて与えている。

 この家訓は二十三ヶ条の家訓として残っている。

 その時は、義概は次男の義英こそ自分の跡継ぎだと思っていたのは間違い無い。

 その後で、何があったのだろうか。

 「史書に依れば、義概と義英という親子の仲を裂いたのは族之助であり、いろいろと義英のことを讒言した結果、義概は義英のことを嫡子の資格無き者と見做して廃嫡を決めたとか、義英の方から自分は病身故、嫡子を遠慮したとか、いろいろと廃嫡の理由を記載していますが、実際のところはどうだったんでしょうね。私は義概と義英の間に何らかの葛藤があったのではないか、と思っています。芸術家或いは芸術愛好家としての肌合いの違いによる反撥、或いは、似た者同士故の反撥、敵愾心もあったのかも知れませんね。ご存知のように、義概は風虎という俳号を持つ俳人、義英も露沾という俳号を持つ俳人、お互い親子とは言え、相手を過度に意識していたかも知れませんし、義概は八橋検校、義英は松尾芭蕉、それぞれのパトロンであったのでしょう。若干、文化人としてのライバル意識もあった可能性もあります。義概から見たら、自分にあまりにも似すぎている義英という存在が鬱陶しかったのではありませんか。誰だって、自分とそっくりの人間を間近に見るというのは憂鬱なことかも知れませんよ。まるで、自分という存在を鏡に映して見るのは、余程のナルシストでも無い限り、嫌だと思います。そう、私は嫌ですね。私は子供には恵まれませんでしたが、もし、子供が居て、自分とそっくりな男だったら、大いに気に入る面とうんざりして大嫌いになる面と、双方常に意識するでしょうね。いずれにしても、常に緊張感を持ってその子供と対峙することとなるでしょうな。何となく、憂鬱になっていた頃に、継室に迎えながらなかなか子供が出来なかった京の公卿の娘、三条氏に子供が出来た。しかし、子供が生まれたと思ったら、その子の母親が産後の肥立ちが悪く、突然死んでしまった。義概にしてみたら、五十歳を過ぎてから授かったその子供、後の義孝ですが、その子供がとても愛しく不憫に思ったことでしょう。義英より、いっそ、この子、義孝を藩主の座につけてやりたいと秘かに思ったのかも知れません。一方、族之助は義概に幼少の頃から小姓として仕え、義概の心の機微を手に取るように掴む能力に長けていたのでしょう。ここは一つ、悪者になって義概の胸の内にあることを実現させる方向でやってみようかと思ったのかも知れません。また、これも推測に過ぎませんが、族之助と義英はお互いに相手を嫌いだったのかも知れません。義英にしてみれば、義概が三十七歳の時に生まれた自分はどうも父親に可愛がって貰った記憶が無かったのかも知れません。可愛がって貰うべき年頃に父親は俳諧とやらに凝り、族之助ら寵臣とばかり語らっており、孤独な少年時代を過ごしたのかも知れませんな。かてて加えて、浅香十郎左衛門のような譜代の家臣からは族之助を代表とする譜代家臣では無い新参者に対する不平不満、悪口を聞いている内にだんだん族之助に対する偏見が知らず知らず芽生えていたのかも知れません。一方、族之助の方も義英の自分を見る視線がだんだんと冷たくなってくるのを感じ、この若殿が藩主になれば、自分の身は危うくなると思ったのかも知れません。また、族之助は族之助で、主家が滅び、一介の浪人となり、この内藤家に仕官するまでの苦労話を父親の大野市左衛門から聞いて、浪人の辛さ、惨めさを知り、義英が殿様になった後の自分の処遇を案じたのかも知れません。と同時に、譜代の家臣として振る舞う普段の態度の中に見え隠れする倨傲を浅香たちに感じ、嫌な気分にさせられていたのかも知れません。安藤、上田、加藤といった譜代家臣の集団は族之助にとっては嫌な臭いを発散させていたのかも知れません。その臭いは現代の感覚で言えば、どこか官僚臭と似たような臭いであったかも」

 ここで、小泉さんは私の顔を見て、ニヤリと笑った。

 小泉さんはよほど、官僚が嫌いなのかなと私は思った。

 「小泉さん。僕はどうも族之助を政治家の資質十分な人と見ていますが、この見方は如何なものでしょうか」

 「木幡さん、その見方は良いと思いますよ。政治家は本来官僚が嫌いですからね。一方、官僚から見たら、政治家は鷹揚な方が良く、細かく指示し、監視する政治家は嫌われます。族之助は、どなたか、ああ、志賀伝吉さんですか、志賀さんの著書にあるように、根拠は知りませんが、幕閣にも、領民にも受けが良かったと書いてありますな。幕閣に対しては根回し、付け届け等行き届いていたのでしょうな。また、領民に対しては、騒擾騒ぎにならぬよう、常日頃から機敏に対応していたのでしょう。良い政治家と高級官僚というのはいつも鋭く対立し続ける存在なのかも知れません。一方、義英はと云うと、地下の義英さんからクレームが入るかも知れませんが、餓鬼大将になり易いタイプの人であったかも知れません。なにせ、殿様の嫡子ですから、どうしても周囲の人はちやほやします。意識的、或いは、無意識にもね。忠興が六十九歳で隠居して、義概が三代目藩主となったのが、五十二歳で、その時、義英は十六歳です。義英の未来は輝かしいものであったはずです。そして、父の義概から嫡子としての家訓二十三ヶ条という心得を戴いたのが二十三歳の時です。誰もが次の四代目はこの義英が相続するものと思っていたことでしょう。ただ、気になる存在としては義概のご落胤との噂がある内藤大蔵が居りましたが、この大蔵は翌年、十六歳あたりの年齢で二千五百石という最高禄の組頭となり、つまり、家臣に下り、自分の競争相手となる可能性は消滅したわけで義英の立場はより強固なものとなりました。しかし、好事魔多しで、その翌年、義英が二十五歳の時、浅香十郎左衛門事件が起き、更に翌年には、小姓騒動も勃発したわけです。そして、小姓騒動から二年後、突如として義英は廃嫡となり、上屋敷から出て、赤坂六本木の下屋敷に移ることとなるのです。義英に代わり、嫡子となったのが、継室三条氏と義概の間に出来た義孝でこの時十四歳の少年でした。義孝は母を知らない子です。母である三条氏は義孝を生んで二ヶ月後に亡くなっていますので。その分、義概からあり余る愛情を受けたかも知れません。そして、義孝は翌年、十五歳で将軍家に初お目見えをして、嫡子となったわけです。その後、二年ほど経ち、義概、前年に従五位下から従四位下に叙され、義泰と改名していますが、この義泰が六十七歳で亡くなり、義孝は十七歳で四代目藩主となりました。その時、義孝を補佐したのが族之助です。丁度、族之助の息子の伊織(後の正元)も義孝と同じ年齢であり、義概と族之助の間が緊密であったように、義孝と伊織の間も相当緊密な関係であったと思っています。つまり、主従の節度はあったものの、大変な仲良しであったのではないでしょうか。伊織は正式には松賀伊織孝興と云います。つまり、義孝の孝の字を名前に貰っているわけです。族之助も正式には松賀族之助概純であり、義概の一字、概を貰っています。また、その後も改名して、泰閭となっています。やはり、改名した義泰の泰の字を貰ったと考えるべきでしょう。いかに、義概から愛された家臣であったことが判ります。また、後年、松賀伊織が隠居して正元と名前を変えてから、松賀騒動で息子伊織共々失脚する際、正元は次のように語っています。『冬玄院様御遠行之砌被仰置候者、我等果候ハ、早々隠居仕、安楽ニ可罷有旨被仰置候故、早速隠居仕身持町人同然罷成候』。読み下し文にすれば、冬玄院様御遠行のみぎり、仰せ置かれ候は、我等果て候はば、早々に隠居つかまつり、安楽に罷り有るべく旨仰せ置かれ候ゆえ、早速隠居つかまつり、身持ちを町人同然に罷り成り候。つまり、意訳をすれば、義孝様がお亡くなりなられる際、私に言い残されたことは、自分が死んだらお前は早々に隠居して、後はのんびりと暮したらよかろう、ということでありましたので、私はそのお言い付け通り、早速隠居して、日常の暮らし振りも町人同様のものとしてきました、ということを正元は自分を捕えに来た藩士に語っています。確かに、正元は義孝が四十四歳で亡くなって、二年ほどで隠居をして養子の伊織に家を相続させています。正元が隠居した時は、未だ四十六歳という若さでの隠居でした。正元の言う通り、義孝のまあ、遺言を守ったものと思われます。義孝が亡くなってすぐに隠居出来なかったのは、義孝の嫡子の義稠がまだ十四歳という少年であったからでしょう。二年ほど待ち、義稠が十六歳、養子の伊織も大分家老・組頭という役に慣れてから、自分は隠居して気楽な生活を享受することにしたのでしょう。この養子の伊織も元の名前は織部稠次ということで、義稠の稠の一字を貰っています。松賀三代の繁栄は義概の藩主就任から始まって、義孝、義稠とやはり藩主三代にわたる期間、続き、義稠の早過ぎた死で、松賀一族を宿敵と思っている義英の息子の政樹が藩主となって、落日を迎えるわけです。私は、前にも話しましたが、この松賀騒動は藩主の父となって藩政の表舞台に登場した義英と反松賀派である譜代家臣たちによって仕組まれた一種のクーデターだったと思っています。義英は廃嫡にした父の義概は恨まず、その恨みは族之助一人に向けられたのでしょう。その意味で、義英廃嫡事件では、族之助は義概の身代わりとなって義英派の恨みを一身に買う結果となつたのでしょう。しかし、かと言って、私は義英の全人格まで否定するつもりは全くありません。ただ、俳人としてきらびやかな才能を持った義英は同時に松賀族之助及びその子孫に対する冷酷な仕打ちを平然と行う人でもあったと言いたいのです。才能と人格は全く別物です。まして、貴人の血は冷たいものです。下品な言い方をしますが、友達から借金した金で女郎買いをした石川啄木は誰もが認める素晴らしい歌人でありますし、米国に行く旅費をやはり女郎買いにつぎ込んだ野口英世の医学者としての功績を否定する人は誰も居ないでしょう。それと同じように、松賀騒動の黒幕として晩年は暗躍した義英は俳人松尾芭蕉の才能を発見し、パトロンとして大いに援助し、奥の細道、のざらし紀行といった優れた文学を芭蕉をして世に残させた優れた文化人であったことを否定する人もおりません。松賀族之助も或いは、義英という男に関して、義英という男の人格は嫌いであるが、露沾という男の俳諧の句はまことに素晴らしく遠く私の及ぶところでは無い、と思っていたかも知れません。そして、族之助は少し憂鬱になって、わたくしもいつの間にか、人の才能を羨み、嫉妬に身を任せるようになってしまったと思ったのかも知れませんね」

 そうように言いながら、小泉さんは少し笑った。

 「小泉さん、どうも僕は浅香事件、小姓騒動が義英廃嫡に繋がっているのではないかと思うんですが。つまり、浅香事件・小姓騒動は二年に跨ったそれぞれ別な事件では無く、一つの事件であり、若殿・義英附きの家老であった浅香十郎右衛門を黒幕として実行された第一次松賀打倒クーデターでは無かったのかと思っています。そのクーデターが失敗して、二年後に義英は廃嫡され、義英は藩政の表舞台から去り、風流一途の道を歩み、この中で松尾芭蕉と親交を深めていったのではないかと思います。廃嫡時の義英の年齢は二十八歳、あまりに早い隠居生活となりました。しかし、義英には運があり、三十六年後の六十四歳の時、第五代藩主の義稠が図らずも二十歳あまりで急死し、自分の息子の政樹、当時は豊松と名乗っていましたか、この十三歳の息子が義稠の養子となり、藩主となる願っても無い幸運が舞い込んで来たのですから。幼い藩主の父となり、実質的な後見役として藩政の表舞台に再登場してきたのです。俳人露沾として句作に勤しむ傍ら、いろいろな人を高月館に呼んで話を聞いたことでしょう。そして、第一次クーデータの失敗の反省に立って、昔の同志というか、譜代の忠実な家臣を秘かに集め、入念な準備の上で、第二次クーデターを企て、決行したのではないでしょうか。第二次クーデター、つまり、松賀騒動に関する史料をざっと読んでみましたが、あまりにも手際が良過ぎるという印象を持ちました。毒饅頭による政樹暗殺未遂事件などと云う事件はまさに噴飯物であり、容易には信じられない事件です。藩主が食べる前には必ず鬼役と云うか、お毒味役によるチェックがあるでしょうし、第一、政樹を暗殺して、松賀正元・伊織親子にどんな利益があるのか、犯罪があった場合の捜査の鉄則は、その犯罪の結果、誰が得をするのかを調べ、つまり動機の確認を先ず行い、その上で得をする者のアリバイ、協力者等を捜査するということだそうですから、正元・伊織親子の動機を調べなければならないはずです。僕には見当たりません。強いて言えば、政樹を殺し、義英の影響力を消すことくらいですか。しかし、これはあまりにもリスクが大きく、ひょっとすると、政樹の跡目を相続する者が決まっていなければ、その時点で御家断絶と云う憂き目を見てしまうわけですから。元を無くしては何にもならないわけですから。毒饅頭事件も、義英側からでっち上げれば、簡単にでっち上げられますね。つまり、毒饅頭を誰かが作り、献上する、政樹には前もって知らせておく、政樹が饅頭を見て、不審な素振りを見せる、政樹のお側の者が饅頭を庭の犬に食べさせてみる、犬が死ぬ、すわ一大事とばかり騒ぎ立てる、藩主毒殺未遂事件として首謀者の逮捕に走る、松賀正元が仕組んだことと判明する、そして、毒饅頭の濡れ衣を着せられて松賀家が断絶する、といったシナリオも政樹サイド、つまり、義英サイドならば簡単に演出出来てしまいますから」

 私の話を黙って聴いていた小泉さんは真剣な表情をして私に言った。

 「江戸時代には結構、このような毒殺の嫌疑がかけられる事件が多いですな。有名なところでは、幕末の頃の孝明天皇の突然の死、薩摩の島津斉彬の子供の死、並びに斉彬本人の死、将軍・家茂の死とか、まさに枚挙に暇なしといったところです。今、話題にしている磐城平藩でも義稠の突然の死だって、やはり松賀正元・伊織父子に嫌疑をかけている史書もあるくらいです。何が何でも、松賀一族を悪者に仕立てたい誰かの意向が見え隠れしますけどね。木幡さんが言った犯罪で誰が一番得をするのかという話をすれば、義稠が死んで一番得をしたのは結果的には、義英その人なんです。また、地下の義英に名誉棄損で訴えられるかも知れないですな」

 小泉さんと私は思わず顔を見合わせ、笑った。

 その笑い声を聞き付けて、美智子さんがお茶を持って現われた。

 「あなたたちの笑い声は何だか不気味。暗殺がどうのこうの、毒饅頭がどうのこうの、こんな小春日和のお天気の良い日には全然似合わない話ばかりして」

 私たちは美智子さんが入れたミルクティーを飲みながら話した。

 「木幡さん。内藤大蔵の死も謎ですな。史書というか、伝説では無念の死を遂げた浅香十郎左衛門の祟りで大蔵は病気となり、最後は癩病となって死にます。癩病という業病で死ぬとは、また実にむごたらしい死に方をさせますね」

 「これも、義英派の暗躍は無かったでしょうか。例えば、毒殺とか。しかし、本当に大蔵に関する史料の記事は何も残っていないですね。残っているのは、族之助の妻に誘惑された義概が族之助の妻に生ませた子供であるとか、殿様の子供と偽っており、本当は族之助の子供であったとか、そのような類の話しかありませんねえ」

 「本当にそうですね。やはり、松賀族之助一族同様、後世で意図的に消されたのでしょう。でも、内藤侯平藩史料という、より信頼すべき史書に、義概の家臣団の分限帳、つまり家臣名簿に、内藤大象組の組頭として、禄高二千五百石・内藤大象と明記されていますから、実在したのは間違いは無いと思います。面白いことに、この大象組で大象に次ぐ高禄家臣は七百石の浅香十郎右衛門なんです。大蔵の二千五百石という禄高は、筆頭家老の松賀族之助ですら、二千石ですから、まさに家臣の禄高としては破格であり、内藤という姓が示す通り、殿様の身内で家臣に臣籍降下した者であることは確実です。浅香の七百石というのも重臣中の重臣であることを示す禄高であり、組頭に任ぜられてもおかしくはない禄高です。実際、組頭であった宿屋求馬、加藤又左衛門も同じ七百石ですから。七百石の浅香はやはり若殿・義英附きの家老であった可能性は高いと思いますよ」

 「その大象はいつ亡くなったのでしょう。六代藩主・政樹治世の史料には重臣に関する記事が結構記載されており、誰がいつ隠居して、いつ死んだとか結構記載されていますが、それ以前の記録には重臣に対する記録が非常に少ないという印象を受けますね。言っちゃ悪いですが、松賀騒動以前の記録は周到に取捨選択されて史料としては少なくされ、松賀騒動以後は伸び伸びと史料が編纂されているといった印象を受けるのです。これは編集者の意図的行為なのか、それとも、実際に史料が残されていないのか、判別はつきませんが」

 内藤大象(大蔵)は確かに実在したが、誕生時の黒い噂、死亡時のむごたらしさのみが伝説として残り、藩の記録としては大象という名前と禄高しか記録されていないのである。

 どのような生い立ちをして、どのような人間であり、どのような死を迎えたのか、一切その実像は歴史の闇の彼方にあり、今後思いもかけないところで史料が発見されない限り、今の私たちには知ることが出来ない。

 そのように、私は小泉さんと話しながら暗然たる思いをした。

 浅香十郎左衛門による松賀族之助暗殺未遂事件、小姓騒動の二つの事件は私には松賀派に対する譜代家臣による第一次クーデターではなかったかと思われるのである。

 名門の譜代家臣の若手による松賀派打倒の暴発事件では無かったのか。

譜代家臣で死んだ者は一様に若い。

最年長は浅香十郎左衛門の三十一歳、小姓たちはもっと若い、安藤平八は十八歳、松井源二、篠崎勝之進、松浦吉弥、松川粂之助、滝本三弥、青山九八郎たちは皆十七から十九歳までの若者であった。

不思議なことに、小姓たちの名前は内藤侯平藩史料に依れば、全員名前が異なっており、山井八右衛門夫婦を襲撃した小姓たちは大胡勝之進(十九歳)、山口岡之助(十七歳)、山本金之丞(十七歳)、井家九八郎(不詳)の四人となっており、連座して篠崎友之助(十八歳)も含め、安藤平八宅で死んだ井家九八郎を除き、全員が田町会所で切腹している。他、小姓たちの家来も含め、四名ばかり斬刑或いは切腹で死んでいる。

 一方、松賀派でも、山井八右衛門夫婦、山井茂右衛門、雨野彦右衛門が結果的に死んでいる。小姓たちによって殺害された山井八右衛門夫婦はともかく、山井茂右衛門と雨野彦右衛門は同士討ちで斬り合ったとされているが、本当のところは第一次クーデターによる犠牲者では無かったのか。

 また、安藤平八の実父は上田不哲という人物という記述があるが、もしかすると、この人物は当時の家老の上田主計(上田内記)であるかも知れない。

 その他、青山九八郎(井家九八郎)の戒名は忠誠院良光練誉浄阿自剣(白刃)居士という戒名で、これは格式が高い戒名であるということであり、本来の姓名は変えられているものの、藩の家臣としては高い身分の侍の子息であった可能性が高い、と推察している史家も居る。

 当時の名門の家臣としては、上田内記、内藤平内左衛門、宿屋求馬、加藤又左衛門という名前が挙げられる。

 青山九八郎という小姓はこれらの名門家臣の子息であったかも知れない。

 その他、中根弥之助という者が不審の節あり、ということで親類に預けられたという記述、また、志賀伝吉さんの著書で、郡奉行・今村長左衛門の伜もこの小姓騒動に関わり、追われて逃走する中で、自刃したという記載があり、従来の史書で記載されているよりも事件としては、より大きな事件であったのかも知れない。

 そして、この郡奉行の今村氏は四十年ほど後に起こった松賀騒動(一七一九年)でも、郡奉行・今村新兵衛として、松賀・島田派により一度は罷免されるものの、松賀・島田派打倒のクーデターが成功後、復職を果たす者として藩史料に登場することとなる。

 且つ、正徳元年(一七一一年)に今村新兵衛と同時に郡奉行となった島田理助は、実はこの小姓騒動で塚本重兵衛によって斬られて死んだとされる雨野彦右衛門の忘れ形見、遺児であったと記載する史書もあり、浅香事件(一六七九年)、小姓騒動(一六八〇年)で大きな犠牲を払い、苦汁を嘗めた門閥家臣が雌伏四十年、松賀騒動(一七一九年)で念願の復讐を果たし、松賀・島田派を完膚無きまで叩きのめすという壮大なドラマを観るような気にさせられた。

 そして、その復讐劇の中心には、内藤義英・露沾が居るという構図になっている。


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